『STAND BY ME ドラえもん』(2D版)感想

八木竜一、山崎貴監督。何をやらせても冴えない少年のび太のもとに、22世紀から来た彼の孫の孫セワシと、ネコ型ロボット“ドラえもん”が現われる。セワシは、この先も不幸なままなのび太は未来を変えるべく、ドラえもんに手助けをさせようというのだ。ところが、当のドラえもんはまるで乗り気でない。そこでセワシは、ドラえもんに「成し遂げプログラム」をセットして、のび太を幸せにしない限り、22世紀に帰れなくしてしまう。こうして、22世紀に帰るために、のび太を幸せにすべく、渋々ながらも彼の世話を始めるドラえもんだったが……。

藤子・F・不二雄原作の国民的テレビアニメを、史上初となる全篇3DCDで描いた劇場用長編アニメーション。「未来の国からはるばると」をはじめ、原作でもとくに感動エピソードとして知られる「たまごの中のしずちゃん」、「しずちゃんさようなら」、「雪山のロマンス」、「のび太結婚前夜」、「さようなら、ドラえもん」、「帰ってきたドラえもん」を元に、「ドラえもん」のはじまりと終わりの物語を描く。



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まず余談で恐縮なのだけれど、僕はドラえもんはそれなりにファンで……という、この文章を書いている僕は1988年生まれの人間で、物心ついたときからテレビ朝日系列で放送していたアニメ『ドラえもん』(ドラえもん大山のぶ代のころ*1)に親しんでいた。

そこから、それこそのび太たちと同年代になるまではテレビの放映を毎週のように観ていたし、劇場版も『のび太の創生日記』(芝山努監督、1995)や『のび太と銀河超特急』(同、1996)などを映画館にせがんで連れて行ってもらったクチだ。また、月刊コロコロコミック誌上で連載されていた大長編『のび太のねじ巻き都市』もリアルタイムで読んでいて、その連載途上で突然舞い込んだ藤子・F・不二雄の訃報に、ひどくショックを受けたのもよく覚えている。

年齢が上がるにつれて一旦はドラえもんから離れたけれど、大学生になり、そしてイチオウ社会人となる過程で藤子・F・不二雄の別の作品──たとえば「みどりの守り神」など一連のSF短篇や『エスパー魔美』など──を読むなかで、ドラえもんもまた原作漫画を読み直し、改めてその面白さをひしひし感じている今日この頃である。僕はかねてからSF──さらに狭めればとくにタイムトラベルもの──がたいへん好きなのだけれど、このSF嗜好は間違いなく『ドラえもん』という大きな作品群に触れたことが大きいだろう。



また、余談ついでにもうひとつ余談を。本作『STAND BY ME ドラえもん』を監督したひとりである山崎貴監督も、いまや日本を代表するといわれる監督のひとりとなっているけれど、僕は山崎作品を初期の3作──すなわち『ジュブナイル』(2000)、『リターナー』(2002)、そして『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)──しか、きちんと観ていない。

まことに不勉強極まりないことは重々承知している。ただ、これを棚に上げてさらに続ければ、とくに最初の2作品は僕も大好きな映画で、どちらもDVDを買って繰り返し観るほどだ(Blu-ray化はまだか)*2。山崎監督のもともとの畑であるVFXを活かしたアクションの確かな画作りと、タイムトラベル物語が絡み合った、見所のある作品たちだと思う。はじめて両作品を観た当時──といっても、劇場公開からは少し遅れて──には、ついに日本でも、こういうSFが撮れるようになったのかと興奮したものだ。

しかし、『ALWAYS 三丁目の夕日』を観たとき、昭和30年代の東京を再現したVFXには驚いたものの、一気に山崎作品への興味が失せてしまった。僕のジャンル的嗜好ばかりが問題ではない*3。この作品から、山崎作品がしばしば批判される問題点が如実に現れてきたように思うからだ。



