◆2025年11月 ひとこと超短評集

2025年11月に、思い出したかのようにちょこまかとX/旧twitterにて書いていた短い短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆とある妖精会館が人間による謎の部隊に襲撃され、その首謀者としてシャオヘイの師匠ムゲンに嫌疑がかかる『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)2 ぼくらが望む未来』(木頭(MTJJ)、顧傑監督、2025)は、太くシンプルな描線でデザインされた可愛らしいキャラクターたちに柔らかな筆致と淡い色彩で描きこまれた背景美術、そして前作同様──いや、それ以上に──圧倒的なスピード感と新鮮なアイディアで縦横無尽に展開される激しいサイキック・カンフー・武侠アクションのつるべ撃ちが楽しい1作。

本作ではテーマが妖精と人間との戦争勃発の危機であるだけに、アクションのなかに明確な殺意を盛り込んだシーンも多々あり、コロコロと可愛い世界観とのギャップにより心動かされるだろう。それにしても、クライマックスでは師匠が最強すぎて、もはや使徒エヴァ)かシン・ゴジラかいった感じになっていたのには笑いました。


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◆弱者として氏族から追放されたプレデターの青年デクが、その意趣返しのため、まだ誰も倒したことのない怪物カリクスのハントに挑むプレデター: バッドランド』(ダン・トラクテンバーグ監督、2025)は、「プレデター」を観てると思いきや『コナン・ザ・グレート』かーい、というか至極まっとうな貴種流離譚に仕上げられた快作だった。

もちろん単に古色蒼然たりというのではなく、氏族の掟に倣って1匹狼の狩猟者を目指すデクが辿る旅路のなかで経る冒険と、半壊したアンドロイドのティアや原住生物バドとの出逢いの果てに選択する結論は、種族や立場──Alien であることすら──を超えて互いに守り合うことこそ強さであると宣言する、今日的に刷新されている──べき──ものだ。本作を観ていて、こんなにまでプレデターに感情移入する日が来ようとはと驚くと同時に、「だけどプレデターだからなァ」と思うこと自体がもはや旧態依然とした考え方なのだと突き付けられるようなSF的な風刺と、切なる願いにも似た感覚が満ちていて面白く、そして胸を打つ。あるいは、僕らの現実世界がそこまで逼迫しているということかもしれない。


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◆酔って逮捕された中年男スズキタゴサクを取り調べるうち、彼の口から爆弾の爆破を思わせる不穏な言葉がまろび出る『爆弾』永井聡監督、2025)は、しかっりと骨太なスリラーとして仕上がった1作だった。

佐藤二朗の持ち味を逆手に取ったタゴサクが醸す圧の強い存在感、劇中に何度か訪れる容赦のない爆発描写、そして終始「事件」の展開を描くことに集中したソリッドな作劇が、なんとも知れぬ緊張感を持って観客の予断を許さない。とくに取調室で繰り広げられる言葉の攻防戦を切り取った撮影と編集は見事で、タゴサクを尋問する捜査官が入れ替わるたび絶妙にそのニュアンスを変化させることで人物描写と物語転換、そして心理合戦の命運を暗に示す巧みなものだった *1。ラストに交わされるタゴサクと等々力 *2のやりとりのパンチラインも思わず「ハッ」とさせられるもので、本作の幕切れの余韻とともにわれわれ観客の胸中にしっかりと傷跡を残してくれることだろう *3

もちろん正直もうすこし尺は摘まめるのじゃないかしらん、とか、比較的抑制の利いた音楽使いではあるものの、ならばもっと抑えても緊張感が高まったのじゃないかしらんと思ったりもするけれど、取調室と同様に暗い密室である映画館の椅子に腰を据えてじっくり味わいたい1作だ。


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◆大粒の雨が降りしきってアスファルトを色を染めるなか、久々に隣県の映画館まで遠出してOVA天使のたまご 4Kリマスター』押井守監督、1985-2025)を観た。今回のリマスターで黒味の情緒が増し、もともとモノラルだった音声の新規リミックスでふっと音の場が拡がったことで、闇と影と風と水流とが戯れる作品世界への没入──沈没というべきか──感がしっとりと強まる。そして、耳をつんざくような汽笛の轟音と少女(兵藤まこ)の絶叫も、より生々しく脳裏に残響するだろう。それにしても、まァなんとも知れぬ叙情に満ちた──あるいはヘンテコな──1作だ。すぐにもディスクでくれ *4!


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【ソフト/配信】
前漢で武将だった夢を見た教授と助手が、秘められた遺跡を捜すジャッキー・チェン『A LEGEND/伝説』スタンリー・トン監督、2024)は、久々に観た、結構な大金をかけてこんなにも歪な作品を仕立て上げたのか大賞作品というか、なんとも知れぬ1作。それだけに、石丸博也氏の吹き替えで観たかったなあ。


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◆テレビアニメ新世紀エヴァンゲリオン庵野秀明監督、1995-1996)を、約20年ぶり──初見は、高校生の時分に学校近くのレンタル店で借りた旧DVD版──に観返した。細かいところはだいぶ忘れていて新鮮だったし、こんなに綺麗な画だったかと驚いたし、それ以上になんだか胸に感じ入るものもあって、つまり自分がすこしも大人になれていないということなのでしょう。


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*1:誰が負け、誰が踏みとどまるか、それぞれのイマジナリー・ラインの揺らぎに注目しよう。そして思い返すなら、開幕冒頭のタゴサクを映すカメラワークこそ、われわれ観客への挑戦にほかならない。

*2:彼と類家──モジャモジャ頭でその場にそぐわなぬ学生風の風体──は、横溝正史の等々力警部と金田一耕助へのオマージュだったのだろうか。

*3:もうひとつの爆弾があるかないかは、もはや問題ではない。謎が謎のまま留保されることによって、名無しの権兵衛/ジョン・ドゥーでしかなかったタゴサクの存在は──神や悪魔のように──永遠のものとなるからだ。これこそが、あるいは彼の真の目的ではなかったか。彼が謎かけ言葉で人心を篭絡しようとする様は、まさしく神/悪魔の所作にほかならない。そしてラスト、暗転した画面のなかで自販機に小銭を入れてボタンを押すのは、われわれ自身だ。今後われわれが自販機で飲み物を買うとき、いつもタゴサクが不敵な笑みを浮かべて、こちらを見返しているに違いない。

