2020 12月感想(短)まとめ +α

2020年12月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正) プラス なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評集です。


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【劇 場】
◆交通事故によって両親を亡くし、お婆ちゃんに引き取られた少年が、今度は魔女によってネズミに変えられてしまう『魔女がいっぱい』ロバート・ゼメキス監督、2020)は、ロアルド・ダール原作の児童文学を、ギレルモ・デル・トロらが愛着たっぷりに作り上げた1作。

本作は、本を読み聞かせするようなリズム感そのままに映画化されており、昨今の大作映画としては珍しく、ゆっくりとしたテンポで展開される。これを是とするか否かは、観る人の好みにもよるだろうけれど、そのぶん前半30分を使ってしっかりと描写される主人公とお婆ちゃんの関係性や、じっくりと描かれる魔女の集会シーンなど、細やかな演出は非常に見応えがある。傷ついた主人公の心を、モータウンのレコードと躍りで励まそうとするお婆ちゃんとのやりとりは、オクタヴィア・スペンサーの名演も相まって感動的だ。

おそらくは3D公開も念頭にあったのではないかと思わせる立体的な画面づくりもまた、本作の魅力だ。小さなネズミになってしまった主人公たちが駆け巡るホテルの廊下や天井裏での追走劇や、ピタゴラスイッチのように展開される厨房での駆け引きは、彼/彼女ら(=観客/カメラ)の視点が極小サイズになったことで──相対的に──見る対照は超巨大なものとなり、普段の生活ならなんのことはない段差や高低差も恐ろしくスリリングなアクションの舞台となっている。摩天楼のごとく巨大な机や壁の出っ張りを見上げ、奈落の底を覗くかのように天井から床を見下ろす画面のなかで展開される冒険の数々に、思わず客席の肘掛に置いた手をグッと握ってしまうこと請合いだ。

また、本作において実に楽しそうに大魔女を演じていたアン・ハサウェイのパフォーマンスも可笑しく、そしてしっかりと怖い。彼女の持つ大きな目と大きな口という造作をこれでもかと活かしつつ、特殊メイクとCGを違和感なくブレンドして形成された大魔女の素顔が画面いっぱいに迫ってくる様は、日本の口裂け女もかくやの無気味さだ。その雰囲気は、同じくゼメキスの監督作である『永遠(とわ)に美しく...』(1992)に登場する女たちをも思い起こさせる。

しかし同時に、本作における魔女の「猫のような鋭い爪」の欠指症を連想させるようなデザインによって、同様の手を持つ子どもを含めて腕や手足に違いを持つ人たちの気持ちを傷つけたとして、身体障害者国際パラリンピック委員会から批判を受けたことについては、作り手たちにもうすこしの配慮があるべきだったのは確かだろう。もちろん、この件について即座にワーナー・ブラザーズアン・ハサウェイが謝罪表明をした点などから、作り手たちにそういった差別や偏見を助長する意図はなかったとは思われる *1ものの、ちょっとギョッとするような毒気のあるオチを迎える本作においては、なおさらだ。

とはいえ本作は、様々な面で閉塞感の拡がる昨今、悪いことがどんどん重なってもへこたれない主人公の姿に元気をもらえる1作であることは間違いない。


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◆ダイアナ・プリンスとして人間社会に暮らすワンダーウーマンが、人の願いを叶える石を巡る攻防に巻き込まれるワンダーウーマン 1984パティ・ジェンキンス監督、2020)は、陽性さと寓話性がブレンドされた、味わい深い1作だった。

本作は、どちらかといえばダークでリアリスティックな作風が持ち味だったDCエクステンデッド・ユニバース作品──とはいえ、ユニバース化自体は立ち消えとなっているが──のなかでは、もっとも陽性な1作となっているのが特徴的だ。

前半、ダイアナ=ワンダーウーマンが道すがらに次々と人助けをしてゆく様子はどこか牧歌的な雰囲気を醸しているし、鋭いエレキ・ギターの音色と重いパーカッションの乱れ打ちが印象的だったテーマ曲も、本作ではコードを含めてアレンジがガラッと変わって古色蒼然たりといった感じのオーケストラとなっている。前作と対になるように描かれる、現代(1984年)に甦ったスティーブがいちいち目に見えるものに驚きながらダイアナと街を歩くシーンも、いま思うとちょいとダサい '80s感──スティーブがウエスト・ポーチに過度に感動するくだりは最高──を含めて楽しい。こういった具合に本作には、ライムスター宇多丸氏もラジオにて指摘していたように、全体的にクリストファー・リーヴ版の『スーパーマン』(リチャード・ドナー監督、1978)の雰囲気に──ワンダーウーマンを演じたガル・ガドットの見事なハマリっぷりも相まって──近しいものが感じられる。

また、前半のショッピング・モールでの大立ち回りでは『コマンドー』(マーク・L・レスター監督、1985)や『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(ジャッキー・チェン監督、1985)を、その後にも『トップガン』(トニー・スコット監督、1986)や『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1981)といった '80年代アクション映画をチラリと匂わせる感覚 *2も楽しいし、本作のヴィランのひとりであるバーバラ・ミネルバチーターの造型は、同じくDCの実写映画『バットマン リターンズ』(ティム・バートン監督、1992)に登場したキャットウーマンを思い出しもした。

本作では、インチキ実業家マックス・ロードが──劇中の台詞でも指摘されるようにW・W・ジェイコブズ「猿の手」(1902)に似た──願いを叶える石を手にしたことによって巻き起こる闘いが描かれる。1984年という、大量消費や物質主義といった欲望をエスカレートさせることがもてはやされた時代を舞台に、マックスが自身のみならず他人の願望すらもどんどん呑み込んで *3肥大化して暴走した結果、人々は壁によって分断され、世界は全面核戦争に向かってしまう。 原題が『WW84』(Wonder Woman/World War)表記なのも、このためだ。ほとんど『ドラえもん』の小噺に登場しそうな本作の物語であるが、マックスの姿が──演じたペドロ・パスカルが明らかに意識しているけれど──ドナルド・トランプを彷彿とさせるように、まさしく我々の生きる現実世界の縮図にほかならない。

ゆえに、自身の表面的な欲望を無理やり叶える対価として知らぬ間に大切なものを失うのではなく、その欲望を抱いてしまった自身を見つめて手放すことで本当に大切なものを得る、という本作のテーマを集約したような、ダイアナとスティーブにやがて訪れる2度目の別れのシーンでは、その多くを口では語らない見事な演出──『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督、1953)を思い出させるような、長い1ショットによる別離が本当に素晴らしい──も相まって胸を打つ。ここでのダイアナの決断は、彼女のスーパーパワーによって成されるようなものではない。翻って我々ひとりひとりが、その小さな──しかし実は重大な──決断によってヒーローになることができる、あるいはなっていこうという作り手の願いが込められているのではなかったか。

正直、後半になるにつれてトッ散らかった印象が強くなるのは否めない *4本作だが、作り手がそれを差し置いてでも、本編で語られる古典的な “寓話” がいまだ必要なほど、世界は逼迫し──続けて──ているのだ。


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【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評(9-12月)

『透明人間』リー・ワネル監督、2020)は、その編集テンポや音響効果もさることながら、透明人間がまさしく “透明” であることを逆手に取ったカメラワークのちょっとした工夫がとても──映画に親しんでいる観客ほど一層──恐ろしい1作であり、本作の惹句「見えるのは、殺意だけ」はまさに言い得て妙なのだった。テーマや諸々のデザイン *5など、クラシック・モンスターのひとつである透明人間を現在に甦らせることの意義を徹底して考えられたに違いない本作は、そのすべてが見事に刷新されており、単なるホラー映画を越えた見応えを観客に与えてくれるだろう。


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『82年生まれ、キム・ジヨン(キム・ドヨン監督、2019)は、撮影の美しさや語り口の素晴らしさも相まって、観ているあいだずっと打ちのめされるような、とても辛い作品だった。画面のなかに醸成される、あのなんとも知れぬ空気感は、多かれ少なかれ覚えがあるからだ。僕自身は男性だけれど、実家での子ども時代に感じていた空気感にあった──いまになってわかりはじめた──違和感の数々をまざまざと具現化されるようだった。原作小説とは異なって、ラストに附された本作の希望が実を結ぶ日が来ることを願ってやまない。


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『mid90s ミッドナインティーズ』ジョナ・ヒル監督、2018)は、タイトルから想像されるようなノスタルジックな趣ではなく、ちょっと向こうの知らない世界への憧れや承認への希求など、誰でもが人生において1度は持つであろう普遍的な感情を、主人公の少年の目をとおして瑞々しく、そして同時に苦味ももって描く1作。キャラクターたちの心の距離感をそれとなく切り取るカメラワークや間の取り方など、本作が初監督とは思えないジョナ・ヒルの見事な演出も光る。ラストに附された映像との距離感もまた素晴らしい。


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ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』(クリス・バトラー監督、2019)は、これぞライカのストップ・モーション・アニメーションといった感じで、人手と時間と予算と労力をつぎ込んで作り込まれた画面の1コマ1コマ、そしてその連続が織り成すアクションが狂おしいくらいの完成度を誇った1作だ(そして残念ながら大コケした)。画面を彩るヴィクトリア朝時代の意匠は目に楽しく、巨大モンスター映画もかくやの大立ち回りや、舞台の高低差などを活かし切った立体的なアクションの構築は臨場感とスリルに溢れ、ユーモアたっぷりに交わされるキャラクターたちのやり取りも楽しいこと楽しいこと!


