2019 8月感想(短)まとめ

2019年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
飼い主のケイティが結婚して誕生した男の子リアムを自分の子供のように思う小型犬マックスの冒険を描く『ペット2』(クリス・ルノー、ジョナサン・デル・ヴァル監督、2019)は、映画のルックがそうであるような軽やかで可愛らしい作品だった。

前作『ペット』(クリス・ルノー、ヤーロー・チーニー監督、2016)に引き続き、マックスやその相棒である大型犬デュークといった動物たちのデフォルメされたデザインと、戯画化──そして適度に擬人化──された動作との按配がじつに愛らしく、犬や猫、あるいは乳児のこういうところが可愛いんだよなと思い出すかのようだ。また、そんな彼らに合わせて設定された背景美術のポップなデザインや色使いの暖かさ──さんさんと照らす陽光を反射する摩天楼の美しさ!──と、バンド・デシネのコマ割りを思わせるようなとてもシンプルな画面レイアウトとが相まって、まるで小さな箱庭を眺めているような楽しさを味わさせてくれるだろう。ジャズの風味を効かせたスコアも心地よい。

たしかに、本作は脚本にいささか難がある。本作の脚本は、①マックスとデュークが家族と田舎に旅行する件、②マックスのガールフレンド犬ギジェットが、彼から預かったボールを巡って冒険する件、③自分をヒーローだと思い込むウサギのスノーボールが、囚われのホワイトタイガーを救い出そうする件……という3本のストーリー・ラインを同時進行で見せる構成になっており、一応クライマックスで3者は合流するものの、それぞれがそれぞれに独立したテーマを内包していることもあって、そこまで有機的には噛み合わないし、キャラクターの掘り下げも中途半端に終わってしまったのは否めない*1 *2。子を思う親の心境となった非人間が主人公であることからどうしても思い出される『トイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)の脚本のようにスキなく組み上げられているわけではないし、マックスとデュークが相棒になるまでという主軸を持った前作と比べても、本作の空中分解寸前とさえ思える脚本の弱さは露呈してしまっている*3

ただいっぽうで、マックスたちはあくまで「動物」を戯画化したキャラクターであるという線引きは明確になされていて、そもそも彼ら自身が──もはや「人間」のキャラクターであるウッディたちと違って──そこまで深刻になりようがないため、彼らの特徴をそれぞれ活かした可愛らしい大小さまざまギャグを連発する様子を笑って観ているぶんには、そこまでお話部分のスキや粗がノイズになることもなかった。むしろ、彼らが辿るほんのささやかな冒険とほんのささやかな変化を描く本作の──決して堅苦しくなく、偉ぶるでもない──軽やかさこそが本作の魅力なのではないだろうか。

最後に、本作で僕がもっとも気に入ったところを挙げるならば、なんといってもウサギのスノーボールだろう。前作では人間に復讐を誓う捨てられペットのギャング団のリーダーだった彼が、そのラストで本作の飼い主と出会い再びペットになったことで、困っている動物を救うスーパーヒーロー──と思い込んでいる──へと華麗に転進をきめた彼の一挙手一投足が、もう可愛くて可愛くて。いちばん擬人化されたキャラクターというのもあるのだろうが、アクションも大きく見せ場も多いのでたいへん笑わせてくれるし、日本語吹替え版にて彼を引き続き演じた中尾隆聖のキレッキレで見事なパフォーマンスも素晴らしい。

パンダッ☆-(ノ゚∀゚)八(゚∀゚ )ノパンダッ☆!


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◆元アメリカ外交保安部捜査官ルーク・ホブスと元MI6諜報員デッカード・ショウがタッグを組み、世界滅亡に繋がる殺人ウィルス「スノーフレーク」を巡って悪と闘うワイルド・スピードスーパーコンボデヴィッド・リーチ監督、2019)は、『ワイルド・スピード』シリーズが回を追うごとに増えるレギュラー・キャラクターと各々の見せ場によって、ある種のゴシック様式的な様相を呈している──それでもなお、過不足なく、ちゃんと自動車アクション大喜利を踏まえてきちんと作り切ってみせるのがエラいところ──のに対し、本作では番外編ということで登場人物の数をスッキリと人員整理したことで、たいへんシンプルな──なんなら本作から観ても問題ない──バディ冒険活劇映画として楽しめる1作となっている。

本作は、ドウェイン・ジョンソンジェイソン・ステイサムという世界でもトップクラスに信頼の置ける筋肉ハゲ俳優たちが、ハゲしく罵りあいながらハゲしく悪を殴り倒してゆくのがすべて、といえるほどにふたりの息の合ったコンビネーションが楽しめる。一点突破型の重い打撃重視のジョンソンに、素早く効率的に立ち回って数をこなすステイサムという両者のアクションの描き分けも楽しく、この真逆のアクションの方向性がいかにして融合するか、というのが本作のいちばんの見所だ。また、本作から参戦した──あるいは、ふたりの睦みあいに割って入る──ショウの妹(いたのかよ!)ハッティを演じたヴァネッサ・カービー、変形自在の自走型オートバイを駆る悪の改造人間ブリクストンを演じたイドリス・エルバらの画になりっぷりも素晴らしい。

もちろん近年のアクション映画の傑作『ジョン・ウィック』(チャド・スタエルスキと共同監督、2014)、『アトミック・ブロンド』(2017)、そして『デッドプール2』(2018)を手がけたリーチ監督らしくアクションの見せ方は秀逸で、たとえば高層ビル内にあるオフィスでの攻防から一気に窓を破って壁を地面まで駆け下り、続けざまにカー・チェイスに突入するという前半のロンドンでの一幕のように、横移動と縦移動を巧みに組み合わせた立体的なアクション構築を、全篇に渡って楽しむことができるだろう。またクライマックスにおいて──正直、ヤンキー母校に帰る的展開は心底どうでもよかったが*4──ホブスの故郷であるサモアの地域性を前面に出したアクションも面白かったし、ムカデ人間もかくやの荒唐無稽な自動車アクションも見事な説得力を保っていたし、雨降りしきるなか展開される顔面パンチ合戦で乱発されるバレット・タイムにも大いに笑った。

もちろん、ほとんど機能していないタイムリミット・サスペンスを筆頭に突っ込みだしたらキリのない脚本ではあるし、デッカード・ショウの “前科” 問題は依然くすぶっているし、尺がもうすこし短ければなと思うところもいろいろあるけれど、そういったこともゴリ押しで吹き飛ばすに足る豪快な作品だ。


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◆冬の戦車道大会「無限軌道杯」初戦にてBC自由学園チームに苦戦する大洗女子学園チームの闘いの行方を描くガールズ&パンツァー 最終章 第2話』水島努監督、2019)は、遊戯としての戦車チーム対決の映像的、そしていかにして勝つかというロジック込みの面白さと、立体音響で鳴り響く砲弾と履帯とエンジンの唸りが相変わらず──というか、さらにブラッシュアップされて──楽しい1作だ。

いちおうOVAでもある性質上、今回もじつにいいところで終わってしまい「続きは来年……観られるのかしらん?」と思ったりもしたが、いっぽうで上映時間が56分と短いぶん、見せ場をきっちりと盛り込みつつも、ドラマ部分が『劇場版』(同監督、2015)*5にあったように間延びをすることもなくサクサク進んで爽快だ。

それにしても、本シリーズは2D手描きアニメ(一部3DCG使用)におけるPOV描写の実験場となっているところがあって、隙あらば多種多様な主観映像を本作では前作『第1話』(同監督、2018)以上に使用している。臨場感溢れるそれらの映像を映画館のスクリーンで観ていると、まるで遊園地のライド──いみじくも本作にも、『劇場版』から改修された「ボコランド」のアトラクションとして登場するが──に乗っているかのような楽しさへと観客を誘ってくれることだろう。また、走行/戦闘中の戦車から身を乗り出したキャラクターの芝居やアクション、髪や衣装のはためきが豊富かつ細やかに描き込まれており、さらにこれを前述したようなPOV的カメラワークと組み合わせてくる*6ので、たいへん情報量が多くて目に楽しく、じつにコマ送りをしたくなる衝動を生む作品であった。

お約束なので、ガルパンはいいぞ、それなりに、とひと言書き添えておこう。


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◆動物たちの暮らす楽園プライド・ランドを統べるライオンの王の子として誕生したシンバの冒険を描いた “ディズニー・ルネサンス” 期の傑作と誉れ高い長編アニメーションをフルCGでリメイクしたライオン・キングジョン・ファヴロー監督、2019)は、ひとまず「こんな映像観たことない」と驚くことはたしかな1作だ。そして同時に、元々内包されていた問題点がより浮き彫りになった作品でもある。

とにもかくにも、もはや実写と見紛うばかりに作り込まれたライオンをはじめとする各種動物たちの体毛や皮膚、そして筋肉といった質感表現は凄まじいのひと言。フルCGで描かれた実写的なリアリティ・ラインでありながら人間がいっさい登場しない画面──加えて、恐ろしくリアルな動物たちが英語台詞に合わせてリップ・シンクするのだから──は、これまで観たことのない感触だ。強いて近い感触の作品を挙げるなら、『ダーククリスタル』(ジム・ヘンソンフランク・オズ監督、1982)だろうか*7

ただ、動物描写を限りなく実写的にしたために、オリジナル版(ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ監督、1994)よりもアクションやギャグといった動きの振れ幅や、個々のキャラクターの視認性、それによる見せ場の作り方や色彩表現に制限が生じてもいたので、本作の採用したリメイクの手法は、一長一短といったところだろうか。オリジナル版にあった象の墓場での見せ場が大幅に削られていたのは残念。

さて、本作の物語は、多少の差異はあれどオリジナル版にほぼ忠実だ。本作の持つ物語構造は、高貴な血筋に生まれついた少年ないし青年がやむなく故郷を追われながらも、冒険や仲間との出会いの果てに帰還して本来の王座に就くという、神話/物語史のなかで連綿と再生産されて語り続けられてきた、いわゆる貴種流離譚と呼ばれるものであり、これを丁寧になぞった本作の筋立ては、もはや人間の遺伝的に問答無用で盛り上がるものだともいえよう*8。つまらないわけはないし、それほど強固な物語構造を持ったシナリオなのだ*9

ただ同時に──これは元々のシナリオの問題点であり、ここにこそ僕がずっと違和感を抱いていた核心があるのだけれど──本作をはじめとする一連の『ライオン・キング』の世界観を支える「生命の輪(サークル・オブ・ライフ)」に用いられるロジックには、若干のヤダ味や欺瞞感が相変わらずどころか、本作ではさらに説明が若干追加されているので余計に残っている。つまり本作が立脚するのは、ライオンを百獣の王として──そのほかの動物が頭(こうべ)を垂れて跪(ひざまず)く描写などが示すように──動物の種類によって明確に “優劣” が決定されているという世界観なのだ*10

そんななかで本物のようにリアルな動物たちが──ドキュメンタリーならまだしも──いかにも人間的な物語を人間のごとく演じるのであるから、ここにある種の優性思想が見え隠れしているように思えてならないのである。この優性思想が、かつて──いや、今日(こんにち)の世界中においてすら──危険で愚劣な蛮行をもたらしているか、詳しく説明することもあるまい。

さらに付け加えるなら、前述したとおり本作における動物たちは多分に人間の戯画化した存在であり、ここにおいてライオンや肉食獣がシマウマなどの草食獣を “食い物” にしていること──そして、それが是であるとしていること──に、様々な暗喩を読むことは不可能ではない……というか漏れ出ている。ゆき過ぎた自由主義経済社会における格差、いまなお現実世界を蝕み続ける性差別や人種民族差別などなど、様々にある正されるべき問題について逆行するかのような、ただただ強者──あるいは、そう思い込んでいるだけの阿呆──の自分本位な危うい思想が透けて見える。

