『GODZILLA ゴジラ』(2D字幕版)感想

ギャレス・エドワーズ監督。1954年、日本で産声をあげた怪獣映画シリーズの金字塔『ゴジラ』を、レジェンダリー・ピクチャーズが製作費160億円の巨費を投じて作り上げたハリウッド・リブート作品。主演はアーロン・テイラー=ジョンソン*1渡辺謙エリザベス・オルセンブライアン・クランストンらが務める。

1999年、フィリピン。ウラン採掘現場で発生した地盤沈下事故の調査に訪れた芹沢猪四郎博士(渡辺謙)とグレアム博士(サリー・ホーキンス)は、その地下洞窟のなかで謎の巨大生物の痕跡を発見する。時を同じくして、核物理学者ジョー(ブライアン・クランストン)と妻サンドラ(ジュリエット・ビノシュ)が勤務する日本の原子力発電所が謎の大振動に見舞われ崩壊、これによってジョーはサンドラを失い、周囲の都市一帯が深刻な放射能汚染にさらされてしまう。15年後、アメリカ海軍に所属するジョーの息子フォード(アーロン・テイラー=ジョンソン)は、14ヶ月の海外任務を終え、妻エル(エリザベス・オルセン)と幼い息子の暮らすサンフランシスコの自宅に舞い戻った。休息もつかの間、父ジョーが15年前の原発事故によって立ち入り禁止となった区域に侵入したために逮捕されたという連絡が日本大使館から入る。急ぎ日本に向かったフォードに、ジョーは「原発事故の真相究明には、かつて暮らした家に残したデータが必要だ」と説得し、再び立ち入り禁止区域に向かうが……。







1.
ゴジラガメラウルトラ怪獣……怪獣のいる国に僕は生まれ落ちた。彼らの全盛期からは遠く遅れたはしたものの、僕もまた、スクリーンやテレビ画面で暴れまわる彼らの姿に心躍らせる少年となった。生まれて初めて劇場で観た映画は『ゴジラVSメカゴジラ』(大河原孝夫監督、1993)だった。時は移ろい、この国から怪獣の姿はめっきり減った。東宝特撮を支えた大プールが撤去されたと聞いたとき、『ゴジラ FINAL WARS』(北村龍平監督、2004)を最後に、もう2度と怪獣映画は、ましてゴジラ映画は映画館で拝めないと思っていた。

しかし、昨年『パシフィック・リム』(ギレルモ・デル・トロ監督、2013)があった。映画全篇に日本特撮への愛が、KAIJUへの愛が溢れた作品だった。そして、ついに、誰しもが不安を抱きつつも待ち続けた本家本命が産声を上げた。全世界から遅れること2ヶ月あまり、ようやっとその全容が明らかになった。いいたいことは山ほどあるが、しかしまずはこう言おう。


ありがとう、ギャレス・エドワーズ!  
おかえり、ゴジラ!
 

◆あとはオマケ(ネタバレあり)です。ぜひ、劇場でご覧ください!◆








2.
とにもかくにも迫力が凄まじい。とくに本作は、徹底的に人間目線にこだわり、見上げても、見上げても、見上げてもまだ全体像がつかめない!──といった具合に演出されるカメラ・ワークによって生み出される怪獣の巨大さ演出が飛び抜けて素晴らしい。映画前半にその姿を現すオスのMUTOは、登場する怪獣のなかでももっとも小さいが、それでもなお「こいつは手に負えない」と思える巨大感を演出している。

その後、それまで少しずつ予兆めいて描かれていたゴジラが、上陸したハワイのホノルル国際空港でオスのMUTOをはるかに凌ぐ108メートルもの巨大な漆黒の全身を画面に現したとき、そして、爆発の赤い炎に照らされながら大きく咆哮したときの凄まじい迫力ときたら!

その瞬間、ゾゾゾと背筋に電流が走り、恍惚にも似た絶望感、畏怖の念に圧倒された観客も少なくないのではないだろうか。神々しい──とは映画において、まさにゴジラのためにあるのだと有無をいわさず納得させられる力強い名場面だ。まさに大迫力*2!




また、ゴジラがサンフランシスコに上陸するシークェンスも、新鮮な巨大さ演出が光る。金門橋の袂に終結するアメリカ海軍の船団。その1隻に、ゴジラの巨大な背びれが迫る。もはや激突と思われたとき、ふいに進撃を止めるゴジラの背びれ。なにごとかと船員が反対側を振り返った瞬間、海面が大きく軋み盛り上がり、ゴジラの巨大な背が浮かび上がる。なんと、いままで背びれかと思われたのは、ゴジラの尻尾でしかなかったのだ! なんとゴジラのデカイことか! いままで誰も観たことのなかった見事な演出だ。

