『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q / EVANGELION 3.0: YOU CAN (NOT) REDO.』感想

庵野秀明総監督。前作『破』の終盤、使徒に取り込まれた綾波を救うべく、初号機と融合したシンジは、ミサトらの手によってサルベージされ現世へと甦った。しかし、彼が眼前には、信じられない光景が拡がっていた……。


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たいへん困惑しております。というのも、前作までの明るく楽しい新劇場版シリーズは、今作『Q』になってから一挙に映画のトーンが大きく変化し、前作以上に急転直下の展開を経るからである。ネタを割らずにここで僕にいえることは、ほとんどない。本作は、なにも知らずに観たほうがゼッタイに良い類の映画には違いないからだ(『ミスト』みたいにね)。

だから、ともかくも、映像的にも満足だし、展開的にも、またそのほかの要素からみても、実に気持ちよく不安を煽られながらたいへん面白く観られたということは、いえるだろう。たとえていうなら、『エイリアン3』とか『新 猿の惑星』とか『ガメラ3/邪神覚醒』といった3作目の冒頭を観たときの感覚に非常に近い──こういう3作目は信頼できる。また、いまさら僕がいう必要もあるまいが、カヲル君のファンは観ておくべきである。これぐらい。

したがって以下、核心的なものは極力避けますが、多少のネタバレを含みますので、ご注意あれ。


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*以下ネタバレ多少含ム

さて、この映画に関して、ひとことで言い表すなら、わけのわからんことが多過ぎる、ということになるだろう。映画冒頭だけに限っても、ミサトやリツコ、オペレーター3人組らはネルフに反旗を翻して、レジスタンス組織〈ヴィレ〉を結成しているし(『交響詩篇エウレカセブン』じゃないんだからさ)、いつのまにやらアスカは復活し、真希波と共闘している始末。彼らは一様にシンジを拒絶し、あろうことか、前作のラストから14年も経過していることが告げられる。なんのこっちゃ?──とにかく、上映時間が過ぎても過ぎても、脳裏にはクエスション・マークが浮かんでは消えることなく積もり続ける。わけわからん!*1

この“わけのわからなさ”は、単なる掴みに留まらない。以降、映画は物語展開としても、映画的な演出としても、その寄る辺ない感覚を観客に容赦なく押し付けてくる。

廃墟と化したネルフ本部にシンジが到着してから後に多用される左右対称の画面レイアウトや非常に抽象的な画作り──冬月との将棋シーンを思い出そう──や、赤/青の強烈な色彩のコントラスト──廃墟と空、シンジの部屋の床とベッドなど──、また背景美術ひとつとっても、ほとんどアヴァンギャルドかシュルレアリズム映画を彷彿とさせるものである。こういった画面は、一般的な劇映画ではあまり見られないものであり、これが連続して映し出されるさまは、ある種の異様さが纏い付く。


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また、あえて観客が空間配置を把握しづらいようなカメラワークと特に編集がされているのが興味深い。いくつかある見せ場のアクション・シーンも前作に比べてそう見受けられたし、シンジがジオフロントに降り立つシーンや、カヲルに連れられて“ある光景”をまざまざと見せ付けられるシーンなど、いったいどこに何があって、彼らがどこにいるのかが、絶妙に判りにくく場面設計されているのである。これは観ていて──物語内容云々以上に──、非常に落ち着かない。

さらに、シンジに向かって語られるその他の登場人物の台詞内容は、これまでシリーズを観てきた観客にもほとんど意味不明ときている。その台詞内容にいたる因果が説明されないので、言葉の単語や「音」を拾うだけで精一杯である。

これを単に下手クソだハッタリだと、けなすことは容易い。しかし、こういった観客を徹底的に突き放す“わけのわからなさ”は、まさにシンジが置かれた状況、その視点にほかならない。14年というタイムラグの上に、かつて見知った何もかも崩壊した世界に突然放り込まれたシンジは、右も左も皆目わけがわからない状態であり、観客は彼の置かれた状況そのものを追体験しているのである。彼のどうしようもなく不安な心情は、前述の演出によって、そのまま観客の観る画面に重ねあわされる。したがって、今作のわかりにくさは、巧妙に演出された上にある確信的な本作のカラーだといえるだろう。だから、この“わけのわからなさ”は、しごく面白いのである。


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あと、本作のテーマに関して少しだけ考えを書こう(今度は、核心部にもちょこっと触れます)。

本作において、おそらく作り手は、シンジを“大人”にしようとしているふうに見受けられる。もう少し言葉を足すなら社会的にも認められるような大人である。

これまでのシリーズ──テレビ版等含めた──でのおおよその物語は、「僕はここにいてもいいんだ」という台詞が端的にあらわしているように、シンジが“自分”という存在を自身で認める、というふうにいうことができるだろう。新劇場版シリーズにおいても、前作までのところで、これは描かれている。しかし、これだけでは彼は大人になれない。そこには“責任”が生じないからだ。

前作のラストで、シンジは「綾波を救う」という選択をした。しかし、その結果、本作で描かれるように世界は崩壊してしまったのである。だからシンジには、彼の下した決断への責任がある。劇中に登場するチョーカーは、責任の象徴だ。しかし、まだ子どもである彼は、責任を負えないために*2、「僕のせいじゃない」とそこから逃避し、あまつさえ“責任転嫁”をしてしまうのだ。前作でシンジに心を開きかけていたアスカが、今作でシンジを「ガキ」となじるのはそのためである*3。そして本作では、シンジはついにその成長を果たせない。

しかしラストにおいて、アスカたちにエントリープラグ(=子宮)から救出されたシンジが立つのは、もはや海ではない。砂漠である。次回作において、シンジの成長は果たされるのか、彼のやり直し(redo)は叶うのか、気になるところだ。


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ことほど左様に、多少のとっかかりにくさを──演出上──孕んでいるものの、いろいろなことを考えさせられる良い映画だったと思う。結果はどうあれ、最終作である第4作目で、きちんとした結末を迎えてくれることを望むばかりである。

*1:画郭も違うしね。

*2:チョーカーのスイッチを押せないミサトもまた、子離れの出来ない母である。

*3:アスカの眼帯=失明は、彼女が去勢の象徴を経たことを思わせる。