すでに多くのところで指摘されるように、キャラクターの心情をほとんど台詞で喋らせる直接的な──というか説明過剰な──感情描写や、それによる安易な「泣ける」「感動」の押し付けがましさがそうだし、キャラクターやエピソードを無節操にあれもこれもと詰め込んだ挙句に焦点がぼやけ切ってしまう脚本の弱さ*4などが挙げられるだろう*5。『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや以降の作品に多くのファンがおられるのはわかりつつ、僕は──すみません──かなりイラッとしてしまって……。

その後の作品群についても、伝え聞く評判は大同小異だし、テレビ放送されたりする際には、チャンネルを合わせてみるのだけれど、どうしても最後まで観る気が起きなくて、もう山崎作品とはソリが合わないのだな、ぐらいに思っていたのでした。

さんざっぱら文句いいながら、じゃあなんで今回わざわざ山崎監督の新作を観にでかけて、こんな長ったらしい前置きをシコシコ書いているかといえば、それは本作が『ドラえもん』であり、かつて山崎監督が「for Mr. Fujiko・F・Fujio(藤子・F・不二雄先生に捧ぐ)」と銘打った映画こそ、彼の処女作である『ジュブナイル』だったからだ。そこにあった──小学生最後の夏休み、仲良し4人組の少年少女たちが、その眼前に突如として未来からやってきたテトラという小型ロボットとともに地球侵略を目論むエイリアンと闘うなかで描かれる成長と、少年時代との別れ──という空想科学映画にあったセンス・オブ・ワンダー*6にもう1度、彼の原点回帰として出会えるのではないか、と思ったからだ。ほかならぬ『ドラえもん』で。



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さて。前置きばかりがすっかり長くなってしまった。本題に移ろう。


◆以下、ネタバレありなのでご注意ください◆


本作では、ドラえもんをはじめて本格的にコンピュータ・グラフィックス(CG)でアニメ化する試みが、なにをおいてもまず目に飛び込んでくるが、これはうまくいっている。キャラクターの肌や衣服、ドラえもんの柔和な質感を表現するテクスチャ、箱庭的に作りこまれた背景美術の完成度はどれも高い。

キャラクターの立体化もよくできていて、とくに舌をまいたのが、のび太の造型だ。のび太の特徴であるメガネ顔──目は作画されず、白く塗られたメガネのふち内に直接描かれる瞳──は、キャラクターの立体化にあたって一番の難物だったのではと想像されるが、のび太の目を描くという大胆でいままでにない造型でこれを解決したのは見事だ。はじめて彼の姿を静止画でみたときには、違和感のほうが先に立ってしまったが、実際に動いているのをみるとそれも解消された。

のび太をはじめ、ドラえもんしずちゃんスネ夫ジャイアンらいつもの面々の動きも豊かで魅力的だ。歩く、走る、飛び跳ねる、地団太を踏む、タケコプターで空を飛ぶなどなど、それぞれに独特の実在感があって面白い*7。ただ、しずちゃんの演出がいまどき珍しいくらいに憧れのマドンナ演出──振り向きのスロー、きらめくソフト・フォーカス!──なのにちょっと笑ってしまったけれど、いちおう本作はのび太が主役であり、夢見がちな彼の主観で描かれているのだろうから、これで正解だろう。

ことほど左様に、映像面は素晴らしい仕上がりで、たいへん満足さしていただいた。慣れ親しんだ世界観を壊さず、しかし新しい、観たことのない映像が展開されるのには胸躍るものがある。



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ただ、やはり1本の映画としては破綻している、といわざるを得ない。基本的な映画の構造は、先にも示した原作エピソードとプラス・アルファを次のように繋ぎ、3幕構成にしたものだ。

1.セワシドラえもんを未来から連れてくる*8

2.のび太しずちゃんの結婚が決まる*9

3.ドラえもんが未来に帰る*10


このそれぞれのパートをなんとか1本にまとめようとした痕跡はみられるものの、その整理不足は否めない。また、小さな子どもも観るから「説明台詞」が例によって多いことは100歩譲る──それでも、その過剰さと「泣き」のバーゲンセールはどうかと思うが──としても、個々のシーンごとにいちいち違和感ばかりが目に付く演出が目白押しなのはいかがなものか。



