『イントゥ・ザ・ストーム』感想

スティーヴン・クエイル監督。アメリカ中西部の街シルバートン。この日、ゲイリーが教頭を務める高校では卒業式が行われようとしていた。一方、竜巻の撮影に執念を燃やすピート率いる竜巻ハンター・チームに雇われていた気象学者アリソンは、シルバートンの気象状況にかつてない巨大竜巻出現の可能性を見出した。さっそく一行は、特別仕様の装甲車を駆って現地へと向かう。そんな中、ついに想像を絶する巨大竜巻が発生し、シルバートンの街を襲う。卒業式を中断し、避難する生徒や父兄の誘導に追われるゲイリー。しかし、そこにいるはずの息子ドニーの姿がないことに気づくが……。



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まずなによりも、竜巻の映像が凄い。神出鬼没に現れては納屋を吹き上げ、炎を巻き上げ、人を吸い上げ、街の建物を飲み込み、あげくジャンボ旅客機を何台もたんぽぽの綿毛のように弄(もてあそ)んでしまう巨大竜巻の映像は恐ろしく圧巻だ。というか、ただただ怖い。

それから音響効果の激しいこと激しいこと。映画では小さな竜巻から超巨大な竜巻まで段階を追って登場して暴れまわるが、最初の1手から──

ギャリギャリギャリ!
ズドドドドドド!!
バルバルバル!!!

──と、観ながらその音圧に吹き飛ばされるのじゃないかと思うくらいの迫力の大音量で展開。89分の上映時間にギュッと詰め込まれた、この体験だけで、チケット代のもとは取れるというものだ。さすが、ジェームズ・キャメロンの弟子筋にあたるスティーヴン・クエイルの面目躍如といったところか。


ただ、欲をいえば、もうすこしドラマ・パートの脚本と演出がなんとかならなかったのか。とくに、カメラワークだ。



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本作は、いわゆる劇映画のカメラワーク──目に見えないカメラがどこからともなく撮影──ではなく、実際に画面内の登場人物たちが回したカメラで撮影された映像を繋ぎ合わせて描かれる。しかし、これがいわゆるファウンド・フッテージものに特有な、1台(ひとつのグループ)のみで撮られた映像ではなく、様々な人物がたまたま持ち合わせた何台ものカメラ/幾重にも渡る視点によって描かれるのが、本作の特徴だ。

まず、竜巻の映像を納めるべくアメリカ中を旅する竜巻ハンター・チーム(ハンディ3台、固定7〜8台)、バカなチャレンジを映してyoutubeの再生数獲得を目指すジャッカス・チーム(1台)、地元の高校の卒業式に集った生徒と式を映すために設置されたカメラ(無数)、そして童貞を卒業したいばっかりに学年イチの美少女に付いて町の廃工場の撮影に出かける主人公(2台)、その他マスコミのヘリ、監視カメラ──などなど、示し合わせてかのようにいたるところにカメラがあるのだ。

寡聞にして、ファウンド・フッテージ・スタイルの映画においてこれほどのカメラ=視点が登場するものは観たことがないし、新鮮だとも思うのだけど、ちょっといくらなんでもカメラが多過ぎではないか。たしかに、ファウンド・フッテージものでよく揶揄されるのが、カメラマンの有り余る野次馬精神──なにがなんでも撮り続ける──は解消されたように思えなくもない。しかし最終的に、このショットは誰が撮っているのかがひどく曖昧になっており、むしろこのカメラマンは誰なのかが気になってしまう。さらには、ちょくちょく“神視点”の映像が差し挟まれているのはファウンド・フッテージとしても禁じ手ではなかろうか。



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これならいっそ、普通に劇映画として撮って、ときおりキャラクターが持つカメラ視点の映像を差し挟むほうが効果的ではなかったか。あるいは、脚本をもっと絞って竜巻ハンターのみのファウンド・フッテージにするなどしたほうが、よほどすっきりしたはずである。

というわけで、第2弾を作る際にはぜひとも日本は北海道から鈴井貴之大泉洋藤村忠寿嬉野雅道の4人を登板し、『竜巻どうでしょう/アメリカ大陸横断リベンジ』として公開していただきたいものである(冗談)。

とはいえ、竜巻災害描写における圧巻の迫力と、なにより恐ろしさは、大画面&大音響のなかでこそ如実に体験できると思うので、興味のある方はぜひ劇場でご覧ください。