『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』感想

新房昭之総監督、宮本幸裕監督、虚淵玄脚本。TVアニメシリーズを再編集した『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語』『[後編]永遠の物語』に続く完全新作にして3部作完結編。

自らの願いと引き換えに魔法少女となり、人間の敵である魔女と戦うことを宿命づけられた彼女たちは、やがては絶望に沈んで自らも魔女へと変貌してしまう。かつては平凡な一人の少女にすぎなかった鹿目まどかは自分を犠牲に「円環の理」となり、その残酷な運命の連鎖から全ての魔法少女を解き放ち、世界を新たな理へと導いたのだった。その新たな世界の見滝原市では、鹿目まどかと親友の美樹さやか、先輩の巴マミ、隣町の風見野からやってきた佐倉杏子たちは魔法少女として人の悪夢が具現化した怪物「ナイトメア」退治にいそしんでいた。そんなある日、同じ魔法少女である暁美ほむらが転校してくる。


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僕は、もともとのTVアニメ版『魔法少女まどか☆マドカ』(新房昭之監督、2011)に関して、巷で「何やらすごい魔法少女モノのTVアニメがあるらしい」と騒がれたのを対岸の火事のごとき物腰で聞き流し、その後、直接の友人・知人からも「まどマギは観よ、こぉんなにすごいンだから」と熱のこもった説得・解説を受けてそれでも渋り、今年の初春にようやっと重い腰を上げて鑑賞したような体たらく(僕のしごく簡単な感想はこちら>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20130715/1373879531)。ファンの方から怒られてしまうだろう。なおかつ、すでに公開されたTVアニメ版を再編集した前2作についても未見の状態での鑑賞という、不勉強極まりない体たらくでの記述ということをまずもってお断りしておきます*1

さて、本作は作品の性質上、何を書いてもネタバレ*2になってしまうので非常に困ってはいるのだけれど、それでもなお本作をサブカル的婉曲表現でもってひと言で表すなら「『魔法少女まどか☆マドカ』の皮を被った押井守映画」とでも言おうか。そして、あえて本作をジャンル分けせよといわれるなら、僕は迷わず「恋愛映画」と答えるだろう。まさかこんな内容になるとは露とも思っておらず、意外な驚きに溢れた作品だったので一見の価値あり。オススメです。

これ以降は本作及びTVアニメ版の核心部に迫るネタバレを文章にバンバン含みますのでご注意ください。また、文中の台詞は厳密な引用ではないことをお断りしておきます。あと、感想というか覚え書きなうえ、なんか長くなっちゃいました。


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まずは、当たり障りのないところから書けば、劇団イヌカレーによる様々な平面素材をコラージュして表現された異界デザインは、相変わらず不気味なポップさを湛えていて面白い。前半の見せ場である魔獣との戦闘シーンでは、『モンティ・パイソン』シリーズでテリー・ギリアムがこしらえていた挿入アニメを髣髴とさせるし、映画後半に至ってはある種の地獄絵図をも思わせる暗く、粗く、そして密度のある画面が展開されて圧巻だった。

この異界表現、TVアニメ版では現実世界に「魔女」が干渉した際に生じるものであったし、本作でも、まるで普通の魔法少女モノのアニメのよう──驚いたことに魔法少女たち5人が勢ぞろいし、それぞれに変身シーンまであてがわれている──に展開される前半30分については、その法則が守られている。

ところがその後、本来であれば現実世界に紛れるはずのない異界表現が現実世界に紛れ込み始め、明らかな違和感として画面に定着させられる。フランシス・ベーコンの描く絵画のように顔が擦れたモブ・キャラクターたちや、遠近感や実在感を欠いた超現実的な街並みが画面に現れ始めるのだ。

そして、これに最初に気がついたのが、魔法少女のひとり・暁美ほむらである。その違和感の正体をつかむべく調査を進めた彼女は、自分たちが見滝原市から出ることができないないことを明らかにし、「この世界は現実のそれではなく、誰か──おそらくは魔女──の願望に基づいて形成された虚構である」という結論に達するのである。