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『フェアウェル』(ルル・ワン監督、2019)は、末期ガンの診断を受けたお婆ちゃん(ナイナイ)にその事実を告げぬまま、しかし最後にナイナイと一緒に過ごすために、各地に散った一族全員が孫の結婚披露宴開催を口実に集まって繰り広げるやりとりの様子を描くが、ナイナイに気取られぬよう必死に言葉と表情を選ぼうとする家族の一挙手一投足の演出と演技のアンサンブルによって、なんとも知れぬペーソスと可笑しみに満ちている(ナイナイの家にどういうわけだか居候しているじーさんの度を越したマイペースぶりが最高)。まさに悲喜こもごも、といった感じ。これだけ引っ張っておいて、そのオチかーい! と歯切れのよさも含めて、見事な作品だった。


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『IMAGINE イマジン』ジョン・レノンオノ・ヨーコ監督、1972)は、ジョンとヨーコの仲良きことは美しきかなという風情と実験映画的な側面を持った映像詩篇。今回の上映版において特筆すべきは、やはり音響面の素晴らしさ。本作で流れる『イマジン』(1971)などの楽曲をこれだけの音質と環境で聴くことは恐らくもうないのではないかしらん。


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*1:この、ある種の生々しさを持つクリーチャー・デザインのセンスは、製作と脚本において本作に関わったデルトロの持ち味から来たものなのだろう。

*2:アバンで描写される、ダイアナが幼少期に参加したパラダイス島での祭りは、過去篇なので『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー監督、1951)といった、'50年代~ '60年代ごろのハリウッド大叙事詩映画の雰囲気だ。

*3:自らの欲望を他者の欲望と摩り替えてしまう彼の戦略は、ある意味で非常に慧眼だ。

*4:バーバラ・ミネルバチーターの結末がほとんど描かれないのは、いささか惜しい。また、これは余談だけれど、彼女とワンダーウーマンの対決シーンの色彩が昨今のナイト・シーン同様にのっぺりと暗いのは観辛いうえに、ワンダーウーマンが新たに装備する金色の鎧の印象がすごく薄まっている。このシーンこそ、’80年代の映画にあった夜の色彩が必要だったのではないかしらん。

*5:古典的な古城を現代に置き換えた舞台設定や、ピーピング・トムの最終進化系を思わせる造型のおぞましさよ!

2020 10月-11月感想(短)まとめ

2020年10月から11月にかけて、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆“ボルケーノ・ロック・シティ” の女王バーブが企てる世界征服を防ぐため、“ポップ村” の女王ポピーと仲間たちが旅に出るトロールズ ミュージック★パワー』(ウォルト・ドーン、デヴィッド・P・スミス監督、2020)は、可愛らしい見た目と裏腹に、とても奥深いテーマに切り込んだ1作だった。

ポップでカラフルな色使いが目に楽しい本作の色彩設計も然ることながら、おそらく本シリーズの世界とは子どもたちの人形を使ったごっこ遊びなのだろう──日本でも '90年代にトロール人形が流行っていた──なと思わせるキャラクターや背景美術などといった質感表現も素晴らしい。フェルト人形のようにフワフワとした毛並みが柔らかなトロールたちや、クッションやマットレスを重ねて作られたかのような山や地面のテクスチャ表現が面白いし、オブジェクトによってはアニメーションの技法自体が異なるかのように演出された動きの差異も楽しい。

本作で語られ、そして事件の発端ともなる様々なジャンルの──劇中では、ポップス、ロック、テクノ、カントリー、ファンク、クラシックの6つの国として描かれる──音楽とは、多様性そのものの象徴だ。どんなジャンルの音楽を好み、そしてどのように音楽を受容するかは、劇中のトロールたち同様、われわれ観客もまた十人十色である。これを、バーブのように「ロック以外の音楽(とロック的な受容)しか認めない」と言って世界を支配しようとすることは、視野狭窄で差別的な同調圧力の暴力であり、到底認められるものではないと誰もが思うことだろう。これに対抗するために、主人公ポピーたちは冒険の旅に出る。

ここで現実世界に目を向ければ、音楽などの芸術や文化の好みといった趣味嗜好だけに留まらず、あらゆる側面においてバーブの提唱するような暴力的な言動を見ることができる。人種や民族差別、性差別やLGBT差別、ルッキズム歴史修正主義などなど、挙げだしたらキリがない。今日(こんにち)でも、こういった抑圧に対して世界各地で声が上がっていることはご存知のとおりだ。

そして、そんな問題を取り上げた本作は、単純な勧善懲悪の物語に留まることなく、むしろ誰でもが簡単に “抑圧する側” になってしまう──あるいは、知らぬ間になってしまっている──ことをまざまざと描く。

ポップスを愛し、音楽とは人を楽しませるためにこそあると信じてはばからないポピーは、旅の途上で立ち寄るカントリー音楽の国 ”ロンサム・フラッツ村” の住民たちの音楽性にひとかけらの理解も示そうとせず、逆にポップスを布教しようとして手痛いしっぺ返しを喰らってしまう *1。そんな彼女の姿は、ロックだけの世界を作ろうとするバーブの鏡像にほかならない *2。自分の国しか知らなかった彼女は、無自覚に他者を抑圧しようとしてしまうのだ。

こんなふうに言葉にしてしまうと、なんとも堅苦しい作品のように感じられるかもしれないが、本作自体はスラップスティックなギャグやアクション、そして見事なオリジナル楽曲と既存音楽のネタ──ポップ村のトロールたちがM.C. ハマーの「U Can't Touch This」(James & Miller, 1990)を聴くと踊らずにいられない症候群だったり、映画の開幕がダフト・パンクのPV『インターステラ5555』(竹之内和久、西尾大介監督、2003)へのオマージュだったり──を散りばめた、底抜けに楽しく、めっぽう笑えるファミリー映画だ。だからこそ、鮮やかな画面を楽しみ、ゲラゲラ腹を抱えて笑っているうちに子どもと大人それぞれがそれぞれに、世界に深く根を張る問題について思いを馳せられる。本作のクライマックスでは、それに対するひとつの回答と希望が描かれるが、その映画的としかいいようない演出もまた見どころだ。

もちろん、本作が提示する回答は決してベストなものではないだろう。しかし本作を観た人にとって、なにかのきっかけにはなるはずだ。ことほど左様に、間口は広く、同時に内容は奥深い本作は、必見の傑作だ。


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◆故郷の森を追われた黒猫の妖精シャオヘイを救った同じく妖精であるフーシーと彼の仲間を追って、最強の執行人といわれる人間ムゲンが現われる『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』(MTJJ監督、2019)は、可愛い見た目にゴリゴリのアクションが絶妙にマッチした1作だった。

太くシンプルな描線でデザインされたキャラクターたちと、柔らかな筆致と淡い色彩で描きこまれた背景美術、そして『となりのトトロ』(宮崎駿監督、1988)や『千と千尋の神隠し』(同監督、2001)などを髣髴とさせるすこしファンタジックな世界観設定も相まって、画面の手触りはとても可愛らしく、ときおり挿みこまれるギャグも牧歌的だ。コロコロと動き回るシャオヘイや、ふんわりとはためく髪や衣服のしわといった細かな芝居も楽しい。

しかし、ひとたびアクション・シーンに突入すると、その本格さに圧倒されること請け合いだ。キャラクターたちが文字どおり縦横無尽に駆け/翔けまわるアクション・シーンの数々は、アクションやエフェクト作画の面白さに、レイアウトの的確さ *3と立体的なカメラワークの躍動感も相まって非常にスピーディーかつスタイリッシュにまとめ上げられており、昨今の大作ハリウッド映画にも引けを取らない出来栄えだ。動きの端々に武侠映画を思わせる殺陣や重力感が垣間見えるのも興味深い。

そして、大友克洋の『童夢』や『AKIRA』もかくやにゴリゴリのサイキック・アクションが展開されるクライマックスでは、衝撃によって一面にひび割れるガラスや舞い散る瓦礫の雨など、繊細かつダイナミックな都市破壊のディテールも付加されて大満足。本作のポスター・アートなどから、よもやこれほどまでに大規模なアクション・シーンが用意されているとは露ほども考えていなかったので、嬉しい驚きだった。

妖精と人間が共存している現在の世界、という本作独特の世界観 *4を語る映画前半部の導入や見せ方が多少まごついていて呑み込みづらさもあるが、目まぐるしく展開される怒涛の本格アクションを体感しに、ぜひ劇場に出かけたい1作だ。


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◆太平洋戦争前夜、神戸で貿易会社を経営する福原優作が国家機密を掴んだことを知ってしまった妻・聡子の葛藤を描く『スパイの妻〈劇場版 〉』黒沢清監督、2020)*5は、時代の流れと夫婦の情愛を対比してみせた、見事なサスペンス映画だった。

黒沢作品独特の雰囲気を醸す画面は本作にももちろん健在。どこか不穏に切り取られたショットごとのレイアウトや人物の立ち位置──日本兵が町中で行進する様子を、皆一様に画面から顔を背けるように佇んでいるショットなどとても気持ちが悪い──、そして画面の一部あるいは全部にぽっかりと顔を覗かせる深く落ち窪んだ闇の無気味さなどなど、本作は決してホラーではないにもかかわらず、スクリーンから漂い出る薄ら寒さを常に感じずにはおられない。そしてこれが、国粋主義ナショナリズムの暴走と、その最中(さなか)にあって移ろう優作・聡子夫婦の情感を対比するように描く本作の物語に非常に合致している。

そんな本作を彩る役者陣の好演も見もので、とくに聡子を演じた蒼井優の芝居は、その所作や声の作り方など──本当に当時の邦画から出てきたのじゃないかと思えるほどに──昭和の女優感を醸していて素晴らしかった。夫への愛と疑いのあいだで揺れる彼女の心情を表わすかのような衣装デザインとも相まって、見事な存在感を放っている。そして、映画中盤で明らかになる優作の秘密を聡子が知ったことで展開される、彼女のどこか無邪気で、同時にある種の狂気すら感じられる夫への愛と行動が、どのように実を結んでゆくのかが本作最大の焦点でもあり、黒沢作品のそこかしこで通底する「夫婦とは?」という問いかけにもなるだろう。

同時に、本作のマクガフィンである国家機密の内容は酷たらしく凄惨なものであるのだけれど、それが今日(こんにち)の国内に蔓延る様々な問題とも地続きであるのが、なんとも歯がゆくやるせなく、そして恐ろしい。日々報道される入管収容者や外国人技能実習生に対する非人道的行為、内閣や省庁による書類偽装などを見るにつけ、この国は当時からちっとも変わってないのじゃないかと暗澹たる気持ちになる。優作が聡子に放つ「君はなにも見ていない」という台詞や、ラストに聡子が「でも私、しっくりくるんです」に続けて言う台詞が胸に重くのしかかるだろう。

ことほど左様に第77回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門銀獅子賞(最優秀監督賞)も納得の傑作だ。


