『かぐや姫の物語』感想

高畑勲監督。1999年の『ホーホケキョ となりの山田くん』以来、14年ぶりの長編作品。

竹を刈り、細工をすることで生計を立てている竹取の翁は、ある日、竹林のなかで光り輝く竹を目にする。それを割ってみると、なかには世にも美しい少女が眠っていた。これを天から授かりものと思った翁は家に連れ帰り、媼とともに「姫」と呼んで育てはじめる。野山や友だちに囲まれてすくすくと活発な少女に育つ姫。しかし、彼女を「高貴な姫君」として生かすことが天啓と考えた翁は、都に居を構えるが……。

今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり……誰もが古文の授業で読み、また昔話として親しんだ『竹取物語』をいま、どのように劇映画として再構築するのかを楽しみに観に出かけた。かぐや姫がそれと気づかずに想いを寄せる幼馴染・捨丸(すてまる)など細かなオリジナル要素は含みつつも、ほぼ忠実に『竹取物語』のストーリーを追いながら展開される本作はしかし、現代のわれわれ観客の心を静かに揺さぶる映画として生まれ変わっていた。本作はいうなれば、かぐや姫の“闘い”の物語だ。


     ○


言葉を足そう。本作はかぐや姫というひとりの少女が自身の「個性」と「社会性」との間で──すなわち、本当はこうありたい自分と、世間や家族といった社会が望む自分との間で葛藤し、ひたすら戦い続ける物語だ。

野山で伸びやかに仲間たちと駆け回っていたかぐや姫は、その生い立ちと月からの「天啓」を受けた翁の計らいによって都へと赴き、当人の望む望まないに関わらず“高貴な姫君”となるべく教育され、自身のことを何ひとつ知らぬ男たちに“いとも美しい”からという噂だけで求婚される。翁も「姫の幸せのため」と言いつつ、それによって得られる出世に目を奪われている。そんな自身を真綿のように締め上げる社会の鎖に阻まれながら、かぐや姫は「本当はこうありたい自分」を何とか保つために震えながら、ときに涙を流しながらギリギリの闘いを続けていく。

筆で描かれたような線による作画が非常に特徴的な本作。あまり大きなアクションのない本作のなかで、勢いアニメーションが躍動する箇所がふたつある*1。ひとつは特報や予告編でもフィーチャーされたかぐや姫が疾走するシーン、そしてもうひとつは、終盤近く、離れ離れになっていた幼馴染の捨丸と再会するシーンだ。そのどちらも、かぐや姫がその闘いのなかで押し殺していた感情が、臨界点をついに突破した際に挿入されている。きらびやかな衣を脱ぎ捨て、自身を閉ざす扉を蹴散らし、自身を囲う「社会」という枠すら乗り越えて、野を、山を、そして海や空を駆ける/翔けるかぐや姫の姿は、特徴的な作画とも相まって荒々しくも非常に軽やかで、なによりも生命力に溢れている*2かぐや姫と我々の感情的な、そして画面に展開されるアニメーションとしての喜びに満ち満ちていて、非常に印象的だ。


     ○


しかし、これらのシーンは単に観客にカタルシスを与えるだけに付されてはいない。その直後にわれわれに突き付けられるのは「ハイ、それは夢でした」という残酷な結末だ。一瞬の、まるで慰みのような「夢」のあとには、また変わらぬ闘いの日々が待っている。そして、かぐや姫は──いや、翁も、捨丸も、姫に言い寄った男たちも皆一様に、「社会」という名の怪物との闘いに負けてゆく*3。その姿のなんと哀れで苦々しいことか……。

本作でもっとも多幸感に満ちているのは、多くの映画がそうであるようなクライマックス*4ではなく、じつは冒頭から前半部に描かれる、かぐや姫との出会いから、都への出発までの一連のシーンだ。実り多き秋の山村のなかで、翁と媼に見守られ、仲間たちとともにかぐや姫はすくすくと育ってゆく。彼らにとって本当に大切なものは、最初からそこにあったのだ。それに気づいたときには、それは永久に失われたあとだ。どんなに願っても、二度とは戻ってこない。とあるキャラクターに「冬のあとには、また春がやってくる」と言わせながら、本作はその春は絶対に訪れないということを静かに、しかし強烈に提示し続ける。

ではどうすればよいのか、誰を紛糾すれはよいのか──無論、そういう次元の問いではないし、劇中にも決して悪人は登場しない。ただ皆、「既に負けていた」と気づいたとき映画は終わる。しかしこれは、映画のなかだけの話ではなく、きっと僕らだってそうなのだ。では、その上でどうするのか──そのヒントは、本作でかぐや姫が辿った道筋が教えてくれるに違いない。そう、少なくとも生きることを否定することだけはしてはならない。必見の1作だ。

*1:ほかの様々なシーンも、あれだけラフなラインながらも細やかでリアルな動きを再現するという、凄まじいアニメーションであることは無論である。

*2:アニメーションの本来の意味は、生命なきものに生命を吹き込むことである。

*3:もちろん、いわゆる勝ち組/負け組といわれるような、短絡な二項対立の意味で使っているのではないので、誤解なきよう

*4:かぐや姫を迎えに来る月のパレードは、明らかに極楽浄土の住人として描かれているが、その何ともいえぬ“いかがわしさ”──音楽ですら一気に世界観が変わる──が非常に意地悪だ。