たとえば、「1」パート。ドラえもんセワシは真夜中にのび太の部屋に訪れるが、そこでドタバタとやかましく音を立てて騒ぐ。セワシが去ると、ドラえもんのび太タケコプターで夜間飛行に出かける。再び部屋に戻り、のび太の将来の結婚相手の話題に移った際、うろたえたのび太が「えーっ!」と悲鳴を上げる。このとき、階下で寝ていたママが起き出し「まだ起きているの」と注意する──って、そのタイミングはおかしくないか。最初にドタバタやってるときにママの声が聞こえて、「いけね、いけね。それで話を戻すと……」では何故いけなかったのか。そのほうがいくらかスムーズだろう。

「2」パートにしても、のび太がテストに失敗してしょんぼり学校からの帰り道、それを知らないドラえもんが「どうだった」とのび太に追い討ちをかけてしまうシーンがあるが、ここでのび太は坂道を昇っているのである。とくに明確な通学路の道順が描かれるわけでもないのに、わざわざ坂道というロケーションを出しながら、何故そんなあべこべな演出になるのか。また、このパートの後半はのび太が大人になった未来世界が舞台だが、未来にやって来たのび太が十数分たって「これが未来の世界かぁ」とはしゃぐ台詞をいわせるなど、このタイミングの間抜けさには失笑してしまった*11

「3」パートに至っては、「さようならドラえもん」の物語内の時間設定が原作の夜から夕方に変わっているにも関わらず、のび太とはぐれたドラえもんが「最後の夜まで」と画面と食い違った台詞をいうなど、滅茶苦茶だ。物語の時間変更に端を発するその他の原作アレンジの是非については、明白過ぎるので書かない。



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また、本作には大きな物議を呼んでいる独自の新設定「成し遂げプログラム」が登場する。本作で登場したこの唐突な新設定は、のび太のあまりのズボらさに辟易したドラえもんが、彼と一緒に暮らすことを拒んだため、セワシによって「のび太を幸せにするまで帰れない」という命令を入力されたものである。そして、ひとたびドラえもんが「未来に帰りたい」といった反動ワードを口に出そうものなら電気ショックが与えられるというプログラムなのである。このために、ドラえもんのび太としぶしぶ暮らしはじめるという展開なのだが……。これ、ほんとに必要か?

まず端的に申し上げれば、人それぞれ様々な思い入れがあるであろうドラえもんに対して、なんとなれば「テメェはただの機械/オモチャだ」といわんばかりで、はなはだ不快である。これは『くまのプーさん』において、クリストファー・ロビンがプーに向かって「テメェはただのぬいぐるみだから」とわざわざ宣言するようなものではなかろうか*12

というか、本作のオーピニングでのセワシドラえもんに対する言動は、誰かにものを頼むときの態度として最悪ではないか。誰かにものを頼むときは、人の弱みに付け込んで、あるいは生命財産を担保に取り上げて脅迫まがいにすればいいんだ──って子どもたちが思ったらどうするんだよ! いくらなんでも教育上悪すぎるだろ!*13



ただ、よろしい、100歩譲って「成し遂げプログラム」なるものを新たに設定したとして、これを物語の起伏に活かそうとする気配がまったくないのは、どういうことか。たとえば、この設定がドラえもんに与えた「のび太としぶしぶ暮らし始める」件が発動する物語的なフックとしては、当初は反目しあっていたのび太ドラえもんが次第に友情を育む──といった、「バディもの」としての側面をこれまで以上に流動的に持ち込めそうなものだが、この映画はそれを一切しない。最初に台詞でぶうたれるだけで、その後は最後まで、ドラえもんのび太に対して協力的なまま、愚痴のひとつもこぼさない。

