2022 10月感想(短)まとめ

2022年10月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆とある山間の田舎町で謎の失踪事件が頻発、そこで農業を営む田中淳一のひとり息子・一也が森の中で得体のしれないなにかに遭遇する『“それ” がいる森』中田秀夫監督、2022)は、なんとも知れぬ、エンタメとしてはもったいない1作だった。

本作が取り扱う題材や、予告や宣伝でこれでもかと隠されていた “それ” の正体について、とくに不満があるわけではない。やがてつまびらかにされる ”それ” の姿や設定など、つっこみどころはなくはないが、それなりのインパクトと理屈が添えられていて、ことさらに悪いとは思わない。 離婚した妻のもとにいたひとり息子との距離をなんとか埋めようと努力する父というドラマの根幹も掴みとしては良いだろう。


しかし残念ながら、本作は脚本の段取りがとにかく悪い。キャラクターの不要な設定、説明的なリアクション台詞、繰り返される愁嘆場は昨今のメジャー邦画においてもはや慣れたものだけれど、それ以上に本作、前振りや伏線がそれとしてまったく機能しておらず、そのくせ展開上どう考えたって必要な前振りや伏線がいっさい──本当に文字どおり──ない(なんなら映るべき登場人物すら足りないのだ)。

それが証拠に、さんざっぱら公開まで「クマではないこと」以外をひた隠しにしていた “それ” の正体について、序盤から観客にいっさいのミスリードが許されないのだ。なんとなれば、タイトルまでのアバンを観るだけで「あ、あれか」とおよその察しがついてしまう “わかりやすさ” はいかがなものか(劇伴の方向性を変えるだけでも、もうすこしミスリードを誘えただろう)。観客によっては、本作の舞台とする場所の字幕が表示されるまでの冒頭の1、2ショット──おそらく、とある作品のオープニングシーンへのオマージュ──を、観れば気づいてしまうだろう。


もちろん中盤に観客のミスリードを誘おうとする要素はいくつか用意されているものの、その伏線の多くは出しただけで回収されずに終わり、それ以前に前半部で疑いようもなく正体の知れるものをまざまざとスクリーンに映してしまうのである。それでいて「“それ” の正体がじつは……!」とされても困惑するばかりだ。これが意図的なのだとしたら、驚くべき作劇である。やろうと思ってなかなか出来る芸当ではない。

その混乱ぶりが頂点に達するのが、クライマックスである。ただでさえ整理がされていない物語のクライマックスにいたって、なぜ舞台を二手に分けてしまったのか。よくわからない人的スケール感、サスペンスのためだけに用意された展開を追うチグハグなカットバック、あきらかに奇をてらわず時系列どおり組み込んでいたほうが有効だった展開を映すフラッシュバック、内容的にはすでに解決したはずの愁嘆場まで盛り込むロイヤル・ストレート・フラッシュを決められては、シャッポを脱いで両手を挙げるよりほかはあるまい。


本作は、邦画ではあまり見られないタイプのホラー映画に挑戦しようとした企画や題材それ自体は悪くないし、志を感じるものだ。これまで腐した本編中にだって、要所要所ではよい部分──たとえば端正なカメラワークや、小日向文世の流石の演技など──もある。だからこそ、どうしてもっと脚本段階で精査がなされなかったのか、という疑念は拭い去れない。とにかく ”それ” の正体以前の問題が、ことほど左様に多すぎる。もっといくらでも面白くできたと思うのだけどなぁ。


しかし、しかしである。ただいっぽうで、もしかして本作は日本風刺劇だったのかしらん、という気がしないでもなくなっている(日に日にだ)。

というのも物語が当初からソレだけ明快な「答え」があるにも関わらず誰も耳を貸さず、バカな大人を食い物にするのはもちろんのこと、せめてもの良心である善良な幼き小市民を容赦なく犠牲にして、あまつさえ危険地帯に人々を呼び込んで搔き集め、結局のところ “身内” や “おともだち” だけを重んじるイケスカナイ金持ち一家が勝ち残り、事件が根本的には解決していないにも関わらず喉もと過ぎれば「よかったよかった」と無根拠に満面の笑顔を浮かべて──しかもスポーツ大会で!──いるのは、まさしく我々の今日日(きょうび)の日本の戯画化/風刺なのでは(しかも “森” ですぜ)? もしそうなら、不出来を通り越して不条理な脚本の不合理さ加減にも、現状の日本社会の似姿として納得がいくような気がするゾ…… !!!! もしも本作が本当にそういう意図で作られたのなら、いまの日本は、フランコ政権下のスペインにも等しい状況下にあるということだよ(それが冗談にも聞こえないのが怖い)。

中田監督が予告編で、「怖さ」について本作以上に追及したものはない、とコメントしていたのは、あるいはこういう現実のことだったのかもしれない。


     〇


◆ミスター・ウルフの率いる泣く子も黙る動物怪盗団が、思わぬ陰謀に巻き込まれる『バッドガイズ』(ピエール・ペリフィル監督、2022)は、面白可笑しく楽しめるエンタテインメントでありつつ、なかなか噛み応えのある作品だった。


まず本作の画作りが、なかなか面白い。本作はいわゆるCGアニメーションであるが、その質感は──たとえばディズニーやピクサーが追及する、体毛の1本1本を造形するような──リアルなものではなく、むしろ絵の具を浸した筆で塗り上げたようなものとなっているのが特徴だ。目や眉などはほとんど2Dアニメのようにパッキリ塗り分けられている。加えて砂煙や爆発、指パッチンなどの漫符といったエフェクト・アニメーションだけをすべて2Dのセルアニメ調に表現しており、この組み合わせの妙が、いままであまり類のない不思議な手触りをスクリーンに醸し出している。この、いかにもマンガ的なリアリティのなかでキャラクターたちが活き活きとアクションをして跳ね回るさまを観ているだけでも楽しいというものだ。

本作はいわゆるケイパーものであるが、ふたを開けてみると作り手たちの「好きなもの全部入れてしまえ!」という叫びが聞こえてくるかのようなオマージュの数々に溢れている。作り手たちが明言するように、全体の雰囲気としてはあきらかにアニメ『ルパン三世』や犬の『名探偵ホームズ』シリーズ──自由落下している最中に平泳ぎして相手に近づこうとするところなんかとくに宮崎駿調よね──を基調としているし、ミスター・ウルフの衣装は『オーシャンズ11』のジョージ・クルーニー、「ホッホッホッホッ!」と息遣いのやかましい警官隊や無暗な台数のパトカーを引っ提げて逃げ回るカーチェイスは『ブルース・ブラザース』、コミカルでありながら迫力満点の格闘はジャッキー・チェンらの黄金期香港アクション構築、街のド真ん中に巨大なクレーターがポッカリ空いているのは『AKIRA』、開幕の展開や意味があるのかないのかわからない会話の応酬はタランティーノ映画、『ワイルド・スピード』シリーズか『PUI PUI モルカー』かはたまた『大群獣ネズラ』かといったクライマックスの捕り物合戦、挙句に蛇のスネークのシルエットは『ラスベガスをやっつけろ』のポスターに描かれたグニョグニョのジョニー・デップなどを連想させ、挙げ出したらキリがない。

例によって悪い癖で鼻息荒くアレコレ挙げつらってしまったが、これらパロディやオマージュが本作のもちろん本題ではなく、画面や作劇を味つけするスパイスだ。本作は、そんな前知識がなくても大人から子供までがギャグに笑い、アクションの迫力に興奮し、展開にハラハラして楽しめるようにきちんと作られているし、かつオマージュ元をすぼめてもいない非常にまっとうなエンタテインメントとして仕上がっている。いうなれば、エドガー・ライト監督作品群に近しいものがあるだろう。