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すでにお気づきの方もおられるだろうが、ここに来て本作はうる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督、1984)的世界観に突入するのである。僕が先に本作を「押井守」映画のようだと書いたのは、ひとつにはこういう意味である*3

ビューティフル・ドリーマー』は、なぜか延々と文化祭前日が繰り返されていることに──そして、それによって世界に生じる「友引町から出られない」などといった矛盾やズレ──気がついた保険医で巫女のサクラが、調査の結果、この世界がラムの夢に基づいて形成されていることと、その夢を具現化した妖怪・夢邪鬼を暴くという物語である。

夢とはすべからく無意識下に抑圧された願望の変形した具現化であり、その変形ゆえに夢には様々な矛盾やズレが生じる*4としたフロイトに従うならば、文化祭前日が繰り返す夢はラムの「あたるとずっと一緒にいたい」という願いに起因し、それを夢邪鬼が「文化祭前日の反復」という形に変形して「あたるとずっと一緒にいられる」状況を具現化しているということになる。そして、あたるたちが文化祭前日を何度も繰り返していたり、友引町から出られないという矛盾は、夢邪鬼がラムの願望を変形して夢として具現化したからにほかならない。


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閑話休題。本作『新編』もまた、この世界は誰のどんな願望に基づいた虚構なのかをほむらが──ラムの夢を精神分析家のごとく分析してみせたサクラのように──探るミステリィへといったんシフトする。画面には先述のモブや脱出できない見滝原市という矛盾が描かれるが、しかし思い返せば、観客にはすでにして、最大の矛盾が堂々と提示されていたのではなかったか。

それは、鹿目まどかが世界に存在していることである。TVシリーズの最終回──そしておそらくは劇場版前作──で、彼女は「円環の理(ことわり)」という存在*5にシフトしている。これは、やがて魔女となるすべての魔法少女たち*6を救済する、いわば神に等しい存在であり、「個」としてのまどかは、ほむらの記憶を除いて消え去ったはずだ。にもかかわらず、映画はまどかの日常から開幕されるので、僕はその違和感にずっとウムウムうなっていたのである。

そして、もうひとつの大きな矛盾は、まどかが存在するという矛盾にほむら自身が気づいていない点である。それどころか、まどかが「円環の理」となったことを記憶しながらも目の前のまどかを「まどか本人」として接したりと、彼女の言動は、むしろその矛盾をなかったことのように抑圧するかのようなふるまいにもとれるのである。そして、その抑圧にほむら自身が気づいたとき、映画は大きな転換点を迎えることになる。すなわち、この虚構の世界は、ほむら自身が作り出していた世界だったことが明らかになるのである。すべては、現実世界で魔女になりつつあったほむらが見ている夢だったのだ。



キュゥべえことインキュベーターの説明によると、彼らが魔女になる寸前のほむらと、彼女のソウルジェム*7を特殊な方法で隔離して、ほむらの願望が純粋培養されるにまかせた結果だという。そして、ほむらが「まどかと再会したい」という願いを充足すべく、その他の魔法少女たちや、まどかを取り巻くキャラクター──家族や担任の先生、友だち──を現実世界から彼女の内的世界に引き入れて「まどかのいる」状況を作り出した結果、魔女になりつつあるほむらを救済しようとした「円環の理=まどか」もまた、その神性を差し引いた個(=鹿目まどか)として引き入れてしまったというのだ。だから冒頭から、まどかは何事もなかったかのようにまどか個人として存在していたのだ。

ほむらがまどかと出会ったのは、彼女たちが互いに魔法少女だったからであって、ほむらがまどかに再会するためには彼女たちが魔法少女として活躍する「日常」が必要不可欠だ。ラムが夢の中で「あたるとずっと一緒にいられる」状況を「文化祭前日の反復」として間接的に具現化したように、ほむらもまた、その内的世界(=夢)にまどかのいる、すなわち彼女が「まどかと一緒にいられる」状況を「まどかたち魔法少女の日常」として間接的に具現化していたのだ。