その後に描かれる数々のスペクタクル・シーンの数々も、そりゃもうすごい。炎と粉塵が舞い、地獄のように豹変したサンフランシスコ市街で展開されるゴジラ対MUTOのバトル、人間たちの攻防*3は、こだわりぬかれたVFXと、リアルに作りこまれた人間サイドのセットとの融合が見事で、息つく間もない。呻るゴジラ、崩れ落ちる高層ビル、そして待ってましたと撃ち出されるゴジラの放射熱戦! 画面のリアルな黒味と巻き上がる粉塵のせいで、ちょっと観辛いことにはこの際、目をつむろう! とにかく大のゴジラ・ファンを公言するギャレス・エドワーズの溢れんばかりの熱意が画面に満ち満ちていて、素晴らしく見事なショットの連続だ。



     



3.
ところで本作は、日本怪獣界のもうひとつの巨頭であるガメラ、とくに「平成ガメラシリーズ」(金子修介監督、1995〜1999)から大きく影響を受けているように思われる。前述の人間目線にこだわった巨大感演出や、「もしも巨大怪獣が現れたら……」という状況をできるかぎりリアリティを持って描くことが挙げられる。また、人間サイドと怪獣サイドのドラマそれぞれをシームレスに描いてみせる部分も、本作に受け継がれている。

とくに行政主導の避難活動シーンがそうだろう。本作では、ゴジラとMUTO来襲に備えてサンフランシスコ市街から住民が集団で避難するシークェンスがある。避難する子供たち──主人公フォードの息子の姿もある──を乗せたスクール・バスが渋滞する金門橋の上で立ち往生していると、そこで姿を現したゴジラと海軍の攻防に巻き込まれてしまう。果たして子供たちは助かるのか──!? 日本のゴジラ・シリーズにおいては避難活動と怪獣災害がきっかりと分離している*4場合が多いが、この両者のあいだに主人公格の人物が体験する見せ場を大々的に持ち込んだのが『ガメラ2〜レギオン襲来〜』(1997)だった*5。また本作のように、戦車大隊や戦闘機以上に、歩兵部隊の活躍が多くを占めているのも、平成ガメラの特徴だった。

さらに、本作に登場するゴジラが、じつは自然にバランスをもたらすために存在する裁定者のようなキャラクター設定だったのも、平成ガメラを思い起こさせる大きな特徴だ。ゴジラがまるで人間とコミュニケーションをとっているかのように映される演出なども、その印象を強めるものだった。



     ○



また、本作にはスティーヴン・スピルバーグ的な演出がたびたび登場するのも興味深い*6。暗闇のなかで強調されるスポット・ライトの明かりやサスペンスの盛り上げ方、とくに画面内に起こった異常事態/災厄の発見を描き出すときのカメラ・ワークと編集が、まことにスピルバーグであった。彼の映画は──

なんらかの異変が向こうのほう──たとえば茂みの奥──から、なんらかの一見関係なさそうな現象を伴いながらじわじわ近づいてきて、ついにわれわれの眼前にそれが現れる。

──という、ある種の焦らし表現によるサスペンスの盛り上げが非常にうまい。たとえば『ジョーズ』(1975)において巨大サメがその姿をついに現すまでの緊張感溢れる段取りや、『E.T.』(1982)で、はじめてエリオットとE.T.が出会うくだりなどが例に挙げられるだろう。本作のゴジラもまた、その出現を別の現象や身体の一部分だけを映すなどして遠巻きに遠巻きに感じさせ、いよいよ登場するという盛り上げ方が随所に散りばめられている。

とくに前述のオアフ島上陸のシーン──海岸に迫る津波→ストリートを飲み込む津波→ビルの屋上から放たれる照明弾に照らされる巨大なゴジラの胸部→ホノルル国際空港に現れたMUTO(オス)を滑走路で眺める技師の足元に流れてくる海水→戦闘ヘリの眼前に現れる背びれ→墜落・爆発するヘリに巻き込まれて燃え上がる旅客機2機→そこに踏みしめられる巨大な足→正面足元からパン・アップして映されるゴジラの上半身へ──のプロセスの巧みさは飛び抜けている。はじめてゴジラが画面に向かって咆哮したときに僕らを圧倒したとてつもない迫力は、この手続きなしには考えられない。また、──

人物Aがなにか異変を察知したとき、まずはカメラがその様子──彼の表情に驚きや恐怖といった変化──を捉える。カメラが切り返し、Aの見ている先を映し出す。このときの視野は狭いが確かになにかがおかしい。そして、そこからカメラがグーッと引いて視野が大きく拡がると、より大きな異変が展開されていたことが明らかになる。

──といった、ミニマムからマクロへ向かうカメラ・ワーク演出もスピルバーグ演出の特徴だ。『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989)で、ヴェニスの図書館に隠された暗号をインディが発見するくだりなどを思い起こしていただきたい。今回、エドワーズ監督がよっぽどこの「ミニマム→マクロ」演出が好きなのか、これが何度も連発される。効果抜群のシーンもあれば、半分ギャグになっているシーン*7もあるのはご愛嬌というところだろう。

ゴジラ・ファンのひとりとして知られるスピルバーグ*8だが、彼はかつてゴジラのハリウッド実写化企画にオファーのあったとき、自分には荷が重過ぎるとして断っている。しかしいま、こうしてありえたかもしれない“スピルバーグ版”の一端を垣間見えるのはなんとも感慨深い*9



     



