『許されざる者』(2013年版)感想

李相日監督、アダプテーション脚本。1992年にクリント・イーストウッドが発表し、アカデミー賞4部門を受賞した“最後の西部劇”『許されざる者』(以下、'92年版)を、明治初期の北海道に舞台を移してリメイク。主演は渡辺謙柄本明らが務める。

1880年、北海道。かつて幕府軍最下層の兵士として幕末の志士を斬りまくり、“人斬り十兵衛”と恐れられた釜田十兵衛。彼は落ち延びたこの地で一人の女性と出会い、所帯を持つ。その妻は3年前に他界し、今は残されたふたりの子供たちと静かな生活を送っていた。しかし、過酷な最北の地での暮らしは食べるものにも事欠く有様。そんなとき、かつて幕府軍の戦友だった馬場金吾が現われ、賞金首の話を持ちかける。彼によると、鷲路村でひとりの遊女を斬り付けたふたりの農夫に、遊郭の女たちが賞金をかけたという。「一緒に来てくれるだけでも心強い」という金吾に対し、「もう人殺しはしないと死んだ妻に約束した」と一度は断る十兵衛だったが、いよいよ畑が不作となってしまう。そんな窮状から十兵衛は子供たちと冬を越す資金のために、最後の人斬りに出発する決意をする。鷲路村へ向かう十兵衛と金吾だったが、ふたりのもとに坂田五郎と名乗る青年が現れ「俺も仲間に加えろ」と付いてまわるようになるが……。


<<以下、ネタバレがありますのでご注意>>


     ○


ここのところの全国劇場公開される邦画に対して、なんとはなしに“不信感”を抱いてしまっている僕としては──そんなことだから『桐島〜』を見逃すのである──、今回のリメイクも期待よりも不安のほうが強かった。あの'92年版をどう日本時代劇に置き換えるのか……?

'92年版の物語がどういうものだったかを大雑把にいえば、

かつてのアウトロー、ウィリアム・ビル・マニー(イーストウッド)が、暴力の生み出す負の連鎖を全部背負い込んで「お前らいいかげんにせんと皆殺しにしたるけんな!」と説教する

──というものである。つまりイーストウッドは、物語の途中から全人類の罪を背負ったイエス・キリストに成り代わっているのだ。その証拠に、マニーは町の強権的な保安官リトル・ビル(ジーン・ハックマン)から凄惨な暴力を受けて生死の淵をさ迷った果てに、3日目に意識を取り戻したことを思い出そう。これは磔刑に処されたイエスが3日目に復活したことを象徴している。序盤では馬に乗るのも苦労するヨボヨボのお爺ちゃんだったマニーが、後半で一挙に殺戮マシーンに変貌するのも、彼が神の使徒として復活を遂げたからにほからならない*1。その上で、“許されざる者”とはいったい誰なのか、という問いを観客に投げかける映画だった。



このように'92年版はキリスト教圏における暗喩の色濃い作劇だし、舞台となっている19世紀末のアメリカでの白人─黒人─インディアンの民族間、あるいは同じ白人でも開拓民と英国人との間にあった摩擦描写など、そんな西部開拓終焉の時代をどのように日本に持ち込むのだろうか。

結論からいえば、今回のリメイク版はかなり巧く処理しているように見受けられた。西部開拓時代の終焉を明治初期という侍の時代の終焉──しかも'92年版と同年代──に当てはめることで解決している。しかも北海道を舞台としたことで、日本における開拓と異民族間の摩擦を描くことにも成功しているし、'92年版におけるイングリッシュ・ボブ(リチャード・ハリス)という英国人ガンマンを元長州藩士(國村隼が演じる北大路正春)に置き換えてみせたところには舌を巻いた。高慢なイングリッシュ・ボブがかつての騎士道──とはいえ、それは虚飾にまみれた見せかけだったことが明らかになるが──を表しているなら、北大路は既に消えうせた武士道を表していたのだろう。このように物語のお膳立てとなる舞台設定は見事に整えられている。

では、イエス・キリストを象徴していた主人公マニーのキャラクターは今回のリメイクでどうなったのか。


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今回、渡辺謙が演じた釜田十兵衛は、イーストウッド演じるマニーがキリストを象徴するのに対して、僧侶を象徴している。短く刈り上げた頭髪や、彼が馬場金吾(柄本明='92年版でモーガン・フリーマンが演じたネッドにあたる)と旅に出かけるときに手にした亡き妻の形見である首飾りが数珠であることから明からだ。