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【ソフト】
◆第二次大戦下、ロシアにて物資供給等に奔走した輸送機関車隊の実話をベースに描く『脱走特急』(フェドール・ポポフ監督、2019)は、いわゆる戦闘シーンのない戦争映画の系譜かつパトレイバー的チーム感が非常に楽しい作品。しかしながら、結末に訪れる──みんな死んでほしくないのに、なんてむざむざと──やるせない展開は、便宜上 “彼らの活躍が国家に貢献したのだ” というテロップは入るものの、あきらかに国家や人類史に対しての “恥を知れ、しかるのち死ね” という演出であり、作り手たちの心意気に惚れた。余談だけれど、日本版パッケージであたかもヒロインのように見えるキャラクターは、本来のヒロインの親友なので混乱なきよう。


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◆ひょんなことから時間逆行装置を発明してしまった男たちを描く『プライマー』(シェーン・カルース監督、2004)は、難解なタイムトラベルSFとして──そして『TENET テネット』(クリストファー・ノーラン監督、2020)が、本作との類似を指摘されたりして──名を馳せているらしいけれど、その肩書きに恥じぬわけのわからなさでタハーッという感じであった。けれど、登場人物とともに次第に収拾がつかなくなってゆく状況に放り込まれる感覚は快感だし、親友同士で次世代の新発明をしようと家のガレージでものづくりをしている姿もまた楽しい。そしてエンド・クレジットのタイポグラフィ──ほとんど個人製作映画であり、Adobe Premiere で編集したそうだから、劇中の主人公ふたりの研究と同様に “ありもの” のフォントで形成されたのであろう──はめちゃんこカッコイイぞ *6


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◆空を飛ぶことを夢見る足の不自由な青年フェリックスと、死んだ父の墓守を続けるベティの兄妹の住む荒野にただ1軒だけ残された家に、謎の青年スミスが彷徨い来る『スピリッツ・オブ・ジ・エア』アレックス・プロヤス監督、1988)は、後のプロヤス監督作にもある黙示録感とコントラストの強い色彩設計でフィルムに定着された美しい画面が印象的な1作。タルコフスキーなどのエッセンスを落とし込んだとプロヤスがインタビューで語っているように、本作はアンビエントでゆったりとしたテンポで描かれる寓話的な作品であり、けっして万人向けのエンタテインメント作というわけではないが、たとえば諸星大二郎が描く異世界SF系の短篇漫画を思い起こさせるような独特の雰囲気が楽しめる。


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*1:もちろん、このシーンで展開されるポップ・ミュージックの名曲メドレー・シーンはちゃくちゃ楽しいし、その手前にあるロンサム・フラッツの日常を描くパートも、なんとも知れぬ毒っ気があって最高だ。

*2:ファンクの国の王がもらす「理解しあえないこともある」といった台詞や、そこで明らかになるトロール世界の真の歴史は、抑圧される側のやるせなさや痛み、そして文化盗用問題の根深さを痛烈に風刺するだろう。

*3:水平線1本で描き切った本作のラスト・シーンなど、シンプルであるがゆえに凄い。

*4:本作は、2011年より同監督によって制作されているWEBアニメシリーズの劇場版であり、その前日譚を語るものとなっている。

*5:もとは2020年6月6日(14:00 - 15:54)にNHK BS8Kで放送されたテレビドラマ作品である。

*6:というか、たぶん本作も映画づくり──しかも、しっちゃかめっちゃかになってしまうタイプ──のメタファーという側面もあるのだろうなァ。

2020 9月感想(短)まとめ

2020年9月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆売れないお笑い芸人である山野ヤマメが起死回生をかけて、いわくつきの物件に居住して心霊現象をカメラに収めようとする『事故物件 恐い間取り』中田秀夫監督、2020)は、なんだかいろいろ喰い合わせが悪かったのかしらん、といった印象の1作だった。

とりあえず、本作で僕のいちばん好きだったところを挙げるなら、主人公が傷心のヒロインをテレビ局の控え室で慰める本編中盤のシーンでのカメラワーク。そこで交わされる会話の内容からピアノとストリングスがポロロンと鳴る劇伴にいたるまで、あくまでちょっとした泣かせシーンなのだが、ここで画面奥にあるメイク用の鏡に映り込んだ主人公の切り取られ方 *1が、じつに不穏でよかった。たぶん、ここが1番怖い。

えっ、ホラー・シーン? それが、あんまり怖くない。

監督インタビューによれば、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』(アンディ・ムスキエティ監督、2017)に触発され、本作が怖くも面白い按配となることを目指したという *2。しかし、『IT~』の面白さとは、物語展開から恐怖演出まで徹底的にこだわり、それがある種の臨界点を超えたからこそのものだったのに比べて、本作の恐怖表現にそこまで突き抜けたものはみられなかった。

というのも、恐怖演出の出し方が、起こることのバランスや順番、段取りも、初手が派手なわりにその次がかなり地味だったりとチグハグになっているし、主人公が様々な──本作では4件の──事故物件に移り住んでは怪奇現象に遭遇するという構成は、ほとんどオムニバス作品のようで──本作には諸悪の根源を思わせる存在を独自に挿入してはいるものの──なかなかドラマが盛り上がらないために恐怖感自体も平板だ。ただ、これは松原タニシによる実録ノンフィクションである原作 *3を完全な劇映画として映画化した本作……という企画 *4の喰い合わせが、そもそも悪かったのではないかという感は拭えない。

また、時間的スケールが欠如しているのも難点。本作は劇中において──もちろん原作でも──数ヶ月から年単位の時間経過があったはずだが、それに画が伴っていない。具体的にいえば、登場人物の衣装がずっと厚手のコートを着込んだ冬服のままなのだ。もし本作が、地球が氷河期に移行しようとする未来を描いたSF作品だったならいざ知らず、2020年の現代が舞台の本作において現状のような映し方をすると、どの物件も2泊3日ずつぐらいしか居なかったのじゃないかと思えてくる。時間的なスケールをもっと緻密に描いたなら、主人公の語るお笑い芸人としてモットーが事故物件に住むことで揺らぎはじめ、精神的にも疲弊してくるといった展開をより説得力をもって画面に定着できたのはないだろうか。

結局のところ、冒頭に描かれる主人公たちのカラ滑りのコントが、本作のすべてを如実に表していたといえるかもしれない(ゴメンね、オイラは「そんな主人公たちのコントが大好きなんです」というヒロインのように鷹揚な心にはなれなかったよ)。本作のクライマックスやタイトルのフォント *5を観るに、『IT~』というよりも『霊幻道士』シリーズや『幽幻道士』シリーズといった「キョンシーもの」に寄せていったほうが勝算があったような気もするけれど、いかに。


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第三次世界大戦を勃発させて世界を破滅に導くという、未来から送られてきた時間を “逆行” する機構を巡る攻防を描く『TENET テネット』クリストファー・ノーラン監督、2020)は、なにがなにやらがいっぱいで最高! ──といった1作だった。

いみじくも映画前半の台詞で「理解しようとしては駄目、感じなさい」とあるように、未来から時を遡って送られてきたという時間を “逆行” させる機構の仕組みは、本編を観るだけではいささか難解だ。本作をつかさどるマクガフィンでもある、この謎めいた存在の仕組みについては意図的に説明を省いて描写されており、わけもわからず攻防に巻き込まれた「主人公(=Protagonist *6)」である名もなき男と同様に観客を煙に撒こうとするだろう。実際、なにがどうしてそうなるのかを本編を観ながら考え出すと思考がまったく追いつかない *7

しかしながら本作はコロナ禍以降ひさびさに世界的に映画館で──ノーランが配信による公開を断固拒否し、譲らなかったという──公開された大作映画であり、大スクリーンで観てこその画面の豊穣さは折り紙つきだ。「007」シリーズ等のスパイ映画における観光映画的な側面もさることながら、CGを極力使用しない主義で知られるノーランのこと、アクロバティックな格闘シーンや巨大貨物飛行機の爆発、カーチェイスなどといった本作を彩るアクション・シーンすべてを極力VFXに頼らない “実写” 映像で撮影した画面 *8は、だからこその迫力と説得力、そして撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマの手腕による美しさに溢れている。

そして、それでいながら──むしろ、だからこそ──本作の画を、果たしてどのようにして作り上げたのかが皆目見当がつかない。前述した “逆行” の機構を作動させた登場人物は文字どおり物理時間を反転して行動するため、映像は──客観ならば彼/彼女らの動きが、逆に主観ならば周囲に映るすべてが── “逆再生” になるわけだが、本作がトリッキーなのは、ひとつの画面内において通常の時間にいる人物と “逆行” した時間にいる人物とが格闘し、追走劇を演じ、集団での銃撃戦すら行うといった具合に複雑に絡み合うことだ。

銃弾は銃に戻って爆炎はしぼみ、追いつ追われつ、というよりも、追っていたと思われたものが実は追われていたような展開が頻出し、そんな画を口で説明しようとすると言葉に詰まる……どの要素をどういったやり方や順番に撮影して合成や編集を施せば、ここまで複雑怪奇な映像をフィルムに定着できるのかが不思議でならない。まさしく映像/映画でしか語りえないようなアクション・シーンの数々はとにかく新鮮だ。SF的な難解さはともかくも、その映像的に抜群な面白さを発生させる “逆行” とその描写は本作の発明であり、これを観るだけでも十二分に価値がある。

ところで、本作に散見される要素──第三次世界大戦、未来から送り込まれた物資、名のない男、そしてタイトルをその一部に含むラテン語の回文「SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS *9」が指し示すかのような本作の構造──を眺めたとき、やはり短篇『ラ・ジュテ』(クリス・マルケル監督、1962)が思い出される。ノーランの前々作『インターステラー』(2014)が、多分に『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)へのオマージュを含んだ作品だったように、本作『TENET テネット』もまた『ラ・ジュテ』を彼なりに継承・発展させようとした作品だったのではないだろうか。そう考えるなら、空港が重要な舞台のひとつとなることや、美しく長身な妻キャサリンに異様な執着をみせる本作の敵アンドレイ・セイターと船をめぐる顛末も納得がいく(ような気がする)*10 *11

ともあれ、こうしてあれこれ書きながらも掴み損ねはヤマとあるに違いなく、「なにがなにやら!」と甘美な苦悶と興奮が冷めない本作は、いま一度ふりだしに戻って観直したいと思わせる見事なSFアクション大作だ。映画館へ急げ!