4.
さて、公開前から「太っちょブタ!」とかいわれていたゴジラの造型だが、実際に見てみると、非常にどっしりとした重量感に満ち満ちていて、全然アリじゃないかと。クマをモデルにしたそうだが、いままで数あるゴジラ造型のいいところを、現代にも通用する恐怖感を醸すようにブラッシュ・アップした感じで、非常によかった。

また、ゴジラにしては厚い下アゴと、その付け根にかけての造型は、明らかにかつてのアメリカ版『GODZILLA』(ローランド・エメリッヒ監督、1998)のデザインを取り込んでおり、1998年のときに「本当はこうあるべきだった」アメリカ版ゴジラ像を体現せしめている。今回、かつて'98年版を観て「これはゴジラではない」とマグリットの絵画を眺めたフーコーのように考えあぐねる必要はない。その姿はまさに16年遅れてやってきたアメリカ版──見まごうことなくゴジラそのものである。

そして作品全体のトーンもそうだが、今回のゴジラの造型もまた「平成ガメラシリーズ」から大きく影響を受けているように思われる。とくに胸部から腹部にかけての大きなうろこ状のディテールや胴のやや前側に突き出した両腕、そしてゾウのようにゴツく厚い足の形状など、ガメラ──とくに『ガメラ3〜邪神覚醒〜』(1999)に登場するヴァージョン──に類似点が多い。

ともあれ、精緻なコンピュータ・グラフィックスで描き出されたゴジラの動きを、モーション・キャプチャーを演じさせたらいまや右に出る者のないアンディ・サーキスに「人が着ぐるみに入って演じている」ようにあえて演出させているのも、嬉しいではないか。

     



5.
本作のゴジラが、間違いなくゴジラに見えるという造型的な的確さもさることながら、本作が「偉いなぁ」と思わせる大きなの要因のひとつは、「ゴジラとはどういう存在なのか」を全世界に向けて改めて定義してみせたところだ。それは、ゴジラ=怪獣=神という等式で書き表せるだろう。



本作では、ゴジラの持つ神性がとにかく強調される。まず度肝を抜かれるのは、ゴジラハワイ諸島オアフ島に上陸するシーンだろう。ここでゴジラの姿は先にも少し触れたように、まったくといっていいほど映らない。しかし、恐ろしいことにゴジラは、街を呑み込む巨大な津波を伴って上陸するのである。なぜゴジラが上陸すると津波が起こるのか、明確な説明も必然性もない。まさに人知を超えた天災であり、それを知るとすれば“神のみぞ”である。もちろん、これが第1作『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)において、はじめてゴジラが大戸島に上陸するシークェンスの再現であることも忘れてはならないだろう。本作のゴジラが夜のオアフ島津波を率いて上陸することは、第1作のゴジラが大戸島に雨風吹きすさぶ嵐とともに上陸したことにほかならない。

また本作において、ゴジラはその神出鬼没さを遺憾なく発揮する。オアフ島に上陸したゴジラが次に画面上に姿を見せるのはホノルル国際空港であるが、その姿はまず、同じくそこに襲来したMUTO(オス)に向かうヘリコプターの主観映像にヌッとゴジラが背びれが映り込む形で登場する。また、後半でサンフランシスコに上陸して以降も、ゴジラが姿を現す際には、画面奥──たとえば、MUTO(オス)の襲来に逃げる群衆の向かう先で──で突然にヌーッとその巨体をもたげるという場面が頻出する。このように、ゴジラはどこからともなく突然ふっと姿を現す。人々は、MUTOの接近には気づいても、ゴジラの接近にはまったく気づかない。まるで、第1作のゴジラが東京に上陸して以降、足音もなく街を破壊しつくすかのようだ*10

そして、本作のゴジラについての説明不可能性も、その神性を強調するだろう。本作において、ゴジラ誕生の理由も、その生物学的特性も、いっさい具体的な説明はなされない。せいぜいが「現在より放射能濃度のはるかに高かった古生代ペルム期(約2億7000万年前)において生態系の頂点に立っていた、いわば神」という非常に抽象的な説明がなされるばかりだ*11。その説明不可能性を証明するように、人間がいかにゴジラを語り、調査しようとも、当のゴジラは人間などまったく眼中にない。たとえ、アメリカ海軍の戦艦が併走しようが、ミサイルを撃ち込もうが、意味ありげに視線を投げかけようが、いっこうに意に介さない。ガン無視である。たとえ、金門橋ゴジラが海軍がイタズラに発射したミサイルから子供たちの乗ったスクール・バスを守ったかのように見えたとしても、それは人間が勝手にそう思っているだけである*12。まことにゴジラとは、人間のオーダーなどに決して収まらない存在なのだ。



このように、ゴジラは本作において神聖化された形で描かれており、それゆえに極めて正しく怪獣なのである。そして、本作におけるこの執拗なまでの描き込み(=定義付け)は、ハリウッド映画でいま新たにゴジラを描くときに必要不可欠なプロセスだったはずだ。僕らが自然に連想する、怪獣が──われわれがときに台風や雷を神聖化するごとく──ある種の神であるという概念は、その実とても日本的/東洋的なものだ。これがアメリカ映画や西洋思想的にはなじみの薄いものであることは、'98年版の失敗を思い出せば明らかだ。'98年版の失敗は、ゴジラの造型云々よりまず、この“怪獣”感の欠如にあった。彼は怪獣ではなく“モンスター”だったのだ。