*4:UHD+Blu-Rayだけでなく、Blu-Ray単品版の発売もよろしくお願いします。切に。

◆2025年10月 ひとこと超短評集

2025年10月に、思い出したかのようにちょこまかとX/旧twitterにて書いていた短い短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆1997年、夏。ワケあって「悪魔」を討伐する公安の「対魔特異課」に所属するデビルハンターの少年デンジが、町角の喫茶店で働く不思議な少女レゼと出会って心惹かれるも、彼女はその胸中にある思惑を隠していた『劇場版 チェンソーマン レゼ篇』(𠮷原達矢監督、2025)は、……以下記事参照


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◆最強のデジタルAI兵士アレスが、デジタルと現実世界を結ぶ技術に端を発する企業間競争のなかで自我に目覚めるシリーズ第3作『トロン: アレス』(ヨアヒム・ローニング監督、2025)は、良くも悪くも困惑した1作だった。

というのも、作中のSF設定の理屈がかなり吞み込みづらい──というか、今回のマクガフィンを巡る諸問題って、前作『レガシー』(ジョセフ・コシンスキー監督、2010)ではとくに不問だったような気が……──のでいささか面食らうが、いっぽうでレーザー光線が尾を引き乱舞する数々のアクションシーンのヴィジュアルは見応え抜群。陣取り合戦バイク「ライトサイクル」や巨大運搬マシン「レコグナイザー」がデジタル世界を飛び出して繰り広げる追走劇は──どうして現実世界で作動できるのかという理屈はともかく──観たことのない感触だし、反対にデジタル世界における水飛沫──その1滴1滴──の形が立方体(ドット)で表現されているといった細かいニュアンスも楽しい。また、シリーズを観てきた観客なら思わずニッコリさせられる舞台の登場にも注目したい。

しかし、やはり最後まで観ても作中の理屈はサッパリ吞み込めず「画はめっぽう面白いけれど、オイラはいったいなにを観ているのだろうか……」という疑念は拭えなかった。なるほど胸中に感じたこの困惑は、はじめて第1作目(スティーブン・リズバーガー監督、1982)を観たときの印象を思い起こさせるものでもあって、たしかに本作は『トロン』シリーズなのでした。


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◆かつてリベラル過激派に爆弾係として所属し、現在は偽名を使って娘ウィラとふたり暮らすボブに、かつて因縁のあった軍人ロックジョー大佐の魔の手が迫る『ワン・バトル・アフター・アナザー』ポール・トーマス・アンダーソン監督、2025)は、全編なんとも知れぬ力強い面白さに満ちた1作だった。

とにもかくにも常に物語は進行し、それにカメラは──ときにキューブリック的な画も思わせながら──追走し、登場人物たちはあちこちで七転八倒し、劇伴の旋律は不穏ながらもリズミカルに躍動し……と、まさしくタイトルどおり「次から次に」本作は動き続けて留まるところを知らず、ずっと観客の1歩先を走り続ける。そこにビスタビジョン・フィルムで撮影された美しい映像と、役者陣の見事なアンサンブル──ショーン・ペンの極右軍人怪演、ほぼ寝間着姿でラリパッパのディカプリオが醸す必死な情けなさ、テヤナ・テイラーの有無を言わせぬ凄み、チェイス・インフィニティのフレッシュさ、ベニチオ・“センセイ”・デル・トロの風格、そして完璧なタイミングで「くるくるくるッ、パタン」と広がる敷布……と挙げればキリがない──がブーストをかけ、クライマックスにはこれまで観たことのない新鮮な──だだっ広い乾燥地帯に走る1本道の高低差のうねりと遠近感を最大限に活かした──カーチェイスすらある。面白くないはずがない。

そして本作は、そのじつ全編がコメディ・タッチであることからもわかるとおり、現実世界への風刺もきっちり痛烈に織り交ぜられている。トーマス・ピンチョンによる原作小説『ヴァインランド』(1990)から物語の時代設定を現代に移し替えたことで──あろうことか──いよいよ第2次トランプ政権下のアメリカを筆頭に世界中にますます蔓延する「保守」とは名ばかりの無知な排外差別権威主義の暴走が──いまの日本の情勢とも(マジで他人ごとではなく)相まって──いっそうリアリティを持ってスクリーンから迫ってくる。傍から観ていると、気色悪く滑稽であること極まりない。もちろん滑稽さという意味では、本作には形骸化が進んで事務的になりすぎたリベラル過激派組織という可笑しみも多分に盛り込まれているのだが、人間生きていれば誰だって滑稽なのだから、どう振舞うのがより人間的なのか、再度われわれも考え直す必要があるということだろう。ビバ・ラ・レヴォリューション!



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◆『劇場版 チェンソーマン レゼ篇』(𠮷原達矢監督、2025)感想

本稿はX/旧twitterにて投稿後、一部加筆修正したものです。


1997年、夏。ワケあって「悪魔」を討伐する公安の「対魔特異課」に所属するデビルハンターの少年デンジが、町角の喫茶店で働く不思議な少女レゼと出会って心惹かれるも、彼女はその胸中にある思惑を隠していた『劇場版 チェンソーマン レゼ篇』(𠮷原達矢監督、2025)は、とにかく画に圧倒される100分だった。


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藤本タツキによる漫画『チェンソーマン』(2019-)を原作としたテレビアニメ第1期(中山竜監督、2022)直接の続篇である本作は、なんといっても相変わらずその画の豊かさに圧倒される。

もちろんそれは、見せ場のアクションシーンばかりではない。いわゆるドラマ部分でも、彼/彼女たちの重心移動の自然さや、衣服の皺の移ろい、肌に落ちる影の揺らめきは、フォトリアリスティックな背景美術とも相まって、キャラクターたちの実在感を──テレビアニメ第1期から引き続き──たしかなものにしている。いますぐにでも、コマ送りで観させてほしい。