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【ソフト】
◆引っ越した家に地下室で見つけた謎の穴を巡る怪異を描いた『ザ・ホール』ジョー・ダンテ監督、2009)を、そういえば観てなかったので、ようやっと観た。律儀なくらいスティーヴン・キングふうに仕立て上げられた、郊外の家が舞台の郷愁感あふれるジュヴナイル・ホラーだが、本作での郷愁がほぼ往年の怪奇/怪獣映画に向けられているのが、いかにもジョー・ダンテらしい *12


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◆「インディ・ジョーンズ」というか「アンチャーテッド」的なごった煮感が楽しい『トレジャー・オブ・ムージン 天空城の秘宝』(フェイ・シン監督、2018)は、その粗さも含めて、中高生のころに観たなら無闇にハマっていたろうだろう1作。ちなみに、なにも知らず観たけれど、調べてみると『ロスト・レジェンド 失われた棺の謎』(ウー・アールシャン監督、2015)*13の続篇とのこと。キャスト等総入れ替えだったので、まったく気づかなかったよ。


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ヒトラーを殺し、その後ビッグフットを殺した男』(ロバート・D・クロサイコウスキー監督、2018)は、老齢の主人公が送る日常(’87年)と戦時の回想とをカットバックさせつつ、その途上にビッグフット討伐を挟むという変化球な構成だが、世界観の作り込みや人物の掘り下げが非常に丁寧で見応えがある。


     ※

*1:主人公メインのショットでは、彼の首から下だけが鏡に映り、切り替えしてのヒロインがメインのショットでは、彼の目が映らない。もちろん、これはすでに怪異に呑まれている主人公の危うさと、このシーンで彼が暗にヒロインに申し訳なくも頼もうとする用件における負の面の暗示でもあろう。

*2:web『CINEMORE』内、SYO「『事故物件 恐い間取り』怖さは時代で変化する――中田秀夫監督と考える、現代ホラー論【Director's Interview Vol.74】」、2020年9月6日参照。

*3:松原タニシ『事故物件怪談 恐い間取り』二見書房、2018年。

*4:おそらく製作・配給の松竹としては『残穢 ─住んではいけない部屋─』(中村義洋監督、2016)に続く「実録」原作ものホラー──原作小説『残穢』(新潮社、2012)は、小野不由美による実録 “ふう” モキュメンタリー作品──の流れとして本作を作ったのだろう。

*5:劇中のキャプションは、作品の雰囲気にそぐわないフォントや見せ方が採用されていて、マジか、となった。

*6:原語版での役名。いわゆる「hero」ではなく、演劇用語である。本作を最後まで観とおしたとき、じつはある種のシナリオに忠実に則って物事が進んでいたことに気づくだろう。

*7:そのじつ「未来の技術だから、よくわからん」理論で、科学的な設定そのものを厳密に構築はしてなさそうでもある。酸素ボンベを装着してれば大丈夫とか、なぜ自動車を運転できるたり船を操舵できたりするのかの説明は、いっさいなかった。とわいえ、これは赤/青=順行時間/逆行時間の色分け、音楽の逆再生といった演出のように、ヴィジュアルとして観客に呑み込みやすくするための工夫だろう。

*8:昨今の大作とは比較にならないくらい、エンドクレジットに掲載されたVFXアーティスト関係のスタッフ人数は少ない。

*9:日本語では「農夫のアレポ氏は馬鋤きを曳いて仕事をする」となるこの回文を形成するすべての単語がキーワードとして、本編のそこかしこに登場している。ところで、「SATOR =セイター」とは農耕神サトゥルヌス(英語ではサターン)を指すともいわれるが、「AREPO =アレポ」が贋作を描いた作家はゴヤであり、ゴヤは「我が子を食らうサトゥルヌス」の絵を描いている。これは自分の息子に殺されるという予言を恐れたサルトゥヌスが、反対に子を喰らったとする伝承をモチーフにしたものであるが、それを思い起こすなら、セイターの「わたしの唯一の罪は、子を設けたことだ」という台詞が重層的に響いてくる。 ▼その他、「OPERA =オペラ」はオープニングの舞台であり、車輪や円盤を意味する「ROTAS =ロータス」は中盤に登場する貸金庫会社の名前、そして本作のクライマックスは「TENET =テネット」の綴り自体を映像化したようなものだ。

*10:まさしく回文のように、『TENET テネット』は『ラ・ジュテ』を反転/逆転させたかのような作品とも捉えられるだろう。かつての少年がやがて……と仮説される展開──僕自身はこの仮説については、ちょっと考えすぎなのではないかという気がしている──もまたしかりである。

*11:また、映画評論家の町山智浩氏などによって、本作自体が映画作りのメタファーであるという指摘──たとえば、ニールは映画監督の役であり、彼が劇中で見せるファッションはクリストファー・ノーランのそれなのだとか──がなされており、なるほどなあと思う。

*12:たとえば、ヒロインが迎えるクライマックスの舞台となる木造のジェットコースターは『原子怪獣現る』(ユージーン・ルーリー監督、1953)のクライマックスと重なる。また、主人公兄弟の弟ルーカスがテレビで観ていたイギリスの怪獣映画『怪獣ゴルゴ』(ユージン・ルーリー監督、1961)は、わが子を探すゴルゴがロンドンに上陸するという──後に日活が『大巨獣ガッパ』(野口晴康監督、1967)にて大いに参考にした──物語であり、兄デーンが直面する毒親であった父との邂逅の布石となっている。そして、デーンが迷い込む異空間はまさに、怪奇映画の祖先であるドイツ表現主義如実に思わせる画作りがなされている。

*13:一昨年にこれを観たときも似たような感想を抱いたものだ。

2020 8月感想(短)まとめ +α

2020年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正) プラス なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評集です。


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【劇 場】
◆亡き父を1日だけ甦らせる魔法を完遂するために、隠された秘石を探す旅に出る兄弟の冒険を描いた『2分の1の魔法』(ダン・スキャンロン監督、2019)は、その果てに主人公イアンの見る光景に思いがけず感動させられた、冒険映画の快作だ。

本作の舞台は、中世ファンタジー的な魔法の世界が科学や技術の発展によって現代アメリカのような世界へと変化したものという一風変わったもので、その見せ方やデザインが面白い。冒頭に描かれる、魔法が道具にとって代わり、やがて電力の発展によって完全に廃れるまでの歴史変遷描写は手際よく、その直後にスタートする現代の日常へとスムースに導いてくれるだろう。

郊外の住宅地には巨大キノコをくりぬいて作られた建売住宅が立ち並び、その各々にはエアコンの室外機やテレビのアンテナが立ち、その1軒1軒に繋がれた電線の先にあるハイウェイに乗って見えてくるガラス張りの洗練された高層ビル群には尖塔や矢狭間といったヨーロッパ風の城郭にある意匠が残っていたりと、魔法の世界と現代の境界線上を突いたデザインは巧みだ。そんななかで、住民はスマホをいじって自動車を運転し、エアロビをやってメタリカを聴いたりしているのだ。かつての世界は、もはやオタクしか遊ばない『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などを思わせるボードゲームで語られるのみ、というのも泣かせる。

本作の主人公イアンは、気弱でオドオドしていて、自らに自信を持てない少年だ。そんな彼が16歳の誕生日に亡き父から贈られた魔法の杖によって父を復活させるために、兄バーニーと探求の冒険に出かけるというのが本作のあらましだ。イアンの生後間もなくして父が亡くなったために父との記憶が一切ない、というのは、本作の脚本も手がけたスキャンロン監督自身のことだという。イアンが、残された何枚かの写真と、偶然カセットテープに録音されたすこしの肉声だけを手掛かりにして父へ思いを巡らせる描写もまた、監督自身の投影だ。このシーンの──たとえばスピルバーグ監督作に通じるような──絶妙な生々しさは、このためだったのだ。

そして、前述の冒頭において語られる歴史変遷シーンのなかでチラリと登場する「聖杯探求」ふうの旅を髣髴とさせる冒険の果てに、イアンが当初の目的を超えて到達するゴールと結論は、とても感動的だ。クライマックスにおいてイアンが立つ場所、そして彼の見聞きする光景の切り取り方など──ぜひ観てほしいので、詳細は控えるが──、ここまで思い切った見せ方をした作品も、寡聞にして少ないだろう。しかし、だからこそ感情をより激しく揺さぶられた。よく云われるように、結果ではなく過程そのものが旅が持つ真の価値ならば、本作はその本質を見事に継承しているといえるだろう。

その他、エルフや妖精、ケンタウルスなど様々な種族がごった煮で暮らしている様子はじつに『ズートピア』(リッチ・ムーア、バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2016)以後といった感じで興味深いし、トゲや噴水といった伏線の張り方やギャグは最高だったし、いっぽうで本作の日本語吹替え版のローカライゼーションはピクサーにしては雑じゃないかしらん *1......などなど思うところ *2は色々あれど、素晴らしい作品だ。


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【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評(1-8月)

『永遠の門 ゴッホの見た未来』ジュリアン・シュナーベル監督、2018)は、ゴッホの孤独感のなかに潜む狂気というか、なんとも知れぬ迸りを体現したウィレム・デフォーの演技が見もの。全篇油絵によるアニメーション長編『ゴッホ 最期の手紙』(ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン監督、2017)と併せて観ると、それぞれがいい補助線となってくれる。


     ○


バッドボーイズ フォー・ライフ』(アディル・エル・アルビ、ビラル・ファラー監督、2020)は、完結篇として楽しいけれど、アクション面ではちょっと物足りない部分もある。というか、やはり前2作のマイケル・ベイ節が──いい意味で──狂っていたんだなと痛感する。


     ○


T-34 レジェンド・オブ・ウォー ダイナミック完全版』(アレクセイ・シドロフ監督、2019)は、戦車対戦車という戦略ゲーム的な面白さを極限まで高め、かつそれを見事で的確な演出と撮影、編集で魅せてくれるので、臨場感も没入感も抜群。VFXによって描かれたバレット・タイムによる戦車砲の着弾描写もそれを盛り上げるし、主人公対敵対者の一種の友愛すら感じさせるドラマも熱い。


     ○


『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』片渕須直監督、2019)は、追加されたシーンや編集の若干の変更によって、オリジナル版(同監督、2016)と──とくに登場人物に対しての──印象がだいぶ異なり、より一層の深みが加わっている。それにしても、本作における “かつての” 日常が、オリジナル版公開時よりもさらに身近に感じられる昨今とは……?