     ○



話題が先走ってしまったが、本作にはいわゆるハリウッド的モンスターの象徴だと考えられるものが存在する。もちろん、今回の敵役MUTOだ。MUTOを先のゴジラと同じように等式で表すなら、MUTO=モンスター=生物ということになろうか。

前述のように、ゴジラがあくまでの抽象的説明しか許さない存在であるのに対し、劇中でMUTOはひたすら科学的に説明される。オスとメスの個体があり、生態系があり、放射性物質を餌とし、活動期に移ると求愛のためエコーロケーション反響定位)によって互いに会話し、ゴジラや地中に数多の卵を産みつけ、攻撃を仕掛けてくる人間を敵対者としてはっきりに認識し、強力な電磁パルスを放つ──ことほど左様に、MUTOは生物学的に様々に説明される。彼らは、MUTOという呼称──Massive Unidentified Terrestrial Organism(未確認巨大陸生生命体)──が示すように人間の言葉によって徹底的に解析され、定義される生物である。そしてこれは、キングコングジョーズ、エイリアンやプレデターそしてもちろん'98年版ゴジラなどなど、アメリカ映画が数多く輩出してきたモンスターたちと同様の存在なのだ*13

西洋的思想において自然や生物とはすべからく人間によって克服・支配される存在であるように、その自然が生み出した鬼っ子としてのモンスターたちも当然、人間によって倒されるべき存在だ。だから本作ではMUTOを徹底的に解析するし、'98年版でゴジラアメリカ軍のミサイル12発に倒れたのだ。つまり本作には、“怪獣”対“モンスター”という概念同士の闘いという構図が組み込まれているといえる。そして本作は、永らく世界のスクリーンを牛耳ってきた“モンスター”であるMUTOを、“怪獣”であるゴジラがついに打ち倒すという物語でもあったのだ。1998年にはその強大な概念に打ち負けて辛酸をなめたものの、彼はついに勝ったのだ。怪獣ナメんなよ!



     



6.
ところで、本作のゴジラは、その誕生にまつわる設定というか、ゴジラ原水爆との関係性が日本のオリジナル・シリーズとはかなり異なる。オリジナルの設定では、およそ「ジュラ紀に生息したある恐竜の種*14が海底深く生きながらえてきたのを、度重なる原水爆実験による放射能汚染が突然変異をもたらした」というものである。第1作製作直前に発生し、映画にも大きな影を落とすことになった「第五福竜丸の被曝事件*15」の関連からもわかるように、日本版のゴジラは「核の落とし子」としての性格が色濃い。ゴジラというキャラクターの持つある種の悲劇性は、この設定に負うところが大きいだろう。

一方、本作におけるゴジラは、前述したように「古生代ペルム期において生態系の頂点に立っていた種の末裔」で、しかも「半世紀前に頻発したビキニ環礁を含む原水爆実験はじつは実験ではなく、ゴジラを倒すためだった」という設定に置き換えられている。すなわち、ゴジラの誕生と核(=原水爆)は直接の関係はないとされているのだ。

予告編でも割と早い段階で明かされていたとはいえ、今回の設定変更に違和感を覚えたかたも少なくないだろう。実際ウェブ上で、この設定変更について批判や違和感を表明する個人の感想もいくつか見かけたし、欧米でもガーディアン誌のピーター・ブラッドショーが「日本のゴジラに込められていた反核の風刺が、この映画では滑稽なほど弱まっている*16」という旨のレヴューを寄せている。



     ○



正直なところ、僕もこの設定変更に関しては違和感を覚える。しかし同時に、今回の変更は、それはそれで考えられるかぎり誠実なものだったのではないか、とも映画を観て思うのである。というのも、ゴジラ誕生の設定の変更があるとはいえ、本作が原水爆の問題、反核の精神からはひとつも逃げを打っていないと思えるからだ。

今回の設定変更について、ここでひとつ念頭に置かなければならないのは、本作がアメリカ映画であることだ。ゴジラが「原水爆の落とし子=被曝者/被害者」であることに寄せる僕らの複雑な感情は、世界で唯一原爆を投下された日本人独特のものだ、といっていいだろう。第1作において、宝田明演じる主人公・尾形がいうように「ゴジラこそ、われわれ日本人の上にいまなお覆い被さっている水爆そのもの」でありながら、その一方で原水爆によって誕生したゴジラはまさにその被曝者/被害者であるという二重性によって、われわれはゴジラを恐怖の対象としつつも深い同情をもって見てしまう。だからこそ、ゴジラがより一層リアルに僕らの心に迫ってくる*17

しかし、作り手たちの多く*18アメリカ人──エドワーズ監督はイギリス人──であろうに、日本人と同じ感覚──日本版でもしばしば忘れがちな──のものを作れというほうが、どだい無理な話だし*19、当人たちもそれに自覚的だったに違いない。敗戦国でも被曝国でもない彼らには、日本と同じ図式のゴジラ像はリアル足り得ないし、表層的になぞるだけでは意味がない──おそらく、作り手たちはそのように判断したのだろう*20。しかし、ゴジラから核の問題を差し引くことはできない。では、彼らにとってリアルな核の恐怖とはなにか──?



