『TRAIL』感想

波田野州平監督。画家、詩人、音楽家の芸術家3人組は、連れ立っての創作旅行の途中でトキという不思議な少女と出会い、親交を深める。彼女の紹介で空き家を借りた3人は創作活動に励むが、あるとき音楽家とトキが行方不明になってしまう。その一方、民話の採集のために日本に降り立ったアルゼンチン人の作家の姿があった……。大蜘蛛がさまざまなものに変化して、道行く旅人や商人を襲ったという人形峠*1の伝承を題材にとった映像詩篇。インディペンデント(個人製作)映画ながら、東京・渋谷ユーロスペースと大阪・第七藝術劇場で数週間に渡って上映された。

※なお現在、監督の波田野州平氏のオフィシャルWEBページ「Shuhei Hatano Official」で現在全篇視聴可能なうえ、なんと作品ページには当レビューへのリンクが貼られております。当記事にも投稿当時、監督からコメントを頂戴しています。ありがとうございました!


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たいへん不思議な映画だった……というか、時間体験だった、といったほうが僕のなかではしっくりくる。そんな映画だった。なんというのか、映画のなかの時間の流れ方が、われわれがよく観る映画とは違っているのだ。

どういうことか。

オープニングこそ、3人の芸術家たちが揃って芸術について語り合ったり、創作旅行に出かけたりと、物語中にいわゆる物理的な時間が流れているのだが、途中からすこしずつ、あからさまにではないが、しかし確実にキャラクターたちがいる時間と映画内の物理時間との間にズレが生じている。

奇妙に繋がらないシーンとシーン、あるロジックを読み取った瞬間にひっくり返される論理的転換の多用、そしてときに物語の階層さえも越境するといった大胆なプロット構成がなされている本作をじっと観ていると、すこしずつ時間感覚が欠如していくような、そこはかとない不安が胸中にしたたる。言い換えれば、3人の芸術家たちは“ある時間”に閉じ込められている。彼らは、映画は、われわれ観客は、その時間から抜け出せない。そして、その時間とは、われわれがよく知っている時間ではない。

ふつう、物語(ドラマ)は必然的に“時間の経過”を描いてしまう。上映時間という尺が固定されている映画であればなおさらだ。たとえば、主人公がある困難を乗り越えて成長するという物語なら、映画のオープニングとエンディングとでは、われわれ観客が観ている時間はまったく違うものである。現実の物理時間が、過去から未来へと流れるのと同じことだ。仮に、いわゆる「ループもの」と呼ばれるジャンルであったとしても、キャラクターたちがその体験を自覚している以上は、彼らの内部を流れる時間──経験と言い換えたほうがよいかもしれない──は、オープニングとエンディングとではまったく異質なものだ。


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本作『TRAIL』はしかし、このようにどうしたって時間を内包してしまう映画というメディアにおいて、作品全体として“無時間”を現出させようとしたのではないだろうか。

本作の画面には、無時間的なイメージがそこかしこに登場する。何億年もの年月を経て現存する鉱石、語り継がれる民話、動物の剥製や骨格標本、廃墟になったボーリング場、ヒロシマの写真集──これらは、人間が実際に認識できる時間の総数をはるかに越えて生き続ける存在であるという意味において、あるいは既に時間が止まった存在であるという意味において、無時間的なものたちだと考えられる。

ほかにも、糸車*2脱穀機といった円環運動を繰り返す道具は、その運動の絶えない反復性が無時間的なイメージを喚起させるし、風景の一部に昼夜を問わずポッカリと空いた暗い影の穴(=闇)もまた、時間経過を否定する意味において無時間的なイコンと考えられるだろう。



また、本作が怪奇映画やホラー映画の文脈に則っていることも重要だ。トキ*3と呼ばれる謎の少女は、明らかに人形峠に伝わる大蜘蛛の化身として登場する*4が、そういった物の怪(もののけ)や幽霊もまた、われわれ人間とは別の時間に生きている存在だ。