ところで、予告編などを観た印象から、本作をディズニー映画の『ロビンフッド』や『ズートピア』のように、擬人/戯画化された動物たちの世界を舞台にしているように思われる方が大半だろう。かくいう僕もそうだった。しかし本編をじっさいに観てみると、ミスター・ウルフやスネークといったメインのキャラクターたちだけが動物で、その他大勢は普通に人間として登場するという、非常に不思議な世界観設定となっている。しかも、とくになんの説明もなくこれを自明の理として物語を展開するので、思わず「あり日しの東映まんが祭りか!」と面食らってしまった。

とはいえ、これはつまり狼や蛇や鮫といった悪役の寓意として──劇中でも言及されるように──物語に登場しがちな動物たちを人間社会にそのまま寓意というよりは直喩的に放り込んでいるわけで、さすが『シュレック』シリーズを世に放ったドリームワークス制作の映画らしい捻りの効いた設定だ。そしてこのことが、劇中で語られる “善いこと/悪いこと” の寓話性に絶妙な揺らぎを添えていて面白い。人(動物)の本性は見た目のままなのか、なにが感情を規定するのか、もし教育と訓練だけで手に入れられる善良ならばそれは動物的なのではないか、などなど考え出すと思いのほか考え込んでしまう。

このように本作には、一見きわめて単純に思えて、なかなか噛み応えがあり、ひと癖もふた癖もあるような独特の味わいがある。劇中なんども登場しては、その場その場でわかりやすくて安直なまとめをしようとするキャスターのような物言いをついつい求めてしまいがちな今日日(きょうび)の我々に対して、本作はひとつのカウンターとなってくれることだろう。


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2022 9月感想(短)まとめ

2022年9月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆謎の赤い隕石を目撃した三好麻里亜を取材のため自宅を訪れた映画監督・黒石光司と助監督・市川美保が次々と奇妙な怪異に襲われる『オカルトの森へようこそ THE MOVIE』白石晃士監督、2022) *1は、白石監督がこれまで『オカルト』(2009)や『カルト』(2013)、OVシリーズ『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』(2012-)など、一見バラバラに見える作品群によって積み上げてきた、いわば “白石晃士マルチバース” とでもいうべき世界観の、現時点での集大成的作品だった。

本作を観れば、宇野祥平や大迫茂生、白石晃士といったお馴染みのキャスト、堀田真由演じる助監督や飯島寛騎演じる霊能者の名前やキャラクター *2、例のミミズやいつか見たあの景色などなど、これまで白石作品を観てきた観客ならニヤリとしてしまう要素はもちろん、フェイクドキュメンタリーならではのPOV 形式の映像の見せ方や切り取り方の妙、予算以上に画面をリッチに見せる様々な工夫、そして独特の善悪の彼岸感など、しっかりと彼の作家性を1本のエンタメとして存分に堪能できる。また、全篇が明るい真昼間で展開されるのは、本作の題材的にも白石流『ミッドサマー』といったところだろうか。

本作が特徴的なのは、とにかくテンポがよいことだ。というのも、本作の登場人物たちは皆、これまで別の世界線で異常な経験を様々にしすぎたためか、襲い来る怪異への順応と対応がじつに迅速なのだ(ポルターガイスト的にすっ飛んできたものを1発で叩き落とすシーンとか最高でしたね)。そのため、怪異に恐怖したり対応に二の足を踏む展開がギリギリまでそぎ落とされ、そのぶん連続する見せ場とスウィングする謎、癖の強い登場人物たちのアクションによってグングン観客を引っ張ってくれるに違いない。だから本作は、ホラー映画が苦手な方や白石監督作品をはじめて観るといった方に、むしろオススメかもしれない。

劇中、黒石監督がことあるごとに「この映画、傑作になるの?」と尋ねられていたが、エンドロールを眺めながら思わず胸中で「黒石(白石)くん、ケッサクだよ! (しかも超大作!)」とサムズアップしたのでありました。もちろん手持ちカメラによる主観映像で構成された作品なので、だいぶ見易くマイルドなほうであるとはいえグラグラ揺れるので、画面酔いしやすい方はご注意くださいね。

ところで、本作には本編に先立って前日譚的短篇『訪問者』(同監督、2022)が附されている。こちらは室内の監視カメラと黒石監督の手持ちカメラの2種類の視点を用いた作品で、POV ゆえに撮り損ねる怪異という観点が面白かった。


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【ソフト】
◆殺し屋界最強といわれる若手 “国岡” に密着取材する『最強殺し屋伝説 国岡[完全版]』(阪元裕吾監督、2021)は、自主製作映画感あふれる雰囲気──とくに、常に挿入されるキャプションの垢ぬけなさ──にねじ込まれる疑斗の完成度の高さとのギャップが面白い作品だった。もちろん、なんでそこでカット割れるンだよ、というモキュメンタリーとしての破綻 *3へのツッコミは入れつつも、すったもんだあっての後半において酒に酔った国岡が吐露する「普通ってもののレベルが高すぎて俺にはムリポ(要約)」という独白に「わかりみがすぎる」と、ひとり慟哭したのでした。


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◆20億年後の未来、滅亡の危機に瀕した人類が現代の我々に向けた音声メッセージを送信する、オラフ・ステープルドンの同名SF小説を映画化した『最後にして最初の人類』ヨハン・ヨハンソン監督、2020)は、“見立て” ここに極まれりといったような作品だ。

本作は、すべての物語/人物/景色が旧ユーゴスラビアに実在する風景(戦争記念碑〈スポメニック〉)による “見立て” の映像だけで展開され、しかもその “見立て” を成立させてしまう実景ゆえに放たれる存在感が、画面に独特の世界を強く立ち現わせている。先ごろ死亡報道のあったジャン=リュック・ゴダールがSF『アルファヴィル』(1965)にて当時のパリ市街の風景を宇宙都市、自動車を宇宙船に “見立て” ていたのとはまた別のトンガリかただ。もちろん、本作完成前に急逝したヨハン・ヨハンソンによる荘厳さと不穏さとが交差する楽曲も、本作の世界観の構築と持つ音声メッセージ性を見事に強調している。

余談だけれど、この映画版に限っていえば、全篇ほぼ静止画《的》なモノクロ映像であること、ナレーションのみで物語が語られること、人類の破滅にまつわる円環的な物語構造を持つこと、さらに画面縦横比がヨーロッパビスタサイズ(1:1.66)であることから、手法的にはあきらかに『ラ・ジュテ』(クリス・マルケル監督、1962)が元ネタかと思われる。また、ステープルトンに影響を受けたといわれるだけあって、ときおり現れるアーサー・C・クラーク原作『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)オマージュも味わい深い。これらのことからも、1930年に著された原作小説から今日にいたるまで、ある種の決定論的人類史感の系譜が連綿と受け継がれていることにも思いを馳せさせられる。

いずれにせよ、ほかになかなかない存在感を放つ1作には違いない。


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【配 信】
◆2018年、タイのタムルアン洞窟の遭難事故における救出活動を題材にした『13人の命』ロン・ハワード監督、2022)は、実録モノとしてもディザスター映画としても見応えのある作品だった。ハワード監督の作風の印象は、良くも悪くも “ソツはないが淡泊” といった感じだったけれど、本作ではそれが十全に活かされた傑作だ。当時、報道規制があったこともあり不鮮明だった実際の出来事が──もちろん、映画用に改変された部分もあるにせよ──ドキュメンタリックに時々刻々と活写される緊張感もさることながら、そこかしこに描写される “自助” ではなく “共助” の精神にも胸を打たれた。