     ○



それは、なにかのきっかけで核兵器を実際に使用して/されてしまう恐怖、そして、いまなお核兵器が脅威に対して有効だとわれわれ人間が無邪気に信じがちなことへの恐怖なのではないだろうか。この、アンビバレントな恐怖感が、本作には描かれているのではないだろうか。


東西冷戦下、核兵器を抑止力として保有することがスタンダードになった。その筆頭はもちろんアメリカと旧ソ連である。この互いに互いを人質にとるような、核による抑止力で保たれた均衡がやっかいで、ひとたびこれが崩れれば核ミサイルのスイッチが押され、全面核戦争に突入する*21という、世界滅亡の危機が日常だった時代がかつてあった。東西冷戦はすでに終結したとはいえ、抑止力としての核によって保たれた世界という構図は、その実あまり変わってはいないのが実感だし実情だろう。日本においてすら国内外でキナ臭い話題が絶えない昨今ではなおさらだ。

映画に目を向ければ、核抑止力による均衡が崩れる恐怖を描いた映画は多くある。当時から『博士の異常な愛情 又は私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(スタンリー・キューブリック監督、1964)や『未知への飛行』(シドニー・ルメット監督、1964)で、抑止力としての核が実際に使用されてしまう恐怖を描いているし*22、一見すると単なるエンタテインメント作品に見える作品──たとえば『地球爆破作戦』(ジョセフ・サージェント監督、1970)──も、その想像力の根底は同じものである。時代は下った今日でも、たとえば『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バート監督、2011)において核抑止力による均衡の崩壊を手段にする悪役が暗躍したりと、いまだ核が実際に使用されうる恐怖という想像力が有効であることが伺える。

その一方で、核兵器は威力甚大・効果てき面の便利な爆弾という認識も存在する。『水爆戦争論』のハーマン・カーン*23や、キューバ危機の際にキューバに核攻撃するようケネディに進言したカーチス・ルメイ*24などはいうに及ばない。映画に目を向ければ、とくにSF映画において核兵器はキメの一手として重宝される。あの『GODZILLA』の前にエメリッヒが撮った『インデペンデンス・デイ』(1996)や、あの『パシフィック・リム』においておや*25、敵である侵略者を打ち倒すのは核弾頭である。その他、明らかに核兵器について誤解したまま描いた映画などゴマンとある*26



     ○



本作は、この相反する、しかし同時並列にありうる恐怖をフィルムに定着させる。いよいよ現代アメリカに姿を現したゴジラとMUTOに対し、アメリカ軍が有効だとして実行する戦略を思い出そう。それは核弾頭による攻撃だ。彼らをサンフランシスコ沿岸の海域に核弾頭でおびき出して迎撃しようというのだ。ゴジラは数々の水爆実験という名の核攻撃にびくともせず、MUTOは核物質を直接の食料としているにも関わらず、アメリカ軍は「現在の核弾頭の威力は冷戦当時とは比べ物にならないから、必ずや効くだろう」といってはばからない。芹沢博士が「核兵器使用は断固反対だ」と、作戦の指揮を執るアメリカ海軍第7艦隊提督ステンツに直訴しても、少尉は「市民を救うためには仕方がない」ととりあわない。ここには、いまだ無邪気に核兵器に頼ってしまうわれわれ人間の幼さが浮かび上がってはいないだろうか。

本作の核弾頭によるゴジラ/MUTO殲滅作戦は事実上の失敗に終わるが、その状況も非常に危機迫るものだ。彼らをおびき出すためにサンフランシスコ沿岸の戦艦に運ばれた核弾頭がなんとMUTO(オス)によって奪われ、メスが産み落とす多数の幼体の餌にするためにサンフランシスコの街のど真ん中に据えられてしまう。しかも核弾頭に据え付けられた時限爆破装置はすでに起動し、秒読みを開始していたのである。このままでは市街地で核爆発が起こってしまう──。時限爆破装置をセットしたフォードは、ゴジラとMUTOが暴れまわる地獄のサンフランシスコに核弾頭回収作戦に従事する部隊とともに赴いて装置を自ら解除しようとするが、衝撃による機械の変形でそれが不可能なことが判明。なんとか核弾頭をクルーザーに乗せてサンフランシスコ洋沖に逃すことに成功するものの、核弾頭はあえなく爆発してしまう*27。核とは、いくらセーフティがあるといっても所詮は机上の空論に過ぎず、スイッチを押したら爆発するまで制御不能な代物であり、安全な核兵器などありえないことを、本作はじっくりと描き出す。

