『風立ちぬ』感想

宮崎駿監督。“零戦”の設計者として知られる堀越二郎の半生に、同時代の作家・堀辰雄の著した『風立ちぬ』の要素を組み入れながら描いたフィクション。少年時代に夢のなかで憧れの飛行機設計家のカプローニ伯爵と出会った堀越二郎は、自らも飛行機の設計を志す。成長した二郎は上京中の列車で里美菜穂子と出会い心惹かれあう。やがて三菱内燃機株式会社へ入社した二郎は、念願の設計士としての道を歩み始める。しかし、時代は太平洋戦争へと向かって静かに移ろい、結核を患う菜穂子も体調も芳しくなかった。そして、いよいよ彼が設計した飛行機のテスト飛行の日がやってくる……。


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さて困った――というのも、あまりにも本作がすごかったために、非常に言葉に置き換えて語るのが僕にとって難しかったからだ。ひと言「すごかった!」で正直終わらせたいくらい。すでに映画を観てから2週間以上経つが、なかなか筆が進まなかったのはそういうわけです。

まず最初に指摘できるのは、画面レイアウトの凄まじさだろう。背景をどのアングルで切り取り、そこに誰かれや小物をここそこに配置し――という画面造りが、本作においては全編にわたって完璧なのだ。それこそどんな些細なカットでも、スキが微塵もないのである。台詞に説明に頼らず観客に一瞬で画面(カット)内の状況を把握させてしまう。宮崎駿の前作『崖の上のポニョ』は、アニメーションという「絵が動く」ことの快感原則に回帰した作品だったが、今回はその「絵が動く」前段階であるレイアウトをとことん突き詰めたような作品だ*1宮崎駿の画面レイアウト構築の巧みさは、方々で語られているとおりであるが、今回あらためてそれを実感させられた。


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【以下、『風立ちぬ』および『スカイ・クロラ』(押井守監督、2008)に関する核心部のネタバレが含まれますので、ご注意ください】


映画の構造
本作『風立ちぬ』では、これまでの宮崎映画――あるいは一般的なエンタテインメント映画――としては珍しい作劇の構造を宮崎駿は採用している。それは一種の「繰り返し」構造だ。

1.二郎が夢のなかで、イタリア人飛行機設計者カプローニと語らう。
2.二郎が現実世界で、飛行機の設計や飛行テストに携わる。
3.二郎が現実世界で、菜穂子との愛をはぐくむ。


映画はおよそ上記のような3種類のシーンを順番に繰り返し描くことで構成されている。ここにはいわゆる物語的な伏線や、ハリウッド映画などで基本とされる3幕構成的盛り上がりはなく、むしろ煩雑とさえうつるかもしれない*2。しかし、この煩雑な「繰り返し」こそ、宮崎駿が本作で描こうとした核心部分ではなかっただろうか。


スカイ・クロラ』との相違
これに関しては押井守森博嗣の小説を原作にとって制作した映画『スカイ・クロラ』(2008)と比較してみると判りやすいかもしれない*3。『スカイ・クロラ』では現代日本の社会や人々――とくに若者――に充満している「終わりなき日常」という空気感を、永遠に年もとらず死ぬことのない“キルドレ”と呼ばれる戦闘機乗りの少年少女たちをとおして描いた作品だ。

このなかでも「繰り返し」が執拗に描かれる。同じ場所、同じ動作、同じ言葉……映画のなかで描かれるキルドレたちの日常は、変わることも終わることもない永遠のループとして存在している。多くのキルドレはそれに気付いていないか、あるいは諦念によってやり過ごそうとする。しかし、その無限ループに気付いたキルドレである主人公・函南優一が、そのなかにおいてすら「それでも変化している“何もの”か」を認識し、そして自らが変化することで、その無限ループを断ち切ることを希求するところで映画は終わる。

このように『風立ちぬ』と『スカイ・クロラ』とをご覧になれば、両者が非常に類似した要素を持ち合わせていることに気付くだろう。しかし、異なる部分もある。それは、押井は『スカイ・クロラ』において主人公たちの日常を表すために、まったく同じカメラアングルやワーク、編集を用いながら「ループ」を強調するが、宮崎の『風立ちぬ』においては必ずしもそうではない点だ。