本作ではとくに、オリジナル版の手描きアニメーションとしてディズニー的戯画化の施されたリアリティから、ひと足飛びに実写的リアリティのラインに映像が高まったことで、これらの問題点がより前面に押し出されることになった。

もちろん、うまく隠し通せばよいということではない。むしろ、より前景化してしまったことにこそ、本作の意義があったというべきだ。それにしても、なにゆえ『ライオン・キング』がこのような危うさを──意図してか意図せずしてか──内包し、観客はこれに熱狂してしまったのだろうか。あるいは、オリジナル版が公開された1994年当時の──『フォレスト・ガンプ/一期一会』(ロバート・ゼメキス監督、1994)*11がアカデミー作品賞を獲ってしまうような──反動的な空気感が、そうさせたのかもしれないけれども。人間の無意識的欲望の無気味さに身震いする。


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【ソフト】
◆英国イチのボンクラ諜報部員が三度(みたび)世界を救う『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』(デヴィッド・カー監督、2018)は、ローワン・アトキンソンによる安定の芸で始終クツクツと笑わせてくれるし、ハワード・グッドールによる劇伴も無闇にかっこいい。それでいて現代日本にもじゅうぶんあり得るべきゾッとするような危機を描いているあたり、コメディとしても切れ味バツグンだ(オカミがバカだと大変だよね)。そして字幕翻訳はもちろんのこと、在りし日の民放洋画劇場を髣髴とさせる素晴らしい翻訳と岩崎ひろしらのアドリブ感溢れる演技が堪能できる日本語吹替え版は必聴だ。


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◆太平洋横断超特急マリンエクスプレス」の開通披露走行に集った私立探偵ヒゲオヤジこと伴俊作たちの思惑が交錯する手塚治虫によるTVM『海底超特急 マリンエクスプレス出崎哲監督、1979)は、手塚漫画らしいユーモアと後年の『アトミック・トレイン』(D・ジャクソン、D・ローリイ監督、1999)ばりに後半で突然ジャンルが変わる乗り物パニック感が合致した楽しい作品だ。


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◆マッド・サイエンティストの実験によって生まれたバイオロイド兵士がジャッキー・チェンを襲う『ポリス・ストーリー REBORN』(レオ・チャン監督、2017)は、観ながら「えっ、SF?」と面喰うし、トロンかダフト・パンクかというような敵兵部隊の衣装はどうかと思うし、アバン・タイトルの見せ場がいろんな意味でピークだったかなとか、いろいろ思うところは多分にあるけれど、ジャッキーの年齢以上のアクションの動きとサービス精神に「ジャッキー、楽しい映画をありがとう」となる作品だ。


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*1:新キャラクターのデイジーの飼い主はどんな人物なのかまったく見えてこない──すわ、まさかジョン・ウィックか!?──し、いくらなんでもクライマックスにデューク不在はまずかろうと思う。

*2:ハリソン・フォードがはじめて声優として登板したという牧羊犬ルースターは、ぜひ原語版でも聴いてみたい(近所の映画館では、日本語吹替え版しか上映がなかった)。 内藤剛志による吹替えも悪くなかったけれど、せっかくのフォード初登板なのだから、ここは耳に馴染んだフィックスの村井国夫磯部勉あたりにアテて欲しかったなァと思わないでもない。

*3:まあ、前作でもかなり強引なところはあったけれど。クライマックスのバスとか。

*4:だってルークはなんにも悪いことしてないじゃないか。

*5:備忘録: 『ガールズ&パンツァー 劇場版』感想 - つらつら津々浦々(blog)

*6:自身が指揮を執るS35から身を乗り出した安藤(BC自由学園)のうしろにカメラが乗っている体(てい)で、彼女が左右や後方の確認と指示を繰り出しながら、それに従ってS35が延々と後進し、転進する長い1カットはとくに印象に残っている。

*7:監督名を見てもわかるとおり、架空の──人間のいない──ファンタジー世界の住人を、ほとんどすべてマペットアニマトロニクスで作り上げた作品だ。

*8:古くは『オデュッセイア』に “スサノオの神話” から “モーゼの物語” もそうだし、古英語の研究をしていた言語学者J・R・R・トールキンが著した『指輪物語』(1954-1955)──とくに馳夫(ストライダー)として身を落としたアラゴルンを巡るくだり──もまた、紛うことなき貴種流離譚の一例である。 ▼時代は下って映画作品でもさんざん援用されてきた。もちろん代表例としては、ムファサ王役のジェームズ・アール・ジョーンズダース・ベイダーの声を演じた『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督、1977)にはじまるシリーズが挙げられるだろう。そもそもルーカスが、神話の体系をまとめたジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』を読んで作ったのが……(長くなるので割愛)。 ▼余談だが、この貴種流離譚的物語構造を現代的にアップデートした最近の成功例としては『ヒックとドラゴン』(ディーン・デュボア、 クリス・サンダース監督、2010)がそうだろう。本作がいかに現代的な物語の回答を示したかは実際に本編を観ていただくとして、簡単な構造分析をしておくなら、主人公の少年ヒックはヴァイキングが暮らす島の族長の息子でありながら、頭はいいが弱々しく変わり者のために居場所がない。つまり彼は心理的に里を追われることで、やがてトゥースというドラゴンの相棒を得、これまでほかのヴァイキングが考えもつかなった道を切り開き、民を導く王としての成長を遂げてゆくことになる。

*9:だから、撮影と編集もカッチリしていて、もっともわかりやすいのが、玉座へ向かう動物たちの動きの方向だ。王を称える側は、画面左から右へと移動し、辞去する際には右から左へと向かい、王族のシンバは玉座に向かう際、そして玉座から流離する際に彼らと反対の動きをたどる。

*10:これは、たとえば同じく多種多様な動物たちだけの世界で語られたディズニーの『ロビン・フッド』(ウォルフガング・ライザーマン監督、1973)とは大きく異なるものである。そして付け加えるなら、後述する『ライオン・キング』的世界観の問題を後に乗り越えようとしたのが、『ズートピア』(リッチ・ムーア、バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2016)だったといえよう。

*11:フォレスト・ガンプが聖痴愚であること隠れ蓑に、公民権運動やカウンター・カルチャーの歩みを排除した非常に保守的で白人至上主義的な戦後を再構築し、しかもそれを原作がある種ナンセンスなユーモア小説であるにも関わらず感動大作として仕上げてしまった問題の多い作品だ。公開当時、映画で描かれるフォレストが、政府のいうことに──純粋であるがゆえに──疑うことなく従い、それゆえに成功してゆく様子をこそ、真にアメリカ人的であるとして、共和党の選挙キャンペーンの引き合いに出されたりもしたのだ。町山智浩『最も危険なアメリカ映画 『國民の創生』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで』(集英社、2016)などに詳しい。

2019 7月感想(短)まとめ

2019年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
アベンジャーズの決死の活躍によってサノスの野望が砕かれ、徐々に世界が平穏を取り戻しつつあった夏、クラブの修学旅行でヨーロッパに向かったピーター・パーカーがまたもや世界の危機に直面するスパイダーマン: ファー・フロム・ホーム』ジョン・ワッツ監督、2019)は、続編として、なにより娯楽映画として申し分ない見事な作品だった。楽しい、というのは本作のようなことをいうのだ。

本作は、まずなにより画面が楽しい。ヨーロッパ各地に二転三転するロケーションの変化が鮮やかなので観光映画としても楽しめるし、そんななかを暴れる敵の巨大さもあって、まるで怪獣映画を観ているかのような面白さにも溢れている。もちろん見せ場のアクション構築も素晴らしい。ロケーションや物語上重要となる装置群を使った立体的な舞台立てのなかを文字どおり縦横無尽に跳びまわるスパイダーマンの活躍は手に汗握る迫力があるし、これを切り取るカメラ・ワークと編集は、VFXとの相乗効果もあって躍動感に溢れつつも適確で判りやすいものとなっており、まるでピーターと一心同体となったかのような臨場感に満ちている。また、「親愛なる隣人」ことスパイダーマンの面目躍如ともいうべき人命救助描写も多いので、アクションがとてもエモーショナルなのも好印象だ。

もちろん、前作『アベンジャーズ/エンドゲーム』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)以降の世界の様子を手短にかつ面白おかしく伝える冒頭からスタートする、ヨーロッパへ訪れたピーターを取り巻くコメディチックな青春ドラマ・パートも秀逸だ。人種性別宗教多種多様な生徒が所属するクラブの修学旅行風景は実に楽しそうだし、気の置けない親友ネッドとの相変わらずのコンビぶりや、MJとのひどく不器用でもどかしいけれども誠実なロマンスは、観ているとなんとも幸福な気持ちになる。また、ある種の父親代わりだったトニー・スタークから贈られた超高性能A.I.バイス付きサングラス「イーディス(E.D.I.T.H.)」を巡る顛末は、まるで藤子・F・不二雄の『ドラえもん』に登場する小噺のような毒っ気のある可笑しみに満ちている。

こういったささやかな幸せに溢れた日常描写に、本作がヒーロー映画であるがゆえにピーターが巻き込まれてゆく様々なトラブルや葛藤、そして彼なりのヒーローとしての成長を盛り込んだ脚本のバランス感覚も適確だ。とくに本作のヴィランの持つ、その虚構(フェイク)性こそが真の悪であるとする設定は、まことに今日(こんにち)の世相を反映しているようで興味深いし、それによって寄って立つ現実感を喪失するピーターの恐怖は、想像するだに恐ろしい*1。また、シリーズ前作『ホームカミング』(ジョン・ワッツ監督、2017)に引き続いて描かれた、身に余るほど強大な力との付き合い方を、ピーターが自分なりに模索してゆく姿は──彼を見つめる、かつてスタークの右腕だったハッピーの優しい視線も相まって──感動的だ。

その他、そのクリフハンガーはズルいとか、開いた口が塞がらなかった驚愕のオチなど色々あるが、笑いとスリルと感動に満ちた本作は、久々に心から「楽しい!」と思える作品で、たいへん満足だ。


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◆貧しくとも心優しい青年アラジンが魔法のランプを手に入れたことで辿る冒険を描いた “ディズニー・ルネサンス” 期の傑作長編アニメーションを実写リメイクした『アラジン』ガイ・リッチー監督、2019)は、いろいろアップデートされている──否、しようとしたのはわかる──けれども、いささか分の悪い勝負だったのかしらん、といった残念さが目立つ作品だった。

たしかに手描きアニメでは不可能だったろう絢爛豪華で複雑な模様を施された登場人物の衣装や宮殿といったデザインや、メインの舞台となるアグラバーの雑多な町並みは見応えがあるし、パルクールを用いた上へ下への追走シーンや、現在のVFX技術ならではの魔法の絨毯の質感や小猿アブーら動物の実在感は見事なものだ。とくに、本作において、よりいっそう強い独立心とリーダーシップ性を付加された王女ジャスミンのキャラクターは、実に今日的な改変として素晴らしい点だろう*2

そういった具合に、本作はオリジナル版『アラジン』(ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督、1992)に今日としては不足である部分を改良しようとはしている。しかしながら、本作ではむしろオリジナル版にあった美点を削いでしまった点のほうが多い。

とくに残念だったのは脚本の練り不足。本作ではオリジナルの脚本にかなり手を入れており、物語の展開の仕方や見せ方、そして見せ場の数が大きく異なっている。前述のジャスミンのキャラクター性の変化もそのひとつであるが、それらの要素それぞれは悪くないものの組込み方がかなり雑で十全には活かしきれておらず、取ってつけた感が甚だしい。また、同時に物語の展開のさせ方──たとえば、開幕直後に「彼」を出すのはいかがなものかと思うし、オープニング・クレジットのおざなり感も非常に残念*3──や、キャラクター描写などが呑み込みづらくなっている点は否めず、キャラクターによっては描写がハッキリ薄くなっている人物すらある。空間や世界観もむしろ狭まった感もあって、見せ場の「ホール・ニュー・ワールド」のシーンですら、中途半端に画面が暗く色彩にも欠くので、いまいち解放感に乏しいのだ。

