2015年鑑賞映画 感想リスト/1-10+α

悪霊島サウンド・リニューアル版〉』(1981)……篠田正浩監督。探偵・金田一耕助は失踪人の調査を依頼を受けて瀬戸内の刑部(おしかべ)島にやって来るが、そこで凄惨な殺人事件が起こる──主題歌と挿入歌にザ・ビートルズの「LET IT BE」と「GET BACK」を使用した映画版。
映画化がジョン・レノン殺害の直後だったことから、映画のつかみとしての時事ネタと、舞台となる1969年の世相描写のために使用されたものの、版権上の理由から、DVD化の際にどちらもカヴァー曲に差し替えられている。このため、どうしても演出意図からすると違和感が残るが、一方でなにもビートルズでなくてもよかったのでは、という気がしないでもない。なんというか「LET IT BE」の歌詞と本編とが、ことごとく噛み合ってないのじゃないかしらん。
それはそれとして、本作最大の見所は、とある重要なキャラクターを演じた岩下志麻。登場する多くの人物や相関の2面性が本作では重要なファクターとなってくるが、それを体現した鬼気迫る演技は必見だ。ところで、別のキャラクターではあるが、その机に折口信夫死者の書』、三島由紀夫奔馬』(『豊穣の海』シリーズの第2巻)が置かれているのが、重要な布石となっていて興味深い。



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八つ墓村』(1996)……市川崑監督。天涯孤独の身だった寺田辰也は「八つ墓村旧家の田治見家の血を引いているから戻って欲しい」との要請に従って村を訪れるが、村で謎の連続殺人事件が巻き起ころうとしていた──豊川悦司が探偵・金田一耕助を演じた映画化3作目。公開当時、本作の予告編──例のご乱心シーンでの鮮血ほとばしるショット──が恐ろしくてたまらなかった幼少期を経て20年弱、ようやっと鑑賞した。
原作小説にきれいにまとめあげたシナリオはさすがといったところ。ただ、どうも金田一の演技がかつて同じく市川版──『犬神家の一族』〜『病院坂の首縊りの家』──で金田一を演じた石坂浩二にあまりに引っ張られていて、豊川の佇まいや挙動と奇妙に食い合わせが悪いのが、どうしても気になってしまった。市川監督の演出がそれを指導したのか、あるいはトヨエツが意識し過ぎたのかはともかく、もっと違ったアプローチのほうがよかったのじゃないかしらん。



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『斬る』(1962)……三隅研次監督。敵の喉元に真っ直ぐに切っ先を向ける“三絃の構え”の使い手である小諸藩士の高倉信吾は、とある事件をきっかけに浪人となったのち、江戸で大目付・松平大炊頭に見初められ、彼の用心棒となるが──。
不思議な味わいの作品ではあるが、全編にピンと張り詰めた空気が美しい。たとえば、信吾が自ら考案した邪剣“三絃の構え”の、構えたその気圧だけで敵を負かすその迫力。互いに剣を構えたのちはピクリとも動かず、目線とその先を映すカットバックを重ねることで醸される緊張感が見事だ。時間経過が驚くほどスピーディな展開なこともあって、よりその静寂さに拍車がかかっている。じつは自身の出生には秘密があったことを知った信吾は、藩を去り流浪することとなるが、それ以前と以降での市川雷蔵の演じ分けもまた良い。後半での、因果な命運にある自身の死に場所を探しているかのような虚ろな佇まいや、松平とともに攘夷を促す水戸藩に向かうとあって「生きては帰れぬやも」と言われたときに一瞬見せる嬉しそうな表情など、目に焼きついて離れない。



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十三人の刺客』(1963)……工藤栄一監督。弘化元年9月、明石藩江戸家老間宮図書が老中土井大炊頭の門前で、藩主松平左兵衛斉韶の暴君ぶりを訴えて割腹したのを受けて、非常手段として御目付役島田新左衛門に斉韶暗殺を命じるが──実録タッチで描く集団抗争時代劇。
任務遂行のため、緻密に策を企てながら敵陣を掌中に密かに連れ込んでゆく前半部のスパイものもかくやのサスペンス描写や、クライマックスの13人対多勢の荒々しい戦いの迫力たるや圧巻。しかし、さらに印象的だったのはアクション・シーンに次いで描かれる2、3のシーンだ。敵将を討ち取り、任務が遂行されたことによって、それまでピンと張り詰めていた緊張の糸が敵味方ともにフッと切れる。その直後に描かれるキャラクターたちの悲壮というにはあまりに滑稽な顛末は、いかにこの戦いが壮絶であったかを力強く物語る。同時に、これが隠密行動であるがゆえの報われなさといった、暴力がもたらす虚無感をも含みこんだ見事な幕切れだ。



