【備忘録】2020年上半期 鑑賞作品リスト

2020年上半期(1月~6月)に観た映画等の備忘録リストです。
末尾に “◎” のあるものは劇場で観たものです。今年はあと何本観られるかしらん。


     ※


密偵キム・ジウン監督、2016)
トニー滝谷市川準監督、2005)
パトリオット・デイピーター・バーグ監督、2016)
『ザ・フォーリナー/復讐者』マーティン・キャンベル監督、2017)
マイル22ピーター・バーグ監督、2018)

『永遠の門 ゴッホの見た未来』ジュリアン・シュナーベル監督、2018)◎
『魂のゆくえ』ポール・シュレイダー監督、2017)
『ネメシス』アルバート・ピュン監督、1992)
『ザ・バニシング -消失-』(ジョルジュ・シュルイツァー監督、1988)
『リチャード・ジュエル』クリント・イーストウッド監督、2019)◎


10


『スノー・ロワイヤル』(ハンス・ペテル・モランド監督、2019)
『フォードvsフェラーリジェームズ・マンゴールド監督、2019)◎
『バジュランギおじさんと、小さな迷子』カビール・カーン監督、2015)◎
ヒックとドラゴン 聖地への冒険』(ディーン・デュボア監督、2019)◎
『キャッツ』トム・フーパー監督、2019)◎

『パラサイト 半地下の家族』ポン・ジュノ監督、2019)◎
パラノーマン ブライス・ホローの謎(サム・フェル、クリス・バトラー監督、2012)
『LUPIN THE IIIRD 峰不二子の嘘(前・後編)』小池健監督、2019)
『龍の忍者』(ユン・ケイ監督、1982)
アヴリルと奇妙な世界』(クリスチャン・デスマール、フランク・エキンジ監督、2015)


20


バッドボーイズ フォー・ライフ』(アディル・エル・アルビ、ビラル・ファラー監督、2020)◎
『犬鳴村』清水崇監督、2020)◎
『ハロウィン』デヴィッド・ゴードン・グリーン監督、2018)
T-34 レジェンド・オブ・ウォー ダイナミック完全版』(アレクセイ・シドロフ監督、2019)◎
『シライサン』安達寛高監督、2020)◎

『記者たち 衝撃と畏怖の真実』ロブ・ライナー監督、2017)
わらの犬サム・ペキンパー監督、1971)
チャーリーズ・エンジェルエリザベス・バンクス監督、2019)◎
ルパン三世 プリズン・オブ・ザ・パスト』(辻初樹監督、2019) ※TVM
『スキャンダル』(ジェイ・ローチ監督、2019)◎


30


『野性の呼び声』(クリス・サンダース監督、2020)◎
バーバラと心の巨人アンダース・ウォルター監督、2017)
『ブラック・クランズマン』スパイク・リー監督、2018)
『Fear Filter(原題)』(トレイシー・クリーマン監督、2019) ※短篇
『神と共に 第一章: 罪と罰キム・ヨンファ監督、2017)

『神と共に 第二章: 因と縁』キム・ヨンファ監督、2018)
『Stereoscope(原題)』アレキサンダー・ババフ監督、2017) ※短篇
『母との約束、250通の手紙』(エリック・バルビエ監督、2017)◎
『ジュディ 虹の彼方に』(ルパート・グールド監督、2019)◎
『ゾンビコップ』マーク・ゴールドブラット監督、1988)


40


要心無用(フレッド・C・ニューメイヤー、サム・テイラー監督、1923)
史上最大の作戦ケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ、アンドリュー・マートン監督、1962)
『ラヴァーズ&ドラゴン』(ウィルソン・イップ監督、2004)
『死の標的』(ドワイト・H・リトル監督、1990)
火の鳥2772 愛のコスモゾーン』手塚治虫総監督、杉山卓監督、1980)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』(キャシー・ヤン監督、2019)◎
『脱出』ジョン・ブアマン監督、1972)
Virginia/ヴァージニアフランシス・フォード・コッポラ監督、2011)
『サッドヒルを掘り返せ』(ギレルモ・デ・オリベイラ監督、2017)
『ミッドサマー』アリ・アスター監督、2019)◎


50


『THE GUILTY/ギルティ』(グスタフ・モーラー監督、2018)
『1917 命をかけた伝令』サム・メンデス監督、2019)◎
『劇場版 ドーラといっしょに大冒険』(ジェームズ・ボビン監督、2019)
切腹小林正樹監督、1962)
『安市城 グレート・バトル』(キム・グァンシク監督、2018)

オーバードライヴリック・ローマン・ウォー監督、2013)
『サーホー』(スジート監督、2019)◎
『弾痕』森谷司郎監督、1969)
『痩せ虎とデブゴン』(ラウ・カーウィン監督、1990)
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』片渕須直監督、2019)◎


60


大殺陣工藤栄一監督、1964)
『シックス・ストリング・サムライ』(ランス・マンギア監督、1998)
『たたり』ロバート・ワイズ監督、1963)
シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』(フィリップ・ラショー監督、2019)
『トリプル・スレット』ジェシー・V・ジョンソン監督、2018)

『ドント・イット THE END』(タタル・シェルハミ監督、2018)
『聖女/Mad Sister』(イム・ギョンテク監督、2019)
『拳精』(ロー・ウェイ監督、1978)
悪魔の棲む家(アンドリュー・ダグラス監督、2005)
帝都大戦』(藍乃才総監督、一瀬隆重監督、1989)


70


『トランス・ワールド』(ジャック・ヘラー監督、2011)
『ノー・エスケイプ』マーティン・キャンベル監督、1994)
イースター・パレード』チャールズ・ウォルターズ監督、1948)
エンドレス 繰り返される悪夢チョ・ソンホ監督、2017)
『人工夜景─欲望果てしなき者ども』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1979) ※短篇


ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1984) ※短篇
ギルガメッシュ叙事詩を大幅に偽装して縮小した、フナー・ラウスの局長のちょっとした歌、またはこの名付け難い小さなほうき』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1985) ※短篇
『ストリート・オブ・クロコダイル』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1984) ※短篇
『失われた解剖模型のリハーサル』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1986) ※短篇
『スティル・ナハト─寸劇』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1988) ※短篇


80


『スティル・ナハト2─私たちはまだ結婚しているのか?』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1991) ※短篇
『スティル・ナハト3─ウィーンの森の物語』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1993) ※短篇
『スティル・ナハト4─お前がいなければ間違えようがない』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1994) ※短篇
『櫛(眠りの博物館から)』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1990) ※短篇
『人為的な透視図法、またはアナモルフォーシス(歪像)』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1991) ※短篇

『不在』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、2000) ※短篇
『ファントム・ミュージアム ―― ヘンリー・ウェルカム卿の医学コレクション保管庫への気儘な侵入』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、2003) ※短篇
『25日・最初の日』ユーリー・ノルシュテイン監督、1968) ※短篇
『ケルジェネツの戦い』ユーリー・ノルシュテイン監督、1971) ※短篇
『キツネとウサギ』ユーリー・ノルシュテイン監督、1973) ※短篇


90


アオサギとツル』ユーリー・ノルシュテイン監督、1974) ※短篇
『話の話』ユーリー・ノルシュテイン監督、1979) ※短篇
『アニー・イン・ザ・ターミナル』(ヴォーン・スタイン監督、2018)
『ホテル・アルテミス ─犯罪者専門闇病院─』(ドリュー・ピアース監督、2018)
『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(デヴィッド・ロウリー監督、2017)

『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』(アヌラーグ・シン監督、2019)
シシリアン・ゴースト・ストーリー』(アントニオ・ピアッツァ、ファビオ・グラッサドニア監督、2017)
『彼らは生きていた』ピーター・ジャクソン監督、2018)◎
『エヴォリューション』(ルシール・アザリロヴィック監督、2015)
21世紀の資本(トマ・ピケティ、ジャスティン・ペンバートン監督、2019)◎


100


『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』グザヴィエ・ドラン監督、2018)◎
フェア・ゲーム(アンドリュー・サイプス監督、1995)
『ナイト・オブ・シャドー 魔法拳』(ヴァッシュ・ヤン監督、2019)◎
『ドラゴン特攻隊』(チュー・イェンピン監督、1982)
『みじかくも美しく燃え』(ボー・ヴィーデルベリ監督、1967)

『凍える牙』(ユ・ハ監督、2012)
『クロール─凶暴領域─』アレクサンドル・アジャ監督、2019)
キョンシーvs五福星』チェン・チューファン監督、1987)
『ひまわり 50周年HDレストア版』ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1970)◎
『アス』ジョーダン・ピール監督、2019)


110


『SKIN 短編』(ガイ・ナティーヴ監督、2018) ※短篇
『守護教師』(イム・ジンスン監督、2018)
ヘルボーイニール・マーシャル監督、2019)
『ドクター・ドリトル』スティーヴン・ギャガン監督、2020)◎
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地黎明』ツイ・ハーク監督、1991)