これはなんとなれば、キャラクターの描写を含めた脚本とプロット構成の無駄がなくテンポのよい適確な展開、空間的拡がりの見せ方からアクションやミュージカル・シーンの構築まで、ハッキリ言ってオリジナル版が完璧だというほかない。そういう意味では、本作の出た勝負は分が悪かったのかもしれない。本作の上映時間が128分なのに対してオリジナル版は90分だという点からも、推して知るべきだろう。それほどまでに本作はマゴついているのだ。

過去作とまったく同じものを作ってくれなんていうつもりは毛頭ないのだけれど、それでもオリジナル版の様々な美点を殺さずにより現代的にアップデートする方法は、まだまだあったはず。アラジンが空気を読めない言動を重ねてしまって一同が──カメラも含めて──引きまくる、といったリッチー監督らしいギャグ・シーンなど、好きなところもけっこうあっただけに、いささか残念だ。


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◆かつての持ち主アンディにはいちばんのお気に入りだったウッディが新たな持ち主である少女ボニーになかなか遊んでもらえないなか、彼女は先割れスプーンで自作した「おもちゃ」をフォーキーと呼んで大切にしはじめるトイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)は、前作『3』(リー・アンクリッチ監督、2010)において、たしかにウッディとアンディの物語は終わったが、語られるべき、そして救われるべき魂はここにまだあったのだと思わされる見事な作品だった。

なにをおいてもまず驚かされるのが、第1作『トイ・ストーリー』(ジョン・ラセター監督、1995)から4半世紀余りを経て進化・熟成されたCG技術によって徹底して作り込まれた画面だ。ウッディやバズたち御馴染みのおもちゃの面々を形作るの原材料それぞれ──ゴムやプラスティック、編み込まれた布地につややかな陶器などなど──に異なるテクスチャの描き分けはもちろんのこと、揺れる草むらの波、夜露に濡れるアスファルト、降りしきる雨水に照り返す家の灯りといった自然──しかも、おもちゃの視点から映すので、よりいっそう大きく作る必要がある──の情景にいたるまで、微細にかつリアリスティックな──しかし、あくまでもCGアニメーション調であることにもこだわった──設定が施された質感表現の機微には舌を巻く。

そして、この映像技術の進歩あってこその光/照明演出の機微にもぜひ注目したい。もっとも観客の目を引くであろう、ウッディたちが迷い込む骨董品店「セカンド・チャンス*4」に飾られている色とりどりの照明が、窓から差し込む夕陽に反射して万華鏡のように店内を彩るシーンの美しさ──話題が重複するが、『2』(ジョン・ラセター監督、2000)以来の登場となった本作の実質的なヒロインである陶器人形ボー・ピープの肌の表面で滑らかに反射する光による質感表現も素晴らしい──には嘆息したし、そのほかにも、ちょっとした光源の移動や、むしろしっかりと暗闇に落とし込まれた陰影によって醸されるキャラクターたちの感情表現にもハッとさせられる。

また、ウッディが、彼の新たな持ち主となった少女ボニーの工作によって誕生したお気に入りの「おもちゃ」フォーキーや、たくましく自立したボー・ピープたちとの冒険や問答を経て辿る本作の物語も感動的だ。自分がこうだと思っていた自身の “役割” ──アンディからボニーに継承されたおもちゃになることや、その他のおもちゃのリーダーとしてふるまうこと──に無意識に固執するばかりにウッディが悩み苦しむ姿には胸が痛んだし、それがすでに自分のものではないと気づいたときに見せる──そして、自分の “中身” を差し出すことを決意したときの──彼の表情が語る言語化し得ない感情のうねり、そしてラストで彼が選び取った次の人生に向けてみせる晴れやかな、しかしすこしのせつなさを伴った表情を見たときには非常に胸を打たれる*5

本作の特報──アンディの部屋に施された青空の壁紙を背景に、輪になって踊るウッディたちをスローモーションで映した──において使用されたジュディ・コリンズ歌唱の楽曲「青春の光と影」(Joni Mitchell, Both Sides, Now, 1967)が、最恐ホラー『ヘレディタリー/継承』(アリ・アスター監督、2018)の主題歌だったことが一部で話題になったけれど*6、たしかに本作は人生におけるひとつの “役割” が終わったときに訪れるべき継承と、同時にそこからの脱却とを描き切った──しかもエンタテインメントとしての間口は相当広い──力作だ*7


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【ソフト】
◆米ソ緊張の果てに勃発した核戦争に巻き込まれた英国と、その後を描くBBC制作のTVM『SF核戦争後の未来・スレッズ』ミック・ジャクソン監督、1984)は、時折『第七の封印』(イングマール・ベルイマン監督、1957)を思わせる寒々しいカメラ・ワークや、フッテージ・フィルムと特殊撮影を用いたドキュメンタリックで冷酷なまでに淡々とした編集によって、ささやかな日常が脆くも崩れ去った挙句に地獄が訪れる様を映し出す、とても怖ろしい恐ろしい、背筋が心底ゾッとする見事な作品だ。米ソ冷戦が終わったからではなく、つねに──いまだからこそ、なお──我々が陥りかねない事態を思い起こさせてくれる。必見。


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*1:それは現実社会の鏡像であると同時に、ピーターは映画のなかにヒーローを求めてやまないわれわれ観客の似姿でもあるだろう。本作はそこかしこに、物語やフィクションについて鋭い視点を投げかけている。

*2:ただ、どういうわけだか本作において彼女の運動能力はオミットされている。また、本作の見せ方だと、ジャスミンがアラジンと出会うきっかけが、オリジナル版での突発的な家出というよりも、彼女は日常的に宮殿から抜け出して町を見て回って──次期国王としてより善い治世をおこなうための視察をして──いるようにしか映らず、となれば後半の「わたしは世界を本でしか知らない」という旨の台詞が矛盾して聞こえてしまってはいまいか。彼女のために書き下ろされた新曲「スピーチレス~心の声」が素晴らしかっただけに、非常にもったいない。

*3:商船の船長らしきウィル・スミスが自分の子供たちに「昔々……」という具合に挿入歌「アラビアン・ナイト」を歌い始め、その歌詞の合間合間にアグラバーの昼間の町並みと、既にどういうわけだか雑踏に紛れているアラジンとジャスミン、そして秘密の洞窟がいきなり「ダイヤの原石をーっ!」と叫んで見ず知らずの盗人をバクッとやる様子を擬似的な1カット処理風に映すのだが、文脈がまったくないので恐ろしくあやふやな印象しか与えない。オリジナル版の、当時としては最先端のCG技術を用いつつ、夜のアクラバーの路地をカメラが──いまから思えば、完全にPOV風に──奥へ奥へと入ってゆき、「アラビアン・ナイト」のサビの部分で画面いっぱいに美しい宮殿が映され、やがて曲の静まりとともに裏通りの屋台に行き着き、そこの親父が観客に向かって行商を始めつつ、魔法のランプのいわれを話し始めて本筋がスタートするという、この流れるように観客をまずは架空の国アグラバーへ、そして次に昔話の世界へと誘うオープニングとは比べる由もない。

*4:ウッディたちがここで出会うこととな本作の重要キャラクターのひとりギャビー・ギャビーの、取り巻きを従えつつ醸す “オタサーの姫” 感と、同時に永年持ち主を求めて暮らすいじらしさが最高の按配だ。取り巻きベンソンの最後の活躍にも涙。

*5:もちろんバズや、CMとは違ったばかりに持ち主から捨てられたデューク・カブーン──彼と一緒にラストのピクサー・ロゴに登場する白いコンバット・カールの顛末にも涙──、縁日の景品となっているぬいぐるみタッキー&バニーたちを巡る物語の面白おかしさと、その作劇の周到さも見逃せない。

*6:予告編で使用されたザ・ビーチ・ボーイズ「神のみぞ知る」(Tony Asher & Brian Wilson, God Only Knows, 1966)もまた、本作を観てみるとなるほどな選曲だ。

*7:ピクサー映画恒例である「ピザ・プラネット」などのイースター・エッグにはほとんど気づけなかったのだけれど、ピクサー作品ではもっとも好きな『カールじいさんの空飛ぶ家』(ピート・ドクター監督、2009)に登場する「エリー・バッジ」が映ったときにはグッときました。

2019 6月感想(短)まとめ

2019年6月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督、2019)……別記事参照


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ジョージ・W・ブッシュ政権下で副大統領を務めたディック・チェイニーの半生を描くバイス(アダム・マッケイ監督、2018)は、大増量の肉体改造を経てチェイニーを演じた上げたクリスチャン・ベールたち俳優陣の熱演合戦も素晴らしい、たいへん面白く、そしてソラ恐ろしい作品だった。

たとえば本作の後半において触れられる「9.11同時多発テロ」発生当時、僕はまだ一介のハナタレ小僧であって、世界の混乱ぶりこそ記憶しているが、ブッシュ政権の水面下において本作で語られるような政略の数々が繰り広げられていたとは──もちろん、それ以前のチェイニーの動向も含めて──露知らず、たいへん勉強になった。劇中すなわち事実、王にも等しい権力を得たチェイニーと側近たち為政者の言葉ひとつによって、唐突に、虚をつくようなタイミングで差し挟まれる名もなき人々に死が訪れる様は、痛ましく、恐ろしい。そして、チェイニーたちがいかにして選挙や政治活動によって地位を得ていったかも。

しかし、本作の面白いところは、いわゆるシリアスなドラマ一辺倒にはせず、どこかコメディ・タッチであるところだ。謎の語り部を配して各所に解説──ときに露悪的に、ときに自虐的に──を入れつつ、ハッとさせられるようなメタフィクション的な過去の再構築(=編集)をしてみせる本作はどこかブラックな笑いに満ち、そして観客が登場人物たちへ感情移入することを阻んで常にスクリーンとの距離を保たせることで、どちらかといえばドキュメンタリー的な効果を醸している。

長時間労働と低賃金化が進んだことによって、たとえ余暇でも人々は政治について面倒で考えなくなる、という本作冒頭のナレーションはまさしく現代日本にも大いに当てはまることであり、なぜ本作がいま作られ、そして我々が観なければならないのかを端的に表しているだろう。本作のエンド・クレジットで流れるあの曲*1、そしてラストもラストに付されたイジワルだが実に適確なオチ*2を観るにつけ、無知と無関心は本当にいかんなと、改めて襟元を正させられる思いだ。必見。


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◆人と関わることが不器用な少女・琉花が、父の働く水族館でジュゴンに育てられたという不思議な兄弟・海と空に出会ったことで世界の秘密に触れてゆく海獣の子供(渡辺歩監督、2019)は、五十嵐大介による同名漫画(全5巻、小学館、2006-2011)を美しい映像で手堅くまとめ上げた1作だった。

原作の荒々しくも精緻な筆致をうまく作画に落とし込んだキャラクター・アニメーションと波打つ海面といったエフェクト・アニメーションの数々、そしてそれらを包む隅々まで描かれた背景美術の実在感が見事で、画面を彩る夏の晴れ渡った青空から星のきらめく夜空、台風のくすんだ雨雲、夏の陽光に照り返す木々の緑、珊瑚が彩る浅瀬から光の届かない深海まで、本作の色彩設定もまた非常に美しい。さらに、それらの素材をCG技術などを駆使して極めて自然に組み合わせて映される、キャラクターの背中を追って画面の奥へ奥へと進む長いカットといった、立体的で奥行き感のあるダイナミックな移動カットは観ていてものすごく快感がある。