     ○


『バジュランギおじさんと、小さな迷子』カビール・カーン監督、2015)*3は、国交問題や宗教の違いなどといったインドとパキスタンの関係を、口のきけない迷子の少女と、彼女を保護することになる青年の目をとおして描き出し、その軋轢を超えるものをこそ希求する感動作。余談だが、ラストショットのVFXは地味に凄い。


     ○


ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』(キャシー・ヤン監督、2019)は、物語のあらましやクライマックスにおけるジャッキー・チェンらの '80年代香港映画さながらのアクションからもわかるとおり、アメコミ(DC)×ガールズ・エンパワーメント×『五福星』(サモ・ハン・キンポー監督、1983)といった趣の快作。


     ○


21世紀の資本(トマ・ピケティ、ジャスティン・ペンバートン監督、2019)は、現在の格差社会がいかにして形成されていったかを、同著者がコンパクトに判りやすくまとめあげたドキュメンタリー作品であり、とっかかりとしては最良の1本。まあ、ゲンナリしますよ。


     ○


『ひまわり 50周年HDレストア版』ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1970、2020)は、前半の呆れかえるほど陽性な恋愛描写と、そこから翻っての戦争末期から終戦後にかけての──これぞネオ・リアリズモ調ともいうべき──悲劇性との対比が凄まじい。同時に、当時実際にソ連ロケをして撮影されたモスクワはクレムリンの城壁や、ふいに田舎町の駅の向こうに映る火力発電所の冷却塔といった建築物の巨大さは圧巻 *4


     ○


『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』グザヴィエ・ドラン監督、2018)は、惜しいかな、ドラン監督作としてもちょっと演出がチグハグだった感は否めない。もちろん、いまや飛ぶ鳥を落とし勢いの天才子役ジェイコブ・トレンブレイの演技は見ものだ。


     ○


WAVES/ウェイブス』(トレイ・エドワード・シュルツ監督、2019)は、ある兄妹を主人公に、たとえばマチズモといった無意識に内面化されるような抑圧によって崩壊していく様子を描く前半と、それからの解放を描く後半という構成の妙と、画面の色彩設計の美しさが素晴らしい。それにしてもシュルツ監督は『イット・カムズ・アット・ナイト』(2017)もそうだったように、閉塞した人間関係におけるギスギスした感じを描くのが本当にうまい。


     ○


エジソンズ・ゲーム』(アルフォンソ・ゴメス=レホン監督、2017)は、邦題からは少々判りづらいけれど、電力の供給方法を巡って直流送電派エジソンと交流送電派ウェスティングハウスが覇権を争った、いわゆる「電流戦争」を描く歴史もの。製作中、ハーヴェイ・ワインスタインに相当横槍を入れられたり(現在観られるのは、その後監督に編集権等が戻ったディデクターズ・カット版)と、かなりの困難に陥れられたという難産な作品だけあって、その苦々しい味わいが──演者たちの好演もあって──伝わってくるかのようだ。


     ○


『ブリット=マリーの幸せなひとりだち』(ツバ・ノボトニー監督、2019)は、やがてブリット=マリーが気づいてゆく、日本にも通じるような男尊女卑感やジェンダー・ロールへの違和感や、そこかしこに見え隠れするネグレクトの問題などを、コメディ・タッチに演出しながらも、まざまざと描く。ゆえに、そこからの解放への第1歩を描くラストや、クライマックスのほんの些細な勝利が、代えがたい感動を呼ぶのだろう。


     ○


『ブラック アンド ブルー』(デオン・テイラー監督、2019)は、もちろんエンタメ色は強めに設定されているものの、『セルピコ』(シドニー・ルメット監督、1972)を彷彿とさせる刑事サスペンス。マイノリティであるということだけで正義を保つことがどれほど困難か、それ以前に普通に生きてゆくことすら恐怖にさらされているのかをまざまざと体験できる。まったく他人事ではない。


     ※

*1:イアンが手帳にメモる印字されたように綺麗な文字、あんなの稲川淳二じゃないと書けないよ!

*2:ところで、本作の中盤に登場する女性警官が同性愛者だからと、国によっては上映禁止や一部表現を変更してのローカライゼーションが実施されたという(悲しいかな、日本語吹替え版でもな!)。本作において、それが決して特別なことではなく、人種(=種族)の坩堝と同様にいたって普通のこととしてサラリと描かれるのだけれど、こういった何気ない描写は非常に重要だと思うので、これからも屈せずにどんどんやってほしいものだ。

*3:リバイバル上映を鑑賞。日本初公開は2019年1月18日。

*4:ひまわりは、原産は北米大陸というが、ロシアにて商業利用が確立されたため、ソ連ウクライナを象徴する花といわれる。

2020 7月感想(短)まとめ

2020年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆海底洞窟にて発見された古代マヤ遺跡でスキューバ・ダイビングを楽しんでいた女子高校生たち4人が、不慮の事故でそこに閉じ込められてしまい、しかもそこは凶暴な盲目ホオジロザメの棲息地でもあった海底47m 古代マヤの死の迷宮』ヨハネス・ロバーツ監督、2019)は、 “サメ × 閉所” のコンセプトがなかなかフレッシュな一作だった。

本作の予告編を観て、今度のサメはホオジロザメでかつ盲目で、舞台は迷路のような古代マヤ文明の海底洞窟遺跡……と、2作目にしてずいぶん要素をメガ盛りしてきたなと驚いたものだが、昨今の異様にバラエティに富んだ変化と隆盛を誇るサメ映画──とくに低予算作品における──の影響であろうか *1

ともかくも、それなりの予算を組んで撮影された本作の見所は、やはり古代マヤ文明の遺跡を再現した水中セットのなかで撮影された閉塞感溢れる映像だ。どちらかといえば広い空間(海中)描写の多いサメ映画としては、なかなかフレッシュな緊迫感があり、影のなかからヌッと姿を現しては主人公たちを襲うホオジロザメの──陽が当たらないためか体表は真っ白で、盲目のために身体中キズだらけの造型含めた──姿は迫力満点だ。したがって本作は動物パニックものというよりはホラーに近く、その舞台立てや物語は、洞窟探検(ケイビング)を題材にとった『ディセント』(ニール・マーシャル監督、2005)の影響が色濃く見受けられる。

いっぽう、本作の “サメ × 閉所” という本作の見せ場について短所があったのも事実である。本作の恐怖表現は基本的に、まるで土管から定期的に顔を出すパックンフラワーよろしくホオジロザメが画面の縁や横穴から不意に登場して主人公たちを驚かせるというものがほとんどであり、いささか単調に過ぎる嫌いがあるのは否めない *2。そもそも、主人公たちが迷い込む古代遺跡には狭い通り道だけが僅かに存在するだけのように映されるものの、サメたちは神出鬼没であり、あの巨体がとおり抜けられるだけの大きさのトンネルがそこかしこにあるのでは……と気になってしまった。

しかし、本作でいちばんの問題はクライマックスである。このラストの見せ場だけ、本作のコンセプトや物語とほとんどなんら関係ないのである。なんだかそこだけ「とりあえず数を増やしときました」という続篇をくっつけたようになっており、非常にもったいない。ここできちんと本作が語ってきた物語に決着をつけてくれたなら、よりいっそう合点のゆくラストだったろう。

とはいえ、気楽にワアキャア楽しめる作品であることに違いはないので、アトラクション気分で本作をご覧になってみてはいかがだろうか。


     ○


◆ようやく戦場を離れて実家の農場を継いだランボーが、旧友マリアとその孫娘ガブリエラと穏やかに暮らしているなか事件が起こるランボー ラスト・ブラッド(エイドリアン・グランバーグ監督、2019)は、シリーズ新機軸作であると同時に原典回帰作でもあり、「ランボー、カム・バーック!」といった趣の作品だった。

本作のジョン・ランボーは、大切な家族である育ての娘ガブリエラがメキシコの麻薬カルテルによって奪われたことで、ふたたび闘いに身を投じることとなる、という設定だ。このため本作は戦争アクションというよりも──『狼よさらば』(マイケル・ウィナー監督、1974)などに代表される──ヴィジランティズム(自警主義)アクションとしての味わいが強く、本シリーズとしては新しいテイストを醸している。いっぽうで、第2作『怒りの脱出』(ジョージ・P・コスマトス監督、1985)以降、ランボーが敵地に単身乗り込んで闘っていたのに対し、本作では自らのフィールドに敵をおびき寄せて始末してゆく第1作(テッド・コッチェフ監督、1982)の展開 *3を踏襲しており、そういった意味では本作はシリーズの原典回帰作ともいえるだろう。

本作では、前作にあたる第4作『最後の戦場』(シルヴェスター・スタローン監督、2008)のラストにて、長い長い放浪の旅からようやく実家の農場に帰って来たランボーの日常が描き出される。馬の世話をし、大学への入学を控えた愛する育ての娘にプレゼントを贈る……。そんな一見平穏そうに思える彼の余生も、その端々に彼の拭いきれない闇が見え隠れする。とくに、ランボーが帰省してからの数年間、趣味としてなにをしていたかを思い出そう。それは農場の敷地の地下いっぱいに侵入者を撹乱するための入り組んだトンネルを掘ることだ。これはまさに、彼がベトナム戦争時代に苦しめられたゲリラたちの作ったトンネルそのものだ。彼が自らを巣食う暴力性を封じ、不意にフラッシュ・バックするトラウマ記憶となんとか折り合いをつけて平和に暮らすために、せめてもの療法としてそうせざるを得なかったことを思うと胸が痛む。

