2014年鑑賞映画 感想リスト/131-140

パラダイム』……ジョン・カーペンター監督。とある古びた教会に呼び集められた科学者たちは、その地下に永らく封印されていた“闇の皇子”の力によって、ひとりずつ正気を失っていくが──人知を超えた怪異現象に科学で挑むオカルト・ホラー。いわゆるオカルト現象に科学で挑むのは『ヘルハウス』(ジョン・ハフ監督、1973)なんかを連想するけれど、本作の敵対者はド直球の“彼”。まさに人類滅亡の危機が間近に迫るストーリーながら、ちょっとどうかと思うくらい画面が地味でのんびりしているのが微笑ましい。とはいえ、彼の力を示すちょっとした反重力表現や、彼に憑依されて全身焼け爛れたような姿になる女性の特殊メイクなど、画的な見所が多いのが楽しい。また、司祭が「聖書の記述は、セールス目的の嘘八百です」とサラリと宗教批判してみたり、オカルト要素のみならずSF要素──タキオン素粒子!──をも組み込んだ脚本も秀逸で、非常に尾を引く結末の余韻が素晴らしい。いや、ほんと地味は地味なんだけど……。


『スクリーム』……ウェス・クレイヴン監督。田舎町で高校生を狙った猟奇殺人が発生、被害者と同じ高校に通うシドニーは、1年前に母を殺害された事件を思い出して不安にかられるが、ある夜、ついに彼女のもとに殺人鬼からの電話が鳴った──メタ的ブラック・コメディ要素も含んだホラー映画。というわけで、ようやっと鑑賞。主人公であるティーン・エイジャーたちが既に多くのホラー、スプラッターといったジャンル映画を見知っている世界、つまり猟奇殺人鬼がポップ・アイコンとなっている世界においてなお、ポップな猟奇殺人鬼が存在しえるか、という思考実験が面白い。画面の向こう側のキャラクターたちが、映画を観ているわれわれと同様に、ジャンルの“お約束”を知りながらそれに巻き込まれてゆくので、馬鹿らしくもその没入感がものすごい。いわゆる「志村うしろ、うしろ!」的サスペンスをここまで見事に使い切った映画ははじめて観たよ!


『スノーピアサー』……ポン・ジュノ監督。世界が氷河期に陥った近未来、人類は走り続ける大陸循環特急「スノーピアサー」車内で、極度の格差社会のなかでわずかに生き長らえていたが、貧困層車両では革命の気運が高まっていた──グラフィックノベル“Le Transperceneige”を原作としたSF作品。物語は、貧困層が暮らす後部車両に押し込められてきた青年カーティスが、民衆を率いて富裕層の暮らす先頭車両を目指すという文字通り1本道。もちろん、SF設定としての突っ込みどころは山のようにあるが、そこはそれ、カーティスたちが列車の連結部を過ぎるごとに表情を変える多彩な車両内のヴィジュアル・イメージの数々は、ポン・ジュノ映画らしい社会に対する痛烈な風刺に満ち満ちていて飽きるところを知らない。とくに素晴らしかったのが、富裕層の子供向け小学校車両。スノーピアサーを讃える教育勅語を、子どもたちが「お母さんといっしょ」よろしく女教師のプンカプンカと弾き鳴らすオルガンの音色に合わせて無邪気に歌い踊る姿は凶悪だ。また、この子どもたちや女教師を含め、カーティスや彼の弟分の青年、彼らを導く貧困層の主導者、富裕層側に立つ用心棒やスノーピアサーの首相などなど、ありとあらゆるキャラクターの立ちっぷりが素晴らしい。一瞬しか映らない群集ひとりひとりに至るまで拘られたキャスティングの的確さは文句のつけようもない。ラストに明かされる冪乗則(べきじょうそく)的世界の仕組みや、乗り物パニックとしても外さない展開まで見逃せない傑作だった。


『彼女はパートタイムトラベラー』……コリン・トレヴォロウ監督。雑誌社の見習い記者ダリアスは、あるとき新聞に掲載された「タイムトラベルの同行者求む」という求人広告の主ケネスに取材を申し込むが──サンダンス映画祭脚本賞インディペンデント・スピリット賞新人脚本賞などを受賞したコメディ。いい意味でタイトルに裏切られた。てっきりタイムトラベルSFを前面に出した作品かと思っていたら、むしろ人間ドラマのほうがメインで、SF色はほとんどない。あえてSFで近しいものを挙げれば、藤子・F・不二雄の短篇「あいつのタイムマシン」(1979)の雰囲気に似ているかな、ぐらい。本編では、主人公ダリアスをはじめ、先輩記者ジェフや、同僚の青年アーナウ、タイムマシンを作っているというケネスら様々なキャラクターがそれぞれの時間と向き合ってゆく。未来が見えないダリアス、過去にすがるジェフ、いまに留まろうとするアーナウ、いまを必死に生きるケネス──そんな彼らを見ていると、すこし元気がもらえたような気持ちがする。作劇や演出がおぼつかなかったり、オチにもうひと捻りあればよりSFとしても面白かったろうに、というつたなさはあるが、清々しい1作だった。