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*1:本作は、WOWOWにて放送のドラマシリーズ(全6話)を劇場用に繋げた作品。

*2:超人イケメン霊能者ナナシが「名前は?」と問われて「ねぇよ」と答えるンですが、なんとなく「ネオ」って聞こえるのとかね。

*3:あと、登場する殺し屋たちが皆一様に撮影者/取材者に無暗に優しく対応してくれるのが「優しい世界」とタハーッとなったのでした。

2022 8月感想(短)まとめ

2022年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆映画撮影用に馬を飼育・調教する牧場を亡き父から引き継いだOJ とエムの兄妹が、敷地の上空にいる “なにか” の存在に気づく『NOPE/ノープ』ジョーダン・ピール監督、2022)は、エンタメ性と寓意性が絶妙にミックスされた見事な1作だった。


【脚注でネタバレしてます】


と(↑)は書いたものの、なかなか本作はネタバレをしたくないタイプの作品である。とりあえず少なくともいえるのは、これまでも同様のジャンルを描く作品は古くから数多あるけれど、本作はその見どころの肝をきちんと継承し、かつ刷新したベラボウに面白い作品であるのは間違いあるまい。だから、できることなら予告編以上の情報をインプットせずにご鑑賞いただきたい。

ということで「なら本作はどんな作品に似ているか」と問われたとして、ここにその例を挙げようとしようにも、それだけでネタバレになりそうなので、敢えて本文では伏せるけれども、皆さんも予想されているようにスティーヴン・スピルバーグの「コレ」とか「ソレ」とか思わせつつ じつは「アレ」 *1、また彼が新作を撮る際には必ず観直すと語る古典作品群 *2が、とくに思い出された。いったい「ドレ」なんだと思われた皆さんは、ともかく早く本作をご覧なさい。こういった意味でも、本作は古典的であり、また斬新な1作だ。


まずなんといっても、ピール監督の演出の巧みさだ。これまで『ゲット・アウト』(2017)や『アス』(2019)で彼が魅せてきたコメディアン出身であるからこその、卓越した緩急のつけ方は本作でも存分に発揮されており、ときにじっくりと、ときに突発的に、ときに大胆に描かれる “なにか” の恐怖演出の数々には、思わず登場人物たちと一緒に息を潜めて見入ってしまうこと請け合いだ。ああいった存在に1対1で追われる画というのもなかなか新鮮だし、それゆえになんとも知れぬ恐怖感が胸中にあふれることだろう。

もちろん怖がってよいのか笑ってよいのかという絶妙なラインを突くピール節も健在であり、怖い怖いと思っていたものがじつは……という展開が適度に盛り込まれ、観客の緊張感を高めつつもフッと息抜きをさせてくれる(そのあとが本当に怖いのだけど)。また本作の中盤で、とある気象条件をうまく用いた見せ場があるのだけれど、そのアイディアと美しくも凶悪で強烈な光景は必見だ。あの、なんとも知れぬ禍々しさ! とにもかくにも本作を観てしまった以上、しばらくのあいだは空を見上げたときに不穏な雰囲気を勝手に感じてしまうに違いない。


そんな映像をIMAXカメラに収めてみせたホイテ・ヴァン・ホイテマの撮影の見事さも、本作の魅力の大きなひとつだ。カラッと晴れ渡った荒涼とした風景の抜けのよさ、空高く潜む “なにか” を見上げるときのカメラの躍動感も一級だが、とくに本作の夜間シーン(屋外)の映像が、じつに精緻なものであったのが印象的だ。本作における夜間映像の特徴は、昨今のリアルに沈んだ黒味を強調する色彩ではなく、むしろ古典的な「アメリカの夜」によって撮影されたかのような青みがかった色調を採用している点だ。

この「アメリカの夜」とは、ひどく簡単に説明すれば、夜間シーンを実際に夜中撮影するのではなく、昼間撮影した映像フィルムを撮影時もしくは現像時にフィルターを介して加工することで、人工的に夜のように見せる技法である。本作の夜間シーンでは、「アメリカの夜」風の色みを採用し、かつ以前では到底不可能であったであろう細かな色調設定を施すことで、古典的でありながも単に闇に沈むでもなくモノトーンでもなく、さりとて昨今の夜間シーンとは違ったリアリティを醸す絶妙機微な映像を定着させている *3


そしてピール監督作らしく、本作にもアメリカにおける人種的格差や軋轢を物語に有機的に組み入れられている。黒人であるOJ とエムの兄妹はもちろん、のちにふたりに協力することになるエンジェルやホルストは南米やイタリアからの移民、ふたりの牧場の近所でテーマパークを経営する元子役のジュープはアジア系だ。彼/彼女らは皆、“WASP” の国アメリカではマイノリティであり、まるでそれを狙うかのように空に鎮座まします “なにか” の存在は非常に示唆的だ *4 *5 *6

また本作では同時に、こういったマイノリティたちの存在と映画業界における裏方たちの存在とが重ね合わせられている点も興味深い。撮影に使用する動物の調教師や役者のスタントマン、さまざまな機械を操作する技師やカメラマン、そして脇役やエキストラたちも、映画をつくるうえで必要不可欠な存在だ。しかし、多くの人々は銀幕を彩るスターにしか目を向けないだろう。彼/彼女らもまた、マイノリティと同様に見向きもされない、忘れられた存在といえるだろう。もちろん、馬やチンパンジーといった動物たちもそうである *7

本作で、かつてエドワード・マイブリッジが1887年に馬の走る様子を撮影した連続写真「動物の運動(プレート626)」に映った騎手が黒人であったという逸話が援用されるのは、まさしく両者をシームレスに繋ぐものだったからに違いない。いわば本作の物語とは、そういった人々の逆襲譚とも捉えられるものだ。クライマックスにて主人公たちがなにをしようとするのかを思い出そう *8


こういった様々な要素を積み上げつつ、本作が「これぞハリウッド映画」というべき、とある古典的ジャンルへと収斂してゆくのは、ある種の必然であっただろう *9。これは、すべての人々に尊敬と敬意の心を持つことを忘れなければ「ハリウッド映画」はまだまだやれるという高らかな宣言であり、ピールたち作り手の炸裂する映画への愛にほかならない。


ことほど左様に、本作は1本のジャンル映画的エンタメ作品としても、ある種の寓話としても非常に満足度の高い作品だった。もし僕が誰かに「(本作を)観に行かなくてもいいかしらん?」と問われたなら、もちろん「Nope(うんにゃ、観たほうがいいよ)」と答えるだろう。ぜひ劇場でご覧ください *10


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【ソフト】
リーアム・ニーソン演じるトラック野郎が、崩落事故の被害者救出のために必要な機材を運搬するため氷上の路をゆく『アイス・ロード』ジョナサン・ヘンズリー監督、2021)は、ところどころ編集やVFX、合成に「あっ」と思うところはあるけれど、ジャンルと物語に必要な要素は余すところなく適格に組み入れて、きちんと実写撮影を絡めたアクション・シーンと演出のそこかしこに人物同士の関係描写についてもハラハラドキドキさせてくれるし、なによりタイトルにもあるアイス・ロードをはじめ、もろもろ知らないものごとについて勉強にもなる興味深く楽しいエンタテインメント作品だった。こういう映画を定期的に地方のシネコンでも観たいぞよ。