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その後、ほむらは自らを永遠に呪い続ける魔女となり、すったもんだあった挙句、彼女の内的世界に捕われていたまどかは「円環の理」としての性質を取り戻す。仲間たちとの共闘によって魔女化したほむらを解き放ったまどかは、ほむらを救済すべく「円環の理」として彼女の前に現れる。僕は「おそらくここで映画が終わるのだろう」と思っていた。

ほむらは幾たびも同じ時間をループし続ける存在だ。彼女はいわば八百比丘尼のように永遠の生命を持った不死の少女であるし、彼女の幾度となく繰り返されるタイム・ループ(時間遡行)を精神分析的にあえて捉えるなら、「まどかの魔女化=死」というトラウマ記憶を抑圧するあまり何度も反復する/してしまう「症状」と考えられる*8。それをある種の業と捉えるならば、一般的にみて、それからの解放が、ほむらに与えられる物語的な着地点のように思われる。そして、彼女の救済(=成仏)も、トラウマの解消も、TVシリーズでは果たされていない。それがここで果たされるのなら、TVシリーズの続編でありかつ映画版3部作のラストとして、なかなか気の利いたエンディングじゃないかと考えていたのである。


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しかし驚いたことに、映画はそれで終わらなかった。

ほむらを救済するために「ほむらちゃん、いっしょに行こう」と手を差し出すまどか。やれやれ一件落着かと思いきや、突如としてまどかの手を捕らえたほむらは、まどかから「円環の理」としての神性を剥ぎ取り、個人としてのまどかを捕えてしまう。そして、かつてまどかが世界のルールを改変したように、今度はほむら自身が世界のルールを新たに書き換えてしまう。それは、虚構ではなく現実に、なおかつ個人としての鹿目まどかにほむらが再会できる世界だった。そして、それはほむらがまどかを愛しているが故の行動だったのだ。

このように物語はさらにツイストして、終盤にかけてある種の「恋愛映画」となってゆくのである*9



ここで、ほむらが自らの内的世界に虚構を作り出した動機とはなんだったかを思い出そう。それは「まどかと再会したい/ずっと一緒にいたい」という願いだった。これを間接的に充足すべく、彼女は「まどかたち魔法少女の日常」を作り出したのだ。なぜか。それはほむらの前に、彼女の愛した鹿目まどかがいないからだ。そして、それはまどかが「円環の理」として存在する世界である以上、まどかがほむらの前に現れることは未来永劫ありえないからである。

つまり、ほむらにとってまどかが「魔女化」することも、「円環の理」となることも、どちらも同じだったのである。まどかが総ての魔法少女たちを救済するために個を犠牲にして「円環の理」という存在になったことは、イエス・キリストが自らの「死」によって神になったことと同義である。つまり、ほむらにとって、まどかは死んだのだ。

TVシリーズのラストにおいて、世界のルールが改変された後も、ほむらは魔法少女として闘い続けていることが示唆される。その理由は本作でも語られるように、自らを犠牲にして魔法少女を救ったまどかを記憶し続けるためである。これはまさに、まどかの「神化=死」という事実を否認するようなふるまいではないだろうか。ほむらが「円環の理」のことを「鹿目まどか」とあえて呼んでいたのも、「まどか=円環の理」となったことを繰り返し思い起こすことによって、「まどかの死」というトラウマ記憶を抑圧しようとするふるまいであると考えられる*10


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しかし、ついにラストでそのタガが外れてしまう。ほむらが抑圧し続けた「まどかの死」という記憶は、「円環の理」としてのまどかと再会したために開示され、ほむらに重くのしかかる。欲しいのは「その」まどかじゃない、わたしの愛したまどかは死んだ。そのとき、同じく彼女が無意識下に抑圧し続けてきたまどかへの欲望もまた開示されたのだ。「まどかを愛している=まどかが欲しい」……