だからこそ、ランボーの怒りが臨界点に達し、暴力が発動してからの姿は鬼神のごとき迫力と凄惨さだ。まず観客に見せつけられる、敵のアジトを聞き出すために捕らえた三下のチンピラに対する度の過ぎまくった聞き込み(=拷問)描写が、その証左だろう。そして、ラストに展開される、前述の迷宮トンネルを十全に活かした必殺のホーム・アローン作戦での、敵に必ず苦痛を与えてから殺すスタンスもまた凄まじい。本作が題材に選んだ、南米での──もはや軍隊にも匹敵するといわれる──カルテルによる抗争や麻薬・人身売買といった犯罪は、現実問題として地獄の様相を呈しており、スタローン自身もインタビューで「現実の暴力はもっとひどい」と応えていることからも、それに対する怒りの本気度が窺える。

では、本作が暴力礼賛映画なのかといえば、決してそうではない。それは本作のランボーが、暴力によってなにかを得るどころか、またしてもすべてを失うからだ。むしろ、暴力はなにも解決しない……という無常観こそ、前述の凄惨極まる暴力描写も相まって、スクリーンから滲み出てくる最たるものなのだ。

ところで、本作の本編が終了し、おもいでポロポロ溢れ出るエンド・クレジットが始まっても、席を立ってはならない。その最後に、ほんの短いショットではあるが、本作のその先が描かれるからだ。それは『シェーン』(ジョージ・スティーヴンス監督、1953)を髣髴とさせる一瞬だ *4ランボーにとっての闘いは「まだ終わっちゃいない」のだ。


     ○


◆恋人アシュレーと共に、実家のあるニューヨークへ舞い戻った大学生ギャツビーだが、有名映画監督へのインタビューに舞い上がった彼女にデートをすっぽかされてしまう『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』ウディ・アレン監督、2018)は、いろいろ困惑させられる作品だった。

まずはなんといっても、役者陣の演技のアンサンブルが素晴らしい。やはり、とくにティモシー・シャラメエル・ファニング、セレーナ・ゴメスといった主人公たちを演じた若手俳優が輝いていて、その脇を固めるベテラン勢も素晴らしい。よくよく考えると中身がなかったり、心底くだらなかったりする内容をなんとも知れぬ軽妙な洒脱さを醸す台詞として落とし込むウディ・アレンの筆致も相変わらず健在で、そんなウジウジした感情を軽やかに演じてしまうのだから、やはり役者陣の表現力は見事なものだ。また、ベルナルド・ベルトルッチフランシス・フォード・コッポラらの監督作で撮影を手がけた名匠ヴィットリオ・ストラーロによる映像はじつに美しい *5。シーンごとに感触を異にする雨の表現はさすがである。

しかし、本作において、どこを向いてもウディ・アレンしか出てこないのは、いささか問題ではないか。言い直そう。ジゴロ的な人生に憧れながら恋人をスターに奪われてウジウジする主人公の金持ちインテリ中二病坊やギャツビーも、制作中の自作はクソだと腐す映画監督も、妻の不倫を疑る脚本家も、モテ男を自認するスター俳優も、婚約者のとある癖が気に入らないから結婚したくないと愚図る主人公の兄も、道端で映画を撮っている学生も、本作に登場するすべての男性キャラクターは、誰も彼もすべてウディ・アレンの投影だ。もちろん、これまでのウディ・アレン作品でも──主人公を彼自身が演じようと、ほかの俳優が演じようと──多かれ少なかれ登場人物は彼の投影だったわけだが、ここまでになると、さすがに観ていて困惑せざるを得ない。だって、押井守の映画じゃないんだからさ。

ところで、本作の内容如何と同時にどうしても触れなければならないのが、本国アメリカにおける本作の現状だ。2017年、ハーヴェイ・ワインスタインによる女性へのセクハラ被害の告発に端を発する動向のなか、ウディ・アレン自身がかつて犯したセクハラ問題──とくにミア・ファローの養女(そして現在アレンの妻)への性的暴行疑惑──が再浮上。これによって彼はハリウッドから干され、同時に本作へ出演した俳優たちのなか──とくに主演の若い世代──からは出演への後悔の明言、ウディ・アレンへの絶交宣言、ギャラの全額(もしくはそれ以上)を関連団体へ寄付するなどケチョンケチョンな反応を受け、アメリカでの公開はいまもって未定である(世界では順次公開されている)。

とはいえ、それも或いは当然かもしれない。世界がいま一度、女性蔑視や搾取の問題を追及し、男女平等への道のりを拓こうとしようとする時世のなかで撮っていたのが、ひたすらウディ・アレンの投影たちがよってたかって女性たちへの不満や疑いを延々愚痴り続けるものなのだから。しかも、ギャツビーが自身のジゴロ的な本性を、まさしく彼がその血族であったことを知り、特段の理由もなく幼馴染と結ばれることでハッピー・エンドを迎えるオチも──てらいがないといえば聞こえはいいが──願望充足欲求が過ぎる感は否めない。正直なところ、世情如何に関わらず、本作はどうかしている。いままでアレンの作品の端々にあった痛烈な自省の情感はこれっぱかしもみられない *6

ことほど左様に、いろいろな面において困惑させられる本作ではあるが、翻って現在の社会問題を思い起こさせてくれるという意味においては観てよかったのじゃないかしらん。


     ※

*1:不精な僕自身は、サメ映画ハンターではないので、様々なところから伝え聞くくらいしか、その実状は把握しておりません。

*2:あ。でも「愛のプレリュード」(We've Only Just Begun, Paul Williams, Roger Nichols, 1970)が流れるくだりは最高でした。

*3:中盤のある展開から、ランボーなら敵の本拠地で全滅させられたのじゃないの? と一瞬思ったりもした。

*4:瀕死の重傷を受けた主人公が、馬を駆って山々のほうへ去ってゆくという展開や画面レイアウトは、まさしく『シェーン』からの引用であるし、『シェーン』において描かれるのはガンマンの英雄的な活躍というよりも、暴力に手を染めてしまった者が至る悔恨や孤独への思索である。『シェーン』が映画史に燦然とその名を残し、後世──アメリカン・ニューシネマやクリント・イーストウッド、最近では僕の大好きな『LOGAN/ローガン』(ジェームズ・マンゴールド監督、2017)──に多大な影響を与えたのは、そのためである。そして、ランボーが悲惨なのは、そんな彼の背中を見送る者が誰もいない点であろう。

*5:だから本作の画面縦横比は、1:2なのだ。

*6:じゃあ単に「反省してまーす」と劇中にあればよいかという問題ではない。そもそもウディ・アレンは今回(=かつて)の騒動についてまったく否認している。

【備忘録】2020年上半期 鑑賞作品リスト

2020年上半期(1月~6月)に観た映画等の備忘録リストです。
末尾に “◎” のあるものは劇場で観たものです。今年はあと何本観られるかしらん。


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密偵キム・ジウン監督、2016)
トニー滝谷市川準監督、2005)
パトリオット・デイピーター・バーグ監督、2016)
『ザ・フォーリナー/復讐者』マーティン・キャンベル監督、2017)
マイル22ピーター・バーグ監督、2018)

『永遠の門 ゴッホの見た未来』ジュリアン・シュナーベル監督、2018)◎
『魂のゆくえ』ポール・シュレイダー監督、2017)
『ネメシス』アルバート・ピュン監督、1992)
『ザ・バニシング -消失-』(ジョルジュ・シュルイツァー監督、1988)
『リチャード・ジュエル』クリント・イーストウッド監督、2019)◎


10


『スノー・ロワイヤル』(ハンス・ペテル・モランド監督、2019)
『フォードvsフェラーリジェームズ・マンゴールド監督、2019)◎
『バジュランギおじさんと、小さな迷子』カビール・カーン監督、2015)◎
ヒックとドラゴン 聖地への冒険』(ディーン・デュボア監督、2019)◎
『キャッツ』トム・フーパー監督、2019)◎

『パラサイト 半地下の家族』ポン・ジュノ監督、2019)◎
パラノーマン ブライス・ホローの謎(サム・フェル、クリス・バトラー監督、2012)
『LUPIN THE IIIRD 峰不二子の嘘(前・後編)』小池健監督、2019)
『龍の忍者』(ユン・ケイ監督、1982)
アヴリルと奇妙な世界』(クリスチャン・デスマール、フランク・エキンジ監督、2015)


20


バッドボーイズ フォー・ライフ』(アディル・エル・アルビ、ビラル・ファラー監督、2020)◎
『犬鳴村』清水崇監督、2020)◎
『ハロウィン』デヴィッド・ゴードン・グリーン監督、2018)
T-34 レジェンド・オブ・ウォー ダイナミック完全版』(アレクセイ・シドロフ監督、2019)◎
『シライサン』安達寛高監督、2020)◎

『記者たち 衝撃と畏怖の真実』ロブ・ライナー監督、2017)
わらの犬サム・ペキンパー監督、1971)
チャーリーズ・エンジェルエリザベス・バンクス監督、2019)◎
ルパン三世 プリズン・オブ・ザ・パスト』(辻初樹監督、2019) ※TVM
『スキャンダル』(ジェイ・ローチ監督、2019)◎


30


『野性の呼び声』(クリス・サンダース監督、2020)◎
バーバラと心の巨人アンダース・ウォルター監督、2017)
『ブラック・クランズマン』スパイク・リー監督、2018)
『Fear Filter(原題)』(トレイシー・クリーマン監督、2019) ※短篇
『神と共に 第一章: 罪と罰キム・ヨンファ監督、2017)

『神と共に 第二章: 因と縁』キム・ヨンファ監督、2018)
『Stereoscope(原題)』アレキサンダー・ババフ監督、2017) ※短篇
『母との約束、250通の手紙』(エリック・バルビエ監督、2017)◎
『ジュディ 虹の彼方に』(ルパート・グールド監督、2019)◎
『ゾンビコップ』マーク・ゴールドブラット監督、1988)


40


要心無用(フレッド・C・ニューメイヤー、サム・テイラー監督、1923)
史上最大の作戦ケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ、アンドリュー・マートン監督、1962)
『ラヴァーズ&ドラゴン』(ウィルソン・イップ監督、2004)
『死の標的』(ドワイト・H・リトル監督、1990)
火の鳥2772 愛のコスモゾーン』手塚治虫総監督、杉山卓監督、1980)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』(キャシー・ヤン監督、2019)◎
『脱出』ジョン・ブアマン監督、1972)
Virginia/ヴァージニアフランシス・フォード・コッポラ監督、2011)
『サッドヒルを掘り返せ』(ギレルモ・デ・オリベイラ監督、2017)
『ミッドサマー』アリ・アスター監督、2019)◎


