『007 スカイフォール』感想

サム・メンデス監督。ボンドを6代目ダニエル・クレイグが、宿敵シルヴァを『ノー・カントリー』の殺人鬼シガーで強烈な印象を残したハビエル・バルデムがそれぞれ演じたシリーズ第23作。NATOが世界中に送り込んでいるスパイのリストが盗まれる緊急事態が発生。英国の諜報機関MI6のエージェント“007”ことジェームズ・ボンドは、リストの収録されたハード・ディスク・ドライブを取り戻すべく奔走する。やがて、その陰謀の黒幕として浮かび上がったのは、元MI6諜報員シルヴァだった……。


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僕の007経験から簡単に記すと、僕がまだまだ小学生のハナたれ小僧だった1990年代後半に、ゲーム(NINTENDO64用ソフト)版『ゴールデンアイ』(任天堂、1997)が周りで大流行していたところに遡る。「007とは何ぞや? どうやら映画らしい」ということで、実家の録画VHS──おそらくは父が録ったのであろう──のなかに唯一ひっそりとあった、番外編だけど初代ショーン・コネリー主演という『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(アーヴィン・カーシュナー監督、1983)を観たのが最初の007映画体験。

その後、折りよく始まったBS-2衛星映画劇場での007特集によって初代『ドクター・ノオ』(テレンス・ヤング監督、1962)から、3代目ロジャー・ムーア美しき獲物たち』(ジョン・グレン監督、1985)までを、また民放において4代目ティモシー・ダルトンと5代目ピアース・ブロスナンの2作目『トゥモロー・ネバー・ダイ』(ロジャー・スポティスウッド、1997)までを観、その後DVD全盛の時代となってからは過去作を観直したり新作を観たり、劇場に行ったりといった感じで、ひととおり007映画は全作鑑賞。もちろん、繰り返し観るくらい僕の大好きなシリーズのひとつなのです。一応、これまで僕の一番のお気に入りだったのは、4代目ティモシー・ダルトン主演の『リビング・デイライツ』(ジョン・グレン監督、1987)。

なぜ、あえて「だった」と過去形を用いたかというと、今回の『スカイフォール』が凄かったから。そりゃもうメチャクチャ凄かったからにほかならない。本作をひと言で表すなら、次のようになる──こんな007観たことない!


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まず、シリーズの楽しみのひとつであるアクションシーンの出来が見事で、それぞれのアクションの構築や見せ方、編集はもちろんのこと、きちんと画で驚かせてくれるところが素晴らしい。

たとえば、シリーズのお約束でもあるタイトル前の一幕では、ボンドと謎の男とのイスタンブールでのバイク・チェイスが描かれるが、「え!? バイクでそんなところ通るのかよ!」という画の新鮮さには驚かされたし、中盤にある夜間のオフィスでの格闘シーンの美しさには嘆息したし、クライマックスでの篭城戦では「その小物をそう使うのか、なるほど!」と非常にワクワクさせられた。こんな具合で、とにかく今回のアクションシーンは、それぞれのシーンひとつとっても、そこに込められたアイディアがとても豊富で、観ていて非常に大満足だった。これは、誰もが認めるところではないだろうか。


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【以下、脚注において若干のネタバレあり】

さて、本作は他の007映画と比べて特異な点がある。それは映画全体が非常に象徴的な装いをしているという点だ。あえて言い換えるなら、神話的とさえいえるかもしれない。ご覧になった方は気付かれただろうが、本作で多用されるシンメトリックな画面構成がその証拠のひとつとなるだろうし、特にその象徴性が顕著にあらわれているのがオープニング・タイトル(主題歌)シーンだろう。アーバンのアクションから、そのオープニングへの移行が、これまでにないほどにシームレスに成されているは、この『スカイフォール』が今後じつに象徴的な世界に突入するかの宣言にほかならない*1

では、オープニング・タイトルでしつこく強調されるものとは何だったか──それは、濃厚な「死」のイメージだ。深く暗い水の底に沈みゆくボンドから始まり、空から降り注ぐ銃やナイフ、朽ち果てた墓石、そして血によって浮かび上がる髑髏……それらが美しくもおぞましい見事なデザインによって、次々に画面に展開される。じつは、このオープニングは映画全体の物語をひととおり表現しているのだが、ここで描かれるとおり、今回のボンドには絶えず彼自身の「死」のにおいが付きまとっている。

それは映画開幕直後から徹底されている。アーバンのある展開によって、ボンドは1度「死ぬ」こととなる*2。そこから辛くも生還したボンドはしかしもう1度、今度は象徴的な「死」への危機に瀕することになる。それは、ボンド自身の007としてのアイデンティティの揺らぎと、自分のダークサイドである最強の敵シルヴァの存在、そして劇中でも大きな核となる「MI6(スパイ)不要論」といった形をとって現れる──つまり彼が、自身の意図とは関係なくアイデンティティを剥奪されるかもしれないという──危機だ。こういったボンドの象徴的な死に向けて、映画はその色合いを徐々に、しかし確実に暗鬱なものとしてゆく。


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思い出そう。アーバンの明るく晴れ渡った空が、前半のきらびやかで美しかった画面が、後半になるにつれてその鮮やかさを欠いてゆき、その曇り空はやがて炎によって照らされるだけの漆黒の闇へと呑まれてしまう。