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◆人生にそれぞれつまづいた男女3人が、とある大学の入学金強奪計画を縁に出会う冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』(鷹森立一監督、1981)は、ツッコミどころはそこかしこにあるけれど、タネ元である『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督、1967)を展開やショットといった要所要所できちんとオマージュしつつ、千葉真一真田広之のコンビによる生身のアクションの数々、そしてなにより全篇にわたって炸裂しまくりの師弟愛によって、なんとも知れぬ魅力をたたえた1作だった。


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アメリカ東部から西海岸へと自動車を陸送中の青年ジムが、たまたまサイコな殺人鬼ジョンをヒッチハイクしたためにたいへんな目に合うヒッチャー(ロバート・ハーモン監督、1986)は、まさしく手に汗握るサイコ・スリラーの傑作だった。

開幕10分程度で必要十分な状況およびキャラクター設定を描写して即座にスリリングでスケアリングな展開に持ち込むテンポ感と緩急の見事さ、そこから終幕までの約100分のあいだ観客の予想の1歩先を行くかのようにあの手この手のバラエティに富んだシチュエーションで主人公ジムを恐怖と焦燥のどん底に畳みかけるように追い込んでゆく見せ方の巧さ、要所要所に用意されたアクションの爆発ありカー・チェイスありの適度な派手さ、そして文字どおり神出鬼没な殺人鬼ジョンを演じたルドガー・ハウアーのなんともしれぬ超然とした存在感の素晴らしさが、観客の目を画面に釘づけて放さないだろう。お見事。


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*1:未知との遭遇』(1977)、『E.T.』(1982)、そして『ジョーズ』(1975)。

*2:『捜索者』(ジョン・フォード監督、1956)、『七人の侍』(黒澤明監督、1954)、『素晴らしき哉、人生!』(フランク・キャプラ監督、1946)、そして『アラビアのロレンス』(デヴィッド・リーン監督、1962)。

*3:パンフレットにあったホイテマの言によれば、様々なパーツを組み合わせて作った特注の「アメリカの夜」的な装置だという。これはどうも昼間、赤外線フィルターを施したカメラ(したがって映像はモノクロとなり、空は黒くなるいっぽう、風景のディテールはまるで人間が肉眼で観たのと同様に記録される)と通常撮影のカメラの像(元となる自然な色調が記録される)が合致するように調整した装置で撮影し、その2種類のフィルムを合成し、さらに色調調整を施したらしい。うーん、すごい。

*4:ジュープが子役時代に出演したドラマの撮影中に「ゴーディ」役のチンパンジーの暴走によってキャストやスタッフが無残にも襲われた事件で、なぜ彼だけが危害を加えられなかったのか。それは、アジア系を「イエロー・モンキー」と蔑称するように、ジュープとゴーディは象徴的に鏡像関係にあるからであり、それゆえに彼らは──まさしく『E.T.』のエリオットとE.T.のように──ハンドタッチで和解するし、またのちにジュープはゴーディと同じく上位種によって殺害される。 ▼あるいは共演者だった白人少女メアリーをゴーディがどんな状態に追いやったのかを思い出そう。メアリーは生命こそ助かったものの、美しかった顔面は唇を抉られたために歯が剥き出すがままとなっている。その無残な姿はチンパンジーが歯を剥き出して笑う様にそっくりであり、さんざん猿(=アジア系)として笑われたゴーディ(=ジュープ)が、復讐としてメアリーを自分と同じ姿にしてしまったかのようだ。また、ここにはルッキズムに対する強烈な皮肉もあることだろう。

*5:また冒頭、OJ が馬を連れてやってきた白人ばかりの撮影現場にてディレクターに「父親の方がよかった」とボヤかれているのは、OJ の父が受けてきたある種の屈辱──つまり、OJ の父は白人にとって都合の良い黒人を演じるほかなかったのではないか──という疑念が浮かぶだろう。 ▼さらに、父の命を奪った5セント(ニッケル)銀貨はトマス・ジェファーソン元大統領の肖像が象られている。これは彼のインディアン強制移住政策への批判、そしてニッケルオデオン──20世紀初頭、アメリカ合衆国で流行した小規模で庶民的な映画館で、入場料金は5セントだった──ということなのだろう。いうなればOJ の父は、自らがよって立つアメリカと映画、そのどちらからも殺されたのだ。

*6:ところで、子役時代のジュープがチンパンジー暴走事件の際に目撃した「直立した靴」とは、なんだったのだろうか。 ▼それは、OJ が “なにか” を「悪い奇跡」と言い表すように、ジュープにとって直立した靴は「奇跡」の象徴なのだと考えられる。ここで前提としておきたいのは、本作に通底する基本ルールは動物と目を合わせてはならない、ということだ。 ▼いっぽう、奇跡とは「しかと見よ(Behold!)」と言われるように目撃せねばならないものであり、ジュープ少年は奇跡によって──と彼には思しき──「直立した靴」をじっと見つめていた。だからこそジュープ少年はチンパンジーと目を合わせずに済んだのであり、襲われなかったのだと捉えられるだろう。それゆえに、やはり奇跡の産物である “なにか” をジュープは見つめざるをえないのだ(ゆえに捕食された)。 ▼また、この事件を描くフッテージのなかに登場する「直立した靴」の映像が客観的な事実であったかどうかは、じつはあやふやだ。劇中に映される事件の映像は、あくまで大人になったジュープの回想としてフラッシュバックされたものであり、靴は彼がそのとき見ていた光景として描写されている。であれば、ジュープは結果的に自身の生命を救ってくれた靴を奇跡の「直立した靴」というかたちに神格化/改ざんして記憶しているのではないだろうか。

*7:それゆえに各章のタイトルが、劇中に登場する動物たちの名前なのだ。

*8:“なにか” の映った映画を撮ろうとするのだ。本作は、作り手たちがインタビューで語るように「スペクタクル映画」についての映画でもある。我々は皆、形はどうあれスペクタクルを観たい、あるいはスペクタクルを撮りたいという願望を抱く生き物だ。それはスペクタクルを観ることによって、もしくはスペクタクルを提供して注目されることによって得られる快感や興奮があるからだ。宗教の奇跡だってスペクタクルだ(宗教的説話を題材にした映画の数々を思い出そう)。 ▼本作の登場人物は皆、スペクタクルを掌中に収めたいという願望を心のうちに秘めている。そして、皆を引き寄せてやまない空に浮かぶ “なにか” とは、スペクタクルそのものの象徴だ。OJ が “なにか” を見ないこと/目を向けないことを選択することは、その願望に向き合い克服するという、ある種の成長である。そして彼が、真に見るべき/目を向けるべき存在に改めて気づき、それを実行するのがクライマックスなのだ。 ▼OJ がエムに対し「俺がお前を見ている」とジェスチャーすることで、彼女の願いを叶える。エムの願いとは表舞台に立って活躍することであり、そのためには彼女を見て理解し、応援してくれる観客が必要だ。それが満たされたからこそ、エムは “なにか” との一騎打ちを果たすヒロインへとなる。 ▼そして、これによって本作は、それまでこれまで忘却/抑圧されてきた映画史を彼/彼女たちのもとに取り戻すのだ。

*9:ご覧になった方はご周知のとおり、古典的な西部劇だ。エムはカウボーイのバルーンが敵役を討つ/撃つ(shoot)のを文字どおり撮影(shoot)するだろう。もちろん、これが『ジョーズ』へのオマージュなのはいうまでもない(「笑えよ、このクソッタレ」というわけだ。)。

