『トランセンデンス』感想

ウォーリー・フィスター監督。クリストファー・ノーラン製作総指揮、ジョニー・デップレベッカ・ホールモーガン・フリーマンら主演のSFスリラー。人工知能研究の第一人者ウィルは、反テクノロジーを標榜する過激派集団RIFTの凶弾に倒れ、死の床に伏してしまう。同じく研究者である妻エヴリンは、親友の科学者マックスに協力を仰ぎつつ、彼の意識をスーパーコンピュータ“PINN”にアップロードすることを決めるが……。


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作品の性質上、ネタバレをせずに感想を書くことが難しいので、それを差し引いてかいつまめば、物語構造的に細々とした問題がいっぱいあるので、あまり「よかった」とはいえない、という後ろ向きなことをこれからつらつら書いてゆくことになるだろう。

というわけで、


◆以下、作品の核心に関するネタバレが すぐさま ありますのでご注意ください◆


──と、いいつつも、実際には映画本編が最大のネタバレ動画だったというネ……。そりゃそうだろう、という実に矛盾をはらんだ文章なのは重々承知。もちろん理由はある。というのも、本作は開始早々オチから始まるからである。本作のオープニングを思い出そう。

物々しく映画のタイトルが表示されるやいなや、どうやら“何らかの事件”の後、世界中のコンピュータが停止、それに伴って電気や水道といったあらゆるインフラ機能も硬直して修復の見込みはないけれど、かえって緑は増えたし、治安維持もなんとかなっているプチ豊かなディストピア世界に落ち着いたらしいのだ。しかもジョニー・デップレベッカ・ホールが演じる主人公キャスター夫妻はすでにこの世にいないことが、映像と主要キャラクターのひとりであるマックスによるモノローグで「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」と事細かに状況が説明されるのである。そこから“5年前”に飛び、事の顛末が描かれるのだが──。

さんざん「人の意識をコンピュータにアップロードしたら、やがて世界はどうなるのか?」という部分に焦点を当てて予告*1しておいて、この開幕はいくらなんでもどうなのか。だって“その結末”が知りたくて劇場に足を運んでいるのに!


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そもそも、こういうフラッシュバック形式は「映画の結末(できごと)」と「映画の物語(テーマ)」とが必ずしもイコールではないから効果的な形式ではなかったか。たとえば『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督、1950)は、「主人公が死んだ」ところから始まるが、その後、映画が描くのは「主人公がなぜ死んだのか」ではなく、「自身の栄光にすがりつくかつての大女優の妄執*2」である。同じく主人公が死んだところから始まる『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ監督、1941)にしてもそうで、これらの映画で「主人公が死んだ」ことは、あくまで導入に過ぎず、そこから別のことを語り始めるから、観客の興味をひき続けるのである。

本作の場合、映画の結末「世界の崩壊」と、映画の物語「自我のデジタル化」がかなり直結しているため、現状のようなプロット構成だと、前述のプロモーションとも相まって、観客の興味を持続することは叶わない。むしろ、それを真っ向からくじいている。『スター・ウォーズエピソード4/新たなる希望』(ジョージ・ルーカス監督、1977)で「デス・スターの爆破」から始めるようなものだ。それよりも、時系列に沿って物語を展開(ストーリー=プロット)にしたほうが、効果的だっただろう。


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とはいえ、開幕5分で僕もボヤきたくないので、このフラッシュバック形式については100歩譲ろう。しかし、それでもなお、本作はしょーもない粗が多すぎる。

国家的に重要人物らしいエヴリンやマックスが2年も失踪し続けられることが不自然だ。そもそもエヴリンが、最高峰の人工知能“PINN”のコアを無断で持ち出したり、自社の株を大量に売買した時点で、映画にも登場するFBIが気付かないわけがないし、いくらまわりに何もない辺境のド田舎だろうと、あんな大規模な太陽光発電所やら地下コンピュータ施設を作ろうものならバレないはずがない*3。ましてや“盗まれた町”状態になっておやである。デジタル自我のウィルにしても、環境保護テロ組織とFBIが手を組んで自分の足許にトンネルを掘っていることくらい、あれだけのハイ・スペックなのだから、なんらかのセンサーで察知することは十分可能だ──というか、裏をかかれるほうがオカシイだろ(設定矛盾)。

ことほど左様に、一事が万事「こいつら全員バカなんじゃないか」と思わずにはおれない素っ頓狂な展開のせいで、全然ノレないのだ。しかも、このてんやわんやの先行きは、すでに冒頭で判っているというジレンマ。つらいよ。


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おそらくは、本作が製作費10億ドルの大作である不幸ではないか*4。映画が描こうとする物語と、映像の無駄にデカいスケール感がハッキリいってチグハグ。そりゃ、爆破されるそばから再生する数多のソーラーパネルといったヴィジュアルは面白かったが、物語展開からみて、もっとこじんまりとした作品にまとめ上げたほうが完成度は上がったはずだ*5

たとえば、死の床に伏した夫の自我をデジタル化しようとする妻エヴリンの心の動きに焦点を絞る*6などして、要素を切り詰めたほうが、映画が描き出そうとしたはずのSF的テーマを、より的確に描き出せただろう*7

さすがに長年クリストファー・ノーランを支え、アカデミー撮影賞を受賞したフィスターが監督だけあって、撮影は行き届いているし、素材もテーマも悪くはないのだが、いかんせん付け合せの悪い作品であった。


     ※


余談)本作の上映前には、爆笑問題のふたりがナレーションを担当したというイントロダクション映像が付されているが、果たして必要だったのか。そこで語られる内容──予告編よりも少ない情報量で──はもちろん知ったうえでこちらは観に来ているわけだし、映像に「爆笑問題」のクレジットすらもなかった──後ほど調べた──ので、テレビCMやほかの上映作品の前枠で流すのならともかく、本編直前で流すことは誰も得していないのじゃないかしら。

*1:本国でも同様の予告。

*2:と、ハリウッドの内幕暴露。

*3:そもそも環境保護テロ組織の少年兵が普通に写真を原チャリで撮影してきてるやないけ。

*4:ハリウッド映画の出資が海外に移ったり、大作主義を掲げないとむしろ出資が得られないという、ハリウッドの現状があるらしいが。

*5:たとえば、それこそジョニー・デップが主演した『ノイズ』(ランド・ラヴィッチ監督、1999)くらいの規模がちょうどいいのではないか。

*6:やろうとした痕跡はみられる。とくに映画中盤から後半にかけて、彼女の心情を衣装の色の変化で表している。

*7:前述の素っ頓狂な展開の数々も、本作の掲げる中途半端なスケールのデカさゆえに余計に目立っているだけなのじゃなかしら。