それに加えて、現在の一般的なテレビアニメの画面縦横比(1: 1.78)よりも横長のシネマスコープ・サイズ(1: 2.39)を採用した本作では、画面レイアウト=カメラワークによる感情表現の幅が──文字どおり──広がっており、物語の中核を担うデンジとレゼとが織り成す心と心のふれあいの機微──その距離感──をときにもどかしく、ときに優しく、ときに残酷に、余すところなくスクリーンに切り取っている *1。とくに、顔──両目や口元──を極度にクロースアップしてアクションをカメラがスムーズに追い、それらのカットを繋ぐことによって生まれる情感は、実写作品ではあまり見られないアニメーションならではのものだろう。

また、ふいにハッとさせられる美しい色彩設計のシーンがあるのも本作の魅力だ。夜に学校へ忍び込んで泳ぐプールの──現実にはあり得ないような──水と泡沫の淡いきらめきや、画面いっぱいに打ち上げられる花火が夜空を染め上げる七色のパノラマ、そして強烈なまでに強調される警戒色としての深紅……こういった幻想的ないし超現実的な色彩を物語の要所要所に差し挟むことで、本作の物語世界がいっそう重層的にグッと盛り上がり、観客の眼に焼きつくだろう。


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そして、ついに正体を現したレゼ/ボムとデンジ/チェンソーマンの闘いを描くクライマックスの長い長いアクションシーンは、もはや圧巻というほかない。

人間も車も街もなにもかもを真っ赤な爆炎で吹き飛ばしながら、凄まじいスピードで縦横無尽に宙を舞って殴り蹴り斬り合うふたりの戦闘は、ときにサイケデリックともいえる色彩の変化、あるいは前衛主義的とさえもいえるキャラクターの描線の変容をも用いた凄まじい作画、それらを切り取る絶妙なレイアウトとカメラワーク、そして編集の目の回るような乱れ撃ちであり、文字どおり血で血を洗う様相はまさしく混沌の極み。この作画力の悪魔とでもいうべき驚異のアニメーション表現の連打が生み出すカタルシスの洪水は、ぜひとも劇場のスクリーンで体感したい。とにもかくにも、いったい全体どういう画づくりをすればこんなことができるのか、いますぐにでもコマ送りで観させてほしい。

そんな激烈なる闘いのさなかで、ふいに夜のプールや花火の色彩といった、デンジにとって──一瞬とはいえ──美しい思い出の光景がオーバーラップするかのようなカットがもたらす、えもいわれぬ情感ときたら……。あたたかな友愛と残虐な暴力とが表裏一体となって観る者に迫ってくる、本作でも屈指の名場面である。この友愛(=エロス)と暴力(=タナトス)とが壮絶なまでに混交する果てに訪れる結末、そしてデンジにとっての “非日常” が “日常” へと舞い戻ったことを伝えるエンドロール後の少々メタ的な画面表現 *2は、なんとも知れぬ空虚な感覚を観客の胸中に穿つことだろう。


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といった具合に、原作の持つポテンシャルを盛りに盛った本作であるが、それゆえに──好みの問題もあろうけれど──もうすこし演出の引き算があってもよかったのではないか、と感じる部分もある。

せっかくこれだけの画の説得力を持つ本作なのだから、たとえばモノローグ的な音声はもうちょっと切ってもよかったと思われるし、ユーモアやギャグの場面も──たとえば、それを盛り上げる音楽をオミットするなど──もうすこし後ろへ引いた演出に抑えたほうが、ちょっとしたダレ場として映画の小休止となりえたはずである。

このような本作での全編に渡ってテンションの高い筆致は、テレビアニメ第1期にてそこかしこで採用された「引いた」演出への不評を受けての改良であろうことは重々承知しているけれど、それでもなお敢えて演出の緩急をもうすこしつけたなら、いっそう引き締まった1作になったのではないだろうか。


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その他、漫画の筆致をそのまま立体的なCGの背景美術に仕立て上げた映画冒頭の映像は面白かったし、チェンソーマンの主観カットは「そんなふうに鼻先が見えるのか」と新鮮だったし、アクションシーンで印象的に使用された “台風の悪魔” のテーマ曲(牛尾憲輔「Typhoon Devil」*3)はどこか石野卓球の風合があって舞台の1990年代を感じたし、それはそれとして「あっ『AKIRA』(大友克洋監督、1988)風の尾を引くテールランプ描写が!」と反射的に嬉しくなったカットもあったし、あるいはさらに欲をいえば、せっかくシネマスコープ・サイズを採用したのだから、レンズフレアや遠景の光のボケの形状をアナモルフィック・レンズ風に歪ませたなら、よりエモーショナルな画になったのではないかしらん *4と思ったりもした本作の、スクリーンから溢れる画ヂカラの暴風雨をぜひとも劇場で浴びたい1作だ。


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【おまけ: 備忘録】
masakitsu.hatenablog.com


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*1:デンジとレゼの喫茶店でのやりとりは『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督、1976)のオマージュだろうか。

*2:画面縦横比をテレビサイズの 1: 1.78 に移行するこの演出は、いっぽうで「続きはテレビで」というメッセージだろう。

*3:『CHAINSAW MAN THE MOVIE: REZE ARC original soundtrack -summer's end-』(mappa records、2025)所収。

*4:アナモルフィック・レンズで撮影した場合、レンズフレアは光線状のラインが強調され、ボケは真円ではでなく縦長に引き延ばされた形となる。

◆2025年9月 ひとこと超短評集

2025年9月に、思い出したかのようにちょこまかとX/旧twitterにて書いていた短い短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆ドラゴンを害獣として退治するバイキングの島に暮らすひ弱な少年ヒックが、あるとき誰も見たことのない伝説のドラゴン “ナイト・フューリー” と出会うヒックとドラゴン(ディーン・デュポア監督、2025)は、“実写化” という言葉が端的に似合うリメイク作だった。