あるいは、クライマックスにおいてドラえもんが未来に帰らざるを得ない状況を作り出すエクスキューズだといえるかもしれない。しかし、のび太の「幸せ」が確定されると、今度は未来に強制的に帰らなければならないプログラムに変貌するという、一方的なつくり手の都合が押し付けられるばかりの後出しジャンケン的な追加設定に、どれほどの説得力があるのか。そういうことは冒頭で“タイムリミット”ととして描写しておかないと、サスペンスの用を成さないし、べつに「成し遂げプログラム」なんてものをわざわざ引き合いに出さなくても、セワシから「未来に帰ってこい」と電話が来るとか、それこそ「ドラちゃんにはドラちゃんのつごうがあるのよ」という台詞ひと言で事足りることではないか。

このように、いかなる有用性をもこの新設定に見出せない以上、これははっきりいって改悪にほかならないだろう。



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しかし、それ以上に問題なのは、本作が「『ドラえもん』のはじまりと終わりの物語」と謳いながら、作り手にその気がないのが、ありありと見える点だ。「はじまりと終わりの物語」と銘打った以上、これは本作が1本の映画として独立したものであることの宣言であるはずなのに、そうなっていないのである。

皆さんご存知のとおり『ドラえもん』という作品群は、短篇・大長編にせよ、お話ごとに物語内の出来事がリセットされる、いわゆるレギュラー・ドラマの構造を基本的なものとする。しかし一方で、ドラえもんが未来の国からやって来て歴史を変え、やがて未来へ帰る*14──というストーリー・ドラマとしての構造も持ち合わせている。

このように、レギュラー・ドラマ部分で膨大な話数をかけて描かれた様々な秘密道具やキャラクター設定の積み重ねと、それを取り囲む大まかな物語世界の歴史の流れを、われわれはいわゆる「ドラえもん」の世界観として理解している。



そして本作は、この「皆さんご存知」に、積極的に寄りかかり続ける。それはもう、序盤、現在にやってきたドラえもんのび太たちの日常に溶け込むまでの、あまりにおざなりな描写からして徹底している。いきなり、ドラえもんを何の説明もなしに皆が受け入れるのは原作がそうだからといってしまえば無論それまでだが、1本の映画として独立させるなら、もう少しやりようがあったのではないか。たとえば、本作が映画の導入として使う尺の半分以下でありながら、ものの見事に“生きたクマのぬいぐるみ”を実在させてしまった大傑作『テッド』(セス・マクファーレン監督、2012)のオープニングの手際のよさを思い出そう。

それに、キャラクターの設定に関する描写を皆さんご存知と省いた結果、本作の本筋のひとつであるのび太の成長物語としても、説得力が失われている。本作のタイトルがわざわざ『STAND BY ME』となっている以上、どうしたってスティーヴン・キング原作の映画『スタンド・バイ・ミー』(ロブ・ライナー監督、1984)を思い出さずにはいられない。この映画は、少年たちがひと夏の冒険の果てに成長し、子ども時代に別れを告げるという傑作だが、その要素は、本作に微塵も感じられない。

本作ののび太は、基にした原作エピソードの偏りもあって、しばしば彼の魅力として描かれる、他人へのやさしさを示すエピソードはひとつもなく、基本的に「しずちゃんと結婚したい」という、彼の自分本位な側面ばかりが繰り返し強調されている。映画後半、「のび太結婚前夜」にあたる部分で、結婚を思いとどまろうとするしずちゃんに対し、彼女の父がのび太について「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それが人間にとってだいじなことなんだからね*15」と評価を与える台詞があるものの、その台詞*16を証明するエピソードが映画に一切登場しない*17ので、その台詞ばかりが空しく響くばかりだ*18。膨大な「ドラえもん」のなかの1篇として、原作漫画なりを読んだり観たりするのと、1本の独立した映画として観るのとでは意味がまったく異なることを、作り手はもっと意識しなければならなかったはずだ。



