『テッド』感想

セス・マクファーレン監督。1985年のボストン郊外。ジョン・ベネット少年はテディベアのテッドを可愛がり、命が宿るように祈るとそれが叶うのであった。以後、2人は親友となり、2012年になってもジョンとテッドは一緒に暮らしていたが、彼らの自堕落ぶりにジョンの恋人ロリーの堪忍袋の尾は、もはや切れる直前だった……。


     ○


とにもかくにも命の宿ったテディベア“テッド”の存在感が素晴らしい。1本1本緻密に描画されている毛のふわふわとした感触を見事に再現したコンピュータ・グラフィックスは凄まじく、そのテッドが画面のなかで酒を呑み、ハッパをキメながら縦横無尽に動き回るさまは、見ているだけで楽しい。

可愛らしい外見とは裏腹にオッサン声──くまのプーさんとはまた違った──で、やることなすことホトホトえげつないというキャラクター造型もよかった。人を殴るとずいぶん重い音がするのにも笑ったし、『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のショート・ラウンドよろしくペダルと足の間に材木を挟んで自動車を運転してみせるなど、その魅力を挙げだしたらキリがない。

オープニング・クレジットに映される、ジョンとテッドの成長の記録を写した写真の数々には、不覚にもグッときてしまった。ふたりして『E.T.』ごっこをしていたり、喜び勇んで『スター・ウォーズ エピソード1』に並んでいるとか、なんていうか最高じゃん!



そんな子どもまんまオッサンになってしまったテッドと同じく、ジョンもまた駄目なおとな、いわゆる子どもオトナとして描かれる。優柔不断であり、テッドからの誘いには、たとえ仕事中であっても恋人とのデートの最中であっても断れない駄目なやつである。快感原則に従って生きる幼児のまんまである。そんな彼が、恋人との破局の危機をきっかけに、なんとか自分を変えよう、成長しようと試行錯誤する様子は、ちょっと感動的だ。

ジョンとテッドは、とある幼児的な恐怖症をもっているのだが、これが物語上重要なキーとなるので注目だ。ずっと子どものままだったジョンが、クライマックスにある顛末によって通過儀礼を経たこと──恐怖症の克服──を示す、ある“音”演出は、ささやかながら見事な演出だ。映画で、彼らは完全な成長こそ遂げないが、その小さいながらも第1歩を踏み出してみせる。それを見つめる優しげな視線は、『男はつらいよ』シリーズの寅さんに向けられた視線と通ずるものがある。急に変わってしまったら、身体に悪いのだから。

サブ・カルをネタにしたギャグ──ジョンとテッドが、1980年版フラッシュ・ゴードンもといサム・ジョーンズと出会うシーンの多幸感!──や、R-15指定を喰らった“下ネタ”ギャグが満載なため、多少観る人を選んでしまうかもしれない。しかし、ティム・バートンの『フランケンウィニー』がそうであったように、テッドに会いにゆくだけでも、この映画は一定の価値がある。大人向け『フランケンウィニー』として、本作を観にいかれたい。