本作は、クレシッダ・コーウェルによる児童小説を原作としたCGアニメーション映画『ヒックとドラゴン』(ディーン・デュポア、クリス・サンダース監督、2010)の実写リメイクである。しかも、もとのアニメ版の監督──のうちのひとりであるディーン・デュポア──自身がメガホンを取るという珍しい作品ということもあって、実写化に当たって大なり小なりの変更点はあるが、ヴィジュアル──ショットによっては、完コピなものもある──や再登板したジョンパ・パウエルによる音楽、設定と物語はほぼ忠実に踏襲されている。


そんな本作でとくに白眉なのは、なんといってもトゥースをはじめとしたドラゴンたちだろう。実写ベースにブラッシュ・アップされたVFXによって画面に息づく彼らたちの姿は、手を伸ばせば本当に触れられるのではないかと思うほどの存在感。そして、そんなドラゴンたちの背に乗って空を駆ける飛翔シーンの数々も──オリジナル版に負けず劣らずの──スピード感と臨場感、そして前述のVFX技術の進化によるリアルな──まるで「実写かよ」と見まがうばかり(矛盾をはらんだ表現)の、そして高低差表現はいわずもがな足がすくむような──没入感に溢れた素晴らしい出来となっている。もともとオリジナル版でも、撮影のアドバイザーに名匠ロジャー・ディーキンスを招聘して実写ベースの画作りを徹底していたが、これが巡り巡って本当に実写になってしまうのだから、なにが起こるかわからないものだ。


もちろん、気になった点も少々ある。今回のリメイクでは上映時間が30分ばかり延びており、このことによってオリジナル版の──いかに情報的にも情緒的にも的確に効率よく描くかを徹底して模索できるアニメならではの──テンポ感の良さが削がれているのは否めない。それ以外にも同様に、アニメーション作品と実写作品というなかなかに越えがたい溝が、本作で如実に感じられたのもたしかである。というのも本作では、残念ながらオリジナル版からオミットされたシーンやショットがいくつかあり、これらはどれもアニメーションのリアリティ・ラインだからこそ成立したギャグや動き──たとえば、トゥースの吐いた炎でヒックの髪がちょっとチリチリになる、というのは流石に実写化では浮いてしまうだろう──が含まれるシーンであるため、カットされたものと思われる。しかし同シーンには、物語の展開に必要なちょっとした布石──前述のシーンでいえば、ドラゴンたちの火炎放射の仕組みと、それを逆利用したラストへの布石 *1──も含まれているため、これらを補足するようなシーンを──あるいは1、2ショットでも──新たに追加してもよかったのではないかという疑念は拭いきれない *2

とはいえ、マチズモ的な社会の同調圧力や暴力的な排外主義へのカウンターとして、対話と共生の道を観客に指し示してみせたオリジナル版から15年が経ったいまでも──いや、いまこそ──本作の掲げるテーマ性は有効であって然るべきではないだろうか。みなが右向けというから右を向くのでなく、周りとは違う視点から落ち着いて物事を捉え、自分だからこそできる創意工夫を凝らしてゆくヒックの姿にこうして再会できることは、きっと意義深いことだ。


その他、リアルなスケールになるとドラゴンってやっぱり巨大だなぁと感嘆したり、けっこう大掛かりなセットやプロップ、あるいはロケ撮影を用いていて画面が豊かだったり、ストイックを演じたジェラルド・バトラーがオリジナル版(声を担当)そのままでなるほどなぁと思ったり、「あんたニック・フロストだったンかい」と椅子からひっくり返ったり、そのじつ最強の見せ場「Test Drive」のシーンこそ──スコア含めて──完コピで観たかったなァと思ったり、なにはともあれラストに附されたロケ地(フェロー諸島)の空撮映像にほんのすこしだけ施された工夫 *3に感動したり……といろいろあるけれど、この壮大で心優しい冒険をいまいちど、あるいは新たにスクリーンで味わいたい1作だ。


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【ソフト】
◆ずっと観たい聴きたいと思っていた日本公開版音声の故ブルース・リー死亡遊戯(ロバート・クルーズ監督、1978)をようやっと鑑賞(遅い)。怪鳥音が──ストックとはいえ──本人のものに変わると、こうまで印象が変わるのかと驚嘆した。いかにしてすでに故人となったブルース・リーが、あたかも眼前にいるかのように見せるのかを苦心に苦心を重ねた撮影と編集も面白い本作だけれど、音声もやっぱり重要ですねえ。ホゥ/( ゚Д ゚)ノ アタ──ッ!


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*1:そして「君たちドラゴンのことを、僕らは誤解していたよ」というセリフも。

*2:あと──これは好みの問題かもしれないけれど──、全編をとおして画面が薄暗く感じられたことも若干気になった。映像はIMAX撮影された美麗で精緻な画であることはたしかなのだけれど、オリジナル版と比べるとコントラストの弱い画調であることと、あくまでリアルな光の表現に振っているためだろうか。あるいは本作をHDR(ハイ・ダイナミックレンジ)の環境下で観たなら、この印象は大きく変わるのかもしれないが、いかんせん地方シネコンの通常上映方式では、ちょっと惜しい画調ではあった。

*3:いくつかのショットに、空を飛ぶトゥースの影が地面に小さく映り込んでおり、そのなんとも知れぬ──SFX時代を思い起こさせる──「ほんとうにいる!」という感覚が嬉しかった。

◆2025年8月 ひとこと超短評集

2025年8月に、思い出したかのようにちょこまかとX/旧twitterにて書いていた短い短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆心臓病の新薬開発に必要な恐竜の遺伝子情報を手に入れるため、赤道直下の恐竜島に上陸する探検隊の冒険を描くジュラシック・ワールド/復活の大地』ギャレス・エドワーズ監督、2025)は、出来としてはポンコツながら、不思議と可愛らしい1作だった。


