“日本”をテーマにした短編アニメーション4篇(+オープニング・アニメ)で構成されたオムニバス作品。監督はそれぞれ、森本晃司「オープニング」、森田修平「九十九」、大友克洋「火要鎮」、安藤裕章「GAMBO」、カトキハジメ「武器よさらば」。
○
いきなりの余談で恐縮だが、僕がまだ中学生だった10余年前、友人に押し付けるように貸された『AKIRA』(1988)の録画VHSを観てからというもの、完全に人生が狂ったほどには僕は大友克洋ファンであることをまず申し上げたい。これまでひととおりの大友作品は読んできたし観もしてきた。その上で、大友映画に関する僕の総評は、ヴィジュアルは凄くなっているが映画の出来としては右肩下がり感が否めない……という感じだ。「果たして今回はどうかしらん」という思いを胸に地方ゆえの遅延公開にもめげず、ようやっと足を運んだ。
全体として感じたのは、プロモーション・ビデオのようだということ。短篇4篇とオープニングの5作品はそれぞれ違った映像の趣向が凝らされていて、ヴィジュアル面はたしかに面白いのだが、タイトルが如実に示すように、短篇それぞれの尺が非常に短い*1。このため、脚本が犠牲になっているのは否めない。とくに「火要鎮」と「GAMBO」の2本は、せめて30分は必要な物語内容のため「味見」感覚が非常に強い。
他作品との比較で話をするのは、あまりどうかとも思うのだけれども、同じく大友が参加したオムニバス映画『MEMORIES』(1995)では、短篇それぞれの尺もしっかりあって、脚本とヴィジュアル面とのバランスがじつにちょうどいい按配だったのを思えば、今回はヴィジュアル面が先行してしまった感は否めない。
劇中、ずっと遠景に映っている“フジヤマ(富士山)”がいわゆるクール・ジャパン的なる虚構としての薄〜いニッポンらしさを醸すように、短篇それぞれの薄さはあったかもしれない大作長編アニメ映画らしさを醸している。それぞれの作品が、もっと尺がしっかりあって、映画として面白くて見応えのあるものだったならばなァ、と夢見させてくれるような掌編(=小片)集だった。そんな夢(=映画)に出逢えたら素敵なことだし、そんな夢で逢いたいものだ。
○
以下、簡単に収録作品それぞれの感想。
「オープニング」……森本晃司監督。かくれんぼで鬼になった少女が様々な世界に迷い込む様子を描く。夕暮れ時の神社から、平面的でビビッドな世界への移行や、ジャンプする少女の衣装が次々に変わるカットなどかっこいい。ただ、オープニングとしては余計な台詞が多いのではないか。「もういいかい」「まぁだだよ」「もういいよ」だけに留めておけば、もっと印象的になっただろう。
「九十九」……森田修平監督。山奥で雨をしのぎに入った祠から、古びて捨てられた道具や着物が住む別世界へと紛れ込んだ男の姿を描く。ヴィジュアルと語り口を大きく変えた「まんが日本昔ばなし」といった趣。画面としての面白さよりも、主人公を演じた山寺宏一の“息遣い”の演技を存分に楽しめる1篇だ。最後の最後で、『用心棒』(黒澤明、1961)のオープニングへのパロディが出てきて笑った。
「火要鎮」……大友克洋監督。18世紀の江戸を舞台に、商家の娘お若と幼なじみの松吉との、結ばれない愛が引き起こす大惨事を描く。絵巻物をあしらった画作りが特徴的で、巻物の外装部の模様をレター・ボックス(画面上下の帯)にしてシネマ・スコープ画面を作り出しているところなど面白い*2。火消したちの消火活動を微にいり細にいり描いてみせるアクション・シーンもよかった。ただ前述のように、物語としてはほんの味見程度なのが残念だ。
「GAMBO」……安藤裕章監督。寒村に暮らす少女と出会った白く巨大な熊が、鬼のような化け物と激闘を繰り広げる。“〜っぽさ”だけで出来ている感じが非常に歯がゆい。様々な設定の表層だけが浮かんでおり、だから何なんだという印象しかない。それもこれも尺の短さゆえだと思いたい。
「武器よさらば」……カトキハジメ監督。近未来の東京を舞台に、パワードスーツで武装した小隊に訪れる危機を描く。全作品中、もっとも安心して観られる1本。もともとが大友克洋による短篇漫画*3ということもあるのだろうが、やっていることと尺とがちょうどいいバランスだ。ただ、オチのギャグを増やしたことで、かえってその皮肉めいた笑いが弱まってはいないか*4。