『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語グレタ・ガーウィグ監督、2019)◎
『ポラロイド』(ラース・クレヴバーグ監督、2019)
アメリカン・サイコ(メアリー・ハロン監督、2000)


     ※


【TVアニメ】
ルパン三世 PART5矢野雄一郎監督、2019)

2020 6月感想(短)まとめ

2020年6月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆いまから約100年前に勃発した第1次大戦を映した記録フィルムを現代に甦らせた『彼らは生きていた』ピーター・ジャクソン監督、2018)は、凄まじい映像と証言の数々が生々しく迫るドキュメンタリー作品だった。

本作が描く1910年代といった映画黎明期から20世紀初頭に撮影された映像をいま我々が観るとき、その動きが奇妙にちょこまかと早回しに見える。これは、当時のフィルムの撮影速度が主に毎秒16コマ──さらに機材が手回しだったり環境によってもまばらだっという──が技術的な限界であったものが、トーキー以降の現在では毎秒24コマの撮影(映写)速度へと変化しているためだ。そこで、本作では最新技術を用いて、帝国戦争博物館に保存されていた当時の記録フィルム──主に戦線の様子を映した素材──を修復、速度補正(=隙間をデジタル技術によって擬似的に補填して24コマ化)、そしてカラー化を施したうえで本編を構成している。これによって、スクリーンに映し出される映像の数々は単なる記録フィルム以上に生々しく、自然な動きとして “いま現在” の我々の眼に迫ってくる。

もちろん元素材にあったのであろうモーション・ブラー(動きによるブレ)の部分には多少の違和感があったり、カラー化もテクニカラーの鮮やかさとまではいかないが、それでも開戦から英国本土で行われた新兵訓練までの記録映像をフィルムの傷や速度をそのまま補正なしに映す本編序盤の映像構成から、ついに彼らが欧州戦線へと出征し、ふいに画面が我々のよく馴染んだ「リアル」な映像に移り変わる瞬間には、えもいわれぬ迫力と感動がある。彼我を隔てる100年という時間差が一気に縮まるのだ。

この映像を使って本作は、戦争状態という非日常的な様相と同時に、それが日常として存在する生活感とを並置してして描き出す。最前線の塹壕無人地帯(ノー・マンズ・ランド)、後方の町でのノホホンとした休暇、負傷した身体、打ち捨てられて朽ちるままの死体の山、前線でのトイレ事情、砲弾や地雷の爆発と着弾、紅茶、そしてなによりも、カメラを見つめる名も無き兵士たちの十人十色の造作や表情が──まるでアウグスト・ザンダーの一連の写真のように──まざまざと眼に焼きつくことだろう。つい先日まで、普通の市民だった男たちが銃を持ち、わけもわからず西部戦線へと赴き、殺し合ったのだという事実が重く胸に突き刺さる。

そして、BBCが所有する退役軍人たちのインタビュー音源素材によって語られる証言の、開戦を聞いた各々の反応や開戦直後に醸成される同調圧力の数々──「パパは戦争のとき、なにをしていたの?」という台詞入りで印刷されたイラストなど、素材として挿入される当時のプロパガンダ的チラシの煽り方たるや──の醜悪さ、そして戦禍が熾烈を極めるごとに様々な閾値がどんどん急降下してゆく様子など凄まじい *1。そして、終戦してようやっと帰国した兵士たちを待ち受けていた現実も非情だ。いまなお世界各地で巻き起こっている戦争においても、本作で語られたようなことが飽くことなく繰り返されている──そして、続いてゆく──のかと思うと、やるせない。

歴史において、風化させるべきではない過去は──記録と記憶、双方において──多くあるだろう。それを喰い止めるひとつの方法がドキュメンタリー映画であるなら、本作はその試みにおいて新たな語り口を見出した見事な意欲作だ。本作が歴史の大きな趨勢よりも、あくまで一兵卒たちの視線にこだわって製作されていることも相まって、観客の記憶へ強烈に残り続けるに違いない。必見。


     ○


◆陰陽の筆を武器に諸国を旅して妖怪を封印してまわる文豪プウ・スンリンの冒険を描く『ナイト・オブ・シャドー 魔法拳』(ヴァッシュ・ヤン監督、2019)は、絢爛なVFXを身にまとったジャッキー・チェンが楽しいファンタジー・アクションだった。

今回ジャッキーが演じる妖怪ハンター兼小説家プウ・スンリンとは蒲松齢(ほ・しょうれい)のことで、本作は彼がいかにして『聊斎志異(りょうさいしい)』を著していたかをファンタジー映画として描いたものだ *2。したがって本作は、ここ10年来、中国でのシネコン館数増大による需要拡大から増えてきた自国──もしくは香港等との合作──製作によるVFX満載のアクションを売りにした中華風ファンタジー作品群の流れを汲んだ1作といえるだろう。

ところで、そういった作品群の題材として古典『西遊記』がちょっとしたブームとなっており、ドニー・イェン孫悟空に据えた『モンキー・マジック 孫悟空誕生』(ソイ・チェン監督、2014)と、演者をアーロン・クオックに交代した『西遊記 孫悟空vs白骨夫人』(同監督、2016)、『~女人国の戦い』(同監督、2018)の「モンキー・キング *3」シリーズに加えて、別に『西遊記~はじまりのはじまり~』(チャウ・シンチーデレク・クォック監督、2013)、『西遊記2~妖怪の逆襲~』(ツイ・ハーク監督、2017)の「西遊 *4」シリーズという異なる2シリーズが同時に製作され、さらに単発作品など *5も数作公開されているほど。

こういった潮流のなかで、孫悟空=ドニー/アーロンの「モンキー・キング」シリーズを製作したアガン(キーファー・リュウ)が新たな題材として、『西遊記』同様に中国の古典文学である『聊斎志異』に再びスポットを当てて──シリーズ化も視野に *6──本作『ナイト・オブ・シャドー 魔法拳』をプロデュースして映画化したということだろう *7。それもあってか、大から小まで様々に妖怪たちが登場する世界観、まるで山水画のようにニョキニョキと生えた山々──本作の舞台はすべて、この雲をも貫く山頂に作られた、まるで仙人たち御用達のベッド・タウンがごとき町々なのが面白い──やクライマックスに登場する冥界の様子など、類似する画面もそこかしこにある(まあ、最近の中華ファンタジーで全体的に流行っている画面のテイストともいえる)。

とはいえ、ジャッキーのカンフー・アクションはさすがに控え目なものの得意のコメディ演技は見ていて笑いを誘うし、本作ほど “判りやすい” VFXを多用したファンタジー映画のなかにジャッキーがいるという画自体がかなり新鮮だ *8。緑と赤の映える色彩設計が美しい衣装や美術設定、まるでポケモンよろしく封印の小瓶からその都度ジャッキーに召喚される妖怪たちの着ぐるみを思わせるCGの質感──エンドロールに映されるメイキング・シーン集を見ると、実際に現場では着ぐるみでも撮影が行われたようだ──も可愛らしい。

そして、おそらく本国では3D映画として公開されたと思しき立体感を強調した画面レイアウトにて展開される武侠アクションや、護符の束から瓦礫まで舞い踊るスペクタクル・シーンでの追走アクションなど臨場感満点。また、公式ホームページ等によると、VFXによってジャッキー・チェンの顔を若々しくレタッチしたシーン──おそらくプロローグかな?──があるそうだが、たしかに肌艶はよいものの、現在と若い頃では骨格がかなり変化していることもあって、イマイチ効果不足な感があるのはご愛嬌か。

まあ、たしかに突っ込みどころは多いし、ギャグはコテコテではあるしと、いろいろと全体的にユルい味わいの作品であるが、本作は前述のように画面を観ていて楽しい作品なのには違いない。しかし、惜しむらくは演出が──とくに後半にいたって──明らかに息切れしている点だ。ジャッキーがその危機をいかにして脱したかの描写がスッポリと抜け落ちていたり、泣かせとしては陳腐な展開かつ演出が頻出したり、物語中盤で振られた件はどうなったとか、ラストはちょっと淡白すぎなのじゃないかしらんとか、詰めの甘さがそこかしこに露見している。それでも、もう60台半ばとなったジャッキー・チェンの飽くなき映画への挑戦を見ることができるのは、たいへん嬉しいことだ。石丸博也らによる息の合った吹き替えも絶品だ *9


     ○


◆動物と会話のできる獣医ドリトル先生がとある出来事によって心を閉ざして幾星霜、彼の館にやってきた心優しき少年トミーとともに新たな冒険へと繰り出す『ドクター・ドリトル』スティーヴン・ギャガン監督、2020)は、キャラクターは可愛いけれど、アクションシーンの見せ場がいまいち魅力に乏しい1作だった。

なんといっても本作の見所のひとつは、CGにて再現された種々の動物たちだろう。人真似転じて本当に人語を喋られるようになったオウムのポリーや怖がりゴリラのチーチー、寒がりの白熊ヨシなどといった動物たちの、リアリスティックな造型とアクションながら人間のようにデフォルメされた表情やポーズを見せる独特の按配が可愛らしい。エディ・マーフィ主演のシリーズのころとは違って、もはや全CGなのが時代の流れを感じさせる。光陰矢のごとし。