50


『THE GUILTY/ギルティ』(グスタフ・モーラー監督、2018)
『1917 命をかけた伝令』サム・メンデス監督、2019)◎
『劇場版 ドーラといっしょに大冒険』(ジェームズ・ボビン監督、2019)
切腹小林正樹監督、1962)
『安市城 グレート・バトル』(キム・グァンシク監督、2018)

オーバードライヴリック・ローマン・ウォー監督、2013)
『サーホー』(スジート監督、2019)◎
『弾痕』森谷司郎監督、1969)
『痩せ虎とデブゴン』(ラウ・カーウィン監督、1990)
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』片渕須直監督、2019)◎


60


大殺陣工藤栄一監督、1964)
『シックス・ストリング・サムライ』(ランス・マンギア監督、1998)
『たたり』ロバート・ワイズ監督、1963)
シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』(フィリップ・ラショー監督、2019)
『トリプル・スレット』ジェシー・V・ジョンソン監督、2018)

『ドント・イット THE END』(タタル・シェルハミ監督、2018)
『聖女/Mad Sister』(イム・ギョンテク監督、2019)
『拳精』(ロー・ウェイ監督、1978)
悪魔の棲む家(アンドリュー・ダグラス監督、2005)
帝都大戦』(藍乃才総監督、一瀬隆重監督、1989)


70


『トランス・ワールド』(ジャック・ヘラー監督、2011)
『ノー・エスケイプ』マーティン・キャンベル監督、1994)
イースター・パレード』チャールズ・ウォルターズ監督、1948)
エンドレス 繰り返される悪夢チョ・ソンホ監督、2017)
『人工夜景─欲望果てしなき者ども』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1979) ※短篇


ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1984) ※短篇
ギルガメッシュ叙事詩を大幅に偽装して縮小した、フナー・ラウスの局長のちょっとした歌、またはこの名付け難い小さなほうき』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1985) ※短篇
『ストリート・オブ・クロコダイル』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1984) ※短篇
『失われた解剖模型のリハーサル』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1986) ※短篇
『スティル・ナハト─寸劇』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1988) ※短篇


80


『スティル・ナハト2─私たちはまだ結婚しているのか?』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1991) ※短篇
『スティル・ナハト3─ウィーンの森の物語』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1993) ※短篇
『スティル・ナハト4─お前がいなければ間違えようがない』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1994) ※短篇
『櫛(眠りの博物館から)』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1990) ※短篇
『人為的な透視図法、またはアナモルフォーシス(歪像)』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、1991) ※短篇

『不在』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、2000) ※短篇
『ファントム・ミュージアム ―― ヘンリー・ウェルカム卿の医学コレクション保管庫への気儘な侵入』(スティーヴン・クエイ、ティモシー・クエイ監督、2003) ※短篇
『25日・最初の日』ユーリー・ノルシュテイン監督、1968) ※短篇
『ケルジェネツの戦い』ユーリー・ノルシュテイン監督、1971) ※短篇
『キツネとウサギ』ユーリー・ノルシュテイン監督、1973) ※短篇


90


アオサギとツル』ユーリー・ノルシュテイン監督、1974) ※短篇
『話の話』ユーリー・ノルシュテイン監督、1979) ※短篇
『アニー・イン・ザ・ターミナル』(ヴォーン・スタイン監督、2018)
『ホテル・アルテミス ─犯罪者専門闇病院─』(ドリュー・ピアース監督、2018)
『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(デヴィッド・ロウリー監督、2017)

『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』(アヌラーグ・シン監督、2019)
シシリアン・ゴースト・ストーリー』(アントニオ・ピアッツァ、ファビオ・グラッサドニア監督、2017)
『彼らは生きていた』ピーター・ジャクソン監督、2018)◎
『エヴォリューション』(ルシール・アザリロヴィック監督、2015)
21世紀の資本(トマ・ピケティ、ジャスティン・ペンバートン監督、2019)◎


100


『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』グザヴィエ・ドラン監督、2018)◎
フェア・ゲーム(アンドリュー・サイプス監督、1995)
『ナイト・オブ・シャドー 魔法拳』(ヴァッシュ・ヤン監督、2019)◎
『ドラゴン特攻隊』(チュー・イェンピン監督、1982)
『みじかくも美しく燃え』(ボー・ヴィーデルベリ監督、1967)

『凍える牙』(ユ・ハ監督、2012)
『クロール─凶暴領域─』アレクサンドル・アジャ監督、2019)
キョンシーvs五福星』チェン・チューファン監督、1987)
『ひまわり 50周年HDレストア版』ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1970)◎
『アス』ジョーダン・ピール監督、2019)


110


『SKIN 短編』(ガイ・ナティーヴ監督、2018) ※短篇
『守護教師』(イム・ジンスン監督、2018)
ヘルボーイニール・マーシャル監督、2019)
『ドクター・ドリトル』スティーヴン・ギャガン監督、2020)◎
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地黎明』ツイ・ハーク監督、1991)

『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語グレタ・ガーウィグ監督、2019)◎
『ポラロイド』(ラース・クレヴバーグ監督、2019)
アメリカン・サイコ(メアリー・ハロン監督、2000)


     ※


【TVアニメ】
ルパン三世 PART5矢野雄一郎監督、2019)

2020 6月感想(短)まとめ

2020年6月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


     ※


【劇 場】
◆いまから約100年前に勃発した第1次大戦を映した記録フィルムを現代に甦らせた『彼らは生きていた』ピーター・ジャクソン監督、2018)は、凄まじい映像と証言の数々が生々しく迫るドキュメンタリー作品だった。

本作が描く1910年代といった映画黎明期から20世紀初頭に撮影された映像をいま我々が観るとき、その動きが奇妙にちょこまかと早回しに見える。これは、当時のフィルムの撮影速度が主に毎秒16コマ──さらに機材が手回しだったり環境によってもまばらだっという──が技術的な限界であったものが、トーキー以降の現在では毎秒24コマの撮影(映写)速度へと変化しているためだ。そこで、本作では最新技術を用いて、帝国戦争博物館に保存されていた当時の記録フィルム──主に戦線の様子を映した素材──を修復、速度補正(=隙間をデジタル技術によって擬似的に補填して24コマ化)、そしてカラー化を施したうえで本編を構成している。これによって、スクリーンに映し出される映像の数々は単なる記録フィルム以上に生々しく、自然な動きとして “いま現在” の我々の眼に迫ってくる。

もちろん元素材にあったのであろうモーション・ブラー(動きによるブレ)の部分には多少の違和感があったり、カラー化もテクニカラーの鮮やかさとまではいかないが、それでも開戦から英国本土で行われた新兵訓練までの記録映像をフィルムの傷や速度をそのまま補正なしに映す本編序盤の映像構成から、ついに彼らが欧州戦線へと出征し、ふいに画面が我々のよく馴染んだ「リアル」な映像に移り変わる瞬間には、えもいわれぬ迫力と感動がある。彼我を隔てる100年という時間差が一気に縮まるのだ。

この映像を使って本作は、戦争状態という非日常的な様相と同時に、それが日常として存在する生活感とを並置してして描き出す。最前線の塹壕無人地帯(ノー・マンズ・ランド)、後方の町でのノホホンとした休暇、負傷した身体、打ち捨てられて朽ちるままの死体の山、前線でのトイレ事情、砲弾や地雷の爆発と着弾、紅茶、そしてなによりも、カメラを見つめる名も無き兵士たちの十人十色の造作や表情が──まるでアウグスト・ザンダーの一連の写真のように──まざまざと眼に焼きつくことだろう。つい先日まで、普通の市民だった男たちが銃を持ち、わけもわからず西部戦線へと赴き、殺し合ったのだという事実が重く胸に突き刺さる。

そして、BBCが所有する退役軍人たちのインタビュー音源素材によって語られる証言の、開戦を聞いた各々の反応や開戦直後に醸成される同調圧力の数々──「パパは戦争のとき、なにをしていたの?」という台詞入りで印刷されたイラストなど、素材として挿入される当時のプロパガンダ的チラシの煽り方たるや──の醜悪さ、そして戦禍が熾烈を極めるごとに様々な閾値がどんどん急降下してゆく様子など凄まじい *1。そして、終戦してようやっと帰国した兵士たちを待ち受けていた現実も非情だ。いまなお世界各地で巻き起こっている戦争においても、本作で語られたようなことが飽くことなく繰り返されている──そして、続いてゆく──のかと思うと、やるせない。

歴史において、風化させるべきではない過去は──記録と記憶、双方において──多くあるだろう。それを喰い止めるひとつの方法がドキュメンタリー映画であるなら、本作はその試みにおいて新たな語り口を見出した見事な意欲作だ。本作が歴史の大きな趨勢よりも、あくまで一兵卒たちの視線にこだわって製作されていることも相まって、観客の記憶へ強烈に残り続けるに違いない。必見。


     ○


◆陰陽の筆を武器に諸国を旅して妖怪を封印してまわる文豪プウ・スンリンの冒険を描く『ナイト・オブ・シャドー 魔法拳』(ヴァッシュ・ヤン監督、2019)は、絢爛なVFXを身にまとったジャッキー・チェンが楽しいファンタジー・アクションだった。

今回ジャッキーが演じる妖怪ハンター兼小説家プウ・スンリンとは蒲松齢(ほ・しょうれい)のことで、本作は彼がいかにして『聊斎志異(りょうさいしい)』を著していたかをファンタジー映画として描いたものだ *2。したがって本作は、ここ10年来、中国でのシネコン館数増大による需要拡大から増えてきた自国──もしくは香港等との合作──製作によるVFX満載のアクションを売りにした中華風ファンタジー作品群の流れを汲んだ1作といえるだろう。

ところで、そういった作品群の題材として古典『西遊記』がちょっとしたブームとなっており、ドニー・イェン孫悟空に据えた『モンキー・マジック 孫悟空誕生』(ソイ・チェン監督、2014)と、演者をアーロン・クオックに交代した『西遊記 孫悟空vs白骨夫人』(同監督、2016)、『~女人国の戦い』(同監督、2018)の「モンキー・キング *3」シリーズに加えて、別に『西遊記~はじまりのはじまり~』(チャウ・シンチーデレク・クォック監督、2013)、『西遊記2~妖怪の逆襲~』(ツイ・ハーク監督、2017)の「西遊 *4」シリーズという異なる2シリーズが同時に製作され、さらに単発作品など *5も数作公開されているほど。

