『借りぐらしのアリエッティ』

メアリー・ノートンによるファンタジー小説床下の小人たち』を原作にとった、スタジオジブリ製作の新作長編アニメーション。監督は、これまでジブリの作画で活躍してきた米林宏昌。郊外の古い屋敷、その床下に家族と暮らす小人の少女・アリエッティと、そこにやってきた人間の少年・翔との禁じられた触れあいを綴る。


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スタジオジブリ製作なだけあって、さすがに作画の完成度は高く、ヒロインである小人のアリエッティが縦横無尽に元気よく駆けるさまは爽快感たっぷりで、小人たちが暮らす小さな世界の描写もなかなか魅力的だった。また、セシル・コルベルによるハープを基調としたスコアと主題歌──そのどこか不思議な声音が魅力的な“Arrietty's Song”も聴いていて非常に耳に心地よい。

しかし、映画の完成度としては、映画のオープニングで感じた奇妙な違和感が、すべてを言い表す結果となってしまった。では、この映画の冒頭を確認してみよう(以下、多少ネタバレがあります)。


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まず、東京郊外のロングショットが映され、本作の舞台が日本であることが提示される。道を走る1台の車の座席には、物憂げな少年・翔が座っており、彼のモノローグが流れる。それによると、彼はこれからしばらくの間、伯母の屋敷にて預かられるそうである。

彼の伯母が運転する車は町を抜け、やがて木々が生い茂る広い屋敷の門へと吸い込まれてゆき、ここでタイトル・テロップ『借りぐらしのアリエッティ』が挿入される。敷地内で車を降りた翔が、その広く緑溢れる庭をおもむろに歩いていると、足許の草が揺れ、そこに小さな小さな人影を見た──気がした。それを確かめようと翔がしたとき、伯母に呼ばれて彼はその場をあとにする。

彼が去ったのを確認して、草陰から小人の少女が姿を現した──アリエッティである。やがて彼女は颯爽ときびすを返し、彼女の暮らす家がある、屋敷の床下へと駆けていった。


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さて、およそこういった内容のオープニングで感じられた違和感とは、以下の3点である。


1.舞台が日本であること。
2.サブキャラクターである翔のモノローグで映画がはじまること。
3.タイトル・テロップが挿入されるタイミング。


まず【1】についてだが、この映画において舞台が日本であることの意味は、ほとんどみられない。まず、映画はそのほぼすべてが、伯母の屋敷を舞台として展開しているのだが、その伯母の屋敷というのが日本離れした雰囲気をかもした建物であるのだ。その外見はもちろんのこと、屋敷の内装や家具などの趣味は明らかに欧風であり、そこに暮らす伯母の容貌や服装もやはりどこかそのようである。

そして、その屋敷の敷地が広大であるがゆえに、日本的な風景は──たしかに、庭先には踏み石や松の木、石灯籠が置かれていたりするが──本編中ほとんど映りこ込まない。また、その屋敷の床下に暮らしているアリエッティとその家族は、名前からしてどうみても日本人ではなく、そのたたずまいからもわかるように白人である。しかし、人間側は──当然ながら──和名であり、日本人である。

このあたりに奇妙な乖離が生じており、ひとつの違和感となっている。正直なところ、べつに日本じゃなくてもいい──むしろ、原作のとおりイギリスを舞台にしたほうがもっと自然だったのではないかなと感じる。


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また、この映画は小人であるヒロイン・アリエッティと、人間の少年である翔のふたり、その双方を交互に映してストーリィを語ってゆくのだが、【2】のような幕開けをすることからもわかるように、そのためにいまいち映画の主眼がわかりづらく、バランスが悪い。

タイトルを見る限りでは主人公であるアリエッティを主軸に描きたいのだろうが、そのフォーカスは彼女にいったり翔に向かったりとフラフラと落ち着きがない。せめてアリエッティの世界から翔の世界への(あるいはその反対の)受け渡しがもっとスムースだったらばまだ良かったのだが、残念ながらそれもギクシャクしており、その所為かキャラクターの掘り下げも中途半端に終わってしまって、なかなかに唐突な展開や台詞が多かったりする。さらに描写の重複や(ドール・ハウスのくだり)、活かしきれていない伏線など(ネズミとか)もみられる。


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次に【3】についてだが、これは端的に「そこじゃないだろう!」ということである。つまり、この映画において、先に示したようなタイミングでオープニング・テロップを出すことは、演出的にはなはだおかしいのである。なぜなら「屋敷という異世界の中へ、翔の乗った車が吸い込まれた」直後にタイトルが出れば、それは「翔が異界へと迷い込む/紛れ込む」という物語を表してしまうからだ。これだと少々この映画のニュアンスとは異なるし、そもそも主人公が逆転してしまう。もしこの映画が『千と千尋の神隠し』だったらば、今回のようなタイミングでいいのだ。なぜなら『千と千尋〜』は、そういう物語だからである。

おそらく本作の場合、タイトル・テロップを挿入するタイミングとして考えられるのは、アリエッティが顔を出したその後であろう。アリエッッティが草陰からその姿を現し、きびすを返してフレームからアウトしたところで、草をバックにタイトルを表示し、そして颯爽と庭を駆けるアリエッティをフォローするカットに移る……こうすれば、より明確に物語の主人公を提示できるだろうし、画面に映ったその少女がアリエッティだと観客の理解もよりスムースなものになるだろう(彼女が最初に姿を現すときには、ポスター等に頻出しているイメージ──髪をくくり、赤いワンピースを着ている姿ではないのだ)。

【2】について書いたこととも関連するるが、ことほど左様に、本作においてさまざまに提示される物語要素やプロット展開におけるタイミングや間、尺のバランスが少々間抜けであり、映画の推進力としてのネタや仕掛けがうまく機能していないのが実際である。とくにクライマックスにおいて、その間抜けさが際立ってしまっているのが残念でならない。


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やはり、全体を通して映画を物語ってゆく上での演出力の弱さが目立ってしまう結果となっているのが、前述のとおり作画や音楽、また小人たちが聞く世界の音を巧みに表現した音響効果が良かっただけに、残念な作品であった。