そんな彼らと冒険を繰り広げるドリトル先生を演じたロバート・ダウニー・Jr. のほぼ独演会ともいえる姿も、本作の見所だ。もはや彼の芸風のひとつである奇人変人演技がこれでもかと大盤振る舞いであり、本作において心を閉ざして引きこもりになってしまったドリトルの奇行や、彼の家に住まう動物たちと “それぞれの” 言葉で会話する一挙手一投足、猫の目 *10のように変わる表情は観ていて楽しい。中盤の見せ場のなかで──作り手の意図はどうあれ──どうしたってアイアンマン・スーツをまとったようにしかみえないショットがあったのにも笑った。

しかしながら本作は意外と退屈。その最大の理由は、大小さまざまあるアクションシーンの構築がかなりお粗末だからだ。その舞台となる空間配置と見せ方があまり練られていないために、アクションに臨場感がほとんど伴っていない。たとえば前半の見せ場である、トミー少年がキリンに掴まっての町からの脱出~建設中の橋からドリトル先生の船に乗り移るシーンのなんとも知れぬ飲み込みづらさは如何ともしがたい。せっかく多くのCGキャラクターを使用するのだから、もっとダイナミックなカメラワークやパズルのように展開するアクションを構築することもできたろうに、たいへん惜しい。また、妙に寄りのショットが多いために動物たちが不自然に見切れてしまったりするなど、画面の狭苦しさもそれに拍車をかける。実際、冒頭に附されるプロローグのアニメーション・パートは、その辺も素晴らしいのだけど……。

最後に日本語吹替え版について。本作が遺作となった藤原啓治によるダウニー・Jr. の吹替えは、さすが『アイアンマン』(ジョン・ファヴロー監督、2008)以降、多くの作品で彼を演じてきただけあって、見事なシンクロぶりだ。その他、大御所からベテランまで──一部いわゆるタレント吹替え枠はあるものの気にならない程度──を配した全盛期の洋画劇場吹替え版もかくやの出来栄えで、そういう意味では、テレビを付けたら放送していた映画にたまたま出くわした昔の感覚を思い起こさせるようだ。

ことほど左様に、もっと面白くなりそうな要素はたくさんあるだけに、ちょっともったいない作品だ。


     ○


◆小説家を目指す次女ジョーら4姉妹を活き活きと描いたルイーザ・メイ・オルコットの小説『若草物語』(1886)を映画化した『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語グレタ・ガーウィグ監督、2019)は、原作の魅力を削ぐことなく、しかし新たな解釈で現代的に生まれ変わらせた傑作だ。

なんといっても本作における脚本のアレンジが素晴らしい。本作では、これまでの映像化がそうであったように原作どおりの時間軸をなぞるのではなく、それぞれ大人になって別々の道をゆこうとする “現在” と、かつて姉妹揃って暮らしていた “7年前” とを交互に描いてゆく。この構成が非常に巧みで、成人期と少女時代とで起こる類似する出来事を反復するように置くことで、現在と過去におけるそれぞれの結果や意味合いの差がより際立ち、いっそうエモーショナルに物語を盛り上げることに成功している。

また、それを映す画面の色彩設計も見事。厳しい現実に直面する現在の時系列では冷ややかな寒色系、そして幸福だった過去の時系列では鮮やかな暖色系によってそれぞれ統一された画面は、先述の時系列シャッフルを美しくも無理なく展開させる大きな要素となっているし、スティーヴン・スピルバーグの助言によってデジタルではなくフィルム撮影が敢行されたという本作の色彩の豊かさはいうに及ばない。

そして『若草物語』という物語を相対化し、まるでジョーとオルコットが同一化してゆくかのような本作独自のラスト・シーンも効いている。冒頭、ジョーが編集長から「女が主人公なら、その結末は結婚するか、死ぬかだ」と言われたこと──そして、実際に原作小説でもそうであるわけだけれど──を受けて、しかしオルコット自身の本当の思いとはどのようなものだったのかを浮かび上がらせてみせるかのような展開は特筆に値する。

とにもかくにも、今日(こんにち)改めて『若草物語』を映画化する刷新性と意義、そしてもちろん面白さを兼ね備えた見事な作品だ。


     ※

*1:本作では、射撃音や爆発、そしてガヤなどをサウンド・エフェクトとして追加録音しているが、これらの生の記録のうえにあっては「こんなものじゃないのだろうな」と思うこと必至。しかし、おそらく画面内のシチュエーションからの類推や、読唇術で兵士たちの「台詞」を決めたのだろうけど、まるで同録素材かと思えるほどに自然なのには驚いた。

*2:似た構造の作品として、たとえば『ブラザーズ・グリム』(テリー・ギリアム監督、2005)などが思い出される。

*3:英題から便宜的に。

*4:原題から便宜的に。

*5:悟空伝』(デレク・クォック監督、2015)や『西遊記 孫悟空vs7人の蜘蛛女』(スコット・マ監督、2018)、さらにかつてチャウ・シンチー孫悟空を演じた『チャイニーズ・オデッセイ』2部作(ジェフ・ラウ監督、1995)の続篇『3』(同監督、2016)も公開(ただし日本未公開&未発売)されている。また、長編CGアニメーション西遊記 ヒーロー・イズ・バック』(ティアン・シャオパン監督、2015)が製作されており、この作品の英語吹替え版では、ジャッキー・チェン孫悟空を演じている。余談だが、ジャッキー映画で『西遊記』を扱ったものといえば、ジェット・リーとの初競演が話題となった『ドラゴン・キングダム』(ロブ・ミンコフ監督、2008)も忘れがたい。

*6:「モンキー・キング」同様にキャストを変えてシリーズを続ける可能性はある。

*7:聊斎志異』を原作とする映画として、最近ではドニー・イェンが出演した『画皮 あやかしの恋』(ゴードン・チャン監督、2008)などがあったし、本作と同様に「聶小倩(じょうしょうせん)」を題材にした作品で有名なのは、やはりツイ・ハーク印の『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(チン・シウトン監督、1987)だろうか。

*8:なんでDVDしか発売されてないの (つ_・、) クスン.? HDは配信のみ。

*9:なぜか本作の吹き替えでは『名探偵コナン』ネタがいくつか登場する。おもしろかったけれど、なぜなのかさっぱり見当がつかぬ。なぜ?

*10:本作に猫は登場しない。

2020 4月感想(短)まとめ

2020年4月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
第一次大戦の最中、罠とも知らず独軍めがけて明朝突撃しようとする連隊への攻撃中止命令を携えて戦場を走る2人の兵士を描いた『1917 命をかけた伝令』サム・メンデス監督、2019)は、全篇1カット(ふう)を限りなく完遂した見事な冒険映画だった。

まずはなんといっても、本作で第92回アカデミー賞撮影賞を受賞したロジャー・ディーキンスによる撮影が凄まじい。絶妙に白んだ曇り空と荒地と化した土地の色合いや、朝陽の昇る前の淡いのしっとりと薄明かり、ラストに拡がる楽園のように──皮肉にも──穏やかな田園風景など、その切り取り方の巧みさは折り紙つき *1。とくに後半、廃墟と化したドイツ占領下の町並みのなかを逃げ惑う主人公を捉えた一連の夜間シーンは、漆黒の闇のなかで輝くオレンジ色の炎と照明弾の閃光によって織り成される影のコントラストがなんとも知れぬモノトーンの情感を湛えていて、地獄のような風景とシチュエーションながら嘆息の出るほど美しい。画面に深く沈んだ闇を撮らせたら、やはりディーキンスは天才的な手腕を発揮する。

また、その撮影素材をVFX等も用いながら限りなく違和感なく1カットふうに繋いだリー・スミスの編集も見事。どちらかといえば──クリストファー・ノーラン作品などで見ることのできる──ショットとショットの積み重ねやカットバックの巧みさが印象的だっただけに、ある意味ではその真逆のようにさえ見える仕事をやりきったのは凄い。2時間1カットのなか、平板になることなく緩急に富んだリズムで物語を進行させており、決して飽きることはないだろう。そうそう、本作のカメラワークは客観だけれど、時間経過は主人公たちの主観、というつくりはクレバーだし興味深かった。

本作が描く「突撃攻撃中止命令の伝達」という物語は、メンデス監督の祖父が語って聞かせた逸話を元にしているとされるものの、すでに多くのところで指摘されているように、史実的にはおそらく正しくはないのだろう。実際には──『突撃』(スタンリー・キューブリック監督、1957)のなかで描かれたように──無謀な突撃命令によって多くの兵が命を落としている。本作が映すよりも、戦場はもっと凄惨な風景だったに違いない。つまり本作は、作り手たちが映画のなかでだけでも死にゆく兵士たちを救おうとした一種の寓話やファンタジーとして捉えるべき作品といえる。それは本作の語り口が──メンデスが前2作の007作品で採用したように──非常に神話的であり、なんとなれば主人公であるトム・ブレイクとウィリアム・スコフィールドのふたりは象徴的なイエスとその弟子として描かれている *2ことからも窺い知れる。神が預言者の口をとおして人々に救いの御心を伝えたように、英国軍司令部の指令を命がけで伝えることで1,600人もの兵士たちを救おうとするだろう。そして、だからこそ本作の画が美しくあるのだ。