また、本作のクライマックスにおいて『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)の「スターゲイト」シーンもかくやに展開される一連の「誕生祭」シーンは間違いなく本作の白眉のひとつ。なんとも知れぬ極彩色のイメージの奔流が堰を切ったかのように次々と途切れることなく押し寄せるその圧倒的な祝祭感は、幻想的でサイケデリックで繊細で荘厳な、いうなれば曼荼羅の群れをスクリーン越しに浴びているかのような、えもいわれぬ映画体験を観客に与えてくれることだろう。さすがは『マインド・ゲーム』(湯浅政明監督、2004)を作り出した STUDIO4℃ の面目躍如といった圧巻さである。

物語に関しては、原作にあった世界創世神話にまつわる──諸星大二郎の漫画を思わせるような──伝奇的要素をかなりバッサリ切り、物語の辿る筋道を大きくアレンジされているものの、原作のエッセンスがうまく抽出されており、なかなかよかった。琉花視点のストーリーに極力絞り込むことで、パンスペルミア*3をモティーフとしたSF的壮大さのなかで描かれた思春期の少女の成長/性徴という要素をよりよく引き出している。

ただ欲をいえば、琉花のモノローグや、その他キャラクターによる説明台詞をもっと切ったほうが、本作においてはむしろ直感的な──即座に理解し得ないが、しかし圧倒的な、それこそキューブリックいうところの「映画のマジック」を全身に浴びるような──魅力をより得られたのではないだろうか。無論、モノローグがあるのは原作どおりだったり、オミットした要素を補おうとしたところもあるのだろうけれど、本作では蛇足だったり、かえって混乱を来たしている感が否めない。前述のとおり本作の持つ映像の説得力はかなりのもの*4なので、もっとストイックに言葉少なく物語を語る演出も可能だったろうし、「一番大切な約束は言葉では交わさない」という本作の惹句にもなった台詞とも合致したのじゃないかしらん。

とはいえ、映像の美しさと力強さは折り紙つきなので、ご興味があればぜひ劇場で体験したい。


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◆新人エージェントのMが、初任務としてMIBロンドン支局の伝説的エージェントであるHと組んで地球存亡の危機に挑むメン・イン・ブラック: インターナショナル』F・ゲイリー・グレイ監督、2019)は、面白かったのだけど、コレといった印象が薄い作品だった。

本作の魅力は、これまでの世界観をそのままに、新たに主人公となったテッサ・トンプソン演じるエージェントMと、クリム・ヘムズワーズ演じるエージェントHとが奏でる掛け合いのアンサンブルだ。『マイティ・ソー バトル・ロイヤル』(タイカ・ワイティティ監督、2017)などマーベル・シネマティック・ユニバースMCU)作品に続く共演作となった本作でもまた、ふたりの息の合った絶妙なコンビネーションを堪能できる。また、本作冒頭においてリーアム・ニーソンが開口一番に言う台詞*5にも大いに笑った。

ただ、本作の大きな難点は物語が有機的に繋がっていないことだ。事件やアクション、ツイストは次々に起こるものの、それぞれがその場その場でアッサリと流れていってしまう。そもそも本作の敵が、その目的達成のためになぜそんな回りくどい方法を取ろうとするのかがめっぽう呑み込みづらく、たしかに冒頭とクライマックスで対になるようなミラー・イメージのショットを入れ込んだりしているものの、どうもサスペンスのためのサスペンスにしかなっていないように感じられてならない。

本作の制作段階において、監督と製作側が揉めていたという報道もあり、そのあたりが影響したのだろうか。脚本もかなり変わったらしい。最終的には監督監修と製作側監修の2種類の編集版あったという本作で、実際に採用されたのは後者だということなので、監督監修版もいずれはなんらかの形で観てみたいものだ。


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◆ボスから1年間の不殺生を命ぜられた “ファブル” の異名を持つ殺し屋が大阪に移住して普通の生活を送ろうとするもトラブルに巻き込まれる同名漫画(南勝久講談社、2014-)を映画化したザ・ファブル江口カン監督、2019)は、岡田准一演じる主人公ファブルこと佐藤明(仮名)のアクションや体技の見事さと、彼が一般常識を欠いていることで生まれるカルチャーギャップ・コメディ要素が融合した、なかなか愉快な作品だった。

プロの殺し屋としてのファブルの活躍を描く冒頭のシークェンスで見せる無駄のない動きのキレは素晴らしかったし、ゴミ処理場という空間を活かしたクライマックスの攻防での立体的なアクション構築も楽しく、敵に致命傷を与えらない縛りがあるために倒しても倒しても敵が起き上がってくる様は、まるでゾンビ映画の様相で返って新鮮だ。『シャーロック・ホームズ』(ガイ・リッチー監督、2009)を思わせるファブルの主観──テロップ芸は蛇足*6ではあるが──も面白い。

惜しむらくは、本作の音楽にちっとも一貫性がないこと──山下毅雄チャーリー・コーセイへのオマージュ曲には悪い意味で笑ったけれど──と、上映時間が123分と若干長いことだ。とくにドラマ部分に関して1ショットの長さや編集がチンタラと間延びしている感が否めない──山本美月のヘン顔にそんな尺要らないだろう、とか──し、クライマックスのアクションにしても少々ファブル以外に焦点を当てすぎな嫌いがある。あと20分ほど上映時間をタイトに刈り込んだなら、こういったアクション・コメディ映画として、よりいっそうの完成度を保てなのではないかしらん。


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【ソフト】
◆不勉強ながら観ていなかった、活動家としてのジョン・レノンに焦点を当てたドキュメンタリー映画『PEACE BED アメリカVSジョン・レノン(デヴィッド・リーフ、ジョン・シャインフェルド監督、2006)は、学ぶべき歴史として面白かったし、なにより今日(こんにち)を生きる身として、とても勉強になった。Give Peace a Chance!


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*1:ウエスト・サイド物語』(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズ監督、1961)の劇中歌のひとつ「アメリカ」。

*2:劇中、幾たびか登場した民間人を呼んでのフォーラムで巻き起こる「なにやら空気がおかしいと思ったら、この映画リベラルに媚売ってるんじゃないか?」という台詞に端を発する喧嘩と、そんななか政治無関心デース ヘ(゚∀゚*)ノ 代表みたいな人物が最後に隣の席の人物に言い放つ「次の『ワイルド・スピード』楽しみ」という台詞。

*3:スヴァンテ・アレニウスらが提唱した生命の起源に関する仮説のひとつで、地球生命の起源は地球ではなく、他の天体で発生した微生物の萌芽が隕石などによって到来した──喩えるなら、島から島へと種子を鳥が運ぶように──とするもの。これをモティーフにした他の作品では、たとえば『ガメラ2 レギオン襲来』(金子修介監督、1996)や『プロメテウス』(リドリー・スコット監督、2012)が挙げられる。本作では、この宇宙規模の “渡り” とそれによる新たな生命(=生態系/宇宙)の誕生がある一定のサイクルで連綿と行われており、現代人はこれを忘れてしまっている──かつて古代人は知っていたが、いまは伝承と遺物にその名残を残すばかり──がクジラたち海洋哺乳類と魚類は覚えている、という世界観に立脚している。

*4:また、寄せては返す波を思い起こさせるような、ミニマルな──スティーヴ・ライヒのパルス的──技法を用いた久石譲のスコアもよかった。

*5:「まったくパリは嫌いだ」という台詞は、明らかにニーソン主演作『96時間』(ピエール・モレル監督、2008)をなぞらえてのものだろう。

*6:後半一切出てこないし、そうであるならば、なぜタイトル・デザインにまでこれを使用したのか。

『ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』感想(一部ネタバレ有り)

ゴジラ キンブ・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督、2019)……サンフランシスコを舞台に繰り広げられたゴジラとムートーの激戦から5年後、怪獣たちの生態を極秘裏に調査・研究するする未確認生物特務機関 “モナーク” に所属するエマ・ラッセル博士は、怪獣たちとの意思疎通を可能にする音声合成装置 “オルカ” の開発に成功する。しかし、その類稀れな性能に目をつけたアラン・ジョナ率いる環境テロリストの一団によって、“オルカ” ともども彼女は娘のマディソンとともに拉致されてしまう。

事態を重く見たモナークの芹沢猪四郎博士らは、現在は別居中であるエマの夫マークに協力を要請し、彼女たちの行方を追うのだった。そんななかアランは、モナークがこれまで隠し続けてきた究極の怪獣 “モンスター・ゼロ” を解き放とうと、南極へ向けて兵を進めていた……。

現代に蘇った怪獣王ゴジラが、世界各地で復活を遂げたラドンモスラ、そしてキングギドラとの熾烈な闘いを繰り広げるハリウッド・リブート最新作の本作は、第2作目*1にして大胆なシフト・チェンジを果たした、良くも悪くも快/怪作だった。


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前作『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督、2014)が初代『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)に徹底したオマージュを捧げたダーク──画面の明度も含めて*2──でリアリスティックな作風だったのに対し、本作はむしろ’60年代の「ゴジラ」シリーズ──とくに『三大怪獣 地球最大の決戦』(本多猪四郎監督、1964)から『怪獣総進撃』(本多猪四郎監督、1968)までの諸作──を思わせる明るいエンタメ路線、いうなれば “怪獣プロレス” 路線へと大きく舵を切っているのが特徴だ。

三つ巴、四つ巴の闘いに発展してゆく本作の作劇はもちろんのこと、たとえば、火山の頂上で咆哮を上げるギドラを手前の十字架をナメながら映すショット*3は『三大怪獣 地球最大の決戦』における鳥居越しに猛威を揮うキングギドラの姿を映したショットの再現だろうし、キングギドラのコードネーム「モンスター・ゼロ」は『怪獣大戦争』(本多猪四郎監督、1965)からの引用であり、ゴジラがある種のヒーローとなるキャラクター設定や、追加された咆哮のサウンド・エフェクトのバリエーション──すこし声音が高い──も、この頃のゴジラの鳴き声を思い起こさせる。また冒頭に映るサンフランシスコの被災風景が、昨今の精緻きわまるVFX的テイストではなく、まるでミニチュア特撮風味──いうなれば、初代『ゴジラ』における被災した東京のショットのよう──に見えるのもニクい演出だ。

さらには、南極でゴジラとギドラがはじめて対峙する様を横から捉えたショットには『ゴジラvsキングギドラ』(大森一樹監督、1991)からの引用、クライマックスでは『ゴジラvsメカゴジラ』(大河原孝夫監督、1993)を思い起こさせる展開もあったりと、いわゆる「平成シリーズ」(1984-1995)へのオマージュをまぶしつつ、予告編にもチラリと登場した赤いバーニング・ゴジラのデザインはゲーム版『Godzilla: Unleashed』(アタリ、2007、日本未発売)を彷彿とさせるなど、これまでゴジラ史上において連綿と積み上げられてきた様々な要素を組み込んでの大盤振る舞い。本当にゴジラが好きでたまらない人の手で作られた作品なのだと、ひしひしと感じられる*4 *5


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そんな本作の魅力といえば、なんといっても大幅に増えたゴジラたち怪獣の見せ場に継ぐ見せ場の連続だ。前作がスピルバーグ的演出を随所に用いながら、じっくりと手順を踏んで、小出しに小出しに怪獣を登場させていたのに対し、本作では冒頭から目まぐるしく怪獣絵巻が展開する。

予告編にも登場した、回転飛行をしながら翼で戦闘機を叩き落とすラドンや、ゴジラの熱戦を首だけで避けながら引力光線を撃ち返すキングギドラといった、今日(こんにち)の──かつての操演では不可能だった──CG技術ならではの怪獣アクションの数々はとても新鮮で、まるで宗教絵画のような荘厳な色彩設計の施された画面はため息がもれそうなほど美しい*6