『トガニ 幼き瞳の告発』……ファン・ドンヒョク監督。霧に包まれた町の聾学校に美術教師として赴任したカン・イノは、そこで行われていた児童への性的虐待に直面し、校長ら関係者を告発するが──2000年から2005年にかけて実際に起こった光州インファ学校の児童性的虐待事件をもとにしたコン・ジヨンの同名小説を映画化した社会派サスペンス。誤解を恐れずにいえば、ひとつの劇映画として、エンタテインメントとして本作は非常に面白い。観客をぐいぐい引き込む演出と脚本のキレのよさ、キム・ジヨンによる撮影の美しさは見事で、それゆえに事件の悲惨さや陰惨さを観客に力強く伝えてくれる。原作小説が、そして映画が作られた理由の第一が、社会の関心を呼ばなかったこの事件を知らしめることにあったという。本作の影響によって韓国では法改正が行われたり、加害者の再審があったりしたのだから、本作は見事にその高い志を全うしたといえるだろう。本作がこのような高い一般性を持ち得たのは、主人公カン・イノのキャラクター描写によるところも大きい。彼は事件を目の前にして苦悩し続ける。高い理想にまい進して善い社会を実現するのか、それとも長い物に巻かれてうまく世を渡り家族を守るのか──彼はそういった様々な価値観に晒されては悩む受身がちな青年だ。その姿は、映画を観るわれわれひとりひとりにほかならない。それでも彼は、ひとつひとつ唇をかみ締めながら選択してゆく。その姿は、いかに正義に向き合うべきかの一端を垣間見させてくれる。彼のように気高く生きたいと心から思う。


ヒッチコック』……サーシャ・カバシ監督。1960年に封切られることになる『サイコ』製作の舞台裏を、サスペンスの神様アルフレッド・ヒッチコックとその妻アルマの姿を通して描く描く。とはいえ、本作が忠実に歴史を追っているばかりかといえばそうではなく、ものの本や解説によるとフィクション部分──たとえば、アルマの不倫未遂──も多い。本作の冒頭とラストに、アンソニー・パーキンス演じるヒッチコックが観客に向かって本作そのものの解説をしてみせる『ヒッチコック劇場』的な構造を持っているのは、おそらくこれを示すためであるだろう。だから映画史そのものよりもむしろ、『サイコ』製作の裏側をモデルにして、ヒッチコックが内に持っていた様々な妄執や狂気、引いては映画製作あるいは芸術そのものが持っているそれを描き出そうとしたのが本当ではないか。ヒッチコック映画理解の一助に最適な作品だ。


『スーパー!』……ジェームズ・ガン監督。愛する妻を町のドラッグ・ディーラーに奪われ絶望の淵に沈んだフランクは、あるとき体験した神の啓示に従って自前のコスチュームでヒーロー“クリムゾン・ボルト”に変身、町の悪漢をぶちのめしてゆくが──。フランクがクリムゾン・ボルトに変身し、町に蔓延る悪──麻薬を売るチンピラから行列に割り込む男女まで──をレンチで叩きのめしてゆく様子は、前半に描かれるフランクの冴えなさ具合とあいまって、非常に溜飲が下がる。しかしいっぽうで、彼の正義が生む暴力の結果──たとえば、レンチで額を殴ればどうなるか──も躊躇なくまざまざと見せつけるバランス感覚が素晴らしい。コメディだからこそ出来たであろう正負ない交ぜ感に、フランクと同様に引き裂かれそうになる。正義とは何かという問いを、本作は観客にグイと突きつける。あるいはそんなものはフランクが見たヴィジョンのようにまやかしかもしれないが、しかし、列に割り込まないくらいのことは自発的にやりましょうよ、ね。ところで、下手ウマなアニメーションで描かれるオープニング・クレジットの不思議な多幸感たるや!


『エイリアン・ネイション』……グレアム・ベイカー監督。異星人が“新移民”として暮らす’90年代ロサンゼルス、相棒を新移民の強盗に殺されたデカ長サイクスは、新たにコンビを組んだ新移民ジョージとともに、事件を捜査するが──SF仕立ての刑事アクション。新移民の設定をあれもこれもと描こうとせず、あくまで刑事モノの型に則ったことで、そのぶんサイクスとジョージが織り成す言語、食べ物などの異文化ギャップ・コメディがより際立って楽しめるものになっている。好ましいのは、ふたりが互いの文化を理解できないこと理解してゆくところだ。相互理解とは口には易い──ふたりの周りの人物たちを思い出そう──が、まずもってこの前段階こそが最も重要で難しいことをよくよく思い出させてくれる。バディものの常として、ラストには両者を繋ぐアツい絆が描かれるものだが、本作にもこれは健在。新移民は体質上、人間にはなんともないある物質が劇薬同様の効果を発揮するが、それを厭わずサイクスを救おうとするジョージの漢(おとこぎ)気もアツい。カーチェイスでは安心と信頼のセカンド・ストリート・トンネルも登場し、雰囲気を盛り上げる。おススメの1作だ。