このように本作においてゴジラ──そしてMUTO──とは、その存在によって人間自らに核による終末を選び取らせる恐怖そのものだといえまいか。もちろん、すでにこの構図は日本版第16作『ゴジラ』(橋本幸治監督、1984)のなかで「ゴジラ迎撃のために米ソが核兵器使用を迫る」という形でも描かれいる。しかも「日本首相がそれを屹然と退ける」という展開が30年前に描かれているのをみるにつけ、今回『GODZILLA ゴジラ』で描かれた内容を古臭く、思想的後退だと感じる向きもあるだろう。しかし、むしろこの思想的後退を経てなお、その恐怖がリアルなものであるという現状そのものにゲンナリするのであって、本作は、いまだお気楽な核認識のハリウッド映画、ひいてはわれわれ人間に対して強烈な皮肉とアンチテーゼを叩きつけているのではないだろうか。



     ○



付け加えておくなら、上述の核兵器のみならず、本作では核関連施設──具体的には冒頭に登場する、日本の雀路羅(じゃんじら)市*28にある原子力発電所ネバダ州の山中にある核廃棄物保管施設──の運用そのものがことごとく失敗しているのも皮肉めいているし、芹沢博士がステンツ提督に核攻撃反対を直訴する際、「これは父の遺品だ」と1945年8月6日午前8時15分で止まった懐中時計を見せるシーンもまた特筆に価するだろう*29。これだけのハリウッド大作のなかで、明らかに「ヒロシマへの原爆投下は間違いだったのではないか」という問いをアメリカに突きつけるシーンなんて、そうそうあるものではない。本作は踏み込むべき問題提起には、きちんと踏み込んでくれたのではないかと思う。








7.
ただ、ちょっと映画の見せ方として物足りない部分があるのも事実。それは、怪獣の見せ場シーンで寸止め演出があまりに多いことだ。

たとえば、本文のそこかしこで触れたオアフ島のシークェンス。ついにゴジラホノルル国際空港ではじめてその全身を現して大きく咆哮したとき、次なるシーンはいよいよMUTO(オス)との怪獣バトルが──と思うのが人情だと思うのだけれど、本作はそうは問屋が卸さない。突然画面は、別の場所に移り、そこにあるテレビに写る緊急ニュース速報の映像として、ゴジラが戦っていると思しき姿が小さく、しかも遠巻きに流れるばかりなのである。

正直、そのゴジラの咆哮ショットがあまりに感動的だったので、続くシーンの連なりには「あれー、バトルはー? ズルズルッ」と肩透かしを食らったのが正直な印象だけれど、ゴジラ登場という映画のテンションを一旦ぶった切る演出というのもそれはそれで新鮮で面白い試みだとも思う。しかし、本作はこの「怪獣登場」から一足飛びにその「余波」あるいは「人間ドラマ」へ移る演出を何度も繰り返す*30。1度だけならまだしも、何度もやられると、やはりちょっと不完全燃焼感のほうが先にわいてしまって、ノリきれなかった側面は否めない。いまある特撮シーンもとても素晴らしいだけに、ゴジラが街を蹂躙するシーン、MUTOとのバトルシーンをもっと観たかった! ──というのは欲張りかしら。ついでに、できれば、もうちょっと明るい画面でもって観たかった──というのは欲張りかしらん!



     ○




しかし、この願いも近く叶うかもしれない。すでに報道されていることだが、本作が全世界で累計500億円の興行収入を上げており*31、この勢いもあっての続編制作が決定、現地時間26日、米サンディエゴで開催中のコミコンで正式に発表された。次回作にモスララドン、そしてキングギドラが登場することが明かされている*32。まさに世は地球最大の決戦。これはもうめくるめく壮絶な怪獣プロレス絵巻を期待せずにはおれない。

──などなど、と長々いろいろととりとめもなく本作について思うところを書き出してみた。もちろん本作は、完璧な映画でもないし、様々な映画的あるいは社会的問題をどうしようもなく含みこんでいる。しかし、2度目のハリウッド・リメイクとして見事に完成した本作は観るに値する力強い1本だし、僕はこの文章をこう締めくくるにやぶさかではない。

I call him ゴジラ!



※本文の一部を映画の内容により則すよう修正しました。2014年8月1日。


     ※

*1:2014年5月20日放送分のTBSラジオ「たまむすび」内で、本作を紹介した映画評論家の町山智浩氏が心底羨ましがっているが、彼は本当に男の子の夢を次々叶えているのだ。子役時代に『シャンハイ・ナイト』(デヴィッド・ドブキン監督、2003)でジャッキー・チェンと共演し、20代になっては『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』(サム・テイラー=ウッド監督、2009)で、ビートルズ結成前夜のジョン・レノンを演じ、『キック・アス』(マシュー・ヴォーン監督、2010)シリーズではキック・アスを演じ、今度はゴジラと戦うって、このッこのッ羨ましいヤツ!!!!

*2:おおさこ・つとむと思わず読んでしまったあなたはエラい!