*10:そういえば、お気づきいただけただろうか。予告編だけに登場する、空の “なにか” にまるで引き寄せられるよう歩むキャラクターがいたことを。彼はいったいどういう人物なのだろうか。あるいは続篇やスピンオフがあるとでもいうのだろうか。

2022 7月感想(短)まとめ

2022年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆自身の失敗で、とある惑星に移民団ごと逗留することになったバズ・ライトイヤーが、人々をなんとか脱出させようと奮闘するバズ・ライトイヤー(アンガス・マクレーン監督、2022)は、懐かしさと新しさが同居した、奥深い味わいのある作品だ。


本作は、『トイ・ストーリー』(ジョン・ラセター監督、1995)に登場する少年アンディが1995年ごろに観て夢中になった映画──おそらくは実写──という体(てい)の作品ということもあり、もちろん実際の本編は最新のCGアニメーションによる映像とはいえ、本作の映像の手触りはどこか懐かしさを感じるものだ。

本作の予告編を観てもわかるとおり、宇宙船や基地、衣装や背景といったプロダクション・デザインの数々は『スター・ウォーズ』シリーズや『エイリアン』シリーズといった1970年代後半から1990年代初頭までに制作されたSFX大作をあきらかにオマージュしているし、本作のそこかしこに設けられた “特撮” の見せ場における光学合成感や、カメラワークや編集のテンポ感もまた当時のタッチを思い出させるものだ(ラストのラストにいっぺんに直近のVFX的見せ方になる飛躍もまた楽しい)。きっと裏設定では、本作のSFXはILM *1の手によるものに違いない。


本作の物語は、主人公バズ・ライトイヤーがいかにして真のスペースレンジャーとなってゆくかを描く成長譚となっている。任務中、必要もないのに音声日誌をのべつまくなしに語り散らかしたり、なんでも「自分ひとりでできる」と豪語する自信家だったバズが、とある失敗の繰り返しを経て、なにが本当に必要だったのかに気づくまでの物語だ。そういった意味で、やがてバズが対決することとなる宿敵ザーグの正体を『トイ・ストーリー2』(ジョン・ラセター監督、1999)にて語られたものから絶妙なひねりを加えた設定にアップデートしていたことには、なるほどと膝を打った。

また、本作で僕自身がもっともグッと来たところを挙げるなら、前半部に描かれるバズの失敗の連続を映すシークェンスだ。自身のミスによって謎の惑星に逗留せざるを得なくなったことから、何度も何度も脱出のための実験に挑戦しては失敗し、盟友アリーシャに迎えられて自室に戻るという一連の繰り返しの見せ方や編集などは、ともすればユーモラスなものとして演出されているようにも見える。しかしそれゆえに、アリーシャをはじめとした周囲の人々や環境だけが着実に変化してゆくなか、バズ自身だけがなにも変われずに置いてけぼりを──文字どおり──ひとり食っている彼の焦りや孤独感がより切実に浮かび上がってくる *2。本作の脚本を担当したピート・ドクターのタッチが発揮された見事なアプローチだ。


ところで本作が描く別の側面をみるなら、それは本作が「アメリカ」についての物語であることに気づくだろう。本作の登場人物はみな移民団であり、彼らが建造するコロニーの姿は建国から今日(こんにち)までのアメリカの似姿だ。そして、それは様々な変化の歴史でもある。だからこそ、たとえば『イン・ザ・ハイツ』(ジョン・M・チュウ監督、2021)の主人公たちが内に秘める「ホーム(故郷)」という言葉の意味合いの変化と同様のものが本作でも重要なファクターとなっているのだろうし、クライマックスでバズが自ら下した決断──なんならサンドイッチの概念ですらそうだ──のように、ものごとの価値判断基準は常に刷新してゆかねばならないと高らかに謳い上げることが重要なのだろう。

だからこそ、本作で描かれるとある同性カップルが作った家族の描写のあることを理由に、いくつかの国家やアメリカ本国でも保守派層が拒絶反応を起こしていることがやるせない。なんならディズニーですら、問題の描写をカットしようとしていたのだ。本作において、この描写が大々的に描かれるわけではない。あくまで、さりげなく “ふつう” のこととして描かれるに過ぎない。それは本作における未来の人類社会が、そこまで成長しているからだ。その成長に憧れこそすれ、否認するような動きは、なんとも無念でしかたがない。LGBT差別や夫婦別姓否定といった様々な差別的/人権軽視発言を議会や街頭演説で悪びれもせず繰り返す議員が跋扈し、また政権を握っている現在日本も無関係ではない。

本作でバズの声を演じたクリス・エヴァンズがこの問題について「本当のところ、あの人たちは大バカ者なんだ。気弱で、無知で、昔の価値観にしがみつこうとする人たちは、いつだって存在するものです。でも、そういう人たちは、恐竜のように滅びていく。私たちが目指すのは、彼らを意に介さず、前進し、人間らしく成長することを受け入れることだと思います *3」と語るように、そしてもちろん本作でバズが下した決断のように、僕らはまだまだ理想の世界に向けて成長しなければならないはずだ。


ことほど左様に、じつは予告編を観た段階では「大丈夫かな?」と思っていた本作だったけれど、笑って泣いてハラハラする普遍的なエンタメ性と目には懐かしい楽しさがいっぱいであり、それによってむしろより新しい息吹を世界に芽生えさせようとする奥深い1作だった。


     〇


◆キング・オブ・ロックンロールと称されるエルヴィス・プレスリー波乱の人生を、彼を見出したトム・パーカー大佐との関係を軸に描く『エルヴィス』バズ・ラーマン監督、2022)は、なるほどこういう描き方で来たかと膝を打った1作だ。


本作は、伝記映画としての面白さとエンタメとしての楽しさのバランス感覚がとても巧みだ。プレスリーについてあまり詳しくはない僕のような門外漢も「へぇ、こんなことがあったのか」と知的好奇心をくすぐられるし、同時にラーマン監督の衰え知らずな煌びやかでハイテンションな演出や編集がグイグイと観客をスクリーンに引き込んでくれることだろう。そして、まるで本人が乗り移ったかのようなオースティン・バトラーの演技も相まって、なんとなく知っていたあの曲この曲がどういった経緯で作られ、また歌われたのかを要所要所でつまびらかにしてゆく展開は、じつにエモーショナルに力強く胸を打つ。本作も、そのほかの優れた音楽映画同様、なるべく良い音響環境のなかでご鑑賞いただきたい。


さて、本作の主人公はもちろんタイトルのとおりエルヴィス・プレスリーであることに相違ないのだけれど、いっぽうで作り手たちは、もうひとり裏の主人公を物語に据えている。それはもちろん、エルヴィスを一大スターに仕立て上げたマネージャー、トム・ハンクス演じるトム・パーカー大佐だ。そうであればこそ、本作は彼のモノローグで幕を開け、そして幕を下ろすのである。では彼は物語において、アンチ・ヒーローとしてなにに象徴されているのか。それは悪魔である。

パーカー大佐がエルヴィスにはじめて声をかけたときのことを思い出そう。彼は煙とともにふいにエルヴィスのそばに──しかも虚像として──立ち、言葉巧みにエルヴィスを自身の領域へと誘い込む。煙を伴ってポンと登場するのは、悪魔のクリシェである。そしてパーカー大佐は自身の欲望を満たすため、ことあるごとに──まるでファウストを貶めようとするメフィストフェレスのように──エルヴィスの思考を、行動を、そして魂を思いのままに篭絡しようとするだろう。