常にどこかに赤い衣服をまとい、役名ではなく「赤い少女」とクレジットされるトキの姿は、どうしたって『赤い影』(ニコラス・ローグ監督、1973)や『叫』黒沢清監督、2006)などに登場する幽霊たちを思い起こさせる。これらの作品のなかで、ドナルド・サザーランド役所広司が“赤い”幽霊に魅入られるのは、彼らの時間もまた、過去の“ある時間”に抗いようもなく囚われているからだ。その意味において、彼らもまた幽霊と同じように、時間の経過を否定している存在だといえるだろう。

では、本作『TRAIL』の主人公である3人の芸術家たちはどうか。彼らは、当初から“ある時間”に囚われているわけではない。しかし彼らは、観客の感情移入をいっさい許さない表層的でなにを考えているのかよく判らない連中であるため、観客は彼らの時間的経験を追体験できないという逆説的な方法で、時間の経過を否定してみせる。そして、そうこうするうちに、彼らは気づかぬうちに、無時間の世界に囚われてゆくのである。


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ことほど左様に、時間の超越あるいは否定によって生じる無時間的なイコン*5を散りばめ、そしてときに物語の階層さえも混交するプロット構成によって無時間的なるものを現出させようとした本作は、奇妙で不可思議ではあるが、忘れられない映画体験をさせてくれる作品だった。本作のプロデューサー河野竜也氏によれば「しばらくはソフト化の予定はなく、今後も全国巡業していきたい」とのことだったので、お近くで上映される機会があれば、ぜひ足をお運びください。




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※以下ネタバレ注意な覚え書き※
【物語の階層さえも混交するプロット構成について】

劇中で、多くの時間を割いて描かれる芸術家3人とトキの物語は、後半30分になって突如として登場する、日本に民話を採集しに来たというアルゼンチン人作家の見た夢なのではないか。というのも、彼が日本に降り立って見聞きするものは、ほとんどすべて映画前半にすこしずつ形を変えて登場しているからだ。あまつさえ、まったく怪異的/霊的な要素を欠いたトキ(ここでは彼女はホテルの従業員として登場する)とすら出会っている*6

もし、芸術家たちとトキの顛末がアルゼンチン人作家の経験した日中の出来事(フロイトがいうところの「日中残滓」)に基づいて彼の無意識が見せた夢なのだとすれば、本作がどこか時間感覚を欠いたように感じられるのも説明がつく──無意識は無時間の領域だ──し、われわれの見る夢がしばしば「夢の作業*7」によって突飛でつじつまの合わないものになっていることと同じく、映画が奇妙なズレを内包していることにも納得がいく。そして、ふいに挿入される作家が悪夢から目覚めるショットや、作家と画家とが入れ替わるシーン、そもそも映画そのものが彼の「人形峠の伝承」についてのモノローグで開幕することの説明もつくだろう。

ことほど左様に、映画の多くを占める部分が作家の見た夢であるならば、夢がそうであるように本作が解釈したい欲望を掻き立てるのも無理からぬことだ。“これは主人公が見ている夢でした”タイプの映画は、『ふくろうの河』(ロベール・アンリコ監督、1967)や『ジェイコブズ・ラダー』(エイドリアン・ライン監督、1990)、『オープン・ユア・アイズ』(アレハンドロ・アメナバル監督、1997)など多くあるが、これらの作品はロジカルである──もちろん、エンタテインメントとしては正しい──がゆえに解釈の余地が残されていない。もしかすると、本作は「映画は夢である」という命題を正しく──クリスチャン・メッツ的な意味*8 *9においてではなく──実践しようとした作品だといえるのかもしれない。

※2015/8/24に脚註7-9追記


     ※

*1:岡山県苫田郡鏡野町上齋原と鳥取県東伯郡三朝町木地山との間に位置する。人を襲うのは蜂であるとする説もある。

*2:たとえば、『蜘蛛巣城』(黒澤明監督、1957)を思い出そう。

*3:この名前もまた象徴的だ。

*4:明らかにJホラー的表現方法で登場するショットもある。

*5:いま思い出したけれど、本作のオープニング・クレジットは、空撮の海が映される。これってもしや『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督、1972)の海──的なニュアンスなのでは……。