そして、徹底した怪獣たちの巨大感*7と重量感を醸しながらも勢いのあるスピード感を失わず、かつ同時に、まさにいま怪獣の足許に居合わせてしまった主人公たちが演じるドラマや動向とをシームレスかつ矢継ぎ早に、それでいて観客に全体の位置関係や展開をわかりやすく繋いでゆくカメラ・ワークや編集、アクションの構築も見事なものだ。

また、むしろ人間ドラマなんて添え物だぜ、といわんばかりに必要最低限の描写だけに留めてサクサク進む作劇テンポも、いかにも’60年代の「ゴジラ」シリーズといった感じで、たいへんよろしい。こんな具合に、スクリーンのなかで大怪獣たちが所狭しとアスファルトを踏み抜き、ビルを薙ぎ倒し、兵器を爆発四散させながら全世界を更地にしてゆく様は、まるでこの世の天国にいるかのようだった。


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ただいっぽうでハッキリとした不満点もある。もちろん、作劇のテンポのよさと引き換えに、登場人物たちの誰も彼もが「こんな両親なら、俺でも家出するよ」という台詞が端的に表しているような狂人めいた言動ばかり取っていたり*8、人間側の敵対者についての結末が “本編” では明示されない*9のは気持ちが悪かったり、カイル・クーパーの手によるエンド・クレジットにて語られるオチも噴飯もの*10だったり、いくらなんでも「平成ガメラ3部作」(金子修介監督、1995-1999)*11と──知ってか知らずか──設定が被り過ぎではないかという疑念は拭い切れなかったりするのだが、まあよい。

そんなことが些細なことと思えるほどの不満点というのは、渡辺謙演じる芹沢博士のキャラクター設定の変貌ぶりというか、とくにクライマックス手前で描かれる彼の顛末のマズさだ。これには、どうしたって首を傾げざるを得ない。喩えるならば、『続・猿の惑星』(テッド・ポスト監督、1970)に登場するミュータントたちに匹敵するマズさである。


どういうことか。


【以下、核心部のネタバレにつきご注意!】
本編中盤で展開されるギドラとの闘い、そして米軍の試作兵器「オキシジェン・デストロイヤー」──この名称は、もちろん初代『ゴジラ』にて芹沢大助博士が開発し、ゴジラ(と自ら)を屠ることになる水中酸素破壊剤からの引用──による攻撃によって衰弱したゴジラを復活させるため、芹沢猪四郎博士は自らの生命と引き換えにゴジラ(療養中)のそばで核弾頭を爆発させる……。

芹沢が下したこの決断やふるまいを、初代『ゴジラ』における芹沢博士と重ねつつ、彼自身には直接責任のない罪をすべて背負い込むことで人類の贖罪を──自然の生んだ “神” たるゴジラに許しを請うことで──果たしたイエス・キリストの受難として読み解く指摘もあって、なるほど作劇上の仕掛けとしてはたしかにそのとおり*12なのだけれど、しかし本作のように核兵器使ってしまっては本末転倒ではないか。

これでは、本来ゴジラ映画が持ってきた反核の精神ではなく、むしろ核兵器原水爆)賛美として、いびつな機能を果てしてはいまいか。初代『ゴジラ』における芹沢博士は、ゴジラ原水爆以上の脅威になりかねない「オキシジェン・デストロイヤー」──そしてもちろん核兵器──を今後ふたたび人類に使わせないために自らゴジラとともに命運を共にしたのであって、その意図は、まるでカンフル剤のように核兵器を使用した本作とはまったく真逆である。これでは、原爆を神の武器、死の灰を恵みの象徴として崇める『続・猿の惑星』のミュータントたち*13となんら変わりはない*14

むしろ、あの場面で人類が直面すべきは、それがなんであれ核の使用などといった人間のチンケな思惑なんぞ露ほども通じない自然の神性であったろうし、あるいは核をそんな安易に使用しない方法を模索するべきではなかったのか。前作にピーター・ブラッドショーが当時寄せた「日本のゴジラに込められていた反核の風刺が、この映画では滑稽なほど弱まっている」という批判*15は、むしろ本作にこそ当てはまるかもしれない*16


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といいつつ、こういった奇妙な転向もまた、かつて「ゴジラ」シリーズが辿ってきた道のりを正確にオマージュしてみせた、といえなくもないのでむつかしいところだ*17。あるいは、今後『ゴジラ対ヘドラ』(坂野義光*18監督、1971)にあったような暗い揺り返しがあるのやもしれない。

ただ、本作を彩る画と、その見せ方の巧みさは掛け値なしに最高に継ぐ最高の連続*19なので、王の威光を拝みにぜひとも劇場に出かけよう。

Long live the KING!


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【おまけ: 備忘録】
GODZILLA ゴジラギャレス・エドワーズ監督、2014)について……『GODZILLA ゴジラ』(2D字幕版)感想 - つらつら津々浦々(blog)

シン・ゴジラ庵野秀明総監督、2016)について……『シン・ゴジラ』感想 - つらつら津々浦々(blog)

キングコング: 髑髏島の巨神』ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督、2017)について……2017年鑑賞映画 感想リスト/11-20 - つらつら津々浦々(blog)

GODZILLA 星を喰う者静野孔文瀬下寛之監督、2018)とシリーズについて……2018 10-12月感想(短)まとめ - つらつら津々浦々(blog)


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*1:「モンスターバース」としては『キングコング: 髑髏島の巨神』(ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督、2017)についで第3作目となる。

*2:かなり暗いため、おそらくではあるが日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」で地上波放映された際には、画面が明るく調整されさえしていた覚えがある。

*3:本作において、ゴジラが生粋の「神」なら、ギドラは「偽りの王」と呼ばれている。そんなギドラを十字架と併置させているのは興味深い。

*4:web『クランクイン!』内「監督抜てきは『ゴジラへの愛の深さが決め手』 夢中になった少年時代、夢が現実に」(https://www.crank-in.net/interview/65358/1)を参照、2019年6月6日閲覧。

*5:また、まるで『AKIRA』(大友克洋監督、1988)のサントラ(山城祥二作曲、芸能山城組演)もかくやに般若心経やらソイヤ! ソイヤ! と合の手の入るベアー・マクレアリーの音楽と、既存曲アレンジも最高だった。

*6:監督によれば、レンブラントの絵画や宗教絵画などにおける光の描き方を参考に、古代の神々が闘っているようにシーンを形成したという。Web『THE RIVER』内、稲垣貴俊「『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』マイケル・ドハティの怪獣観 ─ 宗教画や聖書、自然現象をモチーフに製作」(https://theriver.jp/godzilla2-photo)を参照。2019年6月5日閲覧。

*7:本作は、前述のギドラのショットをはじめとしたナメのショット──たとえば、いちばん手前に人間、その向こうに折れた鉄塔などの瓦礫や建造物、そのさらに奥にスクリーンからはみ出しそうな怪獣が立つ、といった──の使い方がベラボウに巧い。

*8:にも関わらず恐ろしく説得力を付随させる役者陣の演技──とくにそれぞれがそれぞれの思いを胸に怪獣を見上げる表情の機微──は、みな素晴らしい。それだけでもグッとくるものがある。

*9:ラストのクリフハンガーに繋げるためとはいえ、急にいなくなるのはどうだろう。

*10:風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督、1984)の腐海王蟲かと思った。

*11:稀代の傑作、観よう。また、余談も余談だが、アランが片手で顔を拭うよう険しい表情を一瞬隠した後に見える表情が柔和になる──それに対してマディは中指で目尻を掻いていた──けれど、これってまさか大魔神オマージュなのかしらん(細野晴臣がよくやってますね)。

*12:ドハティ監督が意図を語るインタビューも興味深い。Web『THE RIVER』内、稲垣貴俊「【ネタバレ】『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 芹沢博士の◯◯の意味、ラストシーン解説 ─ マイケル・ドハティ監督インタビュー」(https://theriver.jp/godzilla2-interview-spoiler/)を参照。2019年6月5日閲覧。

*13:余談だが、この作品でミュータントたちが崇める原爆の製造ナンバーは「ΑΩ(アルファ・オメガ)」であり、これは新約聖書ヨハネの黙示録」(1章8節、21章6節、22章13節) に登場する主の言葉「私はアルファであり、オメガである」──つまり、神ゆえにすべてを司る、というような意味──に由来する。彼らがその「神」を崇めて礼拝堂で歌う賛美歌は、ソラ恐ろしい歌詞の連なりをパイプオルガンとコーラスによる荘厳なアレンジでまとめ上げた、無気味な名曲だ。

*14:それに、あの様子だと明らかにゴジラの寝床ないし祭壇──深海の地底空洞内に残された、作中明言はないがアトランティス(いや、まさかシートピアか?)と思しき古代文明都市の遺跡にあるパワー・スポット──を破壊しているのであって、かえってゴジラの逆鱗に触れるのじゃないかしらん。

*15:web『NewSphere』内「『ゴジラ』好スタートも、欧米メディアは酷評“日本版の風刺が滑稽なほど弱まっている”」(http://newsphere.jp/entertainment/20140519-2/)、および web『The Guardian』内「Godzilla review – big, scary monsters but no bite in satire-stripped remake」(http://www.theguardian.com/film/2014/may/15/godzilla-review-scary-monsters-boring-humans)を参照。ともに2019年6月5日閲覧。

*16:前作『GODZILLA ゴジラ』では、核兵器を使用した作戦が滑稽なほど一事が万事うまく運ばないという展開を辿ることで、ある一線は越えずに踏みとどまっていたと考えるものだ。

*17:ゴジラvsキングギドラ』(大森一樹監督、1991)にも似たような展開がある。

*18:彼と、ゴジラの初代スーツアクターである中島春雄に捧げられた献辞に涙。

*19:今夏、リメイク版が公開される『ライオン・キング』(ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ監督、1994)もかくやの、相当ブッ飛んだシーンもあるけれどね。

2019 4月- 5月感想(短)まとめ

2019年4月から5月にかけて、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆サーカスに生まれ落ちた耳の大きな赤ちゃんゾウの冒険を描くディズニー不朽の名作『ダンボ』(ベン・シャープスティーン監督、1941)を半世紀以上の年月を経て実写映画化した『ダンボ』ティム・バートン監督、2019)は、予告編を観たときに感じた第1印象──バートンが監督だから画は凄かろうが、しかし人間の登場人物メインで脚本がアーレン・クルーガーという点においては不安しかない──が残念ながら的中した1作となってしまった。

映像は──いささかカメラ・ワークに難ありだったが──たしかに凄い。舞台となった1919年の風俗を表す様々なプロダクション・デザインは素晴らしい。色鮮やかできらびやかなサーカス団員たちの衣装、移動サーカス団のテントから備品、後半に登場する超巨大遊園地に至るまでの美術セットの数々はどれを取っても見応えがある。また、巨費を投じて描かれたであろうVFX映像の実在感も見事だ。バートン映画らしい怪奇趣味も楽しめる。

しかし、いくらなんでも脚本が杜撰過ぎる。本作の、ダンボが空を飛べるようになる展開や敵対者を前半と後半で別人を出してみたりといった話運びはあまりに呑み込みづらく、そのそれぞれがその場しのぎにしかなりえていないし、作品全体のリアリティの線引きもグラグラだ。なによりの問題は、物語の主軸がダンボから、彼のいるサーカス団の家族へとズラされた点だ。この大幅なアレンジによって、原作で数々の寓意のうちに描かれたダンボの力強い飛翔──フリークが、その弱点を強みに逆転し、世界側の彼に対する見方を変える──は単なる背景へと遠ざかり、もはや彼は人間にとって都合のよいポケモンのようになってしまってはいまいか。

もちろん、原作を単になぞるだけでは意味がないという作り手たちの意図もわかるし、現在において“そのまんま”作り直すことはポリティカリー・コレクトの観点から困難だという事情もあったろう。だが、いくらなんでも本作は、原作からアレコレ記号的にモティーフを持って来て並び立てただけの見かけだましの1本にしかなっていない。せめて、ダンボと姉弟にもっと集中して描くといった方法を取っていれば、ここまで原作のエッセンスから逸脱することは防げたのではないか。残念。