本作の物語展開は──文字どおり “なにも変わらなかった” 前作『新たなる支配者』(コリン・トレヴォロウ監督、2022)とまではゆかないまでも──正直、絶妙にまどろっこしい。重複する会話シーンはいくつもあるし、用意されたギャグはどれも滑りちらかしているし、シーンはそれぞれに間延びしているし、そもそもその設定なんか矛盾してない? ……とまぁ、本作のデヴィッド・コープの手による脚本が極端につまらないとまでは言わないまでも、執筆か編集の段階でいろいろ摘まんだりブラッシュアップしたりできる箇所はいっぱいあっただろうという疑念は拭い切れない。というのも前半で描かれた、本作の主人公の傭兵ゾーイとダンカンが言葉少なく互いの過去を回想するシーン──主演のスカーレット・ヨハンソンマハーシャラ・アリらの存在感は流石──や、あるいは思いがけない人物が作中で最も即座に利他的な行動を取ったりと、グッと観客の感情に迫ってくる箇所もあるので、本作の尺がもう20分ほどでも短くなっていたら、あるいはもっとタイトに本筋に集中して楽しめたのではないだろうか。


とはいえ、どうしても本作を嫌いになれないのは、本作がきっちりギャレス・エドワーズの映画になっていたからだ。エドワーズが自作のなかでたびたび取り入れてきたスピルバーグ的な演出──そして、彼の好きな『スター・ウォーズ』や『エイリアン』といった要素──を、『ジュラシック・パーク』シリーズというスピルバーグ印のフランチャイズのなかで自由に伸び伸びと撮っている感覚は、観ていてとても楽しそうである。

そしてそれ以上に、エドワーズの「超巨大な怪獣との対峙と戯れ」への憧憬──というか、もはやフェティッシュ──が炸裂した本作の恐竜まわりのシーンは、まさしくギャレス・エドワーズのタッチ。とにかく怪獣を思う存分撮れるというエドワーズの喜びがフィルムにきっちり定着されているし、なかでもとくに中盤のティタノサウルス登場シーンは彼以外には撮れないだろう。スピルバーグ演出の模倣からスタートしながらも、そこから1歩突き抜けたエドワーズならではの恐竜(怪獣)描写が存分にスクリーンで堪能できることこそ、本作が持つ独特な魅力にちがいない。


その他、本作に何度か描かれる恐竜がフッと忽然に姿を消すショットは新鮮だったし、ラスボスのオリジナル恐竜のデザインはエドワーズらしくて好きだし、とはいえエンディングもエンディングで「そんな装備で大丈夫か?」と不安になる脱出シーンは無駄にハラハラしたりするなど、ことほど左様に非常にポンコツで癖はあるものの、しっかりと自身の色を貫きとおしたギャレス・エドワーズの映画になった本作は、なんとも可愛らしい作品であった。エドワーズ映画のファンには絶対おすすめです。


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◆かつて謎の教団に父を殺された少女イブが、やがて美しき暗殺者となって復讐の炎をたぎらせるジョン・ウィック番外編バレリーナ: The World of John Wick』レン・ワイズマン監督、2025)は、アナ・デ・アルマスが、四方八方から次々に襲い来る敵を千切っては投げ千切っては投げまくるヒロインを好演する痛快な1作。シリーズのマンガ的な世界観と、『アンダー・ワールド』シリーズのワイズマン監督らしいヒロイン・アクションとが、いい具合に融合したということだろう。

とくにクライマックスでの、とある武器同士による応酬は、これまでにあまり類を見ないヴィジュアルが新鮮な見せ場となっている。欲をいえば、もっとマンガ的に突っ走ってもよかったかもしれない。せっかくならタイトルを活かして、なンかこう「バレリーナ殺法 “白鳥の連続まわし蹴り” !」みたいな必殺技があったら──序盤、イブがバレエの回転技に幾度も失敗するというカットアップがあるだけに──より盛り上がったのではないだろうか。


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【ソフト/配信】
◆昏睡からの覚醒後、手に触れることでその人物の過去/未来を幻視できるようになった男の顛末を描くS・キング原作のデッドゾーンデヴィッド・クローネンバーグ監督、1983)を久しぶりに観た。この世情に改めて観返すと、なんとも先見的というか、いろいろと考えさせられて心かきむしりました *1


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◆日中バチクソに暑くてひっくり返っていたので、平成シリーズでいちばん夏っぽいゴジラvsスペースゴジラ山下賢章監督、1994)を久々に観た。平成シリーズとしては異色作な本作に対してあーだこーだといろいろ思うところもある本作ですが、レジェンダリー版の変遷を経たいま観返すなら、まァ可愛らしいものですやん、という感慨もひとしお。ところで劇中、札幌のゲーセンで流れるBGMが山下達郎「クリスマス・イブ」(1983)のアレンジだったことに、はじめて気がつきました (・ε・) ナンダソリャ。


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◆新興の殺人請負会社に応募した6人の女子の研修合宿で教官を務めることになった殺し屋・国岡の奮闘を描く『グリーンバレット 最強殺し屋伝説国岡[合宿編]』(阪元裕吾監督、2022)は、なんといっても国岡(伊能昌幸)の醸す、突飛な世界観のリアリティを一挙に引き受けて確立させる独特な実在感が相変わらず魅力的。ただモキュメンタリーとしては、クライマックス以降で割と劇映画的な撮影と編集に切り替わるため、ラストにもうひと捻り仕掛けが欲しい気もするが、最後には「みんなよかったね」とほっこり笑顔になれるので、まァいいかしらん。


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霊媒師の血を引く玲子が通う高等学校で怪奇現象が頻発、その謎に仲間たちと挑む『超少女REIKO』大河原孝夫監督、1991)は、テンポのよい編集と小気味のよいユーモアで転がしてゆく語り口の軽妙さと、特殊メイクなどを駆使したSFXによる画面の豊潤さ、中盤で不意を突かれるジャンプ・スケア、そしてなにより作り手たちの熱量が──ときどき空回りする感じも含めて──とても印象的。本作のイメージソースとしては『キャリー』や『エクソシスト』といった先達のハリウッド映画や、大友克洋による漫画『童夢』やダグラス・トランブルの各種スター・ゲート特撮などがあるのだろうけれど、やりたいことは全部やるぞと、きちんと作品に落とし込んでいるところが素晴らしい。
 

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*1:マーティン・シーンのあの感じとか、大好きだった元カノが──いまでいう──オルタナ右翼ネトウヨともいう)になっていた悲劇たるや!

