『LOOPER/ルーパー』感想

ライアン・ジョンソン監督。30年後にタイムマシンが発明されているらしい近未来。30年後からタイムトラベルによって移送されてくる標的を殺して処理する殺し屋〈ルーパー〉である青年ジョー。ある時、彼の目の前に移送されてきたのは、なんと30年後の自分自身であった。彼は自ら所属する組織と、未来の自分とに追われる三つ巴の闘いに巻き込まれてゆく。その影には、未来においてルーパーを抹殺するという「レインメーカー」の出生の秘密が見え隠れしていた……。


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ジョセフ・ゴードン=レヴィットブルース・ウィリスが現代と未来の主人公(ヤング/オールド・ジョー)を演じたタイムトラベルSFアクション映画。時間移動のスパンが30年という設定が、R.A.ハインラインの『夏への扉』や映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)なんかを思い起こさせたりして、わかってるなぁ、という感じ。

過去のSF映画からの数々のサンプリング、あるいはそれへのオマージュに溢れた本作だが、僕が映画を観始めて真っ先に思い浮かべたのが、すでに方々で指摘されているとおり、リドリー・スコット監督『ブレードランナー』(1982)──とくに劇場公開版──だ。陰鬱な未来像を映したディストピアSFとしての世界観がまずそうだし、ある特殊な殺人請負人の職業名が映画のタイトルに冠されていること、主人公のモノローグによってしばしば説明が差し挟まれるところなどそっくりである*1。主人公らがキメている少し古めかしい20世紀スタイルのファッションセンスや銃器のデザインも、ノワール映画から大きく影響を受けた『ブレードランナー』のデザインに通じるところがある。


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本作においてやはりフレッシュなのは、まずタイムトラベルの描写、そして暴力描写だろう。

タイムトラベル描写におけるジャンプ・カット的ともいえる瞬間的な被・移送者の登場、そして瞬きする間もなく放たれるルーパーによる銃弾は、ある種の情け容赦のない恐ろしささえ伴っている。加えて、同じ服装で覆面をされた被・移送者の徹底的なまでの個性の排除もまた、それを際立たせる。予算を抑えつつ最大限の効果を得ることの出来た見事なアイディアだ。

また暴力描写では、とくに間接的な表現が見事で、それによって画面外の凄惨な暴力の痛みを見事に描ききっている。とくに白眉は、過去の人間を傷つけることによって引き起こるタイムパラドクス的な暴力描写だ。事件のキーとなるジョーの親友セスが未来からやってきた彼自身(=老セス)を逃したために組織によって捕えられ、目も当てられぬ拷問を受ける。この様子を直接的にではなく、逃亡する老セスの身体が徐々に欠損してゆくという、これまでになかった演出によって描いており、この「自分の意思とはまったく無関係のところにありながら、絶対に抗えない」というこれ以上ないほど寄る辺ない恐怖を見事にフィルムに定着させている。

ことほど左様に、本作における暴力は非常に恐怖と痛みを伴っているが、これが後々物語の重要なキーとして機能してくる。



〈以下、結末の核心部にも若干触れます。ネタバレ注意!〉

すでに様々なところ──たとえばパンフレットに掲載された映画評論家・町山智浩氏のレビュー──で指摘されているように、本作は後半になるにつれて、SFやアクションといったジャンル映画的側面から、それへの批評的側面へと、その色合いを強めていく。

後半、ブルース・ウィリス演じるオールド・ジョーが、未来の自分に害を成す人々を皆殺しにしてゆく姿は、かつてウィリス自身が演じてきた'80〜'90年代アクション映画のヒーロー像にほかならない*2

本作が描くように、かつての英雄的振舞いは、視点を少しずらせば単なる暴虐行為であり、ともすればそれが未来永劫くすぶり続ける暴力の連鎖=ループを生み出すことになりかねない。本作の結末で閉じられるのはまさに、このループだった。そして、そのループを閉じるのが、ほかならぬ若きジョーなのである。



ヤング・ジョーは、後ろめたさを感じつつも生き延びるために利己的な性格を持った若者として登場する。その彼が、映画で描かれる事件を経て成長し、ついに究極的に利他的な行動を採ることで、事態の終結をはかる、という物語である。この彼の成長は、とくに後半の主な舞台となるサラとシド母子の暮らす農場でより象徴的に語られている。

とくに印象的なのは、農場に一本だけ残った枯れ木のエピソードだ。地中深く根を張ったこの木を片付けようと、地上に出ている部分に日々オノを振るうサラに向かって、ジョーが「周りを掘り起こして根っこから処分しなければ駄目だ」と助言する場面があるが、これはまさに映画全体の写し絵である。問題を「根っこから」解決する役割を、名実ともにジョーは担ってゆくのである。

ジョーの成長を促す契機のひとつに、幼いシド少年との交流がある。父のいないシドと交流することによって、ジョーは彼の象徴的な父のとしての役割を担ってゆくことにもなるのだ。父として成長したからこそ、暴力の連鎖を断ち切ることに成功したヤング・ジョーとは反対に、オールド・ジョーは成長しなかったジョーの姿である。思えば、オールド・ジョーは未来において自らを全身全霊で愛してくれる象徴的母となるべき理想の女性と出会い結ばれる。そして30年の時を遡行してからは、彼の象徴的かつ実質的な父だったエイブ──エイブ=エイブラハムという名前*3からも、その父性は明らかだ──を殺す。このように彼は、実にエディプス・コンプレクスを体現した存在であり、つまるところ、彼はまだ子ども/赤ん坊なのである*4。そしてこのオールド・ジョーの姿は、鏡に写った今日の我々自身の姿だろう。


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これまでみてきたように、この映画はタイムトラベルSFというジャンル映画の枠組みを借りた、暴力との対峙を思考する映画であった。その思考実験性を優先するあまり、タイムトラベルSFにつき物の設定矛盾や、前半と後半のSF的ガジェットの扱い方の差は、どうしようもなく存在している。しかし、自らに付した問いにSFならではの形で答え、我々人類の幼年期の終わりを志向する本作は、新たなタイムトラベルSFの傑作として、記憶されるに相応しい作品だ。

*1:様々なヴァージョン違いが存在する『ブレードランナー』だが、最新版「ファイナル・カット版」および前版「最終版」では、主人公デッカードのモノローグはカットされた。

*2:赤く血に染まったT-シャツに茶のジャンパーを羽織った姿──とくにバスト・ショット──は、ウィリスではないが、やはり当時の大味アクション映画をメタ的に描いてみせた秀作『ラスト・アクション・ヒーロー』(ジョン・マクティアナン監督、1993)に登場するアーノルド・シュワルツェネッガーの衣装を髣髴とさせる。ちなみに『ラスト〜』内では、監督・音楽が同じということで、ウィリスがアクション・スターとして名を馳せた『ダイハード』(1988)のパロディが登場する。

*3:ところで映画は、ヤング・ジョーを象徴的父に迎えたシドが、その類稀なるテレキネシス能力によって、後の未来世界を救う存在となってゆく──つまりシドが救世主=キリストである──ことが暗示されて幕を下ろす。ジョーという名前は「ジョセフ」の略称であり、ジョセフとはすなわち「ヨセフ」である。シドの象徴的父ジョセフ──つまり、ジョーとはすなわち、マリアの夫にしてイエス・キリストの養父である「ナザレのヨセフ」の暗に示すネーミングだったのである。

*4:オールド・ジョーのハゲた頭部も、頭髪のない赤ん坊の頭部と捉えることもできるだろう。