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ニール・アームストロングが人類史上はじめて月面を歩くまでの9年間を、彼の知られざる心の葛藤を軸に描くファースト・マンデイミアン・チャゼル監督、2018)は、これまでになかなか類を見なかった宇宙船内の臨場感が堪能できる1作。

本作に登場する、アームストロングらが乗り込んだ幾種類かの宇宙船──ジェミニ8号やアポロ11号──のコックピットの狭さに改めて驚くことしきり。全面にあらゆる計器がところ狭しと組み込まれたなかにポツンと小さな窓があるだけの空間に、ほとんど身動きの出来ないよう座席に固定されたなかで複雑でかつ俊敏な判断を求められるアームストロングたちの姿と彼らが置かれた状況は、ほとんど彼らの主観ショットにも近いようなカメラ・ワークも相まって、まるで観ている自分自身もそこに座っているかのような息詰まる臨場感に溢れている。さらに、どこかでネジや板金がミシミシと軋む音響効果や、挙句にもやは一巻の終わりかというようなトラブルの顛末が、本作の閉所恐怖症的感覚をいやがおうにも加速させる。こういった宇宙演出は寡聞にして類を見ず、とても新鮮だ。

また、本作の映像の質感もおもしろい。本作では、日常パートが16mmフィルム、NASAでの訓練シーンが35mmフィルムで撮影されており、その銀粒子の質感を残した荒々しい画面は──編集段階での色調の調整もあったのだろう──まるで当時の映画ないしは記録映像を観ているかのような錯覚に陥ることもしばしば。併せて本作の見せ場のほとんどが、セットやミニチュアを主軸にした特撮(SFX)で撮影されていたり、中盤には劇中リアルタイムの宇宙SF映画2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)への大胆で微笑ましいようなオマージュがあったり、本編中を流れるジャスティン・ハーウィッツによる劇伴にテルミンの音色が使用されたりもしており、より1960年代的な宇宙観を垣間見ることができる。

そしてラスト、ついに月面に降り立ったアームストロングが目にする光景を捉えたIMAX 70mmの、それまでと打って変わって透き通るように美しい映像が、なぜアームストロングが幾度も幾度も死の危険を冒してまで月を目指したのかという本作の謎──ある種の「バラのつぼみ」──に答えてくれる*1

ことほど左様に本作は、ラスト・シーンの残すえもいわれぬ寂寥感をともなった解放的な余韻も含め、宇宙の果ても天地もない恐怖感とヒロインの再誕を描いた『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督、2013)と対を成す、宇宙映画の傑作だ。


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◆宿敵サノスの大願が成就したことによって仲間や愛する者を失ったヒーローたちが再び集結して逆襲に挑むアベンジャーズ/エンドゲーム』アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)は、マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)におけるひとつの区切りとして堂々たる大長編となっていた。

ある種の終末SF感が漂う前半のうすら寂しい雰囲気から、あれよあれよという間にツイストに次ぐツイストで観客をぐいぐい引きつけながら3時間の長尺を突っ走る本作ほど、なにをいってもすべからくネタバレになってしまう作品も珍しかろう。それほどまでに、本作の脚本は複雑であり、かつ同時にこれまでのMCU作品をすべて踏まえつつ全ヒーローに彼/彼女たちなりのドラマとアクションの見せ場もまたそれぞれ作り上げられ、かつきちんと機能しており、相変わらずルッソ兄弟らの交通整理力たるや凄まじい。

にも関わらず「短い」と思ってしまうところが、本作の惜しいところであろうか。恐らくは尺の都合であろうけれども、回収されるべき伏線や顛末が欠けていたり、明らかにシーンが飛んだように思える箇所も──実際、予告編だけに登場したシーンもチラホラ──あったりし、若干の消化不良感もなくはない。

とはいえ、シリーズの主軸としてMCUの世界観を支えてきたトニー・スターク/アイアンマンとスティーブ・ロジャーズ/キャプテン・アメリカを巡る物語*2 *3として、これ以上ないであろう結末を導き出した本作には、敬意を表したい。観れば必ずや、観続けてきてよかった──僕自身は多くの作品を後追いしたクチではあるけれど──と思わせてくれるに違いない。


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◆父の死を聞きつけて、人間とポケモンとが共生する大都会ライムシティを訪れた青年ティムが、そこでなぜか彼とだけ言葉を理解しあえるピカチュウと出会う『名探偵ピカチュウ(ロブ・レターマン監督、2019)は、実写の世界観と絶妙にマッチしたポケモンたちのデザインや質感、動きの機微が新鮮な画の楽しさを与えてくれる堅実なエンタテインメント作品だ。

なんといっても、フサフサした毛並みと時折りシワクチャになる──『グレムリン』(ジョー・ダンテ監督、1984)のギズモを思い起こすような──表情やちょこまかと動き回るアクションの数々がなんとも知れぬ可愛さと実在感を醸す「実写」のピカチュウを見事にデザインした時点で本作は勝ちであり、さらに彼を演じるライアン・レイノルズの軽妙な台詞回しと声のトーン*4とが相まって、なんとなれば、ずっと眺めていたくなるような、クセのある魅力に満ちている*5。ほかにも、思いのほかロンドンなのが微笑ましいライムシティの人いきれのなかや、スコットランドの山間の風景のなかで数多くの種類のポケモンたち──そのそれぞれの再デザインも素晴らしい──が普通にいるという画の新鮮な楽しさでグイグイ観客を画面に引き込んでくれるだろう。

もちろん大作映画らしくアクション・シーンにも力が入っており、天地がひっくり返るかのような中盤の森でのチェイス・シーンは見応えがあったし、ライムシティに樹立する高層ビル群の高低差を活かしたクライマックスの見せ場も、画面内いたるところにいるポケモンたち──文字どおり「目がテン」だったアイツ(ら)の気持ち悪さも含めて──という前述の新鮮さも相まって迫力満点。まあ脚本面では、プロットに若干の穴が2、3あったような気もするが、楽しいエンタメ作としては許容範囲内だろう。

とにもかくにも、ピカチュウの微細な毛並みとシワクチャ顔を、ぜひスクリーンで確認したい。ピカ ピカ。


     ○


◆1973年のL.A.で、子供をさらっては溺死させてしまうという中南米に伝わる悪霊に取り憑かれた母子を描く、「死霊館」シリーズ第6作目『ラ・ヨローナ~泣く女~』(マイケル・チャベス監督、2019)は、悪魔祓い系映画の王道な展開ながらメキシコ系の空気が新鮮な1作だった。

冒頭の、ひとりの男の子を除いて家族がフッと消えるシーンの「ハッ」とするような見せ方や、謎の物音がきしむ家のなかを歩く姿を追う長回しが効いたジリジリと効いたシーンなど、VFXや特殊効果を使わないで緊張感と怖さを描くことに長けたシーンが多かったのは嬉しい。シクシクという嗚咽がどこからともなく聞こえ、不意に映る画面の染みかと思われたものが実はラ・ヨローナであった……というような前半の恐怖シーン──ビニール傘越しに不意に登場するシーンは特に好き──は、Jホラーを思わせる演出やカメラ・ワークに加えてテンポの緩急がキッチリ効いており、不気味さと驚きがうまくブレンドされた恐怖感を味わえる。

ただ、後半になるにつれてラ・ヨローナがよく見かける書き割り的な──泣く、というよりは「ワーッ」と叫ぶ──悪霊になってしまい、若干その恐怖感が薄れるのが残念といえば残念。ホラー的に起こって欲しいことが次々起こる王道な展開で十分楽しいのだけれど、もっとこう、顔で泣きながらジワジワ襲ってこられたほうが、より怖かったのじゃないかしらん。もっとも、こういうポップさが、良くも悪くも「死霊館」シリーズらしさでもあるけれども。

一方で、これまで西洋キリスト教的な世界観のなか──実話ベースもフィクションもない交ぜにして同じユニバース、というのが面白い──でシリーズを続けてきたなかにメキシコ系のエッセンスを挿入したことは興味深いし、それを象徴するかのような、本作の後半から本格的に登場する呪術師ラファエルのキャラクター設定も面白い。宗教や科学に背を向け、教会を否定した“元”神父でありながながら“神”を信じる彼が、英語やスペイン語、フランス語といった多言語の祝詞を用いて悪魔祓いをする姿は、シリーズの世界観が今後よりワールド・ワイドに拡がってゆくのではないかと期待させるものだ。

その他、兄妹の父が殉職した警官だったことがもっと活かせていたらなァとか、オチにもうひと捻り欲しかったとか細々あるけれども、それでもキャッキャッと怖がるには十分楽しい1本であるし、シリーズとの連関が1番薄い本作は、むしろ「死霊館」シリーズの入門編として優れているかもしれない。楽しかったよ。シクシクヨヨヨ。


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◆心理カウンセラーとして秋川茉優が働く病院に搬送された記憶喪失の少女のまわりで不可解な現象が生じはじめ、やがて茉優の弟・和真までもが怪異に呑まれてゆくシリーズ最新作『貞子』中田秀夫監督、2019)は、ホラー映画としてはちょっと弱いかなァといった印象で、正直あまり怖くはない作品だ。

というのも本作は、『クロユリ団地』(2013)や『劇場霊』(2015)といった中田監督の近作ホラー映画の延長線上にあるようで、ゆったりとした作劇のテンポや、シーンや舞台ごとにモノトーン──もしくは、そこに補色となるような色を1点置いた──に統一された画面の色彩設計、また池田エライザ演じる茉優の衣装などからも察せられるように、どちらかといえば現代ホラーというよりも古色蒼然とした怪奇映画のテイストに近い。そう思って本作を観るなら、味わいのある作品ともいえる。

もちろん、これはどちらのジャンルが良いか悪いかという優劣のことではなく、本作が抱える問題のひとつとして、作り手の目指した方向性と、宣伝方針や観客の需要との食い違いが大きかった点が挙げられるということである。

それはそれとして、むしろ本作におけるより大きな難点は、脚本の詰めや細部が弱いことにあろう。たとえば、本作は中田監督の『リング』(1998)と『リング2』(1999)に連なる直接の続編と思われるが、この20年間における映像メディアの変遷によって一新された貞子──本作では、むしろヒルコに近い*6──の呪いのルールは奇妙に曖昧で緊張感に欠けるし、記憶消失の少女が冒頭で貞子に見出されたことによって霊が見えるようになってしまうのだが、これが展開にいささかも絡まない。どれもこれも雰囲気までに留まっている。

現状、映画のなかに散らばったままになってしまったこういった要素をもう少し深めて突き詰め、ラストの展開に集約できたなら、本作はよりいっそう見応えのある怪奇映画となりえたのではないだろうか。


     ※

*1:もちろん、ここにはフィクション的なアレンジがあるとはいえ、だ。

*2:【以下ネタバレ】 本作における重要な物語転換であるタイムトラベル──量子論的に観測されてしまったいままでのシリーズの過去は固定されて不変であるという作中の説明に従うなら、厳密には異なる世界線/パラレル・ワールドへの移動ということになるかもしれないが──の是非については考え出すとキリがないけれど、サノスが徹底的な他者犠牲のもとに行動していたのに対し、トニー・スタークが自己犠牲のもとに行動し、それによってサノスを打ち倒すという本作の結末は、良い着地だと思う。 ▼そもそもサノスのふるまいは、1作目『アイアンマン』(ジョン・ファヴロー監督、2008)においてヒーローになる前の武器商人としてのトニー・スターク自身の似姿──そして後に彼が持つことになる、平和のためには武力による自由の抑圧も辞さないという考え方も同様だろう──であり、これをトニーが克服していたからこそサノスに勝てたのではないだろうか。 ▼同時に本作おいて、ほかのアベンジャーズの面々についても自己犠牲を払えることこそヒーローだという描き方に重点を置いていたように思われ、だからこそトニーやキャップのほんの少しのわがまま=自分の人生を生きるシーンがよりいっそう印象的になっているはずだ。

