2013年鑑賞映画作品/感想リスト 131-140

『たとえば檸檬』……片桐一貴監督。心の闇に翻弄されるある母娘の姿を描く。いろいろ言いたいことは多いが、まずは上映時間138分は物語の尺度に対していささか長過ぎだろう。これにはわけがあって、それが本作はが長回しをやたらと多用しているからだ。もちろん本作が「母−娘」問題──たとえば斎藤環『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』(日本放送出版協会、2008)などに詳しい──という重いテーマを扱った作品なので、長回しによって役者の演技を引き出し、その変化によってキャラクターの心情を物語ることを意図しているのだろうが、一方で長い1ショットを間引く編集も多用されており、だったら最初からカット割ればよかったのではないか。なおかつそこで核心部にせまるような台詞──というか明らかな説明台詞を延々やられるのだからたまらない。また、とある時代表現があえて曖昧にされているのだが、それというのも、ひとつの“謎”として提示されている物語の入れ子構造を成立させるためだけであって、不親切というか不誠実だ(別に“それ”を謎と提示しなくてもよかっただろうに)。ラストに至る結論も、“それ”をハッピーエンドとして描くのは倫理的にどうかと首をひねらざるをえない、という問題提起へと観客の意識を誘導することを意図したのだろうが、その割には演出が恐ろしく陽性なので、果たして本当に製作陣がその問題提起を意図していたのかすら怪しく見えてしまう。もうちょっとやりようはなかったのか、と感じられる1本だった。

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20131103/1383421665

『突破口!』……ドン・シーゲル監督。田舎の銀行を襲って小金を稼いだつもりが、ギャングの裏金を盗んでしまった男たちの逃走を描く。'70年代のネットリとしたリズムながら、主人公の強盗犯と警察、そしてギャング間で交わされる策謀の読みあいや、疑心暗鬼ゆえの誤読などが絡み合いつつ展開される画面は非常にタイトで見応えあり。とくに、ウォルター・マッソー演じる主人公が知略と体力の限りをかけて追っ手と退治するクライマックスが見事で、そこで展開される自動車と“○○○”とのチェイス・シーンでのスタントが凄まじい緊張感を生んでいる。シーゲル節の暴力描写も楽しめるオススメの作品だ。

ハイド・アンド・シーク/暗闇のかくれんぼ』……ジョン・ポルソン監督。妻に自殺された精神科医デイビッドは、心に傷を負った娘エミリーを連れて郊外へ越すが、そこで奇妙な現象が起こり始める──というスリラー。全体の構造としては、ホームズいうところの「想定される可能性のうち、もっとも単純なものが真実」的な入れ子構造のオチが付され、それまで観てきた場面それぞれに2重のサスペンスが盛り込まれていたことが明らかになる展開は、なるほど面白い。全篇に散りばめられた不穏描写がすべてオチに収束するわけではないので、それは残念といえば残念だが、エミリーを演じたダコタ・ファニングの死んだような演技が見事だった。

『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』……リチャード・フライシャー監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演。名探偵でも未来少年でもない筋肉もりもりマッチョマンの蛮勇コナンの冒険を描く第2作。美術やアクション、あとシュワちゃんの肉体はたしかに見応えがあるのだが、なんとも鈍重な1本だった。致命的なのは、時おり挿入されるギャグがあまりにも寒く、全篇スベりにスベっていること。古典的というにはあまりに愚鈍なその応酬に、笑いではなく欠伸がもれた。