また、アクションにおいても、本作では殊更に下への移動が強調される。アーバンでのチェイス・シーン──バイクがどこを走ってどこへ向かうか──もそうだったし、カジノでの格闘シーンの場所、中盤に描かれる地下鉄路線を用いた追走劇、またクライマックスの舞台であるあの場所がどこにあったのかを思い出せば、今回のボンドがいかに下方移動ばかりしているかが判るはずだ。“下”──つまりは地獄の底=死に向かって、彼はじりじりと近付いているのだ。

しかし、この暗鬱な死のイメージは一方で「誕生」のイメージの裏返しでもある*3。というのも本作において、全編やたらと出てくるロケーションがあるからだ。それは様々なトンネルだ。フロイト的に考えれば、これは母の胎内/産道の象徴にほかならない。トンネルを、地下道を、洞窟を走り、のた打ち回るボンドは、(もう一度)生まれ出ようともがき苦しむ赤ん坊なのだ。そう思えば、シルヴァがボンドに語ってみせるネズミの逸話は“蠱毒(こどく)”の変形であると同時に、サメの出産/赤ん坊をネズミに置き換えたものだといえるし、物語上の大きな意味を成しているのが象徴的な“母 Mother”であることからも決定的だろう。つまり、本作は、ジェームズ・ボンド=007の「再誕」の物語でもあるのだ。


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ことほど左様に映画全体が繰り返し示そうとする「死」と「(再)誕生」のイメージは、そのまま007映画論として、メタフィクショナルな拡がりを見せる仕掛けとなっている。それは、いまの時代に007映画など必要なのか、という問いかけだ。

2011年で50周年を迎えた007シリーズが、その時代時代ごとの時勢や映画の流行に影響されまくってきたことは、いま僕がここで指摘するまでもないだろう。そもそもイアン・フレミングによる原作小説が1950年代に書かれたものということもあり、007シリーズとは、絶えずシリーズ自身が否応なく持ち合わせている「古さ」との戦いでもあったのだ。特に、米ソ冷戦が終結してから以降は、スパイや世界陰謀を企てる敵という007的イコンそれ自体が、古いものとなっている感は拭えない*4。それは本作の劇中で、MI6不要論が叫ばれる、新生“Q”(その姿はご自身で確認されたい)がかつての“Q”の発明を「あんな古臭い発明」と一蹴するという形で表現されている。

ましてや、007でなくとも新たな娯楽アクション映画がゴマンとある現代、それでもなお「古い」007映画を生産することに意味があるのだろうか? それは一見ないように思われる。

しかし、自らに付したその問いに対して、本作は「いや、あるのだ」と、高らかに宣言してみせる。それは、かつてのシリーズに登場したあのマシン*5が重要な役割を演じることや、あるキャラクターが「困ったときには古典的なものが役立つものさ」とボンドにナイフを示すこと、実際にそれによって物語の決着が付くことなどに現れている。しかし、それが単なる懐古主義に陥っていない点もまた、重要だ。Qがボンドに渡す今回の支給品をみてみよう──そこには最新の技術を用いた備品と、昔ながらの技術を用いた備品*6の2つが併置されている。そしてそれらは両方ともに見事に機能し、活躍するのだ。古さと新しさは共存できる。温故知新の精神だ。


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こういった様々な要素を絡めつつ、われわれがよく見知った──しかし新たな──007的世界観へとようやく収斂するちょっとしたエピローグ部分は、とても感動的だ。永い永い地獄巡りの果てに再誕を果たしたジェームズ・ボンド=007の姿は、古きも新しきも備えた現代の007として、われわれ観客の前に確固として立ち上がったのだ。

こんな007映画を観たことが、これまであっただろうか──いや、ない。しかし、だからといって、これが007映画以外で成し得ただろうか──いや、これも恐らく不可能だっただろう。

もちろん、これまで書いてきたように非常に象徴的な側面が強い作品であるために、たいくつに感じる人もおられるだろう。しかし、新たな007を模索し、そしてそれを007だからこその形で集約してみせた本作『スカイフォール』は、異色作でありながら渾身の意欲作であり、紛うことなき“007映画”の傑作である。


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【追記 2015年12月3日】
次回作『007 スペクター』の感想はこちら

【追記 2021年10月13日】
次々回作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の感想はこちら


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*1:このアーバンからオープニングへの移行という、映画冒頭の完成度の高さはシリーズでも群を抜いていて、アデルによる主題歌の秀逸さ──モンティ・ノーマンによる「ジェームズ・ボンドのテーマ」(例のデンデケデンデン・デンデンデン)のコード進行を巧みに用いた、007節あふるれ見事な曲──とあいまって、鳥肌モノだった。

*2:第5作『007は二度死ぬ』(ルイス・ギルバート監督、1967)以来のショッキングな開幕だ。

*3:物語のひとつの幕切れとなる場所が教会というのも、きわめて象徴的だ。教会はすなわち、生と死が共存するいわば境界線上にあるものだからだ。また、ここにいたる道筋で、はじめてボンドは自分の足で地を蹴り、上り坂を昇るのだ。

*4:同じスパイ映画である『ミッション:インポッシブル/ ゴースト・プロトコロル』(ブラッド・バート監督、2011)が、いかにアクロバティックな方法で米ソ冷戦的状況を再現していたか、ということを思い出そう。

*5:第3作『ゴールドフィンガー』(ガイ・ハミルトン監督、1964)にて登場した、初の本格的なボンド・カーとして名高い、アストンマーチン・DB5だ。

*6:掌紋認識型ワルサーPPK/Sと、無線発信器。