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『お嫁においで』(1966)……本多猪四郎監督。大造船会社の御曹司・須山保(加山雄三)は、あるとき出会ったホテルのウェイトレス露木昌子(沢井桂子)の清貧な魅力にぞっこんになるが、彼の恋のライバルにタクシー運転手の野呂高生(黒沢年男)があった──加山雄三の同名ヒット曲をもとにした歌謡映画。
でありながら物語の主人公はじつは昌子であり、貧しい暮らしのなかで不意に恋の鞘当て合戦に担ぎ出された彼女の葛藤をメインに据えているのが本作のおもしろいところ(だから、むしろ加山雄三の歌唱シーンがもっとも浮いているという不思議なバランスではある)。裕福で華麗な須山と、同じく貧乏だが真っ直ぐな野呂のあいだで揺れる昌子の姿を、ウィットな台詞と軽やかなコメディ演出で描いている。誰にも媚びることなく自分を曲げず、「嫌な女になりたくないから一生懸命考えたいのです」と幸福について真摯に思い悩み、またそれに向かって邁進する彼女のしゃんとした姿勢は、素敵に魅力的だ。本作と同じような話として、たとえば『麗しのサブリナ』(ビリー・ワイルダー監督、1954)を思い出したが、本作のほうがより力強い。また、嫌みったらしいボーイ長(加藤春哉)が繰り返し発するある言葉の変化や、保の祖父(笠智衆)の独特の間合いなど、端役にまで丁寧に施された演出が心地よい。



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『兄貴の恋人』(1968)……森谷四郎監督。実直な性格でよくモテる鉄平を兄に持つ節子は、兄貴がいつ取られるのかとヤキモキする毎日を送っていたが、あるとき鉄平の勤める商社にかつて勤めていた和子に心惹かれていることに気付いて──加山雄三が演じる兄におせっかいを焼きたがる“デコ助”な妹を内藤洋子が演じるという『お嫁においで』(本多猪四郎監督、1966)の姉妹編的な作品であるからか、こちらも実質的な主人公が加山雄三でないことがミソ。
本作では、加山の相手役ではなく、内藤演じるブラコンな妹・節子が主人公で、彼女が兄貴のために兄貴を諦めて恋のキューピット役を担うことに決めるところが見所。現在とはまったく異なる(はずの)OL描写など、当時のトレンディ感ほとばしる描写の数々もなかなかに興味深い。なんて観ていると、本筋とはズレたところで奇妙に肉感的な演出が突然差し挟まれることがあってびっくりする。楽しくも、不思議な味わいの作品だった。



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『ベニスに死す』(1971)……ルキノ・ヴィスコンティ監督。スランプに陥った老作曲家アッシェンバッハは静養のためにベニスを訪れるが、滞在先のホテルでふと見かけた少年タジオに理想の美を見出し、以来その姿を求めて彷徨うようになるが、街には疫病の影が忍び寄っていた──トーマス・マンによるマーラーをモデルとした同名小説の映画化。
アッセンバッハが立場や年齢、性別などを越えたところに、もはや諦めていた理想の美(と、彼が信じられるもの)を見出す展開が涙ぐましい。それは、タジオと言葉を交わすわけでもなく、ただ姿を求めて彷徨い、その姿をじっと見つめ、タジオからの偶然の一瞥からも心臓の鼓動を抑えられないアッシェンバッハの挙動ひとつひとつに現れる。彼の陥る心理に身に覚えのある方も多いことだろう。その一方で、自分にとっての理想の美にすがる姿が、傍から見るとどう映るのかも、本作は残酷にも映してしまう。それはあまりに滑稽でグロテスクでドロドロした気持ちの悪いものにしか見えない。どう見ても、どうかしている、としか思えない。しかし、理想の美を眺めながら、そしてそれが真であると信じながら彼が迎える最期は、心底うらやましいと思うものである。



