『断層紀』、『海にしずめる』感想

6月21日、鳥取県米子市ガイナックスシアターで催された上映会「ふたつの才能」にて、『断層紀』(波田野州平監督、2013)、『海にしずめる』(田崎恵美監督、2013)の2作品を鑑賞する機会に恵まれた。両監督が会場である鳥取県ゆかりの作り手であるのと同時に、今回上映された2作品が作風も持ち味もまったく異なりながら、ともに記憶や記録を巡るテーマを扱うというラインナップとしても興味深い上映会だった。以下、感想です。お近くで興行の際にはぜひご覧ください。



◆以下、作品内容に関する若干のネタバレがありますのでご注意ください◆


     ※ ※ ※




『断層紀』……波田野州平監督。「私」(=波田野州平)は、かつて突然姿を消した祖父・波田野源一郎が暮らした秋田県大館市にはじめて訪れ、伝統の祭りや風景をカメラにおさめてゆく。源一郎と町の過去を憑かれたように探る旅の最中、カメラ日記を付けているという15歳の地元の中学生ユキと出会う。


     ○


非常に不思議な作品だった。この映画が持つ構造、その拠りどころがなんとも越境的で、本作やそのプロセスが向かおうとしたものを様々に考えさせられた。本作が特徴的なのは、これでもかと本編に入れ込まれた数々の断絶だ。

本作は主に2つのパートで構成されている。ひとつめは、波田野監督自身が語り手(=私)となって撮影された、大館の町や人を巡る旅の記録。そして、ふたつめは「私」が現地で出会った少女ユキが語り手となるビデオ日記の映像だ。話者の違いのほかに、前者がモノクロ映像、後者がカラー映像とで区別された2種類の映像記録が交互に折り重なる。そして色遣いのほかにも、それぞれのパートで映される対象やカメラの揺れ方ひとつとってもまったく異なるため、観ながら、パートごとの決定的な差異を意識せざるをえない。

興味深いのは、このどこまでもドキュメンタリーのような映像が、その語り手の物語としては基本的にはフィクションだということだ。とくに「私」のモノクロ・パートは、かつての大館市を映した記録フィルムがスッと差し挟まれ、篠村三之丞氏への取材を記録するというフィールド・ワークのような体裁をとりながらも、映画の冒頭で波田野監督自身が語る「私の祖父・波田野源一郎」以下のモノローグはフィクションだという。「ユキ」のパートも、監督へのインタビュー*1によれば「特に説明はしていなくて、撮ってとしか言わなかった」のだそうだが、一方で同じインタビューで映像は「捏造」だと答えるように、冒頭で「本作はフィクション」宣言をされる*2と、果たして虚構/現実(フィクション/ノンフィクション)の境目はどこにあるのか──あるいはないのか──と、観客は揺さぶりをかけられる。


     ○


また、この語り手が存する階層の不明確さのなか、彼らはとにかく語る。「私」は祖父の思い出、それにまつわる大館のかつての死の記憶──飢饉やそれによる口減らし、鉱山で起きた凄惨な事故──、消えるかもしれない伝統について。「ユキ」は友だちや家族のこと、彼女が抱える閉塞感や苛立ち、東京への憧れについて。

ふたりは大館市にとってポジティブなことも、積極的にひた隠しにしたがるようなネガティブなことも区別なく粛々と次々に映像と言葉として重ねてゆく。その一方で同時に、それでもなお語り切れずに、すり抜けてゆくなにか、残留するなにかが意識させられる*3。もちろん彼らが総てを語ることは不可能だし、誰にも不可能だ。しかし、“語り得るもの”と“語り得ないもの”との断絶があるゆえにこそ、むしろなにものかがよりリアルに浮かび上がってくるかのように思える*4


     ○


ことほど左様に、フィクション/ノンフィクション、モノクロ/カラー、ポジティブ/ネガティブ、語り得るもの/語り得ないものといった様々な断絶を本作が映画内に含有しているゆえに、その言外の隙間から滲み出てくるなにものかがあるのではないか。それがおそらくは本作において、ふたりが持つ共通項である“大館市”という土地、現象、記憶……の生々しい姿──感覚ともいえるかもしれない──ではあるまいか*5。劇中「私」は「なぜ大館を訪れて映像を残そうとするのか」と自問し「見たことがないものを見てみたいからではないか」と自答するが、それは本作のような断絶という隙間を映画内に作り出す試みのなかから、なんとか垣間見られるものなかのかもしれない。そして本編がそうであるように、それは単純には物語化できないために上映中、鑑賞後問わず、われわれ観客を生々しく捕らえて離さないだろう。

今後、本作を含めた“3部作”の構想があるというが、次作においてどういったプロセスを辿るのか、興味が尽きない。




     ※ ※ ※




『海にしずめる』……田崎恵美監督。東京で恋人と暮らす三浦涼が法事のために里帰りする前夜、彼のもとに未華子と名乗る少女が訪れる。「どちらがわたしの父親なのかハッキリさせにきました」と涼にDNA鑑定を求める未華子は、涼とその兄・蓮がかつて関係したことのある幼馴染・海月の娘だった。蓮のDNA鑑定のため、法事に帰省する涼に付いて三浦家を訪れた未華子は三浦家の歓迎を受けながら、ありえたかもしれない家族とのつかの間の時間を過ごすが、すでに結婚して新たな家庭を築こうとする蓮は彼女の来訪に狼狽する……。


     ○


不勉強ながら田崎作品は本作がはじめて。本作のいかにも重苦しい雰囲気になりそうな物語を、時折ちょっとしたユーモア*6を挿みつつ軽やかに演出してみせたその距離感のバランスが巧みで面白い作品だった。