ことほど左様に、撮影・編集の巧みさ、そして音響やトーマス・ニューマンによるスコアも魅力的な本作は、映画館で体験してこその作品であるのは間違いない。


     ○


◆超巨大都市ワージーを拠点とする強力なギャングの後継者争いの鍵となる「ブラックボックス」を巡り、特別捜査官アショークらが立ち上がる『サーホー』(スジート監督、2019)は、たまらなく過剰に熱のこもったなにかを観た、といった感じの作品だった。

まあ見せ場に次ぐ見せ場のつるべ打ちが楽しい。冒頭、主人公を演じるプラバースが徒手空拳で『ザ・レイド』(ギャレス・エヴァンス監督、2011)よろしくヤクザたちが暮らすアパートへのカチコミをかける武道アクションに始まり、銃撃戦からカーチェイス──もちろんインド映画お約束のミュージカル・シーン *3も挟みつつ──、挙句の果てには空中戦(!)までに発展する本作のアクション・シーンの数々は、最近の「ワイルド・スピード」シリーズに「ミッション: インポッシブル」シリーズ、「MCU」といったアメコミ映画作品群などにみられるハリウッド大作アクションのエッセンスを貪欲に取り込み、かつそれを割らずに、なんなら荒唐無稽さをさらに増した特濃な味わいをガツンと醸しており、これらの画を実現させてしまう撮影スタッフとVFX技術、そして注ぎ込まれた熱とアイディアの豊富さには目眩すら覚える。本作を観ながら、いま自分は何本目の映画を観ているのだっけ、と思うこと必至である *4

このサービス精神のいきすぎた本作であるがゆえにか、シナリオもまたヒネりにヒネっており、いささかヒネりすぎて捻じ切れそうなのが弱点といえば弱点。とにかく本作は、劇中「○○だと思った? 残念、▼▼でしたーっ!」というツイストをこれでもかと──少なく見積もっても4、5回は──盛り込んでおり、不必要に物語が複雑化している点は否めない *5。そのせいか、情報開示の順序を逆ぶしたほうがサスペンスやインパクトに効果的ではないかと思われる編集もチョイチョイあってもったいないし、前述のような怒涛の特盛りアクションを精一杯楽しむためには、あるいはもうすこしシンプルな筋立てのほうがよかったのではないだろうか *6

ことほど左様に、よくも悪くも過剰に熱のこもった凄まじい作品だった。


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【コロナ禍の影響により映画館休館】


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*1:戦闘機がこちらに向かって突っ込んでくるシーンは、『北北西に進路を取れ』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1959)を思い起こさせる。

*2:パンやワインの挿話、聖油や聖痕、文字どおりスコフィールドが眼を見開く展開など。

*3:世界各地の絶景/観光地の数々や、超現実的な光景が──いちおう前フリとして、ヒロインが趣味でスケッチブックに描いている絵が登場しており、その具現化として──バンバン出てくるのが楽しい。

*4:本作のタイトルが映されるタイミングも最高だ。

*5:オープニングで語られる本作の背景が、そもそも複雑。そういえば、拉致されてた大臣とその孫娘はどうなったのかしらん。

*6:余談だが、中盤にある欧州のホテルの一室でのアクション・シーンにおいて、『ターミネーター2』(ジェームズ・キャメロン監督、1991)の同一シーン(T-800とT-1000、ジョン・コナー少年がはじめて一堂に会するショッピングモールのバックヤードでの戦い)が延々リピートされているのには笑いました。

2020 3月感想(短)まとめ

2020年3月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆タウンゼント探偵社が擁するスパイの一員であるサビーナとジェーンのもとに、新エネルギー装置「カリスト」の主任プログラマーであるエレーナから、それが武器への転用も可能であるとの内部告発がもたらされるチャーリーズ・エンジェルエリザベス・バンクス監督、2019)は、粗がないではないが、シリーズの価値観のアップデートを試みた意欲作だった。

冒頭、クリステン・スチュワート演じるサビーナが悪役(=男)──そしてスクリーンをとおして僕ら観客──と文字どおり正面から対話する内容が、愚直なまでに本作の目指したところを語っていてハッとさせられる。そこで語られるのは、「女性がなにか行動をするとき男性の許可なぞ万が一にも必要ないし、自分の好きなように振舞うことができるのだ」という、まさしくガールズ・エンパワーメントを意識した内容であって、それを「チャーリーズ・エンジェル」のフランチャイズでやることの意義と刷新性は大いにあるだろう。

これは、本作がいわゆる単体でのリブートでなく、オリジナルのテレビ・シリーズ(1976-1982)と映画版2作(マックG監督、2000-2003)からの地続きの世界観にあること──ラストでちょっとした仕掛けもある──を明言しているのも、本作に込めた作り手のそういった意志が如実に感じられる *1。また、シリーズお決まりであるオープニングのチャーリーによるキャラクター紹介を廃してあえて挿入された唐突──これまでシリーズに馴染んできたファンにはとくに──な、まるで少女たちを映したホームビデオのような映像群も、じつはクライマックスの大団円への布石となっていて、これには思いがけず感動もした。

事実、その後こともなげに悪役たちをなぎ倒してゆくエンジェルたちの姿には快哉をさけびたくなるし、劇中で様々な衣装を活き活きと着こなす姿は躍動感に満ちている。それは単に格闘アクションの見せ場に限らず、これまでであれば割と手間をかけてきた敵地へ潜入するまでの段取りをサクっと手早く片付けてしまう点──IDカードを盗むくだりなど最高だった──なども、彼女たちの「デキる」スパイ感が醸されていて素晴らしいし、キャッキャと楽しげに会話のキャッチボールを交わす姿も多幸感に満ちている。とにもかくにも主演陣の演技アンサンブルは見事だし、彼女たちの活躍の一挙手一投足は軽やかなのだ。

ただ本作、見せ場のメインのひとつであろうエンジェルたちのアクション・シーンの演出がいま一歩だったのが非常に惜しい。シーンのなかでいささかカット割りが多すぎて動きが追いづらい──ショットごとには、キメ画として格好いいものも多いのだけど *2──し、撮影素材が足りなかったのかどうか、編集が微妙にポッと飛ぶものだから位置関係がアヤフヤになりがちだったりするのも輪をかけてノイズになっているのは否めない。話運びも前述のような「手早さ」が魅力の部分も多い反面、どこかモタついていたり、うまく展開が噛み合っていないところも多い *3。ひと言でいえば、かなりユルい。

こういったことが関係したのか、あるいはフランチャイズ自体の受容があまりなかったのか、もしくはフランチャイズのツボを敢えて外すような演出が多かったから *4なのかどうか、本国で批評的にも興行的にもかなり苦戦を強いられているという本作。でもね、本作はとっても軽やかで──そのユルささえも──楽しい味わいでかつ伝えるべきメッセージを世界に届けようとした意欲作であっただけに、これ1本で終わるには惜しい作品だ。みんな観よう!


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保守系ケーブルTV局「FOXニュース」のCEOロジャー・エイルズによるセクシャル・ハラスメントに対し、女性職員が彼を告発するまでを描く『スキャンダル』(ジェイ・ローチ監督、2019)は、テンポよく無駄のない構成が映える実録モノであり、そして劇中で語られる醜聞については心底腹の立つ作品だった。

シャーリーズ・セロン演じるキャスターのメーガン・ケリーがFOXニュース社内の構造を観客に向かって説明する冒頭──モブまで自然にこちらに「ハァイ」と手を振って挨拶するあたり、『オースティン・パワーズ』シリーズ(1997-2002)のローチ監督らしい軽やかさだ──から、彼女とニコール・キッドマン演じるグレッチェン・カールソン、そしてマーゴット・ロビー演じる新人カイラ・ポシュピシルの3人を軸に事件の顛末をテキパキと伝えるソリッドな構成と、登場人物への極端な──わかりやすい──感情移入を誘わない抑え目な演出は、観客に冷静な鑑賞姿勢を求めるだろう。

第92回アカデミー賞において本作の特殊メイクを担当したカズ・ヒロ(旧名: 辻一弘)がメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したことからもわかるとおり、たとえばセロンの風貌を限りなくメーガン・ケリーへと──しかし、セロンであることも分かる程度に──変貌させたメイクの自然さは見事なもので、これに加えて俳優陣の巧みな演技も相まって、画面内に非常なリアルさが溢れているのも見逃せない。予告編でも流れた主演3人が同じエレベータに鉢合わせるシーンでのなに気ない所作や表情づけなど素晴らしい。また、カイラと友情を育むこととなるジェスを演じたケイト・マッキノンの、微妙な立ち位置ゆえに揺れる心情表現もよかった。