繰り返し:ループ≠ルーティン
あえて呼びかえるなら、それはループではなく「ルーティン」と呼べるだろう。この繰り返し――ルーティン自体が、二郎の人生そのものだったといえば、いいすぎだろうか。たしかに映画は前述のように1〜3の要素を繰り返すことでり立っているが、決してそれぞれのシーンで描かれる内容は同じループではない。毎回そのシーンが巡ってくるたびに、何かが大きく変わっているのだ。時代や社会情勢は移ろい、菜穂子との愛の形も変化し、やがて劇中ずっと二郎が感じていた“創造の風”も止むのだ。

では、そのルーティンのなかで二郎はなにをしていたか。それは、二郎が理想とする飛行機の設計だった。映画では、理想を追い続ける二郎の美しい面と醜い面のそれぞれ――その葛藤――を描き出す。「美しい飛行機」を作る理想を追う彼はたしかに純粋ではあるが、劇中の台詞でもはっきりといわれるように、そのふるまいはエゴイスティックであり幼児的でもある。そして二郎が作り上げた「美しい飛行機」とは結果的に、敵味方区別なく大量の生命を奪うものとなってしまったのだ。

映画のラストで描かれる二郎の夢を思い出そう。幻想的で美しい野原には、二郎が作り上げてきた飛行機の無数の残骸が散らばっている。それを見た二郎が「地獄かと思いました」と呟き、カプローニが二郎の作り上げた「美しい飛行機」を“ゼロ”としか言い表さないのが象徴的だ。では、結果的に“ゼロ(=無)”を作り上げた二郎の人生には、意味などなかったのだろうか。否、けっしてそうではない。もし意味があるとするならば結果ではなく、ルーティンを積み重ねていった二郎の「人生そのもの」ではなかったか。そして、だからこそ二郎――そして我々――は「生きねば。」ならないのだ。


二郎と宮崎駿、そして庵野秀明
映画のなかの二郎の姿は、当の宮崎自身の姿と重ねあわされる。映画が描く二郎の「美しい飛行機」を追い求めることの葛藤は、そのまま宮崎がアニメを作り続けてきたことに重なる。宮崎はそれに対して自問自答を続けてきたであろうし、本作は二郎の姿を借りた宮崎自身の人生への問いかけでもあるのだろう。

だからこそ、宮崎と同じようにアニメ──『エヴァンゲリオン』という怪物*4─―を再生産し続けてしまう庵野秀明が、二郎の声にキャスティングされたのではなかったか。宮崎が庵野をその「存在感で選んだ」で語ることには、そういった意味があるはずだ。そしてその存在感は、たしかにフィルムに定着させられていた。そんなわけで賛否両論のある庵野秀明のキャスティングは、僕は成功しているのではないかな、と賛同のほうに手を挙げるのである。


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いろいろと脈絡のないことを書き連ねてしまったけれども、宮崎駿のフィルモ・グラフィ中においても特に異質であり、とにかく「すごかった!」ので、ぜひ劇場に足を運ばれてはいかがだろうか。僕は絶賛します。

*1:本作が今日一般的なサランウンド音響ではなく、モノラルを採用しているのも、音声ではなく画面にこそ観客を集中させたかったからではないだろうか。

*2:1960年代に撮られた邦画の人情喜劇映画――たとえば野村芳太郎の作品――の構成にどちらかといえば近い。

*3:【余談】『風立ちぬ』は、押井が『スカイ・クロラ』制作時に「自分のほうが宮さん(=宮崎駿)より空中戦を撮るのはうまい」という旨を豪語したことへのアンサー・ソングではないかとも思える。本文で書いたようなテーマ的側面もさることながら、やはり両作とも飛行機映画である点が大きいだろう。『風立ちぬ』を観ていると、宮崎の「CGを使わずとも、そもそも戦闘シーンがなくても、戦闘機の飛行と破壊の美学は描けるのだ。押井よ、まだまだぞ」という怨念が聞こえてきそうだった(笑)。いっぽう飛行機の着陸シーンでは、機体の主観カメラで捉えたようなカットが登場するが、こちらは映像手法的にも宮崎が押井を引用している。アニメーター西尾鉄也をして「闘犬」かと言わしめる、宮崎と押井の愛憎こもごもな師弟関係性を垣間見るようだった。ちなみに、『風立ちぬ』も『スカイ・クロラ』も、劇中の喫煙描写に対して日本禁煙学界から質問状を受け取っている。

*4:庵野の場合、パロディにパロディを重ねるという手法を用いて――そもそも根幹が“無”とも取れる作品制作を続けてきた作家という特異な側面があることも考えよう。