『ピサジ 悪霊の棲む家』……マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル監督・脚本。強盗に両親を惨殺された少女ウイは、甥っ子アームの子守を条件に、伯母が経営する工場兼住居に住み始めるが、夜な夜な不気味な影と足音が聞こえはじめ──タイ発幽霊ホラー。観よう観ようと思って幾星霜、ようやっと観賞(もちろん目当ては主演のプワマーリー・ヨートガモンですよ、悪しからず)。やはりお国柄なのか、前半の妙にのんびりした工場での四方山話シーンとか、ウイとアームのヘルパーとなるチョイ悪あんちゃんが辿る絶妙に歯がゆい展開──サックヴィーラクル監督は『チョコレート・ファイター』(プラッチャヤー・ピンゲーオ監督、2008)の脚本を担当したようで、してみるとなるほど納得ではある──とか、なんだか不思議な印象が残る作品だった。とはいえ、両親の死にトラウマを抱えたウイは薬の服用なくしては幻覚が見えてしまうために目の前の幽霊が果たして本物かどうか判らない、という発想を活かしたクライマックスは焦燥感があってなかなかよかったし、彼女らをこれでもかとグルグル取り囲むラップ音もサラウンドをガンガンに利かして臨場感満点(劇場/5.1chであればさぞかし効果てき面だったろう)。一部、カメラワークのせいで状況が捉えにくかったり、脚本が空中分解している感は拭えないが、ラストまで引っ張ってくれるだけの力があるので、許容範囲だろう。


『ワールズ・エンド 酔っ払いが世界を救う!』……エドガー・ライト監督。伝説の梯子酒を達成するために20年ぶりに再会し、パブ「The World’s End」を目指すために故郷へと戻ってきたかつての不良5人組だったが、彼らはパブを梯子しながら、町の様子がなにやら奇妙なことに気づく──エドガー・ライト監督×サイモン・ペッグニック・フロスト主演トリオが贈る『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004)、『ホット・ファズ−俺たちスーパーポリスメン!』(2007)に続く「コルネット3部作」の最終章。実は劇場に出かけたけれど、そのとき感想が書けなかったのです、という不要な前置きはさておき、本作は僕がいまさらいうべくもなく、様々な人が褒めているとおり非常に面白い作品なので是非とも観るべき。
▼ところで、本作は3部作の終章にして変化球を投げてきたように感じられた。とくにサイモン・ペッグの演じたゲイリー・キングのキャラクターが、前2作や『宇宙人ポール』(グレッグ・モットーラ監督、2011)でペッグが演じた人物とはちょっと様子が異なるからだ。これまでのペッグのキャラクターといえば、なんだかんだいってもマジメで、生まれてこのかた反抗などしたことないような男だった。しかし、本作で彼が演じたゲイリー・キングは、町の不良小僧がそのまま大人になったような男だ。僕は不良とかヤンキーという文化があまり好きではないし、そうなったこともないので、これまでのシリーズではじめてペッグに感情移入が出来なかった。
▼だからこれまでとは逆に、ゲイリーの奇行ぶりを「しょーがねえなァ、ヤレヤレ」とため息混じりに眺めるかつての親友アンディを演じたニック・フロストのほうにシンパシーを感じながら映画を観ていた。そんな彼が終盤、ゲイリーに「俺はずっとお前の破天荒さに憧れていたんだ!」と告白する台詞には、かなりドキリとした。個人的なことで恐縮だが、僕はこれまで反抗する機会がなく少年時代を終えた。良いか悪いかはともかくとして、反抗心はあってもそれを実行に移せなかった。それは、まわりが許さなかった以上に、自らそれを選びとったことだ。それでも、少年時代という反抗できるときにきちんと反抗していたゲイリーやアンディたちが心底うらやましく思えたことを、その台詞に見透かされたような気がしたのだ。
▼しかもゲイリーは、その反抗で世界とタイマンをはり、ついに勝利してみせる。本作に引用される「自由が欲しい。好きなことをやれる自由。酔っ払って騒いでやる。楽しむんだ。パーティだ」とは、『ワイルド・エンジェル』(ロジャー・コーマン監督、1966)でピーター・フォンダがいう台詞だ。ピーター・フォンダといえば、社会に反旗を翻して挑み、しかし社会にやがて圧殺されてゆくアメリカン・ニュー・シネマの作品群で多く主人公を演じたが、ゲイリーはそんなアメリカン・ニュー・シネマ的ヒーローをついに自力で乗り越えてみせたのではないか。「第2のアーサー王になる!」というゲイリーの自由に向けた反抗声明を、僕は憧憬の念をもって聞いた。
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