だからこそ、ロジャー・エイルズ──演じたジョン・リズゴーはいい仕事してる──がその文字どおり肥大しきった権力とエゴによって彼女たち──そしてFOXニュースに勤務する(していた)数々の女性たち──に様々な圧力をかけ、挙句にセクシュアル・ハラスメントを働く非道さには腹が立って腹が立ってしようがなかった。ほかにも、ラストもラストでとある登場人物が偉そうに立つ場所──カメラも一瞬寄るが、その足許に注目だ──の安さ/みみっちさには、そうまでしてその虚栄心を維持したいものかと心底呆れかえった。人間ああなっちゃオシマイだよ。本作で描かれた事件だけに限らず、同様の事態が数多く起こっている現状──日本だって、つい先日「アースミュージックエコロジー」の社長によるセクハラ事件が明るみに出たばかりだ──には、ほとほとウンザリする。権力を盾にこういった非道を行う手合いには「外道! きさまらこそ悪魔だ!」というデビルマンの台詞を投げつけたい。

われわれ観客とも決して無縁ではない現在進行形の現実社会の実状をあらためて見つめなおす意味でも、ぜひとも観ておきたい1作だ *5。本作は、決してエイルズを倒してめでたしめでたしという作品ではないのだから。


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◆ゴールドラッシュに沸く19世紀末のアラスカを舞台に、西海岸からソリ犬として拉致されてきた飼い犬バックが辿る冒険を描くジャック・ロンドンによる同名中篇小説(1903)の実写化『野性の呼び声』(クリス・サンダース監督、2020)は、VFXによる犬たちの表現が凄まじい1作だった。

本作の見所はなんといってもバックをはじめとする犬の独特な実在感、これに尽きる。フルCGによって形成された──近作では、たとえば『名探偵ピカチュウ』(ロブ・レターマン監督、2019)やリメイク版『ライオン・キング』(ジョン・ファヴロー監督、2019)を彷彿とさせる──犬たちの毛並みの質感と骨格や筋肉の動きは、実写と見紛うばかりにリアリスティックなものでありながら、漫画チックになり過ぎない程度にデフォルメされた人間くさい表情の絶妙なマッチングが、なんとも愛らしい。本作を観ると、犬のこんなところが可愛く、あるいは恐い、というのを再認識できるし、一切の台詞のない犬たちの感情も手に取るようにわかることだろう。

とくにそれが活かされているのが、カルフォルニアの裕福な家の飼い犬だったバックが、やがて郵便配達のソリ犬として成長するまでを描いた冒頭から前半部だ。スラップスティック・コメディともみえる冒頭のバックのアクションから、厳しい極寒の自然環境やほかのソリ犬たちとの交流や対決の果てに成長してゆく彼の姿は、テンポのよい作劇とダイナミックでスピード感溢れるアクションの連続も相まって、手に汗握ること必至だ。さすがに『リロ&スティッチ』(ディーン・デュボアと共同監督、2002)や『ヒックとドラゴン』(ディーン・デュボアと共同監督、2010)を手がけたサンダース監督の面目躍如といったところか。ハリソン・フォードをはじめ、バックの主人となる人間のキャラクターも登場するけれど、観ていて感情移入する対象はバックになること請合いだ。

その分、後半やや単調になった嫌いがあったり、ちょくちょく挿入されるフォードのナレーションがむしろ邪魔なのではないかと思わなくもないけれど、犬たちの活躍をとくと堪能したいなら、本作はうってつけの作品だろう。


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◆47歳で急逝したジュディ・ガーランド最晩年のロンドン公演を主軸に、彼女の知られざる内面を描く『ジュディ 虹の彼方に』(ルパート・グールド監督、2019)は、レネー・ゼルウィガーの見事な名演と、『オズの魔法使』(ヴィクター・フレミング監督、1939)をキーにした構成とが相まった、物悲しくも力強い1作だった。

最晩年のジュディと交互にフラッシュバックする彼女の少女期(ダーシー・ショウ演)の思い出が明かされてゆく本作の構成は、ある意味では実に壮絶な人生をあぶり出すだろう。MGMのルイス・B・メイヤーたちから徹底的に自由を束縛され、自由に飲むことも食べることも許されず薬漬けにされ、ショウビズ業界に囚われ続ける──しかもMGMからは契約を切られている──ジュディは、歳を経てもその呪縛から逃れられず苦しみ続けている。そんなジュディを本作は、さながら彼女がスターダムを駆け上るきっかけとなった映画『オズの魔法使』に登場する「エメラルド・シティ」に囚われ続けたドロシーのように演出している。

本作のオープニングにおいて、メイヤーが「君を大スターにしてやろう」と年端もゆかぬジュディに囁きかける場所を思い出すなら、それは『オズの魔法使』の「納屋」のなかであり、やがて彼は彼女をつれて「黄色のレンガ道」を歩き、その向こうにあるエメラルド・シティ──彼らはこちらを向いており、その光景は映されないが──を指し示す。映画のなかでは、偉大な魔法使いとはデッチ上げであり、エメラルド・シティが単なる虚飾に過ぎないことが明かされることによってドロシーは現実に帰還するが、ジュディは留まらざるをえなかった。照明にせよ、セットや小道具や衣装にせよ、本作の画面に始終ついて回るエメラルド・グリーンの色調は、まさにジュディを拘束する檻にほかならない。

だからこそ、その檻から一瞬でも解放されたかのように映されるクライマックスの歌唱シーンは、とても力強く、同時にすこし儚げでもある。ジュディが虹の彼方にあるどこかを求め、エメラルド・シティでしか生きられなかったことを否定するのではなく、やさしく包み込むかのようなラストのとある顛末はとても印象的だ。演技のみならず力強いジュディの歌唱まで自らすべてをこなしたレネー・ゼルウィガーの表現力は、アカデミー賞をはじめ数々の賞で主演女優賞を獲得したのにも納得の素晴らしさ。まるでガーランド自身が憑依したのではないかとも思えるような本作のゼルウィガーだが、彼女自身しばらく休養を要して映画界から離れていただけに、どこかシンクロする部分が多かったのかもしれない。


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◆フランスの文豪ロマン・ガリが、シングルマザーだった彼の母ニーナと歩んだ半生を記した自伝小説『夜明けの約束』を映画化した『母との約束、250通の手紙』(エリック・バルビエ監督、2017)は、いわゆる “感動人情モノ” を思わせる予告編などから受ける印象とはまったく異なる作品だった。もちろんいい意味で。

たしかにシャルロット・ゲンズブールが熱演するロマンの母ニーナは、肝っ玉と商才と行動力があり、彼女がそれらを駆使して立ちはだかる幾多の困難にも果敢に闘いを挑んでは勝利を掴んでゆく姿はじつに逞しい。そして息子ロマンを「おまえはフランスの偉大な有名作家になって、大使にもなる」と信じて鼓舞し続ける彼女の愛情は本物だ。実際、彼女のサクセス・ストーリーとして本作を観るなら、見所と笑い所とちょっとした感動をテンポよく映した作品として捉えることもできるだろう。

しかし同時に、本作には──画面の色彩がそうであるように──どこか翳りがある。それは、そのようなニーナの大きな愛と願いの許に育ち、やがて──史実として──母との約束の数々を果たしたロマンの人生が、彼自身にとってどうだったのかという問いかけだ。母の愛と願いゆえにロマンは常に苦心し、やがて成長して大学や戦地へ赴いたことで母と離れても、彼は不在の彼女を完璧なまでに内在化できるまでになってしまう。その様子は、どこか心霊映画のような寒々しさがあるし、ロマンを支えた母ニーナの愛がある意味では呪いだったのではないかと一抹の不安がしたたる。

だからこそ、本作がメキシコの「死者の日」の祭り *6を映して開幕するのだろう。そしてラストにおいて、文字どおり「支(つか)え」が取れた──そもそも、なぜそれが必要だったのか──ロマンの表情を見るとき、えもいわれぬ余韻が鈍くこだまする。ラカンの「欲望は、他者の欲望である」とは、よく云ったものだ。


     ○


◆突然の家族の死によって塞ぎ込んでいたダニーが、恋人のクリスチャンやその友人たちと共に独特な風習の残るというスウェーデンのホルガ村で行われる夏至祭に赴く『ミッドサマー』アリ・アスター監督、2019)は、なんとも無気味で、えもいわれぬ鑑賞後感をもたらす作品だった。

日本で封切られてから「山田と上田の出てこない『TRICK』」と一部で喩えられていたけれど、なるほどさもありなんといった感じの作品で、本作をあえてほかに喩えるなら「稗田礼二郎の出てこない漫画『妖怪ハンター』シリーズ(諸星大二郎)」、あるいは「SDKのいないゲーム『SIREN』」とでもいおうか。ダニーたちがやがて呑まれてゆく──そして、映画冒頭の “絵” にすべて予感される──ホルガ村の9日間にも及ぶ夏至祭には、アニミズムや客人(まれびと)信仰、輪廻転生やファルス信仰など様々な民俗学的風習の味わいを見ることができる *7。また、『ウィッカーマン』(ロビン・ハーディ監督、1973)を連想させる要素も多い。