◆2025年7月 ひとこと超短評集

2025年7月に、思い出したかのようにちょこまかとX/旧twitterにて書いていた短い短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆世界地図に載っていない謎の孤島に秘められた巨大な陰謀にルパン三世たちが挑む『LUPIN THE IIIRD THE MOVIE 不死身の血族』小池健監督、2025)は、シーンごとを観れば面白いところは多いのだけど、全体としてはもうすこしやりようがあったのではないかと首を傾げたくなる1作だった。

本作は『次元大介の墓標』(同監督、2014)を皮切りに、これまで第4部まで制作された「LUPIN THE THIRD」シリーズの第5部に当たり、これまでチラホラ張られていたラスボスへの伏線が回収されるべき1作だ。たしかに、さすがテレコム作画だけあって全編にちりばめられたアクション・シーンの臨場感あふれる動きは見応えがあるし、無気味に脈動する島の──これまで登場した孤島の要素 “全部” 盛りのデザインや設定も奇抜な──美術や、本作のファム・ファタルである少女サリファの妖しい表情も面白い。

ただ、いっぽうで気になる点も少なくない。アバンに附された “これまでのあらすじ& 1stOP風の登場人物紹介” は正直蛇足だし──これまでどおり、いきなり物語を開始したほうがスマートだろう──、そこかしこに登場するテロップや日本語字幕 *1も必要性をあまり感じず、ふいに始まる設定説明シーンが本当に説明に徹していて面白みに欠ける。そしてなにより、本作ではフラッシュバックを多用しすぎであり、これがただでさえ本作では2か所以上を同時並列にカットバックするために維持が難しいであろうテンポを削ぐ要因となっていてもったいない(もうすこし観客を信頼してほしい)。

そのうえ観客には提示されていないことまでフラッシュバックされては、これはもう伏線回収ではなく後出しジャンケンであって、かえって物語の顛末の納得度を下げてはいまいか。また納得度といえば、いくらなんでも本作の結末は諸々煙に巻きすぎであって、これで行間を読めというのはいささか乱暴だろう。せめて、誰がどういう動線を辿ったのかなど、もうすこし事件の顛末をきちんと描いてほしかった。

ことほど左様に、なんだかもったいないなァというのが、本作の印象だ。これまでの「LUPIN THE THIRD」4作を楽しんできた身としては、シリーズの魅力だったケレンなアクションによる洒脱なオチをいまいちど期待していたのだけれど、それは果たされなかった。


     〇


◆かつてのパンデミックから逃れるために隔離された孤島の村で生まれ育った少年スパイクが、村の掟に沿って父とともに狂暴化ウイルスに感染した者たちの跋扈する本土へと渡る『28年後…』ダニー・ボイル監督、2025)は、なんとも知れぬ不思議な風味を醸す1作だった。

もちろん第1作『28日後…』(同監督、2002)からして、観た者に不思議な感情を抱かせる──まさしく脚本のアレックス・ガーランドのタッチ──ロード・ムービー風のゾンビ映画だったけれど、本作はそれともまたどこか異なる風合いだ。本作で描かれる要素を雑多に思い出すなら、まるで中世ヨーロッパに退行したかのようにも見えるムラ社会と風習、森の中に立ち現れる石造りの建物の残骸、緑美しい丘の稜線に並ぶ人々のシルエット、ときおりハタと訪れる神々しい光景のショット、ひたひたと忍び寄る無気味な死の影と新たなる生命の誕生、そして新世代への希望……と、なるほど本作は『第七の封印』(イングマール・ベルイマン監督、1957)をゾンビもの──思えば『第七の封印』もパンデミックものともいえるだろう──として愚直なまでに再構築しているのではないかしら。


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『スーパーマンジェームズ・ガン監督、2025)は、ほんとうに素晴らしかった。まさに「いま」──世界を分断で覆い、さらにそれを加速させようとする大馬鹿者どもが蔓延る「いま」こそ──観たいヒーロー映画を体現した見事な見事な1作だ。


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宇宙線の影響で特殊な能力を得た4人組が、ギャラクタスによる地球存亡の危機に立ち向かう『ファンタスティック4: ファースト・ステップ』(マット・シャックマン監督、2025)は、画面のなんとも懐かしい風合いが楽しい1作だった。

本作は架空の1960年代を舞台としているだけあって、衣装から小道具、スーパーカーから宇宙船といったメカニック、テロップからタイトル・デザイン、そして現実のニューヨークの街並みに少々追加された建造物にいたるまで、その形状や色彩にレトロでアナログ、それでいてちょっとモダンな '60年代SF的なデザインを徹底して採用しており、かつて観た当時の映画作品をついつい懐かしく思い出してしまう。この21世紀に、噴射口を真下に向けて発射台にそのまま垂直着陸して帰還するロケットを劇場で、しかも新作で観られるなんて、ちょっと感動してしまった(空飛ぶ車の演出が途端に『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982)風味になるのはご愛敬か)。『大魔神』(安田公義監督、1966)もかくやのクライマックスも楽しい *2

ただ、目に映る数々のデザインが素晴らしかっただけに、例によってVFXの粗さの誤魔化しのためか、フィルム・グレイン強めの画調が本作ではとくにもったいない。できることなら、もっとパッキリくっきりとした画調で観たかった、というのは贅沢なのかしらん。とはいえ、本作に限っていえば、これまでのMCUマーベル・シネマティック・ユニバース)とは別の世界線(アース)という設定もあって、とくに予習の必要性も感じなかった──冒頭に附されたバラエティ番組風の設定説明はクレバーな演出だ──ので、単品の作品としても見易いのも、また美点である。旧約聖書におけるアブラハムの逸話を逆転させたかのような物語も、いま必要な正義とはなにかを観客に考えさせてくれるだろう。