*3:【以下ネタバレ】 そして、だからこそ本作が全篇に渡って『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2018)と対関係を結ぶように作られていたのではなかったか。思い出そう。 ▼序盤でいきなり主要キャラがあっさり倒されることしかり、父と娘の関係性しかり、惑星ヴォーミアでのソウル・ストーンをめぐる展開しかり、クライマックスでの増援到着の展開しかり、ラストでスクリーンに背を向けて腰掛けたヒーローの後姿しかり、そしてもちろんインフィニティ・ストーン(a.k.a.指パッチン)で決着をつけることもしかり、さらに付け加えるなら、本作でアベンジャーズたちがタイムトラベルによってインフィニティ・ストーンの収集をしたこともしかりと、これらはすべて、サノスがこれまでに、ないし『インフィニティ・ウォー』内で取った行動の反転となっている。 ▼これらの反転とはすなわち、サノスとアベンジャーズたちが同じ内容の行動を取ったとしても、結末はこうまで変わるし、その行動のひとつひとつの持つ意味合いの差がヴィランとヒーローとを隔てるものだということが、作り手たちが本作に込めた核心だったのではないだろうか。

*4:実質これは「名探偵デッドプール」なのではと思い、R-15相当の暴力描写があるのかな? と、叶いもしない期待を夢想したのはココだけのヒ・ミ・ツ。

*5:映画本編の違法アップロードか、と思いきや、ピカチュウが本作の上映時間いっぱいを延々踊り続けるだけの公式ジョーク動画 “POKÉMON Detective Pikachu: Full Picture”。かわいい。

*6:原作小説にあった海からやって来る魔物「ぼうこん」との関連が明確になったともいえる。

2019 3月感想(短)まとめ

2019年3月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆元園芸家で、後にシナロア・カルテルの運び屋に就いた老人レオ・シャープの実話をモデルにした『運び屋』クリント・イーストウッド監督、2018)は、イーストウッドによる歳を重ねながらも作品ごとにいまだソリッドに研ぎ澄まされ、しかし同時に肩肘の張り過ぎない、適度に力の抜けた軽やかな──散文詩、いや、短歌や俳句のような余白感とでもいおうか──演出の枯れることのない妙技を味わえる一品だ。運転中、ずっと鼻歌を歌い、ハンドルに置いた手でペシペシとリズムを取っている姿など、もはや素である。

本作において最も興味深い点は、イーストウッドが『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督、1964)以降『グラン・トリノ』(クリント・イーストウッド監督、2008)まで、自覚的に演じ続けてきた暴力の連鎖を断ち、罪人を滅ぼす裁定者としてのイエス・キリストを象徴するキャラクターから降りたことだろう。イーストウッド、キリストやめるってよ──というわけだ。むしろ本作で彼が演じたアールには、キリストではなくイーストウッド自身の半生が重ねあわされているはずだ*1

本作でイーストウッドが演じたアールは、デイリリーの栽培については数々の賞を受賞するほどの高評価を得ているが、その仕事にかまけて家族を省みず見放され、果ては麻薬の運び屋にまでなってしまった老人だ。イーストウッド自身、映画人としての評価は非常に高く、アカデミー賞を2度受賞するほど──実際、巧いんだもんな──名実ともに確固たる地位を築いているが、いっぽうで私生活は、既に結婚して家族を持ちながら、これまで幾人もの女性と浮名を流し、婚外子も多く離婚暦もあるなど、決して褒められたものではない側面を持っている。そんなアール=イーストウッドは、公私における罪をやがて認めて、自ら進んで裁きを受けるのだ。

同時に本作はある種、継承の作品でもある。本作における、運び屋となったアールと、彼を追う麻薬捜査官コリン(演ブラッドリー・クーパー)の関係は、かつてイーストウッドが監督・出演した『パーフェクト ワールド』(1993)におけるケビン・コスナーとの関係の裏返しであるし、コリンの相棒になるトレヴィノ(演マイケル・ペーニャ)がメキシコ系だという点は、『ダーティハリー』(ドン・シーゲル監督、1971)におけるハリー・キャラハン──しかも結婚生活がそれなりにうまくいっているらしいのが皮肉──を思い起こさずにはいられない。そして、本作より以前にイーストウッドの『アメリカン・スナイパー』(2014)に主演したブラッドリー・クーパーが監督・主演した『アリー/スター誕生』(2018)は、もともとはイーストウッドの企画であったのだ。

ことほど左様に、予告編で謳われた「集大成」という言葉は、嘘ではなかったのだ。


     ○


◆1987年、地球に飛来して記憶を失った機械生命体と父を亡くした孤独感に胸を痛める少女チャーリーが出会う “実写版トランスフォーマー” 前史バンブルビートラヴィス・ナイト監督、2018)は、懐かしくて新しい傑作。画調やプロダクション・デザイン、物語展開──まあ、ぶっちゃけ『E.T.』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1982)です──などといった映画のルックは、舞台となる1980年代の映画の手触り──かつてテレビの洋画劇場でとっぷり浸かった“あの”感じ*2──を限りなく再現しつつも、キャスティングや演出のそこかしこ、そして実写と違和感なく馴染んだVFXは、今日(こんにち)でしか作りえない新鮮さに溢れている。

監督に、ライカにて人形アニメーターとして手腕を揮い、大傑作『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(2016)を撮り上げたトラヴィス・ナイトが登板しただけあって、その画面構築力とアクションの見せ方は非常に丁寧でかつ適確。マイケル・ベイの、とにかく爆発が爆発を呼び、グチャドロに変形するオートボットをシェイキーなカメラワークと編集で盛り重ねてきた前作までのシリーズにおけるアクション・シーンとは一線を隔する出来映えで、安心して映画の世界に入り込むことができる。

そして、本作でチャーリーがバンブルビー──ラジオの選曲やボディ・ランゲージだけでなんとかコミュニケーションを図ろうとするバンブルビーも、その一挙手一投足がこれまで以上に可愛げでエモーショナルな実在感に満ちている──や、後に出会う同い年のボンクラ少年メモと辿る冒険を、彼女の亡き父との想い出を絡めながら纏め上げた脚本も素晴らしく、終盤には思わずホロリとさせられた。

正直、あまり思い入れのなかった『トランスフォーマー』シリーズでこんなにグッと来る日が訪れるとは思ってもみなかった。まあ、実写版の本シリーズは作中における歴史修正がもはやメチャクチャで、その上さらにこれかい、といったところもなくはないが、本作はむしろ独立した1本として見事な完成度を誇っているので、ぜひとも本作だけでも観てみたい。きっと元気になるよ。


     ○


◆ジャマイカアメリカ人のピアニストであるドン・シャーリーと、彼のアメリカ最南部を巡るツアーに同行して運転手兼ボディガードを務めたイタリア系アメリカ人の警備員トニー・ヴァレロンガの実話を基にした伝記コメディ『グリーンブック』(ピーター・ファレリー監督、2018)は、ファレリーらしい毒っ気とペーソスとユーモアが──控え目ながらも──ピリッと効いた1作。

どこのコミュニティにも属せない寄る辺なさと、それでもなお屹然と理知的にふるまおうとする意思の強さの両面をたたえたドクター・シャーリーを演じたマハーシャラ・アリの見事な表情づけ──アカデミー賞助演男優賞も納得だ──や、これまでの面影をまったく感じさせないまでの肉体改造をして挑んだヴィゴ・モーテンセンのがさつだが溌溂とした佇まい──そして、ピザの“あの”食べ方!──など素晴らしく、彼らが旅を経るなかで反目しあいながらも友情を育む様子はとても胸を打つ。

そして本作がさらりと暴き出す当時の差別の横行とその構造には、幾たびもギョッとさせられる。トニーやシャーリーが旅の途上で出会う人々の──そして、ときには彼ら自身の──ふるまいを思い出そう。黒人だから、土地柄だから、風習だから、伝統だから……実はなんの根拠にもならないことを論拠に、悪びれもせず無自覚──そういった論拠には「自分が」という視点が抜けているので、なおのこと厄介だ──に差別や偏見や蔑みを振りまく姿は非常に醜悪だし、なにより恐ろしい。

これはなにも舞台となった1960年代アメリカ南部だけに限ったことではなく、現代アメリカ、否、引いてはわれわれ自身において無関係ではない。僕らはいつだって、本作でシャーリーたちを貶める側に無自覚にも立っている可能性を自覚しなければならない*3。そしてもちろん、それは人種問題だけに限った話ではない。性やセクシュアリティや権力といった様々なものにまつわる差別や偏見やハラスメント──この21世紀に、いまだ正気とは思えないニュースが次々に飛び込んでくるような今日である*4──など、ありとあらゆる問題が含まれるだろう。

ふたりの目を介して描かれる人間の醜悪さは、われわれ自身の似姿にほかならないのだから。


     ○


◆1995年、自身の出生にまつわる記憶を失ったまま地球に降り立ったクリー帝国の首都・惑星ハラの特殊部隊員ヴァースが、やがて真のヒーローへと目覚めてゆくキャプテン・マーベル(アンナ・ボーデン、ライアン・フレック監督、2019)は、スタイリッシュなアクションと映像の数々や、デジタル処理によって25歳ほど若返ったサミュエル・L・ジャクソン、そしてなにより今日の社会問題を大きく取り入れてヒーロー映画として爽快なまでに昇華させてゆく見事な展開が見モノの傑作。

劇中、ヴァースに投げつけられる「感情を消し、俺の言ったとおりにやれ」といった指導や、彼女に「笑えよ、可愛いコちゃん」と侮蔑的に言うバイカー風情のオヤジ、とあるキャラクターが地球を「あそこはクソだめ(Shit hole)だよ」と揶揄する台詞、また中盤にある意表を突いた展開など、本作にはいまなおアメリカ──そして世界──を覆う男根主義や女性蔑視、移民やマイノリティに対する不寛容がまざまざと刻印されている。

そういった因習的な理不尽さの数々に対して、ヴァース=キャプテン・マーベルが持ち得る全力と正義感を持って次々に否をつきつけ、文字どおり吹っ飛ばしてゆく様は爽快そのもの。彼女が対峙した本作のラスボスとの虚を突かれるような呆気ない幕切れも、「そんな感傷的マチズモなんかにつきあっちゃられないよ!」という力強い意気込みだろう──だからこそ、ヴァースが地球に降り立って最初に吹き飛ばすのが“彼*5”の頭なのだろう──し、結局は彼女のそういったスタンスこそが世界を解放へと導いてゆく展開は感動的だ。

その他、中盤の『フレンチ・コネクション』(ウィリアム・フリードキン監督、1971)や『ロボット』(シャンカール監督、2010)を思わせる地下鉄内外でのチェイス・シーンが最高だったり、マーベル・スタジオのオープニング・ロゴが特別仕様で感涙したり、サミュエル・L・ジャクソンが本当に'90年代の頃の姿に見えて驚いたり、クライマックスにある宇宙船内でのアクション・シーンがちょっと暗くて見えづらいのが残念──ただし、ある台詞を巡る意味を逆転したやり取りは最高──だったり、ネコ(仮)が可愛かったりと、いろいろ思うところはあるけれども、マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)作品群に新たな傑作が誕生したのは間違いない。


     ※

*1:アールが朝鮮戦争従軍者であるという設定は、レオ・シャープの経歴ではなく──彼は第二次世界大戦従軍者だった──、イーストウッド自身の経歴だ。

*2:画面もアメリカン・ヴィスタ──監督へのインタビューによれば、レンズも当時と同型を使ったという──だし、ナイト・シーンも適度に明るいし、カーチェイス・シーンには場所こそ違えどトンネルも出てくるぞ!