ふたたびフロイトにお出まし願えば、夢の内容はその人の願望充足であるとはいえ、願望をそのまま夢に見るわけではないという。そもそも願望とは無意識下に抑圧されているある種ドス黒いものであり、それをそのまま夢に見ては、その恐ろしさに目を覚ましてしまうからである。夢は願望の変形した具現化と先に挙げたのはこういう理由だ。夢を見るのは眠りを維持するため──とは、フロイトがもっとも重要視した夢の機能である*11

だからこそ、ほむらが映画前半で作り上げた内的な虚構世界(=夢の世界)は、彼女が「まどかと一緒にいられる」──もっといえば「まどかを愛せる」──状況を「まどかたち魔法少女の日常」として間接的に具現化していたのである。そうすれば、ほむらは自身の胸のうちにあるあまりに独善的で直接的な欲望を直視せずに済むし、彼女自身が気づきさえしなければ、眠り続けて、いつまでもその夢の世界にまどかと一緒にいられたのである。

しかし、それも叶わぬ夢となったほむらは、ついに自らの抑圧した欲望を開示し、神に等しい力を持って世界をそれの赴くままに書き換えてゆく。博愛の存在であるまどかを個として愛し、独占するには、もはやほかに方法がないからだ。その荒業を目にして「君はいったい何者だ」と問うキュゥべえに対して、ほむらは「神(=まどか)を誘惑するには悪魔になるほかない」と答える。その姿はどこまでも独善的だ。だが同時に、これまででもっとも生気に溢れたほむらの姿が、そこにはある。


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ルールが改変された後の世界では、滝見原に転校してくるのはほむらではなく、まどかになっている*12。たどたどしくクラスの面々にあいさつするまどかを、ほむらが静かに見つめるこのシーンは、世界の主役がまどかからほむらへと決定的に移行したことを示している。多くのラブコメ漫画がそうであるように、転校生を迎えるのは決まって主人公のほうだからだ。まどかに自己紹介するほむらの口元には笑みが浮かぶ。ほむらにとって「愛するまどかを手に入れた」勝利の瞬間だ。

しかし、彼女が思いもしなかった言葉がまどかから飛び出す──「わたしには何か別の役目があったような……」。改変前のことを覚えているようにも聞こえるまどかの言葉に、ほむらは「あなたは個人的な欲望よりも、世界の“秩序”を選ぶの?」と必死に問う。まどかはそれに「うん。自分勝手にルールを変えるのはよくないと思う」と、たどたどしく答える。その返答にほむらは愕然とする。自分はひとりのまどかを愛するために、まどかの愛が欲しくて、自らの心に従って悪魔にまでなったのに……。ほむらは「あなたとはいずれ敵として対峙するかもしれない」と言い残して、まどかの前から立ち去るしかできない。

ラスト、丘の公園にたたずむほむらの向こうには半分だけの月が浮かんでいる。それは決して満ちることがないほむらの心のようだ。やがてほむらは公園の端まで行き、身を投げる。これが自殺だったのかどうか、明確には描かれない。描かれるのは、その光景とこれまでの顛末を観察してきたキュゥべえが、「呪い」よりも複雑怪奇で途方もない「愛」という感情と、その末路に打ち震える姿だけである。


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スタッフ・ロールでは、牧歌的だか悲しく切ない映像が映し出される。黒い画面に色鮮やかなチョークで描かれたようなまどかとほむらのシルエットが映される。ふたりは左右の画面に分かたれて触れ合うことができない。しかし、ようやく最後になってふたつの画面が繋がり、ふたりの手がしっかりと握られる。ふたりは手をとりあって画面奥へと駆けてゆき、やがてふたりのシルエットは小さな円となって閉じられる。ほむらが本当に夢見たのは、こんな光景ではなかっただろうか。