*3:映画後半でサンフランシスコ市街に向けて決行されるHALOジャンプ(高高度降下低高度開傘)の際に流れる曲は、リゲティ・ジョルジュの《レクイエム》(Requiem, 1965)。本作の予告編でも印象的に使用されていたが、本編にも流れるとは……。この曲はスタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』(1968)のスターゲイトのシーンなど、まるでモノリスと人間の邂逅のテーマのように使用したことでも有名だが、この曲の持つ荘厳な雰囲気ともあいまって、終末感あふれる見事なシーンになっている。

*4:それゆえに安心して観られるという側面ももちろんある。

*5:草体の爆発が迫った仙台市から自衛隊ヘリで避難する住民たち。そのなかに本作のヒロイン穂波碧と、かつてガメラと心を通わせた少女・草薙浅黄の姿があった。最後のヘリコプターに乗り込もうとする彼女らの目に、草体を破壊するために飛来したガメラの姿が映ったかと思うと、それを食い止めるために地底から滑走路を突き破って巨大レギオンが現れる。対峙する2対の振動によって、ヘリは離陸不能の状態に陥ってしまう。果たしてヘリは離陸できるのか──!? という避難状況が、ガメラ対レギオンのバトルと同時進行で描かれる。

*6:ギャレス・エドワーズは、影響を受けた監督3人のひとりにスピルバーグの名前を挙げている。ほかに挙がったのは、ジョージ・ルーカスクエンティン・タランティーノyoutubeGodzilla - Meet The Director: Gareth Edwards - Top 3 Filmmaking Heroes.」(https://www.youtube.com/watch?v=Qpt7d3cXCzw)、2014年7月28日閲覧。

*7:ネバダの山中に建造された核廃棄物保管施設にじつはメスのMUTO(冬眠中)が押し込まれていたことが判明。オスがメスを呼ぶ音波を出していたことが判ったため、慌てて施設内の調査に向かうアメリカ陸軍小隊。すると、地下施設にもかかわらず光が見える保管区域が……。恐る恐るその扉を開けてみると、山肌を突き破ってラスベガスに向かうMUTO(メス)の巨大な後姿が彼方に見えていた──って気づくだろう、さすがに!

*8:自身の監督作『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997)の街中で暴れまわるTレックスや、『宇宙戦争』(2005)で街を蹂躙するトライスポットなど、まったきゴジラ・オマージュを見せている。

*9:そういえば、本作の主人公家族のファミリー・ネームはブロディだが、これには『ジョーズ』でロイ・シャイダーが演じた警察署長の名前を思い出さずにはおれない。ギャレス・エドワーズにとって本作が劇場用長編の監督第2作なのに対し、『ジョーズ』もまた、スピルバーグにとっての劇場用長編の第2作だというのも、なんだか因縁めいている。

*10:本作を観て1番思い出すのは、第1作のゴジラが2回目の東京上陸を果たした次のシーンだ。指令本部からの「以降は人命救助に傾倒せよ」という無線指令を、パトカーに寄り集まって聞く警官たち。ふいに顔を上げると、彼らのそばのビルの向こうから彼らを見下ろすゴジラの姿があった。すぐさま撤退する警官たちに構わず、ゴジラはパトカーに向けて放射熱戦を吐き出し、パトカーは炎上・爆発する──ここも、よくよく考えれば、彼らが──そしてビルの中にいる人々が──そんな近くまで歩み寄っているゴジラの存在に気づかないはずはないのだ。ゴジラの神出鬼没さがもっとも表れたシーンだろう。

*11:この説明を受けたフォードは「モンスターだ……」とつぶやくが、ゴジラがいかにそれどころではないか、彼は身をもって体験してゆくことになる。

*12:その後、あっさりと金門橋をぶち壊して市街へ向かう。この気まぐれ感というか、善悪の彼岸の向こう感もまた、平成ガメラっぽいところだろう。

*13:MUTOの設定や行動原理、またデザインは、ギャレス・エドワーズが監督・脚本・撮影をこなした長編処女作『モンスターズ/地球外生命体』(2010)に登場する地球外生命体のそれにとくに近い。エドワーズのゴジラ登板のきっかけにもなった、この低予算怪獣映画も面白いのでぜひご覧あれ。

*14:ゴジラVSキングギドラ』(大森一樹監督、1991)では、それは「ゴジラザウルス」であるという設定が追加され、1995年に平成シリーズが幕を閉じるまで踏襲された。

*15:1954年3月1日、遠洋マグロ漁船だった同船が就航中、アメリカ軍がビキニ環礁で行った水素爆弾実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴び、船員が被曝した事件。

*16:web『NewSphere』内「『ゴジラ』好スタートも、欧米メディアは酷評“日本版の風刺が滑稽なほど弱まっている”」(http://newsphere.jp/entertainment/20140519-2/)、および web『The Guardian』内「Godzilla review – big, scary monsters but no bite in satire-stripped remake」(http://www.theguardian.com/film/2014/may/15/godzilla-review-scary-monsters-boring-humans)を参照。ともに2014年7月27日閲覧。

*17:もちろん、太平洋戦争の是非について加害者/被害者という二元論のみで捉えるのは許されないし、僕がここで指摘するのは、あくまでその──また、ゴジラについての──いち側面であることを重々承知していただきたい。また、第1作発表当時になぜゴジラがここまで日本で受け入れられたのかについては、たとえば小野俊太郎『〈フィギュール彩13〉ゴジラの精神史』(彩流社、2014)に、様々な角度から詳しく論じられているので参照されたい。