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【ソフト/配信】
◆とある独裁国家の指導者への取材を敢行する記者クレアの護衛を引き受けた元特殊部隊メイソンの活躍を描く『ザ・ボディガード ローグ・ミッション』(ピエール・モレル監督、2023)は、決して巧い映画じゃないのだけれど、いかにも遅れてきた '80年代アクション映画かしらんと観ていると、ところがどっこい至って真面目な物語展開をみせる本作は、これを主演に選んだジョン・シナの人柄を思わせるようで味わい深い。


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◆些細なことからいがみ合う合衆国大統領と英国大統領が、凶悪なテロリストたちに戦いを挑む『ヘッド・オブ・ステイト』イリヤ・ナイシュラー監督、2025)は、いかにも遅れてきた ’80年代アクション映画然とした愉快なアクション映画だった。

もともと、どちらの主人公も軍隊上がりという設定だったのを最終的にはジョン・シナ演じるウィル・デリンジャーをアクション映画スター出身の大統領としたことで、いよいよ「もしもシュワちゃんが大統領になったら!?」といった雰囲気が笑いを誘うし、クライマックスで展開される1対多数のカーチェイスは懐かしのジャッキー・チェン映画のタッチで楽しい。そうはいっても、本作最大の敵が自国ファーストと世界の分断を目論んでいるあたり、たいへん今日的な問題にも切り込んだなかなか見応えのある作品だ。

それにしても、冒頭のトマト親父ギャグの応酬が──原語版でも吹替え版でも──ほんとうにくだらなくて好きでね……。


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*1:ふつうに映画字幕風にすればいいものを、あんなフォントでやるものだから、もはやテレビのバラエティかよとなったものです。

*2:その他、「あっ『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)だ!」となるショットや、「えっ『妖星ゴラス』(本多猪四郎監督、1962)か!?」となる展開など、微笑ましい。

◆2025年3月と、6月 ひとこと超短評集

2025年3月と、間を置いて6月に、思い出したかのようにちょこまかとX/旧twitterにて書いていた短い短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆ディズニーが世界初の長編アニメーションとして世に出した同名映画を実写化した『白雪姫』(マーク・ウェブ監督、2025)は、その心意気やよし! と思えるリメイク作。


本作の特徴は、なんといっても物語に大きな改変が加えられていることだろう。グリム童話の1篇をもとにしたアニメ版(デイヴィッド・ハンド監督、1937)が、いかにも御伽噺らしい抽象性の高い物語であったことを思うなら、本作ではキャラクターと物語を現代にリメイクするにあたっての意義を求めて刷新を図っている点が興味深い。

たとえば、助けと王子様を待つばかりだった白雪姫の物語は、王女としてのモットーを成し遂げるために自立する女性としての物語に切り替わり、自身のナルシシズムを満たすために女王が執着していた「美」は、それ以上に「権力」への執着として描かれ、単なるプレイボーイだった白馬の王子様は、いまは行方知れずの前王と彼の王道に忠実な盗賊となっている。そしてアニメ版でのクライマックスだった「キス」は第2幕の終わりにスライドし、そこから新たに白雪姫が辿る物語が紡がれる。

それは、ますますタガが悪い方向に外れてゆく今日の現実世界において、胸に抱きたい希望にほかならない。また、これまではいわゆる結婚式の表象だった白装束と花吹雪をガラリと読み替えるラストも、なるほどと思わせるものだ *1


もちろん、もとが歴史あるアニメ版だけに、これだけ大々的に改変を行ったことが受け付けられないという意見も理解はできる。たとえば、白雪姫役のレイチェル・ゼグラーがアニメ版を否定的に揶揄する発言したことで炎上したのは記憶に新しい。けれど、そもそも本作の作り手たちのコンセプトがアニメ版の批評的なブラッシュ・アップだったことは、本作を観れば一目瞭然なので、ゼグラーに対する批判は狭量というか見当違いであろう。

とはいえ、だからこその不満点というか、不完全燃焼感もあった。挑戦的な新要素がふんだんに盛り込まれた反面、7人の小人(ドワーフ)たちの描きこみが──おとぼけに関する追加エピソードを除いて──減ってしまっていたのは残念だ。それぞれのキャラクター性は説明的な描写で終わってしまうし、登場時の採掘シーン付与されたトロッコ・アクションや鉱石と感応して光り輝かせる能力を後半でも有機的に活かしてほしかった。

また、なんとなれば、彼らの立ち位置をより描くことで、本作が目論んだ方向性にもう1歩踏み込むこともできたはずだのにもったいない。どうして小人たちが、数世紀ものあいだ人里離れた森 *2で隠れるように宝石を掘って暮らしているのかについて、ほんのすこし匂わす程度の台詞のひとつがあれば、本作が描こうとする社会的なテーマにも奥行きが出たことであろう。


その他、新たに追加された歌曲はどれも聴き応えがあったし、若干だけファンタジー寄りになされた衣装/意匠のバランスもよかった。とはいえ前述した不満点や、ミュージカル・シーンにもうすこし迫力があればなぁ、などと思わなくもないけれど、現代の観点から意欲的に換骨奪胎を試みる心意気は非常に高く買いたい1作だ。観てよかったです。


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◆わんぱくだが孤独な少女リロが、宇宙から飛来した謎の生命体スティッチと出会う『リロ&スティッチ』(ディーン・フライシャー・キャンプ監督、2025)は、オリジナルのアニメ版(クリス・サンダース、ディーン・デュボア監督、2002)から大小様々に変更が加えられているのが印象的。

これによってドラマチックさが若干弱まったり、物語のラストで若干の齟齬が生じている箇所があったりするいっぽう、リロの姉ナニにより重点を置いた脚本への納得感と、優しくもすこし引いたところから見るような『マルセル 靴をはいた小さな貝』(2021)のキャンプ監督らしい味わいが趣深い。なんなら、もっとキャンプ風味にアレンジしたものを観たかった気さえする(そうすると、まったく別物になってしまうだろうけれど)。