『わが青春のマリアンヌ』……ジュリアン・デュヴィヴィエ監督。父に先立たれ、母に厄介払いのために山奥の霧深い湖畔にある寄宿学校に入れられた少年ヴィンセントが、対岸にある“幽霊屋敷”と噂される閉ざされた古城のなかで美しいマリアンヌと出会い恋焦がれてゆく姿を描く。アルフィーの「メリーアン」や、漫画家の松本零士など、日本のサブカルチャーに絶大な影響を与えた作品としても知られる1本。一見メルヘンチックな青春モノにも思えるストーリーだが、ヴィンセントの通過儀礼的な成長を象徴的なアイテムや展開──おそらくはフロイト精神分析に影響されたように思われるが──で描いており味わい深い。すなわち、ヴィンセントの恋するマリアンヌは彼の母にそっくりであり、そのマリアンヌと彼を引き裂こうとする存在(男爵=象徴的父)も登場することから、本作はヴィンセントが抱えるエディプス・コンプレックスと、そこから「去勢」を経て成熟するという物語だとも考えられる。マリアンヌが、本来ならばヴィンセントが映るべき鏡──に見せかけた窓──のなかから登場することからも、古城が彼にとっての母子(マリアンヌ=ヴィンセント)一体の楽園であることは明らかだ。ヴィンセントに恋する寄宿学校校長の姪っ子リーザがマリアンヌによく似ていること、そして年下である彼女の求愛をヴィンセントが頑なに拒むことは、彼がいかにエディプス・コンプレックス的母子一体の楽園に捕われているかをよく示している。男爵との対決に破れ、マリアンヌが行方をまるで初めからいなかったかのようにくらませるクライマックスは、ヴィンセントが「去勢」を経た象徴だ。ラスト、ヴィンセントは寄宿学校からひとり旅立つ決意をする。通過儀礼を経た彼は、かつてマリアンヌが象徴していたものをこれから探し求めてゆくだろう。それが決して埋まることのないものだとしても、しかしそれは希望でもあるのだ。

『眼には眼を』……アンドレ・カイヤット監督。名医として知られるヴァルテルは、あるとき誤診によってひとりの女性患者を死なせてしまうが、その夫ボルタクから執拗に付けまわされるようになり、やがてボルタクの復讐はエスカレートしてゆく。とても怖い怖い作品だった。ヴァルテルの視界の向こうにボルタクが静かに映りこんだり、彼の存在を象徴する車をヴァルテルの生活範囲内に止めたりと、前半に描かれる静かだが執拗な追走劇はまるでホラー映画のようだし、後半、水もなにもない広大な荒地をもっとも信頼できない相手と歩いて移動せざるをえない状況で展開されるギリギリの心理戦には、いやな汗を始終かいてしまいそうなほどの迫力があった。タイトルはもちろん世界初の刑法であるハンムラビ法典からの引用だが、それを繰り返す果てに行きつく結果をまざまざと観客に見せ付けるラストの長い長い1ショットは、胸をえぐる強烈なものだった。必見の1本だ。

『キャリー』(2013年版)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20131122/1385133517

バーバー』……ジョエル・コーエン監督。床屋で働くエド・クレインは、ある出来心から妻と浮気しているらしい友人の男に匿名で脅迫状を送りつけて1万ドルの金を手にするが、自体は思わぬ方向に転がってゆくという、コーエン兄弟節満載のヘンな映画だ。劇中ではいくつかの事件が起こるが、原題の“The Man Who Wasn't There(そこにいなかった男)”が示すとおり、その事件の本来の中心人物や出来事は横滑りし、別の人物や事物にすり替わってしまう。映画は、エドが主人公でありながら常に物語の中心になることを許さず、巡り巡って、不本意な形ではなりながらも、ようやく彼がその位置を手に入れたとき、文字どおり幕を下ろす。フィルム・ノワール的な演出とモノクロ画面、そして突然現れるエド・ウッド的画作りなど、どこまでも奇妙で味わい深い1本だった。

『チャイナタウン』……ロマン・ポランスキー監督、ジャック・ニコルソン主演。1930年代ロサンゼルス、私立探偵ギテスはとある要人の不倫調査を依頼されるが、調査対象の男が何者かによって殺害され、そこに街全体に関わる陰謀の香りが漂い始める──というサスペンス、否、フィルム・ノワール。映画全体を覆うそこはかとない不穏さがなんとも重々しく不気味なうえ、効果的に用いられる暴力描写もなかなかえげつない。さらに追い討ちをかけるかのように、明かされる真実とその結末にはひとつの救済もない。探偵ギテスは優れた観察者であるがゆえに陰謀を解き明かすが、最後の最後までその位置にしか留まれずに終わる無情な不条理が印象的だ。ポランスキーの重厚な演出が冴え渡る1本。
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