『フランケンウィニー』感想

あけましておめでとうございます。というわけで、本年最初に映画館にて鑑賞したのは、ティム・バートン監督がかつて制作した短篇を自ら長編ストップ・モーション・アニメとしてリメイクした本作『フランケンウィニー』。丘の上に風車が佇むニューホランダに暮らす内気な科学少年ヴィクターの親友は、愛犬スパーキー。しかしあるとき、スパーキーを事故で亡くしたヴィクターは、愛犬を甦らせるべく禁断の実験をはじめるが……。

全編ティム・バートン印──そんな感じの映画だったなぁ、というのが観終わっての最初の印象。ダークな雰囲気ながら不思議とポップな雰囲気をかもす画面、そしてもちろん、同調圧力による迫害を受けてしまうマイノリティに対する優しい視線など、これほどティム・バートン映画らしい映画もおもえば久々だ。



大きな元ネタである1931年版『フランケンシュタイン』から引いてきた風車やヴィクターの実験室もとい屋根裏部屋のデザイン、往年の様々なモンスターを思わせるクラスメイトたちの絶妙な造型や、怪獣総進撃といわんばかりに展開される破天荒なクライマックスなどなど、これでもかと展開されるモンスター映画や怪奇映画、はたまた怪獣映画への愛に溢れた画面は、観ているだけで楽しいが、なんといってもこの映画の白眉は、ヴィクターの愛犬スパーキーの動き──そのフェティッシュなこだわりだ。走る、座る、転がる、においを嗅ぐ、水を飲む、大立ち回りを演じる……と、全編をとおして細かに動かされるスパーキーの挙動ひとつひとつがとにかく可愛らしい! この愛らしさを表現せしめた時点で、もうこの映画は「100点!」と言いたくなってしまう。個人的には、押井守監督『イノセンス』(2004)における犬(バセットハウンド)表現に並ぶ、素晴らしいアクション=アニメーションだと思う。

反対に、登場するペットたちのなかでスパーキーと対を成す飼い猫“おヒゲくん”の極端なデフォルメ具合や動きの表現などを見ると、ティム・バートンは本当に猫が嫌いなのだな、と邪推してしまうところはご愛嬌だ。いや、たぶん本当に嫌いなのだろう──犬VS.猫の頂上決戦に雪崩れ込むクライマックスの顛末は、きっとその証明だ。*1



ヴィクターを苦しめる同調圧力──子ども社会でも、おとなからも──の描写は、もはや手馴れたもので、その憎々しさはなかなか。どいつもこいつも押し並べて同じような思考や発言を繰り返すアノ感じや、映画に巻き起こる事件をとおしても成長する素振りすらまったく見せない愚かさを何のてらいもなく見せ付けるあたり、バートンの悪意が垣間見えるようで、腹立たしくも溜飲を下げる表現だ。ここまで大人が──ヴィクターにも理解を示す彼の両親を除いて──成長しない映画というのもなかなか珍しい。そういう意味では、ヴィクターと同じバイアスに苦しむ内気でゴスな少女エルザ*2だけが、クライマックスの騒動のなかでマトモな行動を取っていたところも印象的だ。

ただ、製作がディズニーということもあってか、同調圧力をけしかけてくる有象無象に対するしっぺ返し/仕返しが、ティム・バートンにしては、ちょっと控えめだったかな。たぶん、もしワーナーあたりで作っていたら、もっと意地悪な仕掛けがいっぱいあったんだろうなあ、と夢想が膨らむという意味においては、ちょっとばかり不完全燃焼気味な印象もないことはない。

しかし、前述のとおり、本作の白眉はスパーキーの動きの見事な可愛らしさにあるので、彼に会うだけでも、この映画の価値は十二分にあるものと考えます。オススメ。


追記:僕が観たのは日本語吹替え版(2D)なのだけど、半ばのあるシーンで、エドガー(せむし男まんまの少年)が「ウッソぴょーん、神様ごめんちゃい」と背中で指をクロスしたところが大写しになるカットがあるが、この意味を追補するような演出なりが、日本語吹替え版として独自にあってもよかったかも。口も映ってなかったし。

*1:そういえば、アバンに出てくるヴィクター監督、スパーキー主演の自主制作映画は、この映画全体を先んじて表象しているところも面白い。この劇中映画自体がストップモーション・アニメを利用した作品であるところもそうだし、3D撮影だということで、われわれ観客へ向けての3D映画宣言(メガネをかけることを促す)もスマートな方法でやってのけていたのには感心した。

*2:キャラ造型といい、原語版でのキャストがウィノナ・ライダー(久々の登板)ということで、彼女は『ビートルジュース』(1988)で登場したリディアの直系ということになろう。