もうひとつ十兵衛が僧侶を象徴していると思われる証拠があるのだが、それを確認するためには、もうひとりの旅の仲間、沢田五郎(柳楽優弥)についてちょっとみてみる必要がある。

'92年版におけるスコフィールド・キッド(ジャームズ・ウードヴェット)にあたる五郎は、オリジナル版からもっとも大きく変更の加えられたキャラクターだろう。気取り屋で口だけは達者なキッドはどちらかといえばおとなしい印象があったが、本作における五郎には、粗暴な快活さがある。アイヌと和人のハーフである五郎は、短気ですぐに他人につっかかるような直情径行的性格ながら、そのじつ芯はしっかりとしており、それは幼少期のトラウマに根ざした正義感に則っている。ウガウガとやかましく唸りながら犬のようにいつも身体のどこかをワシワシと掻き、ニカッと笑いながら十兵衛たちのあとを付いてまわる。こういった人物を、われわれはどこかで知ってはいまいか。



それは、黒澤明監督『七人の侍』(1954)に登場する菊千代(三船敏郎)だ。今回の五郎のキャラクターは、前述の要素から、おそらく菊千代を念頭に造形されている。

中盤にある官軍の虐待に対して逆らおうとするアイヌの村人に「虚勢を張ってないでおとなしくしていたほうが身のためだ」と小馬鹿にするように言い放つくだり*2は、『七人の侍』で野武士に襲われた村人に一泡吹かせて一括する菊千代に重なる*3

このとき菊千代がなぜ村人にそんな態度を取ったのかといえば、後になって暗示されるように、彼もまた同じような貧村──そしておそらくは彼がまだ幼いころ戦かなにかに巻き込まれて略奪にあった村──の生まれだからだ。菊千代には百姓の考えることが痛いほど解るのだ。五郎もまたアイヌの村で生まれ育ったが故に、アイヌの男が考えることも、目の前で行われる官軍の暴力への対応の如何がどんな結果をもたらすかを知っているのである。



そして、この菊千代が慕い、あとをずっと追い回していたのが、志村喬が演じた島田勘兵衛だ。

勘兵衛は『七人の侍』のなかで僧侶を象徴している。温和な性格ながら規律には厳しい性格はもちろん、冒頭のシーンで盗人に捕われた子供を救うおうと僧侶(まさしく!)に扮するために剃髪すること──そして、その髪型を強調するかのようにやたらとその頭を撫ぜる──からも明らかだ。そして、勘兵衛と菊千代の不思議な師弟関係は、今回の『許されざる者』における十兵衛と五郎の関係性に引き継がれている。十兵衛の姿は、僧侶のかたちをとった勘兵衛のそれなのである*4

もともと西部劇を研究しまくった黒澤が撮った和製西部劇ともいうべき『用心棒』(1961)が、アダプテーションされてイタリア製西部劇“マカロニ・ウエスタン”『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督、1964)を生み出したことは皆さんご存知のとおりだし*5、これに主演して一躍スターになったのがイーストウッドだったことは言わずもがなだ。そして、イーストウッドは自身が演じたキリストを象徴している“名無しの男”という役所を自覚的に演じ続けてきた。そのイーストウッドが撮った『許されざる者』のリメイクが、こうして黒澤映画に回帰してゆくというのは、不思議な感銘を受ける。


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話が少し脇道にそれたけれども、3日目に復活するところなど、キリスト的側面がないわけではないものの、十兵衛は僧侶の象徴だと考えられる。そういうこともあってか、本作の物語の結末は'92年版とは若干異なる。

'92年版では、すべてを終えたマニーは子供たちのもとに戻り、手に入れた賞金を元手にサンフランシスコで薬屋を開業したらしいことが伝えられて終わる。これに対し本作では、十兵衛は賞金と妻の形見である数珠を五郎と遊女なつめ(忽那汐里。'92年版でのディライラにあたる顔を斬り付けられた遊女)に託し、すべてを終えたあと姿を消す。十兵衛の子供たちのもとに戻るのは五郎となつめであり、彼らがそこで疑似家族となることが示唆されて映画は幕を下ろす。