アスター監督の前作『ヘレディタリー/継承』(2018)と同様に、登場人物たちの感情を言外に示しつつ、同時に彼/彼女たち全員が卓上の駒のように思えるような閉塞感を醸す徹底的にデザインされたカメラワークは本作でも健在。じっと耐え忍ぶような長回しや、ふいにリズムを途切れさせるようなタイミング、あるいは巧みなアクション繋ぎなどを用いた編集の緩急も相まって、なにも起こっていないシーンすら無気味極まりない。夏至祭が白夜に行われるという設定から、本作ではホラー映画にあるまじき明るい画面が延々と映されるわけだが、ゆえに我々が見てはならないおぞましい “なにか” がまざまざと映されているように思えてならない居心地の悪さは特筆に値する。

その他、ドイツ表現主義を思わせる歪んだ家屋のデザインやその後の展開を臭わせる数々の絵画、画面の周囲や一部が絶妙にウニョウニョと歪むトリップ表現、祭の儀式がついに臨界点を越えてふいに顕わになる “肉体” のそっけなさなど、最小限の効果で最大限のインパクトを与えてくれる。そして、あの手この手でダニーたちを篭絡、あるいは排除してゆく *8村人の晴れやかな表情──手をヒラヒラさせたりなんかしてね──もまた、なんとも得体の知れぬ情感に溢れていてドキドキさせられることだろう。

アスター監督が「自らの失恋体験を映画に持ち込んだ」と各所で語るように、ダニーとクリスチャンを巡る本作の物語は、ホラーやモンド映画という枠組みを用いて語られる、ある種の──冷め切った──恋愛モノである点も興味深い。ふたりの関係がどのように変化するのか、あるいはどうすればよかったのか、と観る者に常に問いを投げかけてくる。いみじくも劇中でホルガ村を「カルトの一種か?」と尋ねる台詞があるように、本作に登場する村民や奇祭とは、決定的な他者──深く理解しあえなくなった恋人あるいは家族、友人──の象徴なのだろう。ダニーとクリスチャン、あるいは彼らと村人たちは胃がキリキリと痛くなるようなスレ違いを見せる。しかし同時に、そんな村人たちこそがダニーに対して深い、いや、深すぎるほどの共感をもたらしてくれる存在としても──少なくとも表面上は──描かれており、はたして我々の暮らす現実社会とホルガ村のどちらが正しいのか、あるいは幸福なのかの判断は、ラストのダニーの表情を観る我々に任される。

本作をどの登場人物の視点──あるいは客観──で観るかによって、受ける印象はずいぶん異なったものになるはずで、このフラットな作りがよりいっそう観客の心の内をグラグラと揺さぶりにかけることだろう。ラストに「ある種の解放感を感じた」あるいは「カルト宗教そのものだ」というどちらの感想も、それぞれがそれなりの正しさを持ち得る。そういう意味では、本作は非常に危険な劇薬のごとき作品だ。

その他、前半のいたるところに配された鏡の使い方が最高とか、登場人物の息遣いに紛れる絶妙な低音の混じり気や “盆踊り” シーンでの劇中曲を鳴らす360度うねりまくる音響設計が臨場感満点で気味悪いとか、とはいえ若干長尺で間延びした感は否めないとか、エンディングテーマの選曲が例によって超意地悪 *9だとか、いろいろあるけれど、なんにせよ本作は心底無気味で不可思議な作品だった。アリ・アスターは本当に世界を呪っているなあ。!ホッ( ゚д゚)ハッ!


     ※

*1:オリジナル・キャストのカメオ出演や、今回ボズレーの “ひとり” を演じたパトリック・スチュワートと歴代エンジェルたちとの記念スナップ──クレジットによれば、彼がピカード艦長を演じた『新スタートレック』(1987-1994)なんかから顔画像を引っ張ってきたらしい──も気が利いている。

*2:中盤の採掘場でのシーンで、ジェーンが傾斜のついた連絡橋の屋根の上を滑りながら敵を銃撃するショットなど素晴らしい。

*3:エレーナが「あんたは死んだことになっているのだから、ここ(隠れ家)でジッとおとなしくしてて」と言われるシーンは、完全にミスだろう。

*4:これすらも、おそらくはいままで執拗に強要されてきた「らしさ」からの脱却を目指しているのはないか。

*5:FOXニュースの偏向報道の是非はまた別の話。

*6:しかも、ファースト・ショットは棺桶から死者(に扮した人物)が飛び出して──甦って──くるというものだ。

*7:このゴッタ煮感というか即席感は、むしろ彼らのコミューンが最近形成されたのではないかとも思わせられ、ペレや村人の台詞の端々から「90年に1度」の夏至祭といったことが果たして本当なのかどうか疑わしくもある。

*8:自分たちに都合の悪いことに対する「言い訳」になると、途端に口数が増えるのが可笑しい。

*9:フランキー・ヴァレ版「太陽はもう輝かない The Sun Ain't Gonna Shine (Anymore)」(Bob Crewe, Bob Gaudio, 1965)。ダニーの心境を表しているようでもあり、冒頭に映されている(?)ようなホルガ村の日常をうたっているようでもある歌詞──そしてライムスター宇多丸がラジオで指摘したとおり、この曲が収録されたアルバムのカバー・アート──が、背筋を冷たく震わせるだろう。

2020 2月感想(短)まとめ

2020年2月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆半地下物件にて貧困のなか暮らすキム一家が、ひょんなことから富裕層パク一家の邸宅へ様々な使用人として身分を偽って入り込んでゆく『パラサイト 半地下の家族』ポン・ジュノ監督、2019)は、まずはもうさすがのジュノ監督節満載の、とにもかくにもメチャクチャ面白い作品だった。ベリー・インタレスティング(←本編リスペクト!)。

まずは予告編でも明かされている、最初に息子ギウと娘ギジョンがパク家の姉弟の家庭教師として、そして父ギテクが運転手、やがて母チュンスクが家政婦として、それぞれが身分を偽りながらひとりずつパク家の豪邸に入り込んでゆく前半部からして面白い。彼らがいかにしてパク家の信頼を口八丁手八丁で得ていき、すでにいるポストの前任者を追い払ってゆくかを描く作劇は、丁寧かつテンポよく組み上げられた画と編集、「えっ? そんな手で……」と呆気にとられるようなブラックな笑いを織り込みつつ一気に魅せてくれるし、アルカイックな表情を浮かべ続けるソン・ガンホはじめ、役者陣の絶妙機微なアンサンブルも実在感に溢れている。

やがて、ついにパク家の豪邸へのパラサイトに成功したキム一家に訪れる転機──この嵐の到来を文字どおり予感させる演出も、オーソドックスだが見事だ──を境にあれよあれよと転がり落ちるような後半部の展開もまた、すべてが予想の斜め上を辿っていて凄まじく翻弄される。「あの暗闇の向こうになにが……?」とさんざん引っ張っておいて見せつけられる光景には唖然とするし *1、あるいは画面内で起こっていることはメチャクチャしょぼいのに恐ろしくゴージャスなスリリングさを味わえる──『母なる証明』(同監督、2009)にもあったような──サスペンス・シーンには手に汗を握ること必至。そして、これらのシーンですらスラップスティックな雰囲気を意地悪く入れ込んでくるポン・ジュノ作品の醍醐味のひとつを、本作でも存分に楽しむことができるだろう。あんなシチュエーションの最中に、そんな体勢って見たことあります? ベタァーってね。よく思いつくわ! リスペクト!

本作の主な舞台は、キム一家が暮らす低所得者向けの半地下の部屋──もとは、北朝鮮による核攻撃に備えたものだという──と、パク一家が暮らす豪邸だ。このそれぞれの美術──ちょっとした色彩や照明効果の違いにも注目したい──や画面の切り取り方などが素晴らしく、貧困層と富裕層のかけ離れた実態を目の当たりにすることができるし、こんなミニマムな舞台立ての切り返しだけで、むしろ広々と物語を語ってしまう本作の演出は見事としかいいようがない。そして後半のある部分で、文字どおり世界がパッと開ける展開があるのだけれど、しかし、ここで観客に本作が提示するのは決して開放感ではなく、さながらボッティチェリの地獄図を思わせるような圧倒的で絶望的なまでの “高低差” なのだ。このシーンには思わず胸が締めつけられる。そしてここに来てハタと気づくのだ。いかに本作が──画的にも、暗喩的にも──高低差表現によって物語を豊潤に語っていたかを。

クライマックスにおいて──ここで詳細を記すのは控えるが──、「彼」が唯一まっとうな怒りを爆発させる瞬間、そしてオープニングと対になるようなラスト・ショットを呆然と眺めるとき、えもいわれぬ感情が胸中を埋め尽くす。これこそポン・ジュノ作品。世界はスクリーンの向こうでなく、僕らの眼前にこそ拡がっていることを思い出させてくれることだろう。世界は地続きだ。画面のなかの出来事は、われわれ観客にも決して無関係ではない。欲をいえば、もうすこし家庭教師としてパク家の子どもたちを篭絡してゆく様子──とくにインディアンにハマっている弟 *2のほう──を見たかったとは思うが、しかし見事な1作だ