*6:彼が民話を好んで採集するのも、彼自身が時間を越境する様々なものに魅了されているからだ

*7:フロイトの提示した、夢のメカニズムについての呼称。 ▼フロイトによると、夢はわれわれの睡眠を維持するためにあり、そして、それゆえにわれわれが見る夢の内容は、いい夢にせよ悪夢にせよ、すべてそれを見る人物の願望充足であるという。睡眠中には自我の活動が低下し、これによって「潜在思考」と呼ばれる無意識中に抑圧されていた願望が、意識の領域へと浮かび上がってくる。しかし、この願望をそのまま夢に見てしまっては、自我が不安に陥り、睡眠が妨害されてしまうので、フロイトが「夢の作業」と呼ぶ様々な加工が、抑圧された願望に施される。これによって抑圧された願望は、比較的無害なものへと書き換えられるのである。こうして姿を変えた「顕在夢」と呼ばれるものが、われわれが見る夢なのである。しかし、夢の作業は必ずしも完璧ではないので、夢は突飛でつじつまのあわない、様々なズレや矛盾をはらむことになる。 ▼そして、精神分析家が患者の夢に解釈をほどこす際、この夢の作業によって生じた様々なズレや矛盾が、重要な手がかりとなる。精神分析家は患者に夢について覚えていること、連想されることを自由に語らせるという「自由連想法」という手法を用いる。このとき患者の語りにあらわれる矛盾やズレを手がかりに、精神分析家は夢の作業のプロセスを明らかにし、患者の抑圧された欲望を探るのである(フロイト『夢判断(上下)』高橋義孝訳、新潮社、1969年を参照)。

*8:メッツは、映画の機能を精神分析的考察に基づいて理論立てたひとりである。彼によれば、映画館で映画を観るときと睡眠中に夢を見るときのわれわれの心的な働きは、類似しているとされる。映画館の暗闇のなかで身動きもせずに映画を観るとき、観客の自我のはたらきは眠っているときのように低下している。このとき観客は、映写機(=カメラ)の位置に同一化する――映画を観るという行為をなぞる――ことで、忘我の状態となる。この状態にある観客に感情移入を誘う物語や映像を与える物語映画は、メッツにとって、観客の抑圧された願望を間接的に成就させる夢の代替物としての機能を果たすものなのである(クリスチャン・メッツ『映画と精神分析―想像的シニフィアン鹿島茂訳、白水社、1981年、88-118頁を参照)。

*9:▼このメッツの理論を、彼も依拠しているフロイトの夢理論に照らし合わせるならば、メッツが考える映画とは、「夢の作業」が滞りなくうまく完了された夢だと捉えることができるだろう。つまり、映画の機能とは、抑圧の機能であることになる。これは、主人公への感情移入を促すような切れ目のない滑らかな物語と編集をよしとするハリウッド的なエンタテインメント映画を念頭に考えられた理論であり、なるほど一定の整合性は見て取れる。 ▼しかし、映画の試みは、必ずしもメッツのいうようなハリウッド型を目指すのものばかりではない。たとえば、エイゼンシュテインらが撮った1920年ソビエトアヴァンギャルド映画や、シュルレアリスム運動における映画、あるいはそれらに続くヌーヴェルヴァーグなど、物語や編集の明らかなズレや断絶にこそ意味を見出す映画群には、いささか当てはまらない。 ▼これらの映画は、観客にメッツ的意味における抑圧を求めない、開かれたものであるといえる。もし、抑圧をめぐる自身の症状を治癒したければ、患者は患者自身の言葉によって症状(=夢)を語ること──患者自身が解釈し、自ら抑圧したものと向き合うこと──ができなければならない。精神分析家は、その手助けを患者にするに過ぎない。これらの映画を観るとき、観客は患者として押し込められるのではなく、むしろ精神分析家としてあれと促されるだろう。