このように、マニーは人間の世界に──罪を背負った人間が神から地上で生きることを命じられたように──留まったが、すべての罪を一身に背負った十兵衛は人間の世界観から解脱したように見えるのが興味深い。十兵衛が諸法無我と呼ばれるような境地に達してしまったかのようにみえる本作のエンディングは、十兵衛=僧侶ということから非常に仏教的側面がものとなっているように思われる*6



もうひとつ、このエンディングを観て思い出したものがある。それは『許されざる者』とは別のイーストウッド監督の映画『アウトロー』(1976)だ。

アウトロー』では、最後の戦いで満身創痍となったイーストウッドが夕暮れ(=黄泉)に向かって馬を駆るショットで終わる。『アウトロー』での最後の戦いは刀剣を用いて演じられ、しかもイーストウッド演じる主人公ウェールズが致命傷になるような傷を負うことなどから、今回のリメイク版の最後の戦闘シーンは、どちらかといえばこちらに近い。そして十兵衛が、旧幕府軍の兵隊であったがゆえに官軍から追われていたという設定は、南軍の兵士だったウェールズが、南北戦争終焉後のアメリカで北軍兵士から追われるという設定にむしろ近い。

また、旅の途上でウェールズがインディアンの長老や白人母子と疑似家族的な関係を築いてゆくところなども、今回のラスト・シーンに通ずる要素だ。『アウトロー』をはじめ、いわゆる“家族”と血のつながりのない疑似家族を対比してみせることは、イーストウッドが自身の関わった映画でたびたびあった*7。このように今回のリメイク版には『アウトロー』的側面もまた多いのである。本作は'92年版『許されざる者』のみならず、イーストウッド映画そのもののエッセンスを十全に継承した作品といえるだろう。


     ○


ことほど左様に、単に'92年版の表層をなぞるだけでなく、ここに書ききれないほどの創意工夫を凝らしてイーストウッド映画らしさや物語のテーマなどを、きちんと時代劇に落とし込んで結実させた本作『許されざる者』は、リメイク版として十二分な完成度を持っている。それだけでなく、イーストウッドの源流のひとつともいえる黒澤映画的要素も含みこんで、映画史的な潮流の一端を垣間見せてくれるのも嬉しい。

そりゃ、「なつめにちょっと核心部を語らせすぎだよなぁ」とか「佐藤浩一の演った大石一蔵は、'92年版リトル・ビルと比べて書割かなぁ*8」とか細々と思うことはあるけれど、僕の大好きなイーストウッド映画をここまでちゃんとリメイクしてくれたのだから、それは大変喜ばしいことだし、劇場に足を運ぶには十分な理由たりうるだろう。オール北海道ロケの風景を切り取った撮影も本当に美しいので、皆さんぜひ劇場でご覧ください。


     ※

*1:というか、イーストウッドの映画はたいてい同じ話。『許されざる者』に限らず、彼がが演じるキャラクターは多かれ少なかれイエス・キリストを象徴していることがほとんどだ。

*2:'92年版には同様のシーンは存在しない。

*3:野武士の襲撃以来、外の人間をひどく恐れるようになった村人は、助っ人のはずの勘兵衛が村にたどり着いても、固く戸を閉ざし出迎えようともしない。そこに突然鳴り響く警鐘の音。野武士の襲撃かと慌てた村人は一斉に家から飛び出し、「お侍さまーッ!」と勘兵衛らにすがり始める。しかし一向に野武士は現れない。どよめく村人を余所に菊千代の高笑いが響く。警鐘を鳴らしたのは実は菊千代だったのだ。臆病な村人たちに一芝居打った菊千代は「何だ貴様らは」と一括する。

*4:冒頭と回想場面に、鬼のような長髪だった十兵衛があえて映されるのは、十兵衛のヴィジュアル的な僧侶性をより強調するためではなかったか

*5:そして『七人の侍』もまた、『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督、1960)として西部劇にリメイクされている。

*6:恥ずかしながら僕には仏教について教養があまりないために、あるいは誤解があるかもしれないことを断っておきます。ところで映画のラストで、雪原を彷徨する十兵衛の顔がアップになり、そこに一筋の涙がこぼれるというショットがあるが、ここについて後になってから『最後の猿の惑星』(J・リー・トンプソン監督、1973)のラストシーン──涙を流すシーザー像──を思い出した。思えば『最後の〜』もカインとアベルの説話を思い出させる「罪(殺人)」の誕生の物語だった。

*7:たとえば『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)、『グラン・トリノ』(2008)など。

*8:最初からブレずに“悪役”って感じなんだよなぁ。