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ローラーボール』(1976)……ノーマン・ジュイソン監督。6大企業の複合的な統治によってユートピアが実現された2018年、人々が熱狂するスポーツ“ローラーボール”のベテラン選手ジョナサンは、突然つきつけられた引退命令に歯向かおうとするが──架空のスポーツを主軸に描くSF。
ローラーボールという、対チーム戦で、ドーナツ状のフィールドを一方向にローラースケートで滑りながら、そこに投げ出された鉄球を奪い合い、ゴールに投げ入れることを目指す競技の見せ方が迫力満点で、観戦していてじつに面白い。物語としては、古代ローマに行われた闘技会をローラーボールに、そこで戦った剣闘士たちをジョナサンら選手たちに置き換えて描いていると思われるが、そこで彼らと世界を支配するのが国ではなく、企業とその重役たちであるのが興味深い。現代において小さな政府を──アメリカにおいては共和党政権が──極限まで目指したときに訪れる社会構造を寓話的に描いている。同様のディストピアを描いた作品は、ほかにも多々あるが、そういった想像力がいまでも有効であるのには、相変わらずゲンナリするところである。



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ホビット 決戦のゆくえ』(2014)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150119/1421658495



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攻殻機動隊 ARISE/border 3: Ghost Tears』(2014)……黄瀬和哉監督。大企業ビルや政府要人、山の手のダムなどを狙った爆破テロが頻発するなか、捜査線上に浮かんできたのはかつて草薙が殺したはずのテロリスト“スクラサス”の名前だった──士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』をベースに、草薙が公安9課を設立するまでの前日譚を描く新シリーズ第3作。
物語の主軸に草薙の恋愛が絡んでくることもあって、どちらかといえば、原作漫画に近い雰囲気を味わえるだろう。原作よりも格段にリアリスティックな画風で、原作同様のコミックリリーフを演じさせられるバトーの姿は楽しいし、また原作とは逆に正装し慣れていない感に溢れる草薙のドレス姿もキャラクター・デザインの妙だ。ただ、ある物語上の展開によって、アニメではなかなか避けて通れない衣服の“一張羅問題”が悪い意味ですごく目立っているのが残念。



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OVAKEY THE METAL IDOL』(1994-1997)……佐藤博暉監督。自らをロボット「キィ」だという少女・巳真兎季子は、祖父と山間の村で静かに暮らしていたが、突然死去した祖父の「お前が本当の“人間”になれるよう3万人の友達を集めなさい」という遺言を実行するべく上京。彼女は、そこで幼馴染の厨川さくらと再会する。しかし、その裏でキィを狙う謎の影の姿があった──不可思議な少女キィに秘められた謎を軸に描く、伝奇SF風味のOVAシリーズ(全15話)。
これまで忘れようとして思い出せなかった、いわゆる僕のトラウマ・アニメ。幼少期に、NHK-BS2(当時)で夏休み等のアニメ特番内で順次放送されていたのをなにも知らずに、しかも飛び飛びで見かけて、強烈な印象を残していたのが本作だったことが、いまさら判明したわけだ。改めてきちんと観てみると、SFやオカルトめいたそのジャンルや、機械(=ロボット/サイボーグ/人形)と人間(=肉体)の境が曖昧になっていく展開や精緻な作画、超能力、謎めいたロボットのようなヒロイン像などなど、やがて僕がどっぷりと好んで浸かることになる嗜好──とくに漫画・アニメにおける──の要素がアレもコレもあって、なんだか原光景を見るようで空恐ろしくなった(いかに子ども時代が後に影響するか!)。もちろん、それゆえに今回しっかり楽しめたのも事実。
懐かしの'90年代画風──しかも舞台が'90年代当時なのでその風物的な意味おいても──の作画は、背景美術とともに安定して美しいし、謎が謎を呼ぶクリフハンガー的作劇の妙も相まってグイグイこちらを引き込んでくれる。だが、制作上の問題からラストの2話だけ尺が90分あるという変則的な構成となっており、かつ当初の予定よりも数話分の尺を全体から間引いたために、回収し切れていない伏線があったりなんかして尻すぼみな感は否めない。とくに第14話は、3人の語り手が代わる代わる作品の前日端という名の“設定”をひたすら喋るだけ、という拷問のような出来で正直キツかった。むしろ、そういう設定描写はサラリと流して、第15話をもっと拡げたほうがよかったのじゃないかしらん。ほかに印象的だったのは、稀代の若手演出家・吊木光を演じた三木眞一郎の声音に満ちる狂気か。なんにせよ、トラウマをひとつ解消したわけなので、少しはゆっくり寝られるといいなぁ。