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このように、のび太が彼の真の魅力を発揮することもなく、前述のようにドラえもんと対立することもなく、ただただ記号としての「泣かせ」場面だけが数珠繋ぎにされた本作は、結果として、のび太が単に甘やかされるふうにしか見えないのである。さらに輪をかけて、本作に「終わり」がないことが、これを強調する。すなわち「帰ってきたドラえもん」である。

極論でもなんでもなく、僕は本作において「帰ってきたドラえもん」パートは蛇足にしかなっていないと考える。「はじまりと終わりの物語」を謳う以上は、そして映画中盤において大人になったしずちゃんのび太に「ドラちゃんはいまごろどうしているかしら」「ドラえもんは子どものころの友だちだから」と、ドラえもんがやがて去ることを物語的に匂わせている以上は、ひとまず本作においては「ドラえもん」を本当に──もともとの原作「さようならドラえもん」がそうであったように──終わらせるべきだったはずだ。

そして、のび太の成長物語としても、ドラえもんが本当に未来に帰ってしまう喪失を経ることで、のび太の未来がはじめて開かれるのではないか。実際、ドラえもんが帰ってきた夕暮れ時のラスト・ショットは、のび太の部屋の窓越しに、外からふたりを映すという、なんとも閉じた世界そのものだったではないか……。『くまのプーさん』の長編映画第1作(ウォルフガング・ライザーマン、ジョン・ラウンズベリー監督、1977)でラストに追加された、クリストファー・ロビンがプーに別れを告げる場面のような、『スタンド・バイ・ミー』で大人になった主人公が家の外で彼の子どもたちと触れ合う様子を映したラスト・ショットのような、ほろ苦くも未来に向けられた視点は、本作にはないのだ。



要するに本作の後半30分は、1本の映画としての物語的なまとまりや倫理をかなぐり捨てて、「のび太結婚前夜」、「さようならドラえもん」、そして「帰ってきたドラえもん」という「泣けるエピソード」を無節操に並べ立てて「どうですか、泣けるでしょう?」としたり顔で観客に押し付けているポルノにも等しい。商魂たくましく考えたとしても、「さようならドラえもん」で終わらせれば、史上はじめて本当にドラえもんを終わらせた映像化作品として、成し遂げプログラム以上の大きな話題になったろうし、続編を作りたければ「帰ってきたドラえもん」からスタートすれば、よっぽど無理なく第2作を開幕させられたはずだ。



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いろいろグダグダと否定的なことばかり書き連ねてきたけれど、ないものねだりといってしまえばそれまでだし、実際に本作をご覧になって感動されている方もおられるのだから世間的にはそれよいのだろうけれど、CG映像の出来という見栄えという最低ラインはクリアしているだけに、もうちょっとなんらかのやりようはなかったのかと残念な気持ちに打ちひしがれた。ほんとうにそれだけなんだもの。

基本的に子どもが観る映画に、なにをそんなに目くじらを立てて、と思われる方があるかもしれない。しかし、子どもたちが観る映画こそ、その完成度や楽しさ、物語内の倫理など、きちんとしなければならないし、それを作る大人たちの責任は重大だと僕は考えるものである。子ども騙しではいけない。それは、藤子・F・不二雄が彼の作品で重要視したもののひとつではなかったか*19

結局のところ、山崎貴監督の第1作『ジュブナイル』のほうが、よっぽど『スタンド・バイ・ミー』で『ドラえもん』なので、こちらがおススメです。


※一部、加筆しました。2014年8月26日。

*1:ちなみに、賛否両論あった大山のぶ代から水田わさびへ、といったキャスト一新についても「これはこれでありなのでは」という具合に──もちろん、旧キャストに永年親しんできただけに、違和感がないといえば嘘になるけれど──軟着陸したものである。