いっぽう、幼いエルヴィス少年が貧困黒人街のなかで出会ったブルース、そしてゴスペルに音楽の薫陶を受けたという描写がなされるように、本作の物語においてエルヴィスは神の子としての性格が付与されている。エルヴィスは神から与えられた音楽という魔法で、当時あった黒人と白人との分厚く巨大な壁を打ち崩してゆく。しかし、それを──金儲けとしては──よく思わないパーカー大佐が手を変え品を変えて骨抜きにしようとする……といった具合に、本作には “悪魔” 対 “神” という神話的構造が巧みに取り入れられており、この度重なる対決こそが、映画を支える大きな軸のひとつなのだ。

この熾烈な闘いはどのような決着をみるのか、そしてラストにおいて、悪魔の化身としてのトム・パーカー大佐がいったい誰を最後に篭絡しようとするのか──これらはぜひご自身でたしかめていただきたい。パーカー大佐の最後のパンチラインに、僕はひどくシビれたものである。


そのほか、当時の人種差別的な世相の描写にはもろもろ考えさせられたし、そんななかでのエルヴィスの振る舞いはまさしくロックンロールだったのだなと改めて思い出ださされたし、もちろんパーカー大佐との関係を主軸にしたことで──またラーマン映画の性格として──オミットされたりした要素もあるのだろうな(そこは今後自分で補足してゆきます)……などなどあるけれど、本作が大画面と大音量のなかで鑑賞されるべき作品のひとつなのは間違いないので、ぜひ劇場でご覧ください。


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【ソフト】
◆愛車のパンクで田舎町に立ち往生した男が、「修理費の代わりにひと晩清掃作業を」と斡旋された廃遊園地で怪異に出会う『ウィリーズ・ワンダーランド』(ケヴィン・ルイス監督、2021)は、始終「オイラはなにを観させられているのだろう」と狼狽しながら、それでいて妙にクセになるテイストの1作。

ニコラス・ケイジが演じるイーストウッドターミネーターを足して割ったような無口でべらぼうに強く労働基準法に厳しい男も味わい深いし、なんともしれぬキャッチ―さに耳を奪われる劇中歌の数々、適度にアッパレなゴア描写、エドガー・ライト監督作を彷彿とさせるグイグイ喰い気味な編集、そして ’80年代香港映画もかくやに広角レンズ撮影の左右が歪んだ画などなどマジでなんなのかしらん、と思いつつも夢中で観てしまった。

なにより「ッパ休憩って大事よね (o^-')b」と切に思わされる。吹き替え版も凝ったつくりなのでオススメです。


     〇


◆とある即身仏の伝承にまつわる殺人が巻き起こる湯殿山麓呪い村』池田敏春監督、1984)は、物語はもちろん、登場人物のどいつもこいつもすべてにおいて「最悪を絵に描いて額に入れたみてェだぜ……」と、ゼェゼェとたいへんな思いをさせられた1作だった。まいっちんぐ


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【配 信】
◆謎の原因によって月が地球に急接近し、世界崩壊の危機が訪れる『ムーンフォール』ローランド・エメリッヒ監督、2022)は、とんでもなくヘンテコなSFディザスター作品だった。脚本の行き当たりばったり感はもちろんのこと、果ては同シーンないし同ショット内においておや作中のルールがバラバラだったり直前の説明と矛盾があったりと、本作のガバガバさはいっそ清々しいほどだ。

それもこれも作り手が本作を「あなたがた、こーいう画が観たいんでしょう?」という見せ場至上主義で撮ったからではないかと思われるが、悔しいかな、本作のディザスター・シーンで映される画はけっこう面白い。なんといっても水平線の向こうから超巨大な月がヌッと顔を出し、無数の隕石を地表に叩き落としながら、同時に重力の相殺でいろんなものがフワフワ浮かび上がってゆくシーンを精緻なVFX で描くバカバカしくも壮大な阿鼻叫喚シーンの数々は、なかなか新鮮な見応えだ。また、エメリッヒ映画らしい人間関係の演出や、彼が毎回作品内に潜ませている『スター・ウォーズデス・スター戦におけるいわゆる「トレンチ突入」シーンも──本作では割と愚直に──盛り込まれており、なるほど彼の監督作として現状の集大成映画としても楽しめるだろう。

もちろんマジメな超大作を期待して本作を観ると間違いなく肩透かしを喰らうので、ゆったりとした気持ちでの鑑賞をおすすめします *4


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*1:もちろんピクサーは、かつてILMの一部門だった。

*2:原題が “Lightyear" なのも利いている。

*3:Web『HuffPost』内「同性キスシーンを批判する人は「大バカ者」。バズ・ライトイヤー主演俳優がピシャリと反論 | HuffPost(2022年6月17日)」を参照。2022年7月5日閲覧。)

*4:余談だけれど、秋の月見シーズンに公開したほうがよかった気がしないでもないなあ。

2022 3-6月 ひとこと超短評集

3月以降に劇場で観たにもかかわらず、とくにこれといった理由もなく、なんとなく書きそびれていた作品群の、ひとこと超短評集です。


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【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評(3-6月)
◆地図にない場所に眠る秘宝を巡るネイサンとサリーの冒険を描くアンチャーテッドルーベン・フライシャー監督、2022)は、冒険活劇映画を体験することをコンセプトにしたゲームを映画に逆輸入した作品だけあって、天井知らずな握力の持久力によって繰り広げられる立体的で荒唐無稽なアクションの連続が楽しい。また、この手の作品に珍しく、登場人物の誰しもが大なり小なりクソ野郎なのも可笑しい。


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◆とある夫婦の新婚旅行中に起こった不可解な殺人事件にポワロが挑むナイル殺人事件ケネス・ブラナー監督、2022)は、前作からとあるキャラクターを続投させたことや、観ている最中は無駄かと思われた冒頭の第1次大戦シーンを巡るアレンジによって、ポワロの人物像をより深く抉ってみせるのが、本作最大の見どころだろう。ラストシーンのなんとも知れぬ切れ味と切なさよ。


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◆やがて世界トップクラスのテニス選手となるウィリアムズ姉妹を、父リチャードがいかにして育てたかを描く『ドリームプラン』レイナルド・マーカス・グリーン監督、2021)は、親の夢を子に託すタイプの教育が持つ明暗を、劇中の様々な比較対象によって描いていて興味深い。勝負に負けてなんとやらを地で行くラストの爽やかさも格別だ。


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◆夜ごとの自警活動を始めて2年経ったバットマンの前に、謎の犯罪者リドラーの不穏な影が現れる『THE BATMAN-ザ・バットマン-』マット・リーヴス監督、2022)は、’70年代ノワール映画を思わせるダークで陰湿な雰囲気が見事にフィルムに定着された1作だ。心身ともにやつれはてているバットマンブルース・ウェインを演じたロバート・パティンソンの存在感、「アヴェ・マリア」の変奏によって醸されるリドラーの不気味さときたら、たまらない。


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◆バスター・ムーンたちが大都会でのショーを行うべく、引退した伝説のロック歌手キャロウェイを引っ張り出そうと奮闘するSING/シング: ネクストステージ』(ガース・ジェニングス監督、2021)は、思わずリズムを取りたくなるような楽曲と見栄えのよい振付けが合致したミュージカル・シーンとコミカルでスラップスティックなギャグ・シーンによって、非常に勢いのよい作品だ。いっぽうでふと我に返ると、前作以上に独り相撲で他人に迷惑をかけまくるムーンの唯我独尊ぶりは若干ノイズだったか。