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◆幼いころから霊の見える臨床心理士・森田奏の周囲で謎の死や失踪事件が相次ぎ、やがて彼女自身も怪異に巻き込まれてゆく『犬鳴村』清水崇監督、2020)は、嫌いじゃないけれど、なんとも惜しい作品だ。

本作の前半部はかなり健闘していて、画面の隅や暗がりのなかに霊がポツネンと立っているというオーソドックスなJホラー的表現を効果的に用いていて無気味だし、ヒロイン奏が見えてしまう体質ゆえに「霊が見える」ようになる物語の展開も自然に運んでいる。また、カットを割らず1ショット──いくらかは擬似的なものだと思われる──内での視線移動で霊がチラリズムする演出や、ふと遠景でループしている怪異の表現も楽しい。

しかし、残念ながら後半部になって脚本の練り不足がかなり目立っている感は否めない。たしかに、どちらかといえば伝奇モノやダーク・ファンタジーのような転換を辿る展開そのものは面白いものの、では “彼” はいったいどういう存在なのか非常にあやふやで呑み込みづらかったり、彼女たちはどこであの映像を──記録フィルムと奏が一体化するかのような演出は面白かったものの──見たのか判然としなかったりと、細部の詰めの甘さがノイズになってはいまいか。また、結末部の見せ場において奏たちが長時間立ちんぼだったのはいくらなんでもどうか──つまずいて転んでしまって身動きが取れなくなる、とかあったのではないか──と思うし、明かされる真実にしても──悪い意味で──どっちつかずのままだ。

物語のブラッシュアップがもうすこしでもなされていたなら、よりいっそう見応えのある作品なったはずだ。


     ○


心不全のうえに眼球が破裂という奇怪な死に方で親友を失った瑞紀が、やがて彼女自身もその死にまつわる呪いに巻き込まれてゆく『シライサン』安達寛高 *3監督、2020)は、たしかに話運びに若干のこなれなさもあるものの、メインディッシュである「シライサン」関係はたいへん恐がって観られる1作だ。

そっと画面に影が射して鈴の音が「チリン」と鳴るというかすかな予兆とともに、廊下や舗道の暗がりの奥に不意に現われてこちらを向いて佇むシライサンを、その呪いの設定上から我々も登場人物とともにジッと見つめ続けなければならない──絶対にふり返ってはいけないダルマさんが転んだとでもいうべき──恐怖は、そのジットリとした静謐な撮影や編集、特殊メイクで表現された “やたらと目の大きな女” の造型──等身の高いグレイ型宇宙人、もしくは顔色と出来の悪いデカ目メイクアプリの画像とでもいおうか──も相まって、世にも恐ろしい。

まあ、せっかく画がたいへん無気味であるがゆえに「眼球破壊」のSEがちょっとやかましく聞こえたり、シライサンが割と律儀に登場手順を守るので若干マンネリに思えたり、彼女の性質上いささかシュールな画になっているシーンもあったりする点は否めないが、謎が徐々に明かされながらも絶妙に足許をすくわれてゆく物語のなんとも知れぬ歯がゆい展開が続くこともあって、その無気味なテンションを維持することには成功しているだろう。また、劇中で登場人物が「承認欲求の塊だな」と指摘するように、シライサンは或いは “いいね” 時代を生きる我々の集合的無意識の結晶なのかもしれない。

それにしてもホント、あんなのに夜中に出会いたくはないわ、と背筋に冷たいものが走る作品だった。そういえば、任意でスマートフォンなどのアプリケーションを用い、追加音声トラックをイヤフォンで同時に聴くという上映方式だったが、そちらはどんな感じだったのだろう? ところどころSE──鈴の音など──が足りないような気がしたのは、そのためなのかしらん?


     ※

*1:このくだりは、黒沢清の一連のホラー作品や、とくに『クリーピー 偽りの隣人』(2016)を思い出した。

*2:征服者が被征服者への憧れを持つという構図がもうね……。

*3:乙一の本名名義。

2020 1月感想(短)まとめ

2020年1月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆1996年のアトランタ五輪爆破事件において、最初に爆弾を発見して犠牲者の軽減に努めた警備員リチャードだったが、それによってFBIから第1容疑者として捜査対象になってしまう『リチャード・ジュエル』クリント・イーストウッド監督、2019)は、太刀筋軽やかながらズシンと心に迫る、さすが名人芸が光るイーストウッド実録モノだった。

例によって無駄な描写や説明を極力省き、カメラ・ワークも奇をてらわず、そして永年イーストウッド監督作に携わってきたジョエル・コックスによる一見単調だが実にテンポのよい編集──ふいに爆弾が爆発する緩急など見事──も相まって、本作が描き出すリチャード・ジュエルたちの日常が音を立てて崩れ去っていく様子はとにかく恐ろしい。リチャード・ジュエルと、のちに彼を弁護することになるワトソン・ブライアントとの出会いを描く序盤では「ふたりの関係性を描くにはコレとコレとコレだけでOK」と文字どおりポンポン時間が過ぎたり、ときおり「ハイハイ、説明的描写はココまで」とでもいうように「えっ?」というタイミングで劇伴が消えたりするのも、ひとつのイーストウッド話芸であり、ご愛嬌といったところか *1

本作で印象的なのは、登場人物の誰しもが、多かれ少なかれ “浅はか” だということだ。性欲に負けて操作機密をリークしてしまうFBI捜査官 *2、自身の名誉欲のために情報の精査もないままにリチャードを犯人に仕立て上げるニュースを書いた地方新聞記者たちも浅はかなら、リチャード自身も単なる聖人君子ではなく、浅はかな部分がある人物として描かれている。冒頭、法執行官に憧れるリチャードに対してワトソンが「権力に溺れてクソ野郎になるな」と釘を刺すにも関わらず、実際に保安官補などの職に就いた彼はその驕りによって前科を犯したり職を失ったりしているし、いざFBIの捜査対象になってからも、ついついその──ある種宗教的とでもいえるような──憧れから要らぬことをベラベラ喋ったりしてしまう。

本作が描くように、人間誰しも浅はかである。それはしかたのないことだ。その浅はかさを浅はかにも隠匿しようとすることもあるだろう。しかし、それが絶大な権力と結びついたとき加速度的に肥大化してしまう。それによって無関係な第三者に矛先が向かうこと──そして、それに対して無自覚であること──の恐怖を本作はまざまざと描き出す。ラスト、いかにも不味そうなドーナツを食べるリチャードの表情に、なにを思うだろうか。


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フェラーリ買収に失敗したフォードが、打倒フェラーリに向けてレーシング・カー開発を決定し、ふたりのはぐれ者をチームに引き入れる『フォードvsフェラーリジェームズ・マンゴールド監督、2019)は、繊細な人物描写と臨場感溢れるカー・アクションが融合した見事な1作。

本作はタイトルや予告編にある「企業」対「企業」の闘争という印象に対して、むしろフォード内部における「現場」対「中間管理職」対「幹部」間にあった軋轢や葛藤のなかで培われるマット・デイモン演じる元ドライバーの技術師シェルビーとクリスチャン・ベール演じるイギリス人ドライバーであるマイルズの “はぐれ者” コンビの関係性を軸に描いている。彼らが徐々に一心同体となってゆく過程──中盤にある仲直りのための喧嘩シーンの微笑ましさたるや──をマンゴールド監督らしい無駄なく丁寧な演出で描いており、バディものとして一級品だ。もとはマイケル・マン監督で製作される予定だったらしく、そのときにはもっと群像劇的な仕上がりを目論んでいたともいわれ、マンゴールドが監督に登板するということで現在の本作のような脚本に変更されたというが、それが実に功を奏した結果となった。

とくに本作における、誰がどのキャラクターを見ているかの視線のやりとり演出は、俳優の立ち位置や表情の機微、画面の切り取り方から編集にいたるまで非常に細やかだ。マイルズの姿にかつての自身を重ねるシェルビー、常にコースの消失点の先を見据えるようなマイルズの爛々とした瞳、現場と幹部の狭間に立つアイアコッカの絶妙な表情の変化などなど素晴らしい。また中盤、とある事情によってル・マン参戦チームを降板させられたマイルズが、倉庫のなかでひとりラジオで実況中継を聴いているシーンでの、倉庫の外を移動する牽引車の照明に照らされる自動車の列の影が、まるで彼の脳内イメージのなかで走っているかのようにマイルズの横顔の奥の壁に映されるショットといった、言葉に頼らず多くを語る映画的演出もさりげなく、しかし巧みに用いられている。