*2:さらに、どちらかといえば『ジュブナイル』が好き。僕は山下達郎のファンなのだけれど、それはこの映画の主題歌を彼が歌っているのがきっかけだった。

*3:むしろ、たとえば渥美清=寅さんの『男はつらいよ』シリーズ(1969-1995)を全部観切るくらいには、人情喜劇も好きである。

*4:これを補うためにさらに直截な感情説明台詞を追加する、換喩が換喩を呼ぶ無限ループに陥っていると思う。

*5:また、ライムスター宇多丸が「アツイ! ヤバイ! 間違いない! 山崎メソッド」と激賞する──むろん皮肉表現──英語タイトルに日本語サブタイトルを付すスタイルも公式にはここからだ(厳密には『ジュブナイル』は、それに加えて“BOYS MEET THE FUTURE”と表示されるのだけど)。

*6:全体の物語やキャラクターの設定は、ドラえもんのそれを現代風にアレンジしたものだし、この映画がラストに語る大オチは「ドラえもんの最終回」としてファンが作った非公式ストーリーのひとつが原案である。

*7:岡田斗司夫あたりなんかは「動画の枚数的に『ドラえもん』はあんなにヌルヌル動かん」とかいいそうではあるが(想像)。

*8:「未来の国からはるばると」、その他「ガリバートンネル」など秘密道具を次々に見せる日常パート。

*9:「たまごの中のしずちゃん」、「しずちゃんさようなら」、「雪山のロマンス」、そして「のび太結婚前夜」。

*10:「さようなら、ドラえもん」、「帰ってきたドラえもん」。

*11:のび太がこの台詞をいうのは、発展した未来都市をのび太ドラえもんタケコプターで縦横無尽に駆け抜けるというシーンだが、ここは明らかに『WALL-E/ウォーリー』(アンドリュー・スタントン監督、2008)のなかで、巨大宇宙船のなかを小型ロボットのウォーリーが走り回るシーンを参考にしたと見受けられる。また、ドラえもんのタイムマシンには、どうもHAL-9000型コンピュータ──もとは『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)に登場する、赤い明かりの灯るカメラ・アイが特徴的なコンピュータだが、『WALL-E/ウォーリー』では、重要な役割を演じるコンピュータAUTOに搭載されているという設定がある──が搭載されているらしく、これ見よがしに画面に映ったりするのだがのだが、『WALL-E/ウォーリー』をパクるのならば、そういったアクションやデザインといった表層的な部分ばかりでなく、むしろ『WALL-E/ウォーリー』の魅力の核心であった必要最低限以下の台詞で物語を豊穣に語るその手腕をこそ見習うべきではないか。

*12:同様に、スタッフロールのNGシーン集もどうだろう。作品の虚構性をこれでもかと露呈させるのは、本作においては逆効果だと思うし、ピクサーでさえ、これをしなくなって久しいのにいまだにやるかな。というか、ここで描かれる秘密道具の使用失敗例は、本編よりもむしろ原作にあった道具の一長一短性を描いていたのが皮肉だ。

*13:海水魚のポニョを淡水に入れるどころの話じゃないよ!

*14:これは、エピソードのあるなし以前に、大人になったのび太のそばにドラえもんがいないことで示唆されている。

*15:台詞は、原作に準拠しました。

*16:また、ドラえもんの台詞にも、「君のやさしさが未来を変えたんだ」という旨のものがあるが、これも同じである。

*17:同じく「のび太結婚前夜」が1999年に劇場用短篇アニメーションとして映画化された際には、30分の短篇にもかかわらず、原作にはない、のび太の真の魅力を描くエピソードを挿入し、1作でもある程度独立した強度を持ったものになっている(渡辺歩監督)。

*18:というか本作のなかで、しずちゃんの父の台詞を真に体現しているのは、ほかならぬしずちゃんである。本作でのび太のエピソードが重なれば重なるほど、しずちゃんの聖人君子ぶりが際立つのは、なんとも皮肉である。

*19:僕に子どもはないけれど、自分の子どもには絶対に観せたくないよ、こんな映画。