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見世物小屋に流れ着いた浮浪者スタンがやがてコールド・リーディングを習得する『ナイトメア・アリー』ギレルモ・デル・トロ監督、2021)は、全篇にわたって映されるおどろおどろしくも鮮やかな色彩と、やがて物語がたどる円環構造を思わせる丸のラインを巧みに用いた舞台セットのデザインが美しい1作。冒頭の短いシークェンス一発で、本作がこれからたどる悪夢感を見事に描出せしめた演出の巧みさで、全篇に渡って、じんわりとした不穏さを楽しませてくれることだろう。


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◆薬物依存を克服したジェームズとその飼い猫ボブが体験したクリスマスを描く『ボブという名の猫2 幸せのギフト』(チャールズ・マーティン・スミス監督、2020)は、本作出演後に惜しくも亡くなった名優猫ボブの達者な立ち振る舞いと、人々の善意の心が胸に染み入る1作。ただ、本作のメインストーリーの時間軸が、前作でのどのあたりになるのかが若干つかみづらかったのは惜しい。


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ドクター・ストレンジマルチバースから移動してきた少女アメリカ・チャベスと出会うドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』サム・ライミ監督、2022)は、これでもかこれでもかと炸裂するサム・ライム節がなんとも楽しい1作(ライミ版『スパイダーマン』3部作にも登板したブルース・キャンベルの吹替えに、同じ江原正士をキャスティングしたのはエライ)。MCUってこんなにドバドバ血を流して大丈夫だったんですねえ。


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◆重力異常をきたした東京でパルクール・ゲームに励む若者たちの前に謎の少女が現れる『バブル』荒木哲郎監督、2022)は、縦横無尽に駆け回るアクション・シーンの楽しさと、泡の表面に映る様々な色のように不思議な鮮やかさを再現した色彩設計の美しさは突出しているけれど、いかんせん話運びがお粗末に過ぎるのがもったいない。というのも、伏線を張る前にその答えを映す展開しかないからだ。TVアニメシリーズ的なオープニング・タイトルを入れたことで最初のアクション・シーンのインパクトがひどく弱まっているという序盤の作品構築が、本作の決定的な欠点を如実に表している。


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◆ピート・“マーヴェリック”・ミッチェル海軍大佐が、とある作戦実行のために教官職を命ぜられるトップガン マーヴェリック』ジョセフ・コシンスキー監督、2022)は、脚本が若干弱いかなと思う部分──集まった候補生の半分に文字どおりスポットどころかカメラも向かないのは特に気になった──はあるけれど、前半においてピートの脳裏にとある過去が一気に去来するシーンの見せ方とトム・クルーズの演技、そしてなんといっても実機にIMAXカメラを設置して撮影した飛行シーンの臨場感と迫力は、見応え抜群だ。ぜひ劇場で観ておきたい。


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2022 5月感想(短)まとめ

2022年5月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆日本にばかり出現する敵性大型生物〈禍威獣(カイジュウ)〉への対抗に特化した精鋭部隊〈禍特対(カトクタイ)〉の前に、謎の光の巨人が現れる『シン・ウルトラマン樋口真嗣監督、2022)は、明るく楽しい “空想特撮映画” として見事に結実した1作だった。


「特撮の神様」こと円谷英二が設立した円谷プロが制作・放送して人気を博した特撮テレビドラマ『ウルトラマン』(円谷一ほか監督、1966-1967)を庵野秀明が企画・脚本等を務めて映画としてリブートした本作についていえることは、まず端的に「楽しくて、面白かった!」ということだ。

個人的に『ウルトラマン』をはじめとした「ウルトラヒーロー」たちは、ドラマ含めた本編をすべて観たのはおとなになってから──リアルタイムだった、いわゆる平成3部作『ティガ』『ダイナ』『ガイア』は別として──とはいうものの、物心ついたときにはすでにして──その経緯はいっさい覚えていないけれど──好きだったキャラクターであり、それなりに愛着のある存在であることもあったのだろう。

というのも、情操教育の一環として買われていたであろういくつかのディズニーの古典映画のVHSに交じって、どういうわけだか『ウルトラ怪獣大百科』の何本かや、わけもわからずドラマ『私が愛したウルトラセブン』(佐藤幹夫演出、1993)を録画したVHS──たぶん両親がウルトラ狂いの僕のために録画してくれたのだろう──を気が違ったかのように繰り返し観ていたり、いまは懐かしき小冊子付のカセットテープ音源を幾度となく聴いていたりしたことは、僕の最初期の記憶のひとつだからである。後にお気に入りはゴジラガメラといった怪獣に映ってゆくのだけれども、ともかく本作を観ているあいだ、なんだか童心に帰ったような気分になって、すっかり無心で楽しんでしまった。


閑話休題

さて、本作の見どころを挙げるなら、まずはなんといっても特撮映像だろう。山間(やまあい)で樹木をなぎ倒し、街中でビルを木っ端微塵にしながら猛威を振るう怪獣の躍動と、対するウルトラマンとの攻防は迫力満点だ。とくにシネマスコープというワイド画面を活かした抜けの良いロング・ショット──ここまでの引きの画は、オリジナル当時はテレビの画面サイズ4:3の制約から不可能だっただろう──が、映画世界に文字どおり拡がりを持たせていて印象的だ。また、単純に特撮シーンの数とボリュームが多いのも嬉しいし、原作を再現したパートとまったく新しい画面に挑戦したパートとのバランスもよかった。

また本作は、もともとが連続テレビドラマでかつ各話の連続性が薄いレギュラー・ドラマ形式である『ウルトラマン』の物語を1本の劇映画としてまとめあげるにあたっての工夫も利いている。とくに、どうして似たような形状の怪獣が何度も出現するのか──もちろん実際には着ぐるみを部分的に流用していたためだが──を物語的一貫性の軸のひとつに持ってきていたのには舌を巻いた。また庵野秀明脚本らしく、空想特撮的フィクションラインを絶妙に保ちつつも理詰めで構築されるSF的ディテールが物語の実在感を底上げしている。

もちろん先述の原作の形式上、本作のリズム感は映画というよりも、全6話の30分ものドラマシリーズをシームレスに繋いだ総集編的な感じに近い。それでも『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)から引き継いだ、出来る限り無駄を省いた脚本と原作ドラマを思わせるちょっとコミカルなユーモア、そしてグラフィカルな──『シン・ゴジラ』以上に、被写体の手前に配したなにかしらを大胆にナメる実相寺昭雄アングルを重用した──画面 *1とテンポのよい編集でグイグイと観客を引っ張ってくれることだろう。


ところで、本作でもっとも興味深かった点を挙げるなら、本作が意図的に持たせようとしている、ある構造だろう。あるいは立ち位置、スタンスと言い換えるべきかもしれない。というのも本作は、『シン・ゴジラ』が「もし現在はじめてゴジラが出現したら」というシミュレーションを劇中でおこなっていたことを引き継ぎ、今度は「もし『シン・ゴジラ』に端を発して『ウルトラマン』というコンテンツが現在はじめて誕生したら」というメタ・フィクション的なシミュレーションを『シン・ウルトラマン』という枠組みを使って試みているからだ。