そしてもちろん、当時のル・マン24時間耐久レースのコースを再現し、実際に車を走らせて撮影したというレース・シーンも素晴らしい。決して昨今のアクション映画にあるようなVFXを多用した派手なものではない──同監督の『LOGAN/ローガン』(2017)における、VFXを使用しながら実に地味に仕立て上げたカー・アクションを見てもわかるように、本作にド派手なのを期待しては駄目よ──が、路面スレスレにセッティングしたカメラで撮影されたスピード感あるショットと車内のドライバーの表情に肉迫するショットの組み合わせ、そして腹の底を揺さぶるようなエンジン音の巧みなサウンド・エフェクトも相まって見事な臨場感を醸していて、思わず身を乗り出しそうになるほどだ。

やがてシェルビーとマイルズに訪れた2度目の青春は、彼らふたりにはどうすることのできない力によって終焉を迎えるが、舞台となる時代もあって、それはアメリカン・ニューシネマの作品群にも似た切なさや寂寥感に溢れている。しかし同時に、人間いつだって人生のアクセルを踏み込むことができると、高らかに謳い上げるようなラスト・シーンには、温かな爽やかさにも満ちているのだ。


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◆バイキングの長となったヒックとトゥースたちの精力的な活躍によってドラゴン保護区の様相を呈しだしたバーク島を狙うドラゴンハンター・グリメルらの魔の手から逃れるべく、亡き父が探し求めていた幻の地を探す旅に島民総出で繰り出すヒックとドラゴン 聖地への冒険』(ディーン・デュボア監督、2019)は、3部作の終章として見事な大団円を迎える1作だった。

前作『2』(同監督、2014)が世界的な成功にもかかわらず日本では劇場未公開(DVDスルー *3)に終わったため、1作目と3作目だけが劇場公開されるという不遇を被ったシリーズだが、なんにせよ本作を劇場のスクリーンで体感できたことは、とてもありがたいことだ。

閑話休題。こういったCGアニメーション作品を観るたびに決まり文句のように書いてしまうので恐縮だが、本作もまた、その映像美の凄まじさは前作のそれをも凌駕するものだった。滑らかで、ちょっとひんやりとしそうなドラゴンたちの体表、トゥースの大きな瞳に映り込むヒック、毛髪から産毛まで微細に描き込まれたキャラクターたちの纏う衣装のそれぞれに異なった布地、材木の温もりや葉っぱの1枚1枚のきらめき、若干の湿り気がありながらもサラサラとこぼれる砂粒といった自然物の手触り、様々に表情を変える波や雲といった流動表現などなど、カットによってはさながら実写にさえ思えるほどのリアリスティックで美しい質感表現には、たちまち目を奪われる。

また、冒頭に映される多種多様のドラゴンたちが文字どおりウジャウジャ暮らしているバーク島の風景などは、その作成過程を思うと目眩のするような情報量が画面一杯に埋め尽くされている。そしてもちろん、本シリーズ最大の売りのひとつであろうドラゴンに跨っての飛翔シーンや、縦横無尽に立体的に展開されるアクションも一層ブラッシュ・アップされており、それらの臨場感と高揚感ともに見事なものだ。実写的な撮影も美しい。

たしかに脚本に若干の粗は認められる。突き詰めて考えると本作の “聖地” の設定は若干後付け感があるような気がしないでもない──これはシリーズをとおしてのことでもあるが、そういった秘密の地がわりとすんなり見つかってしまうのも惜しい──し、ヴァイキングたちの行動の早さには驚いたし、本作の悪役グリメル以外の敵キャラたちの印象が妙に薄かったりもする。

しかし本作が、第1作『ヒックとドラゴン』(クリス・サンダースと共同監督、2010)の、とくに結末部において賛否両論となった「ペット *4か否か」問題について逃げを打つことなく向き合い、結末部において極めて誠実な回答を示してみせたことは特筆に価するだろう。「僕は自分の理想ばかり追い求めていた」と思い悩むヒックの辿り着いた結論は、ぜひご自身で確かめてみていただきたい。

1作目では少年少女だったヒックたちの姿に、みんな大きくなったなあ、と涙なくしては観られない終章だ。


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捨て猫ヴィクトリアが迷い込んだロンドンのとある路地裏で、天上へ昇って生まれ変わることのできる猫が長老猫によって選ばれる年に1度の舞踏会の幕が上がる『キャッツ』トム・フーパー監督、2019)は、なんとも名状しがたい感じの作品だった。

本作が、T・S・エリオットによる詩集「キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法」(1939)を元にアンドルー・ロイド・ウェバーが作曲を手掛けたミュージカル作品(初演: 1981)の映画化であることについては、もはや多くを語る必要もあるまい。本作でも当然ながら披露される楽曲の数々は──テイラー・スウィフトによる本作のための書き下ろし曲「ビューティフル・ゴースト」も含めて──聴き応えがあるし、演者陣が披露するダンスやアクション、そして表情のニュアンス付けなどといったパフォーマンスは総じて素晴らしい。

また、本作において──いろんな意味で──最も目を惹くであろう、最新VFX技術を用いた猫の擬人化ならぬ演者陣の “猫化” も──たとえばSF映画などでひとりふたりがというのではなく、登場キャラクター全員がというのも含めて──これまで観たことのない映像の手触りがあって新鮮だ。彼/彼女らの毛並みのボリューム設定は、おそらくパフォーマンスの際に躍動する演者の筋肉の動きを余すところなく微細に捉えるために相当細かく調整されたはずで、着ぐるみでもなく衣装でもなくレオタードでもない独特の按配は、なんとも知れぬ実在感を醸している。覚えておいでだろうか、まるで舗道に敷き詰められた石畳のごとくミッチリと羅列された無数のVFXアーティストたちの名前がせり上がってゆくスタッフロールを……これだけの人物が──もちろん全員がではないだろうが──一気呵成に猫の毛を作っていたと思うと、なかなか味わい深い感慨が生まれる。しかもジュディ・デンチイアン・マッケランといった錚々たる顔ぶれが皆して猫の姿をしている画は、おそらく今後2度と拝めないのではないか。

とはいえ、本作が前述したような元よりのパフォーマンスと映像的新鮮さとを十全に活かしきれているとはいい難い。とくに気になったのがカメラワークと編集だ。

まずはカメラワークそのものだが、やたらカメラがフラフラ動くショットが多い。おそらくドキュメンタリー的な手持ちカメラ風の撮影を用いることで、観客が実際に猫の世界に迷い込んだかのような臨場感を生もうとしたのだろう。しかし画面が安定しないぶん、せっかくの演者の身体動作や、それを肉感的に切り取る精緻な猫化ヴィジュアルに集中し辛い。加えて本作の編集は基本的に1ショットが短く、カメラもショットごとにアッチに行ったりコッチに行ったりアップになったりロングになったりとせわしないため、画面内の位置関係が恐ろしくわかり難いのだ。その結果、ダンスもいまいち印象に残らない。いっとき流行ったチャカチャカしたアクション映画の編集を見た感じに非常に近いといえば、想像しやすいだろうか。それどころか、単純な切り替えしさえ出来ていない箇所すら散見──いちばんのクライマックスで180度ルールをガン無視した編集が出てきたときには、さすがにどうかと思ったよ──される。カットの前後でいっぺんに背景が変わるといった、映画ならではの編集的見所もあるぶん、たいへんもったいない。

本作がこれほどまでにVFXを多用した画作りを志すのであれば、変に実写映画として撮ろうとするのではなく、いっそアニメーション映画のように──たとえばディズニーのアニメーション作品におけるミュージカル・シーンのような方法論などを用いて──描いたほうが、むしろ本作のトーンに合っていたのではないだろうか。


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*1:中盤に登場するリチャードの悪夢シーン、あれ多分ポール・ウォルター・ハウザーに自撮りさせてるよね。

*2:この、女性記者が性行為と引き換えに情報を得たという部分については本作のかなり恣意的な創作であることは念頭に置きたいし、もうすこし別の表現がなかったのかとは思う。この点において、悪い意味でキャラクターをステレオタイプに落とし込もうとした作り手たちもまた、浅はかだったといえるだろう。

*3:【備忘録】発売当時の感想: 『ヒックとドラゴン2』(2D日本語吹替え版・Blu-Ray試写)感想 - つらつら津々浦々(blog)

*4:『1』のラストに付されたヒックによるドラゴンについてのナレーションでの表現。オリジナルの英語では冒頭が「ペスト(=害獣)」と表現されるドラゴンへのヒックたちの感情と──音的にも──対になった表現となっている。

2019年劇場鑑賞映画ベスト10

あけましておめでとうございます。
本年が皆様にとって善い年であるよう、心よりお祈り申し上げます。


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【2019年劇場鑑賞映画ベスト10】

『ヘレディタリー/継承』アリ・アスター監督、2018)
ロケットマン(デクスター・フレッチャー監督、2019)
スパイダーマン: ファー・フロム・ホーム』(ジョン・ワッツ監督、2019)
トイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)
バイス(アダム・マッケイ監督、2018)
『名探偵ピカチュウ(ロブ・レターマン監督、2019)
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』クエンティン・タランティーノ監督、2019)
『ジョーカー』トッド・フィリップス監督、2019)
ファースト・マンデイミアン・チャゼル監督、2018)
『アリータ: バトル・エンジェル』ロバート・ロドリゲス監督、2019)