*18:そして当然、映画の観客に想定される第1目標もアメリカをはじめとした西洋諸国だろう。

*19:「映画は国境を越えない」とは押井守の言だが、人間においておや、である。

*20:それにもしアメリカ映画である本作が「ゴジラ原水爆実験によって生まれた」という設定を強行すれば、行きつく先は「じゃあ誰(=どの国)がやったんだ」という無益な水掛け論であることは必至だろう。そのことは、すでにして'98年版『GODZILLA』にて証明済みだ。この映画で描かれたのは「ゴジラはフランスの核実験が生んだ怪物(俺たち=アメリカ人潔白)だし、結局ゴジラも倒せちゃったし証拠隠滅しとけばよくネ? ネ?」というなんとも幼稚な責任の擦り付け合戦以外のなにものでもなかったのを皆さん覚えておいでだろう。

*21:キューバ危機(1962)は、それがギリギリまで迫ってしまった歴史の一例だ。

*22:もちろん日本でも『世界大戦争』(松林宗恵監督、1961)が製作されている。また、核戦争(第三次世界大戦)後の滅びゆく世界を描いたネビル・シュート原作の『渚にて』(スタンリー・クレイマー監督、1957)も忘れてはならないだろう。

*23:Herman Kahn, 1922-1983。

*24:Curtis Emerson LeMay, 1906-1990。ところで、もしかして映画前半でジョーが叫ぶ台詞「ヤツは我々を石器時代に戻してしまうぞ(It is gonnna send us back to the stone age.)」って、ルメイの「ベトナムを爆撃で石器時代に戻してやる(We're going to bomb them back into the stone age.)」が元ネタかしらん。

*25:この点に関しては、僕も苦言を呈するものである。>>拙ブログ『つらつら津々浦々』内「『パシフィック・リム』(3D日本語吹き替え版)感想」(http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20130818/1376790018

*26:『チェーン・リアクション』(アンドリュー・デイヴィス監督、1996)や『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(スティーヴン・スピルバーグ監督、2008)などの描写は噴飯ものだ。

*27:自らを犠牲にして核弾頭とともに洋上に流れ出たフォードは寸でのところで、友軍のヘリに救われ、事なきを得る。ちなみに、この核汚染のある程度は、洋上に去ったゴジラによって吸収されるものと思われる(放射能を喰うという設定そのものがなくなったようすはない)。

*28:富士山の見える海辺にある架空の街。いよいよ言及するタイミングがなくなってきたので慌てて書いておくと、本作における日本の風景の意匠は、昭和──とくに1960年代──のゴジラ映画や東宝特撮映画に登場するような町並みをそのまま現代にアップデートしたような趣で、個人的には嫌いではない。また、本作における日本描写の絶妙なテキトーさというか脱力具合は、おそらく初代『ゴジラ』の海外編集版『怪獣王ゴジラ』(本多猪四郎、テリー・モース監督、1955)内において、アメリカで追加撮影された日本のセットへのオマージュとともいえるだろう。欧米における多くのゴジラ・ファン──スピルバーグティム・バートン、そしておそらくはエドワーズ監督も──にとって、この海外版が原体験のはずだ。

*29:2014年7月21日にNHK R1[ラジオ第1]で放送された『渡辺謙ゴジラを語る』内で、渡辺が語ったところによると、当初の脚本では芹沢博士の父はヒロシマ原爆投下で直接亡くなったのではなく、被曝による後遺症で後に亡くなったという設定があったが、尺の都合で本編からはカットされたのだとか(そのため現ヴァージョンでは、芹沢博士の年齢がいまいち不正確にみえる)。また同じくカットされたフッテージとして、ステンツ提督の父は、サンフランシスコから日本本土への爆撃機の基地であるテニアン島リトルボーイを運ぶ任務で重巡洋艦インディアナポリスに乗り込んだ経歴の持ち主で、原爆投下については戦後ついに口をつぐんだままだった、という設定があったという。余談だが、ここでも本作は『ジョーズ』と関連してくるわけだ。

*30:ラスベガスに迫るMUTO(メス)→すでに通り過ぎた後の惨状、サンフランシスコで再び対峙するゴジラとMUTO(オス)→別の場所にいるフォードのドラマ──といった具合だ。

*31:また、日本でも観客動員数初登場1位を記録したことで、本作が公開された63カ国すべてでオープニング第1位を成し遂げた。web『シネマカフェ cinemacafe.net』内「米国版『ゴジラ』日本でも初登場第1位!“日本版”復活求める声も」(http://www.cinemacafe.net/article/2014/07/28/24913.html)、2014年7月30日閲覧。

*32:web『海外ドラマチャンネル-AXN』内「ハリウッド版『GODZILLA』にモスララドンキングギドラ登場!続編制作が正式決定!【コミコン2014】」(http://axn.co.jp/dramanews/20140727113.html)、2014年7月30日閲覧。