こういった潮流のなかで、孫悟空=ドニー/アーロンの「モンキー・キング」シリーズを製作したアガン(キーファー・リュウ)が新たな題材として、『西遊記』同様に中国の古典文学である『聊斎志異』に再びスポットを当てて──シリーズ化も視野に *6──本作『ナイト・オブ・シャドー 魔法拳』をプロデュースして映画化したということだろう *7。それもあってか、大から小まで様々に妖怪たちが登場する世界観、まるで山水画のようにニョキニョキと生えた山々──本作の舞台はすべて、この雲をも貫く山頂に作られた、まるで仙人たち御用達のベッド・タウンがごとき町々なのが面白い──やクライマックスに登場する冥界の様子など、類似する画面もそこかしこにある(まあ、最近の中華ファンタジーで全体的に流行っている画面のテイストともいえる)。

とはいえ、ジャッキーのカンフー・アクションはさすがに控え目なものの得意のコメディ演技は見ていて笑いを誘うし、本作ほど “判りやすい” VFXを多用したファンタジー映画のなかにジャッキーがいるという画自体がかなり新鮮だ *8。緑と赤の映える色彩設計が美しい衣装や美術設定、まるでポケモンよろしく封印の小瓶からその都度ジャッキーに召喚される妖怪たちの着ぐるみを思わせるCGの質感──エンドロールに映されるメイキング・シーン集を見ると、実際に現場では着ぐるみでも撮影が行われたようだ──も可愛らしい。

そして、おそらく本国では3D映画として公開されたと思しき立体感を強調した画面レイアウトにて展開される武侠アクションや、護符の束から瓦礫まで舞い踊るスペクタクル・シーンでの追走アクションなど臨場感満点。また、公式ホームページ等によると、VFXによってジャッキー・チェンの顔を若々しくレタッチしたシーン──おそらくプロローグかな?──があるそうだが、たしかに肌艶はよいものの、現在と若い頃では骨格がかなり変化していることもあって、イマイチ効果不足な感があるのはご愛嬌か。

まあ、たしかに突っ込みどころは多いし、ギャグはコテコテではあるしと、いろいろと全体的にユルい味わいの作品であるが、本作は前述のように画面を観ていて楽しい作品なのには違いない。しかし、惜しむらくは演出が──とくに後半にいたって──明らかに息切れしている点だ。ジャッキーがその危機をいかにして脱したかの描写がスッポリと抜け落ちていたり、泣かせとしては陳腐な展開かつ演出が頻出したり、物語中盤で振られた件はどうなったとか、ラストはちょっと淡白すぎなのじゃないかしらんとか、詰めの甘さがそこかしこに露見している。それでも、もう60台半ばとなったジャッキー・チェンの飽くなき映画への挑戦を見ることができるのは、たいへん嬉しいことだ。石丸博也らによる息の合った吹き替えも絶品だ *9


     ○


◆動物と会話のできる獣医ドリトル先生がとある出来事によって心を閉ざして幾星霜、彼の館にやってきた心優しき少年トミーとともに新たな冒険へと繰り出す『ドクター・ドリトル』スティーヴン・ギャガン監督、2020)は、キャラクターは可愛いけれど、アクションシーンの見せ場がいまいち魅力に乏しい1作だった。

なんといっても本作の見所のひとつは、CGにて再現された種々の動物たちだろう。人真似転じて本当に人語を喋られるようになったオウムのポリーや怖がりゴリラのチーチー、寒がりの白熊ヨシなどといった動物たちの、リアリスティックな造型とアクションながら人間のようにデフォルメされた表情やポーズを見せる独特の按配が可愛らしい。エディ・マーフィ主演のシリーズのころとは違って、もはや全CGなのが時代の流れを感じさせる。光陰矢のごとし。

そんな彼らと冒険を繰り広げるドリトル先生を演じたロバート・ダウニー・Jr. のほぼ独演会ともいえる姿も、本作の見所だ。もはや彼の芸風のひとつである奇人変人演技がこれでもかと大盤振る舞いであり、本作において心を閉ざして引きこもりになってしまったドリトルの奇行や、彼の家に住まう動物たちと “それぞれの” 言葉で会話する一挙手一投足、猫の目 *10のように変わる表情は観ていて楽しい。中盤の見せ場のなかで──作り手の意図はどうあれ──どうしたってアイアンマン・スーツをまとったようにしかみえないショットがあったのにも笑った。

しかしながら本作は意外と退屈。その最大の理由は、大小さまざまあるアクションシーンの構築がかなりお粗末だからだ。その舞台となる空間配置と見せ方があまり練られていないために、アクションに臨場感がほとんど伴っていない。たとえば前半の見せ場である、トミー少年がキリンに掴まっての町からの脱出~建設中の橋からドリトル先生の船に乗り移るシーンのなんとも知れぬ飲み込みづらさは如何ともしがたい。せっかく多くのCGキャラクターを使用するのだから、もっとダイナミックなカメラワークやパズルのように展開するアクションを構築することもできたろうに、たいへん惜しい。また、妙に寄りのショットが多いために動物たちが不自然に見切れてしまったりするなど、画面の狭苦しさもそれに拍車をかける。実際、冒頭に附されるプロローグのアニメーション・パートは、その辺も素晴らしいのだけど……。

最後に日本語吹替え版について。本作が遺作となった藤原啓治によるダウニー・Jr. の吹替えは、さすが『アイアンマン』(ジョン・ファヴロー監督、2008)以降、多くの作品で彼を演じてきただけあって、見事なシンクロぶりだ。その他、大御所からベテランまで──一部いわゆるタレント吹替え枠はあるものの気にならない程度──を配した全盛期の洋画劇場吹替え版もかくやの出来栄えで、そういう意味では、テレビを付けたら放送していた映画にたまたま出くわした昔の感覚を思い起こさせるようだ。

ことほど左様に、もっと面白くなりそうな要素はたくさんあるだけに、ちょっともったいない作品だ。


     ○


◆小説家を目指す次女ジョーら4姉妹を活き活きと描いたルイーザ・メイ・オルコットの小説『若草物語』(1886)を映画化した『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語グレタ・ガーウィグ監督、2019)は、原作の魅力を削ぐことなく、しかし新たな解釈で現代的に生まれ変わらせた傑作だ。

なんといっても本作における脚本のアレンジが素晴らしい。本作では、これまでの映像化がそうであったように原作どおりの時間軸をなぞるのではなく、それぞれ大人になって別々の道をゆこうとする “現在” と、かつて姉妹揃って暮らしていた “7年前” とを交互に描いてゆく。この構成が非常に巧みで、成人期と少女時代とで起こる類似する出来事を反復するように置くことで、現在と過去におけるそれぞれの結果や意味合いの差がより際立ち、いっそうエモーショナルに物語を盛り上げることに成功している。

また、それを映す画面の色彩設計も見事。厳しい現実に直面する現在の時系列では冷ややかな寒色系、そして幸福だった過去の時系列では鮮やかな暖色系によってそれぞれ統一された画面は、先述の時系列シャッフルを美しくも無理なく展開させる大きな要素となっているし、スティーヴン・スピルバーグの助言によってデジタルではなくフィルム撮影が敢行されたという本作の色彩の豊かさはいうに及ばない。

そして『若草物語』という物語を相対化し、まるでジョーとオルコットが同一化してゆくかのような本作独自のラスト・シーンも効いている。冒頭、ジョーが編集長から「女が主人公なら、その結末は結婚するか、死ぬかだ」と言われたこと──そして、実際に原作小説でもそうであるわけだけれど──を受けて、しかしオルコット自身の本当の思いとはどのようなものだったのかを浮かび上がらせてみせるかのような展開は特筆に値する。

とにもかくにも、今日(こんにち)改めて『若草物語』を映画化する刷新性と意義、そしてもちろん面白さを兼ね備えた見事な作品だ。


     ※

*1:本作では、射撃音や爆発、そしてガヤなどをサウンド・エフェクトとして追加録音しているが、これらの生の記録のうえにあっては「こんなものじゃないのだろうな」と思うこと必至。しかし、おそらく画面内のシチュエーションからの類推や、読唇術で兵士たちの「台詞」を決めたのだろうけど、まるで同録素材かと思えるほどに自然なのには驚いた。

*2:似た構造の作品として、たとえば『ブラザーズ・グリム』(テリー・ギリアム監督、2005)などが思い出される。

*3:英題から便宜的に。

*4:原題から便宜的に。

*5:悟空伝』(デレク・クォック監督、2015)や『西遊記 孫悟空vs7人の蜘蛛女』(スコット・マ監督、2018)、さらにかつてチャウ・シンチー孫悟空を演じた『チャイニーズ・オデッセイ』2部作(ジェフ・ラウ監督、1995)の続篇『3』(同監督、2016)も公開(ただし日本未公開&未発売)されている。また、長編CGアニメーション西遊記 ヒーロー・イズ・バック』(ティアン・シャオパン監督、2015)が製作されており、この作品の英語吹替え版では、ジャッキー・チェン孫悟空を演じている。余談だが、ジャッキー映画で『西遊記』を扱ったものといえば、ジェット・リーとの初競演が話題となった『ドラゴン・キングダム』(ロブ・ミンコフ監督、2008)も忘れがたい。

*6:「モンキー・キング」同様にキャストを変えてシリーズを続ける可能性はある。

*7:聊斎志異』を原作とする映画として、最近ではドニー・イェンが出演した『画皮 あやかしの恋』(ゴードン・チャン監督、2008)などがあったし、本作と同様に「聶小倩(じょうしょうせん)」を題材にした作品で有名なのは、やはりツイ・ハーク印の『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(チン・シウトン監督、1987)だろうか。

*8:なんでDVDしか発売されてないの (つ_・、) クスン.? HDは配信のみ。

*9:なぜか本作の吹き替えでは『名探偵コナン』ネタがいくつか登場する。おもしろかったけれど、なぜなのかさっぱり見当がつかぬ。なぜ?

*10:本作に猫は登場しない。