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【ソフト/配信】
◆世界初の映画と云われるリュミエール兄弟製作の映像/シネマトグラフ全1422作の内108作をテーマ別に観るリュミエール!』(ティエリー・フレモー監督、2017)は、不勉強ながらあまり観たことのなかった作品の数々に、当時からこんな撮影をしてたのか、と驚嘆することしきり。

作品を紹介するナレーションに「完璧な」という形容動詞をいささか使いすぎな嫌いはあるけれど、1作1ショット50秒という短尺に詰め込まれた映像の情報量、そしてたしかに映画と呼ぶに相応しい物語性を感じられる構図や色合いの演出、そして動きの手触りは、なんとも新鮮な感触だ。

ところで、これらの映像を観ていると、画面の奥に広がる街並みや山々といった遠景の質感が──もちろん実景を撮影しているのだが──まるでマットペイントのように見えたことも印象深い。なるほどこういう質感を後の特撮は目指したのか、と観ていて興味深かった。


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【TVアニメ】
◆ジオン独立戦争終結から5年後、スペース・コロニーでの平穏な暮らしに辟易としていた女子高校生アマテが、ひょんなことから難民の少女ニャアンと謎の少年シュウジに出会ったことで、非合法なモビルスーツ競技 “クランバトル” に身を投じてゆく『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』鶴巻和哉監督、2025 ※全12話)は、“「ガンダム」ミリ知ら” のまま実験的に観た身からすると、アマテが第1話で放ったセリフに集約されるような、乱暴なまでのスピード感が魅力のシリーズだった。


絶妙にポップなキャラクターの描線と色使いに軽やかな動き、緻密な背景美術、そしてモビルスーツが縦横無尽に舞う迫力満点の戦闘シーンなど、画/アニメーションの楽しさはもちろんのこと、本シリーズで最も心掴まれたのは、物語展開の乱暴なまでに疾走するスピード感だ。

話数を重ねるたびにポンポンと連続する急転直下の展開、情報処理の追いつかないほど錯綜するSF的設定あるいは政治的な読み合いと水面下での陰謀、そのなかを奔走するメイン・キャラクターたちの動向と葛藤、登場したと思ったら数秒後にバタバタ死ぬ人々、そしてオリジナル版『機動戦士ガンダム』(富野喜幸監督、1979-1980)等からの引用やオマージュなどなど、あれもやってこれもやってそこも描いて爆発させてと、まァ忙しいこと忙しいこと。

なんとなれば最終回である第12話を観終わったいま思い起こせば、劇場先行版『-Beginning-』ないし前半3話までの物語展開など「そんなこともあったかしらん」と懐かしさを覚えるほどである。しかし、しがみつかねば振り落とされそうなほどの早いテンポ感に、観ているこちらの集中力と興味の持続を適度に刺激され、息つく暇もなく次々に投下される物語的なフックや時々刻々と雪崩を打って激変し続ける状況/戦況に「はれほれひれはれ」と翻弄され続け、「緑のおじさん」a.k.a.「ヒゲマン」ことシャリア・ブルは最後までイケオジだったり、「えっアイツがアイツでコイツがコイツなのかッ」と知らないなりにひっくり返ったり、というか「エヴァじゃん」と画面にツッコミを入れたり、とにもかくにもアマテの「よくわかんないけど、なんかわかった!」というセリフのごとくズカズカ押し通される視聴体験は、たいへん楽しいものだった。


もちろん、そのぶん犠牲になった要素も多分にあるだろう。本シリーズのコンセプトたる「仮想戦記もの」──平たく言えば二次創作──としてはありかもしれないが、結局最終話を経ても「じゃあお前は、あのときからこのときまでどこにいたんだよ」という疑問は解消されなかったし、ソドンのクルーは本当に座りっぱなしだったし、コモリ少尉は── “子守り” 以外の大きな役回りもなく──何者だったのかしらんと思ったり、なによりアマテ、ニャアン、シュウジという3人の主人公たちのセットアップやドラマは──とくに前半線に──もうすこし丁寧にあってもよかっただろう。このコたちが、初登場時以上の印象やインパクトを超えられなかったのは、ほんとうに残念だ *3。テレビ本放送版と配信版で、後者のほうが若干尺が長かったり微妙に修正があったりする話もあったそうなので、ほんのすこしでも盛り込む余地はあったのではないだろうか。本来であれば、少なくとも2クールは必要な物語構成だったのだろうなとは、つくづく感じるところだ。

ともあれ、はたして本当に畳めるのかと思われた物語が、そのスピードと密度を落とさぬままギュッと完結したいま、なんとも知れぬ満足感を噛み締めていることはたしかである。もちろん、僕自身は前述のとおり「ガンダム」シリーズをほとんど9割9分9厘まったくの未履修でやってきたので、本シリーズを本当の意味で十全に楽しんだとは言えないかもしれない。それでも、こんなにも毎週毎週指折り次回を楽しみに過ごしたことはずいぶん久しぶりの体験だったし、まさか自分が「ガンダム」を観ることになろうとは、と妙な感慨にふけってもいるのでした。人生なにがあるかわからない *4

それにつけても、『-Beginning-』鑑賞時と同様、本シリーズを「ぜんぶ劇場で観たい」という思いを強くしたのでありました。


     ※

*1:ただ、そのヴィジュアルが『ミッドサマー』(アリ・アスター監督、2019)に似すぎていて、本作とは無関係にギョッとする感じがしなくもない。

*2:ただ、小人たちの住まいが「ほんとうに徒歩圏内あるんだ!」とイッパツでわかる1ショットには笑いました。

*3:この点は、『スター・ウォーズ』エピソード7~9を観たときに感じた「シオシオノパー」感を思い起こしました。

*4:そうはいっても、もし「ガンダム」の予備知識があったら、それこそ自分の処理が追いつけずにショートしたかもしれない。ファンダム界隈が毎週考察大会を繰り広げているのを「勉強になるなァ」と楽しく眺めたのも、いい思い出。