*3:われわれは、自分たちがそう思うほどマジョリティではない──その実、名誉白人と呼ばれて喜んでいたころとなんら変わらないのじゃないか、と腹立たしい気持ちになることのほうが多い──し、マジョリティだからと許される権利なぞこれっぱかしもないのだ。

*4:あらゆるヘイト発言は個人・メディア・政治家問わずに止まず、根拠のない歴史修正主義が跋扈し、労働者ばかりが理不尽に抑圧され、政権は正気とは思えない発言と行政を繰り返し、レイプ犯は次々と無罪となって挙句にその被害者を訴えるとは、いったいどういう了見なのか。恥を知れ、恥を。

*5:『トゥルー・ライズ』(ジェームズ・キャメロン監督、1994)のポスターに印刷されたアーノルド・シュワルツェネッガー

2019 2月感想(短)まとめ

2019年2月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆前作『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーヴンソン、ハミルトン・S・ラスク監督、1964)の物語から25年、とある悲劇に見舞われたせいで生きる喜びを見失っていジェーンとマイケル姉弟とその家族のもとに、かつての姿のままのメリー・ポピンズが現れるメリー・ポピンズ リターンズ』ロブ・マーシャル監督、2018)は、わりと期待していたし、好評価も耳にしていただけに、いみじくも劇中歌で「本はカバーよりも中身が大切」と歌われているとおりの印象を受ける、ちょっと残念な出来の作品だった。

もちろん、半世紀余りを経て制作されただけあって、その映像技術の進歩には目をみはるばかりで、前作において目指されたアニメーションと実写の合成やマット・ペイントによるロンドンの再現──名匠ピータ・エレンショウらによる筆致──などを、かつて夢見られたであろう映像にまで高めてきているし、新たにメリーを演じたエミリー・ブラントほか役者陣の演技や、ダンサーたちとともに楽しいオーケストラに乗って舞い踊るミュージカル・パフォーマンスは素晴らしい。前作を思わせる展開を律儀に踏もうとしているのもわかる。

だが、本作はそれら表層の再現に傾倒するばかりで、1本の映画作品として有機的に噛み合わずじまいなのだ。なんとなれば、本作の物語を語るうえで必要なシーンがオミットされ、ミュージカル・シーンばかりが脈絡なく重ねられてさえいまいか。それもあって、前作よりも尺は短い──前作が139分に対して、本作は130分──はずなのに、反対に本作のほうが長く鈍重に感じられてしまった。

本作の舞台となる1930年代半ばを前後する2回の世界大戦と世界恐慌による経済不況というより大きく、そしてメリーをしても止められない悲劇──そしてそれは、今日(こんにち)にも置き換えられるだろう──に対して、だからこそすこしの想像力を持とうよ、というテーマ性そのものは大いに首肯するけれど、もうすこし内容的充実が欲しかったなあ。


     ○


◆地上への征服戦争勃発を目論むアトランティス王オームの陰謀を阻むべく、伝説の三叉槍を探す旅に出るアーサー=アクアマンの冒険を描いた『アクアマン』ジェームズ・ワン監督、2018)は、煌びやかで、どこか有機的な雰囲気のある海底都市のデザイン・ワークと、青を基調とした画面の色彩設計が実に美しく、そして1ショット長回し風の大立ち回りから始まり、水中であることを活かした無重力バトル、地上での上へ下への追走劇、果ては大怪獣海底決戦まで、近頃流行りのアクション・シーンをヤマと盛り込んだ幕の内弁当のような愉快で楽しい作品だった。

それにしても、ワン監督はアクション演出にメリハリがあって巧い。たとえば中盤にある海辺の町での追走シーンをみてもわかるとおり、縦横無尽に追う側と追われる側が入り乱れながら、位置関係や距離感を適確に描写し、かつケレン味と臨場感をもって観客をグイグイ画面のなかに引っ張ってくれる。欲をいえば、ところどころCGで描かれたキャラクターのアニメーション──とくに泳ぐアクション──にぎこちなさがあったのが気になったことかしらん。

ところで本作はバットマンワンダーウーマンらの世界観をクロスオーバーしたシリーズ「DCエクステンデッド・ユニバース」の一篇だが、それらと厳密な繋がりも薄く──そもそも若干の矛盾すらある──、内容もいわゆるヒーローものというよりは、まっとうな貴種流離譚的海洋冒険だったので、本作から観てもなんら問題ないのではないだろうか。


     ○


ノーベル文学賞の受賞が決定した現代文学の巨匠ジョセフ・キャッスルと彼を支え続けたジョーンの夫妻が家族にもひた隠しにしていた秘密を描く『天才作家の妻 40年目の真実』(ビョルン・ルンゲ監督、2017)は、文学界──というか、社会のいたるところ──を毒する家父長制社会の闇に、夫婦という観点から切り込んだソリッドな傑作。

とにもかくにも本作は──ゴールデングローブ賞で主演女優賞受賞や、アカデミー賞ノミネートが示すように──多くを語らない妻ジョーンを演じたグレン・クローズの演技が本当に素晴らしい。穏やかな微笑の下に隠されたジョーンの夫へのひと言では表せない複雑な感情の機微を、クローズはシーンごとに微細な演技のニュアンスひとつで見事に切り取ってみせる。長年連れ添ってきた相手への、愛すれど心さびしく、しかし単に憎悪でもない、恐らくはジョーン自身さえ理解することも制御することも出来ない彼女の感情の流れを表現するクローズの演技は、それだけでサスペンスフルだ。

ラスト、正面から映されるジョーンのもの言わぬ微笑に、なにを思うだろうか。


     ○


◆遠い未来、天空の理想都市「ザレム」とその支配下にある地上のスラム「クズ鉄町」を舞台に、記憶喪失のまま目覚めたサイボーグ少女アリータの闘いと冒険を描く『アリータ: バトル・エンジェル』ロバート・ロドリゲス監督、2019)は、いろいろとイビツな部分も多分にあるが、なにやら凄いものを観たなという強烈な印象を残す作品だった。

とくにイビツに映ったのが、本作の物語展開──とくにそのテンポ感と緩急──のさせ方だ。まあ、それは無理もないだろう。というのも本作は、木城ゆきとによる原作漫画『銃夢』(1990-1995、集英社〔現・講談社刊〕)から、凶悪な賞金首“魔角(マカク)”とガリ*1が恋する少年“ユーゴ*2”を巡る前半の大きな2エピソード──というか、それらを元にしたOVA版(福富博監督、1993)──を主軸に、後の展開に描かれた架空の競技“モーターボール”のエッセンスを加え、さらに“あのキャラ” “このネタ” “その小ネタ”を必要以上にまぶしつつ、ダメ押しにキャメロン的オリジナル展開をも混ぜ合わせており、とにかく盛りに盛っている。さすが四半世紀にわたるキャメロン念願の企画だけあって大盤振る舞い、もっと陳腐な表現をすれば愛が重たいくらいに満ち満ちている。

しかし、そのぶん昨今の超大作映画としては短か目の122分という上映時間に収まる範疇をあきらかに超えている。だからなのだろう、とくに冒頭から前半にかけてのテンポが割と単調であり、尺的にはそうでもないものの、どこか鈍重な印象すら受けたし、「その展開は端折りすぎだし、いささか無理があるのでは」という場面も少なくない*3

しかし、その映像たるや凄まじい。原作においてもみっちりと情報量のある筆致で描き込まれていた背景や意匠をさらにブラッシュ・アップさせた未来都市のデザインと見せ方、最初は違和感が先にたったアリータのCG造型に対する印象をことごとく拭い去るかのような質感へのフェティッシュでリアリスティックな作り込みや、パフォーマンス・キャプチャーで精緻に取り込まれたローサ・サラザールの演技によって醸される実在感など素晴らしい*4

それに、原作の大きな魅力のひとつだった大胆でかつ流れるように美しいアクション・シーンの数々の再現性と、ロドリゲス監督らしいケレン味との融合がもたらす臨場感は見事なもの──惜しむらくは、通常上映版だとIMAX版(画面縦横比率1:1.90と1:2.39の混合)と比べて、IMAX撮影ショットの上下がトリミング(全篇1:2.39に統一)されるため、若干見づらい部分もあったこと──だった。

ことほど左様に悲喜こもごもといった感じではあるけれど、かつてキャメロンによる実写化の噂を聞いてから幾星霜、まさか本当に観られるとは思ってもみなかった本作が実際に劇場にかかっていることがまずは嬉しいし、続編もぜひ作ってもらいたい。いつの日か、飛び出す「おいちい」焼きプリンが大スクリーンで観られることを夢見て待つ。


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【ソフト】
◆グリム兄弟の童話をもとに、お菓子の家の魔女の元から生き延びた兄妹が、やがて魔女たちを「そして殺す」ハンターとなった姿を描く『ヘンゼル&グレーテル』トミー・ウィルコラ監督、2013)は、軽妙な語り口にスピード感溢れるアクション・シーン──杖に乗って森を飛ぶ魔女のチェイス・シーンが『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還(復讐)』(リチャード・マーカンド監督、1983)におけるエンドアの森のスピーダー・バイクを駆るシーンとそっくりで微笑ましい──と、ポップなゴア描写、そして中世感とスチーム・パンク(一歩手前)感が絶妙にミックスされたコンセプト・デザインなど諸々の要素をきっちりと備えつつも、気軽に楽しめるエンターテインメント作品だった。なにより驚いたのが、心優しきトロールエドワードがCGではなく、基本的には精密なアニマトロニクスを備え付けた着ぐるみだったこと。その実在感たるや素晴らしい。


     ○


◆戦国時代にタイムスリップしたバットマンたちとジョーカーらヴィラン軍団との熾烈な争いを描くニンジャバットマン水崎淳平監督、2018)は、「開幕5分で戦国時代」というスタートダッシュの勢いのまま、アメコミ風に塗りつけられたコンピュータ・グラフィックスのキャラクター──一部(モブなど)に従来の手描きを併用している──が、縦横無尽に駆け回るケレン味あふれるアクションが展開される1作。桃山文化風のデザインに南蛮渡来感を盛大につけ加えた、ある種のバロック的な意匠で彩られた画面も素晴らしい。クライマックスの戦闘シーンで流れる冗談のようなラップ・ミュージックも妙に格好良くてよかったですね……ゴー・ニンジャ、ゴー・ニンジャ、ゴー! って、別の映画*5が混ざっちゃった (*ノ▽ノ)キャッ。楽しい作品だった。


     ○


◆無謀運転が瑕のヤンチャ刑事マルコが、かつて凄腕ドライバーとして鳴らした上司からの特訓を受け、巷を騒がす強盗集団に挑むフェラーリの鷹』ステルヴィオ・マッシ監督、1976)は、カー・アクションに特化したカンフー映画のような物語構造で、目をみはるドライビング・スタント──後進からの前進反転はなんのその、片輪走行からクラッシュまで、けっこうな部分がリアル・スピードなのが恐れ入る──が数多あるのはもちろんのこと、師匠直伝の修行シーン──ふたりしてクラシックのフェラーリを改良したり、サーキット場でアクロバットな走行テクニックを伝授するシーンが最高──あり、そして因縁の対決ありでたいへん燃え上がる作品だ。1ヶ所、明らかに編集、というか撮影のミスと思われるシーンがあるが、そんなものは心の目で見ればまったく問題外だよ。


     ※

*1:原作でのヒロインの名前。

*2:映画ではヒューゴ。

*3:まあ、おそらくキャメロンが関わっているので、もしかすると後に長尺版──かつアンレイティッド版なら最高──が出るではないかと密かに期待している。

*4:画期的な映像表現だった『ファイナルファンタジー』(坂口博信監督、2001)から、遠いところにきたものだ

*5:ミュータント・ニンジャ・タートルズ2』(マイケル・プレスマン監督、1991)。