まず、キャスティングが素晴らしい。涼と蓮の兄弟をはじめとした三浦家の面々それぞれの姿がリアルで、本当にその家族がいるかのような存在感がある。エンドロールを流れるキャスト名を眺めて、もちろん当たり前のことながら「彼らは本来は“他人”である」ことに驚くくらい、血のつながりが実際にあるかのように思わせる存在感が見事だった。その家族の間に一瞬だけ割って入る未華子を演じた遠藤新菜の少しだけ日本人離れした造作*7も、彼女の異物感を言外に表現する的確なキャスティングだ。

そして、やたらと台詞で画面内の状況を説明してしまう映画が多い今日において、それによらない映画的な状況説明をみせてくれるところも本作の魅力だ。例えば中盤、なんの脈絡もなく蓮があまり汚れてもいなさそうな長靴をしきりに磨いている場面があるが、彼の未華子/海月に関わる記憶を必死に消し去ろうとするかのような挙動が印象的だ*8。また、とうとうDNA鑑定の結果が出たことを知らせる電話が未華子に掛かってきたことで、彼女と三浦家との関係性が決定的に変化したことを伝えるシーンでのカメラワークと編集も効果的だ。


     ○


本作の物語は、未華子が自分のまだ見ぬ父親が蓮と涼のどちらかなのかと探すことで、未華子と三浦家の面々が忘れていた──あるいは、知らなかった──かつての記憶といかに向き合うかを描くものだ。映画のなかの登場人物たちは各々にこの記憶と対峙するわけだが、その向き合い方が男女で大きく違う。男である蓮と涼の兄弟が、その記憶を積極的になかったことにしようとする*9のに対し、彼らの恋人や妻、母──そしてもちろん未華子自身──は、その記憶を積極的に受け入れようとする。男たちは変化を恐れて抑圧する*10が、女たちは反対に未華子がもたらした新たな関係を受け入れようとする*11。この対比がとても興味深かった。

ただ、ちょっと惜しいというか、足りないのではないかと思われる部分もある。とくに映画の終幕部だ。最終的に未華子と三浦兄弟の関係は、彼/彼女らのつかの間の接近の後に再び平行線を描くことになるが、ラストにおいて未華子と彼女を東京に送り届けた涼が別れるショットが必要だったのではないだろうか。冒頭、未華子がひとりで──涼に告げる台詞の練習をして──いることから、彼女がその状態に戻ってきたほうが、より1本の作品としての構造的まとまりが増したのではないだろうか。もちろん僕のこの指摘が、映画をよく見知った型へと押し込めようとする、変化を恐れる男の性(さが)によるものである可能性は捨て切れないけれど。

*1:web「Give me little more.'s interview」( http://givemelittlemoreinterview.tumblr.com/ )内「波田野州平『断層紀』プレインタビュー」。2014年6月22日閲覧。

*2:突然、洞窟を抜けるとスコットランドに迷い出た、というようなシーンも挿入されるのが象徴的。

*3:しかも本作が構造上、前述のようにフィクションの側面を多分に含むゆえに、語られた内容の事実根拠の如何はむしろ保留されるから、「ふたり」にとってそれは「事実」であるだろう。

*4:けっして適切な例えではないと思うのだけれど、観ながら思い出されたのが、イエロー・マジック・オーケストラYMO)散開の頃に製作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』(佐藤信監督、1984)だった。この映画は、YMOプロパガンダしてまわる「少年」と、現れては消える謎の「女」、そしてYMOメンバーらの邂逅と彷徨を軸に展開される。本作の興味深い点は、散開コンサートの実際の映像と、映画用に撮影し直された散開コンサートの映像が共に用いられ、それが前述の「少年」の物語(=フィクション)──といって、明確な“お話”があるわけではない──によって包括されていることだ。そして、本作には一種のアイドル映画の側面も少なからずあるだろうから、YMOメンバーのいま現在(=散開当時)を記録する作品でもあったはずだ。本作は、記録と虚構が並列されることで生じるズレから、YMOという現象とその終わりをリアルに浮かび上がらせるような試みではなかったか。

*5:それがなにかとは、ハッキリと語り得ない。そもそも、大館市という共通項にすら収まらないものの可能性だって考えられる。

*6:涼が趣味がダサい件についての笑いがとくに良かった。首尾一貫性があって計算されているギャグの積み重ねが好物なので。

*7:どうやらハーフの女の子のようだ。

*8:ラストで三浦家を去る未華子に、彼女のお気に入りという曲が入ったカセットテープを申し訳程度に渡して体裁を取り繕うとする彼のどうしようも出来なさ加減もリアルでちょっと痛々しい。

*9:中盤に登場する、へべれけに酔っ払った伯父ですら「いくら兄弟と海月の仲が良くても子どもが生まれるか」と、否認の態度を取る。

*10:背景で語られる、かつて東京湾自衛隊が魚雷を何発も打ち込んで沈めた船が、再び海上に浮かび上がったというニュースの顛末も象徴的だ。フロイト的に考えれば、しばしば船の表象は母胎を象徴するが、とすればこれに打ち込まれた魚雷は精子を象徴するように捉えられる。これ──受精──によって沈められた船は、海月が娘を身ごもったことが記憶の底に抑圧されたことにほかならないし、やがて再び浮かび上がった船は、突如として兄弟たちの前に現れた抑圧した記憶としての未華子と呼応するだろう。

*11:観ていて、斎藤環『関係する女 所有する男』(講談社、2009)で分析された男女間の差についての言説を思い出した。