本作のタイトル画面 *2からプロローグ部分まで──という、開始早々に腰を抜かす展開──を観てもわかるように、本作は『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)に端を発する怪獣映画/円谷特撮が、紆余曲折あってついに『ウルトラマン』として結実した瞬間を目の当たりにした視聴者の感覚を──非常に変化球なかたちで──観客に追体験させようとしたのではなかっただろうか。そうであればこそ、かつて円谷特撮番組内で東宝特撮映画の役者陣が脇を固めたように、本作に『シン・ゴジラ』から絶妙に重なるような重ならないようなキャスティングで役者が続投しているのだろう。この円谷特撮受容史の疑似的な追体験を観客に与えるという試みが吉と出るのか、それともオッサン(=面倒な老いたオタクたち)の世迷い言(=つまらない想い出話)と捉えられるか、今後の観客のリアクションがどう転ぶのかも興味深い。

ともかく本作によって庵野が『シン・』特撮シリーズで試みようとしていると思しきものの一端が垣間見えたのはたしかであり、先ごろ新たな予告編も公開された『シン・仮面ライダー』(庵野秀明監督、2023 ※公開予定 *3)がどういう切り口となるのか、俄然楽しみになった。


その他、成田亨のオリジナル・デザインをブラッシュアップしたウルトラマンや怪獣各々の造型は質感表現含めて美しかったし、宇宙人が有する理屈や本作のウルトラマン解釈も面白かったし、あの声のキャスティングはズルいと思ったり、田中哲司の部下に早見あかりがいるのはドラマ『デッドストック〜未知への挑戦〜』(権野元、三宅隆太、森達也監督、2017 *4)を思い出したり、さんざん予告編で引っぱっておいた報告書の内容には抱腹絶倒したし、良くも悪くもフェティシズム全開なショットの数々はようやったなァ思ったり、とはいえ長澤まさみ演じる浅見分析官が後半になるにつれて活躍しなくなって応援団長化するのはもうすこしどうにかならなかったのか、あるいは禍特対がそれぞれのシーンでいったいどこに陣取っているのかといった位置関係がいまいち判りづらかったなぁ、などなど細々あるけれど、まさしく “空想特撮映画” として明るく楽しくリブートされた本作は、スクリーンでこそ楽しみたい1作だ。もちろん、ウルトラマン初体験の方にもオススメです。

最後に、本編とは関係なく僕の好きな言葉は「犠牲者(為政者)はいつもこうだ……。文句だけは美しいけれど…… *5 *6」です。


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【ソフト】
◆しがない中年の父親で金型工場勤務のハッチ・マンセルが、とあるきっかけから凄惨な闘いへと飲み込まれてゆく『Mr.ノーバディ』イリヤ・ナイシュラー監督、2021)は、いわゆる “ナメてたアイツが殺人マシンでした” 系映画として、じつにじんわりと「ああ、いい映画を観たな」と感慨に浸れる絶妙な湯加減の作品だった。展開やアクションの定石を踏まえつつも、ひかえめながらもそこかしこに斬新さを盛り込んだ演出が効いていたり、クリストファー・ロイドが元気そうでなによりだったり、オープニングとラストで流れる『悲しき願い』の味わいがたまらない。


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*1:普通の映画撮影用カメラと、おそらくはスマートホン内臓のカメラなどをあれこれ使用したために、『シン・ゴジラ』以上にショットごとの画面の解像度や色味、感触がバラけているのがいささか気になるけれど、これはこれで昭和特撮の合成の有無で変容した画面の手触りが、本編にやって来たと考えるべきなのだろうかしらん。

*2:本家『ウルトラマン』のタイトル・ロールを忠実に再現した、と申し上げれば判っていただけるだろう。

*3:公開後の感想: 2023 3月感想(短)まとめ -Part2- - つらつら津々浦々(blog)

*4:このドラマも、ホラーに特化した『ウルトラQ』(円谷一ほか監督、1966)的な味わいのあるシリーズだ。

*5:本作において、こちらの善悪の基準を明確に揺るがすようなエピソードや、あるいは怪獣のほうにこそシンパシーを寄せてしまううようなエピソードがないことには若干の不満を覚える──もちろん、ここまでやると収拾がつかなくなるのは明々白々だし、原作ドラがレギュラー・ドラマ形式でかつ多く話数があったからこその拡がりであったことは重々承知である──けれど、だからこそ、あえて彼にあんなイイ声であんな内容の言動──その元ネタは当時のいくつかの雑誌や書籍が誤情報を元にプロフィールを掲載した、ということがあったからである──をとらせたのだろうな、と思うし、また神永が単身逃げ遅れた子どもを助けるために駆け出したのも、このエピソードからの引用だったのかもしれない。いずれにしても、「故郷は地球」だと胸を張って言える世界になってほしいものです。

*6:脚本では「為政者」であったというが、ちなみに、公式の北米版Blu-Ray ボックスの英語字幕では「犠牲者」を採用しての翻訳であった。いずれにしても、含蓄のある台詞なのには変わりない。

2022 4月感想(短)まとめ

2022年4月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【ソフト】
◆父の再婚が決まった陽や、心臓の持病のために手術が決まった陸たちが日々を生きてゆく『かそけきサンカヨウ今泉力哉監督、2021)は、カメラワークが──とくに切り返しでのサイズが各々の登場人物でほぼ変化しないので──いささか単調なきらいがあるけれど、小さなエピソードを重ねて人物たちの関係性の変化を描いた非常に丁寧な青春映画だった。なかでも、登場人物たちの着る衣服の色彩選択は見応えがあった。シーンごとにキャラクターが背景からパッと浮き出すような色のものを着ているのか、それとも背景に沈み同一化するような色のものを着ているのかを細かく設定した衣装選択が、しっかりとドラマを支え、静かに盛り上げていて印象的。


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◆映画オタクの父親が家族を守るために警察相手に完全犯罪を画する『共謀家族』(サム・クァー監督、2019)は、シンプルに滅茶苦茶おもしろくて脱帽するのだけれど、本作が──インド映画のリメイクでもありつつ──ゴリゴリの中国映画でありながら、反骨精神に満ち満ちた1作であったのに驚嘆した。いいぞ、もっとやれ。やりまくれ。


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【ドラマ】
◆東京ローカルのラジオ帯番組「オビナマワイド」が特集企画に潜む不審な作為に呑まれてゆく『何かおかしい』太田勇、及川博則、山口将幸演出、2022)は、ひねりと味わいのなんとも知れぬ気味悪さ(ゆえにサイコー)の効いた、さすがロジカルで不条理な奇想を得意とする仮面姿のホラー系YouTuber でホラー作家の雨穴が原案を担当しただけあるドラマ・シリーズだった(全6話)。

本作は、誰かしら全員がどこか倫理観のタガが外れているラジオ番組スタッフの猟奇性とそれに乗っかるゲストやリスナーの異常性、タネ元の伝奇性、そしてそこかしこにまぶされている今日(こんにち)性が絶妙にミックスされた実世界と地続きの不穏さが、観る者を──まるで、たとえば諸星大二郎や、あるいは実話系怪談の作品を読んでいるかのごとく──怪しく揺さぶり、怖気を誘うだろう(個人的には第4話が最凶に気色悪かった)。もちろん、1話正味20分のシリーズゆえに説明不足だったり消化不足なところもありはするけれど、同時に短尺ゆえのソリッドさも兼ね備えている。また毎話、前説と解説を『ヒッチコック劇場』もかくやに担当する雨穴の存在感も、アクセントとしてなんとも忘れがたい。 ※先行配信(Paravi)にて視聴。


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【漫 画】
『さよなら絵梨』藤本タツキ、2022)感想と雑考(ネタバレ)
>> https://masakitsu.hatenablog.com/entry/2022/04/13/180758


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