思えば、ほむらはずっとまどかのために時間遡行を繰り返し、まどかのために尽くし続けてきたキャラクターだった。それでもなお、そのまどかからの愛が得ることができないと知ったとき、クライマックスにおけるほむらの行動を身勝手なものと責められるだろうか──いや、観客の僕らとて彼女と同じ部分が少なからずあるのではないだろうか。ラストシーンを観ながら、フランソワ・トリュフォーが監督作『隣の女』(1981)で引用した古代ローマの警句家マルティアリスが残した「あなたといると辛すぎる。あなたなしでは生きていけない」という言葉を思い出した。


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ことほど左様に、ニューウェイヴSFとしての側面が強かったTVシリーズを発展させた内容になるのだろうとばかり思っていた僕にとって、魔法少女モノではなく恋愛映画として1歩踏み込んだ内容を盛り込んだ本作は、意外な驚きに溢れていた。誤解を恐れずに書けば、思わぬ拾い物だったし、これまでのシリーズをご覧になった方は、観て損はないと思われるので、ぜひ劇場でご覧ください。

*1:しかし、かつて本当に何の予備知識もなく『映画 けいおん!』を観にいったとき(http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20111215/1323961362)よりはまだマシかと……。

*2:wikipedia上では、本編のストーリーが既に全部書かれているのには驚いた。2013年11月2日閲覧。

*3:その実、街の空をやたらと飛行船が飛び交っていて「何だか『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』みたいだな」と思っていた矢先の出来事だった。『パト2』もまた、現実の東京に戦争状況という“虚構”を作り上げようとしたテロリスト柘植の物語である。そのテロは同時に、その虚構の戦争によって東京に張り巡らされた通信やメディアといった虚構に満ちたコミュニケーション・ツールを剥奪することによって“現実”なるもの──たとえばそれはラストの柘植と南雲隊長の手の繋がりに象徴される──を浮かび上がらせようとした思想的な行動でもあった。

*4:厳密にはいろいろ誤りがある要約であることを断っておく。詳しくは『夢分析』(1900)などを参照されたい。

*5:アルティメットまどか」と呼ぶんだとか。

*6:魔法少女が戦う魔女とは、その戦いによって負の要素が蓄積された魔法少女の辿る末路である──という理不尽な世界構造が、TVシリーズの中盤で明らかになる。

*7:魔法少女になるための道具であるとともに、名前のとおり、持ち主の魂の入れ物となるアクセサリー。

*8:そして、「まどかの死」という場面は何度でもほむらの眼前にフラッシュバックする。

*9:そういえば、映画前半における日常での話題の大半が恋愛絡みだったのは、このクライマックスへの布石だったのだなぁ。

*10:つまり、まどかは死んだのではなく円環の理になったのだ、と思い込もうとするふるまいだ。また、本編では明言されていないが、おそらく彼女はまどかによるルール改変後も「まどか=円環の理」であることを記憶し続ける──すなわち、まどかの「死」の記憶を抑圧するために時間遡行を繰り返していたのではないだろうか。もしそうであるなら、まどかの魔女化を救うためにほむらが時間遡行することと、ふるまいとしては同義である。

*11:「夢は、起きる代りにねむりつづけようという意図に奉仕する。夢は睡眠の守護者でこそあれその妨害者ではない」フロイト『夢判断(上下)』高橋義孝訳、新潮社、1969年、上396頁(但し:62刷以降のページ表記)。▼ここで、本作における「ナイトメア」退治を思い出そう。魔法少女の目的は「ナイトメア」の持ち主を悪夢から目覚めさせることではなく、夢の形を変えて眠り続けさせることだった。そして、このときの夢の変更方法が、「マジカル・バナナ」を思わせる連想ゲーム──まさに「お遊戯」を思わせる、楽しげだがある種の不気味さをはらんだ表現が素晴らしい──的な言い換えだということも興味深い。連想ゲーム的な事物の置き換えや圧縮は、まさにわれわれが見る夢においてなされる無意識下に抑圧された願望の変形の方法だ。

*12:映画冒頭のミラーイメージだ。