アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ 感想マラソン

TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱(第1期)』(2006)……石原立也監督。「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい」と豪語する涼宮ハルヒとクラスメイトになった一介の男子高校生キョンは、彼女に押し切られるかたちで「SOS団*1」の結成に参加。かくしてキョンは、長門有希朝比奈みくる古泉一樹*2のひと癖もふた癖もある団員とともに、ハルヒの望むがままに世界の不思議を探して回るが、やがて思いもよらない世界の真理に触れることになる──谷川流による同名ライトノベルシリーズを京都アニメーションの制作でテレビアニメ化(全14話)。


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まったくもって今更ながらに鑑賞。本作がたいへんなブームとなったのは知っていたけれど、実際に観てみて「なるほど」と頷くことしきり。テンポのいい作劇と、美麗な作画やアクションといったアニメーションとしての楽しさはもちろんのこと、その独特の世界観を一手に担う「涼宮ハルヒ」のキャラが強烈だ(それゆえにある種の恐怖感を覚えたことは、ここではひとまず置く)。

本作では、全世界が文字どおりハルヒを中心にして回っている(或いは、回すことをキョンたちは目的としている)。かつて斎藤環が『ダ・ヴィンチ(2011年7月号)』誌上で、様々な世界──宇宙人や未来人、超能力者──が同時に成立する世界観の中で、ハルヒが彼女にあてがわれた設定上「世界の同一性を保つ存在」ゆえに強いキャラクターになり得たと指摘しているように、物語の起承転結からディテールに至るまで、ありとあらゆるセンテンスはハルヒに端を発し、また帰着する。そして、もしハルヒがその位置から少しでも外れようものなら、世界そのものが彼女の無意識によって崩壊するという設定には舌を巻いた。

いうなれば、ハルヒデウス・エクス・マキナそのものであり──だから、キョンたちがまるでゴドーを待つように語り合うハルヒ不在のシーンが多いのは、ゆえなきことではない──、これをヒロインに据えて成功したことは本当にひとつの発明──再生産の無限性という商業的意味においても──だったのだなと納得した。


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僕は本作の各話をソフトに収録された劇中の時系列順に観たけれど、なんの説明もなしに時系列をシャッフルしたテレビ放映順で観たならば、よりハルヒのずば抜けたキャラの強さを目の当たりにしたのだろうなぁ。SOS団が自主制作した映画の本編「朝比奈ミクルの冒険 Episode 00」を初回に放送したというのだから驚き。Microsoft GS音源でかき鳴らされる劇伴がなんともいえぬ味わいだ。



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TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱(第2期)』(2009)……石原立也監督*3。夏休みも終りに近づいた8月17日、キョンたちSOS団は「残りの夏休みを全力で遊ぶ」というハルヒの計画を聞かされる。その後、毎日のように涼宮ハルヒの望むままに様々な遊びに出かけるキョンたちだったが、あるとき「世界が8月17日から31日までの2週間を延々ループしている」という事実が発覚する──谷川流による同名シリーズから、第1期のエピソードに夏から秋にかけての時系列を補填する3エピソードをテレビアニメ化した第2期(全14話)*4


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ループし続ける夏休みを表現するために、同様のエピソードを8週に渡って放送して物議を醸した「エンドレスエイト」を実際に観てみたいというのが、いきなり『ハルヒ』を観だした理由のひとつ。それはともかくとして、実験としての「エンドレスエイト」はたいへん面白い。同じ脚本を用いながら、キャラクターの衣装、台詞の語義やニュアンス、画コンテの切り方に至るまでが、各話ですべて微妙に異なっているなど、普段夢想するあり得たかもしれない別バージョンを一気に観られたようで興味深い。

とはいえ、いくらなんでも8回は長過ぎ。もちろん前述のとおり、各話の見た目や演出の違いはかなりあるので、『ブレードランナー』全バージョンをハシゴするよりはいいだろうが、それでもどんなに話数を重ねるにしても最大4回がいいとこだ。アイディアの面白さとエンタテインメントの面白さとのバランスがちょっと悪かったのが残念なところである。


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それにしても、今回はじめて本シリーズを第1期、第2期ととおして観ていちばん驚いたのが、本編を観るのがひどく辛かったことだ。

話がつまらないとか、「エンドレスエイト」が冗長だというのではない。そうではなく、劇中の世界観がひどく歪んだものに見えてしまったからだ。その理由は、劇中の世界観設定と同じく、涼宮ハルヒに集約される(ここからが先に置いた話)。


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本作の複雑で重層的な世界観設定や、それをつまびらかにする展開などはたしかに楽しいが、彼女を中心として主人公キョンたちが置かれている状況そのものは──少なくとも僕にとっては──ユートピアでもなんでもなかった。本作の、涼宮ハルヒの望みは必ず叶えられなければならず、そのためにキョンたちが粛々と彼女に従い続けなければならないという状況は──でないとハルヒの無意識によって世界が崩壊するという因果関係を含めて──むしろディストピア的だ。

しかも、ハルヒの望みに無条件に応えるために、常に彼女のご機嫌を伺い、彼女の目を疑うような横暴で傍若無人なふるまいを是正することすら許されないことが、一層それに拍車をかける。たしかに、その現状を維持することに進んで身を投じるキョンたちのふるまいは、大人な選択といえるかもしれない。

しかし見様によっては、SOS団の団長となったハルヒのいわゆる「ツンデレ」的ふるまいはカルト宗教における洗脳*5を思わせるし、もっと卑近な例でいうなら、SOS団ブラック企業のようにすら見える。ハルヒに「萌え」要素を読み込み、SOS団ユートピアだとして大多数の欲望を集約してみせた事実は、むしろ現実社会を覆うねじれを如実に表すようでそら恐ろしい*6


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そんなキョン(たち)の状況をして、なおもハルヒが萌えの対象になったのはなぜか。それは、シリーズをとおしてある仕掛けが施されているからではないか。その仕掛けとは、キョンにとって周知の事実となった、ハルヒが世界の理そのものであることを当の彼女自身がまったく知らないという逆説だ。この、全能のハルヒですら知らないハルヒ自身のことを「キョン=視聴者(読者)は知っている*7」という点において、キョン=視聴者はハルヒに対する決定的な優位を約束される。

そして、その優位性/優越感は、視聴者のある種の所有欲を満たす。そう、ハルヒの自己への無自覚を担保に、キョン=視聴者はまったくの安全圏から、彼女を掌中に納められるのだ。長門やみくる、古泉がハルヒの秘密を語れば語るだけ、この構造は強固なものになるだろう。

さらにこれが、決してよくはない状況のなかでキョンの得た “せめてもの” 優位性であることが、ねじれた現実社会に置かれたわれわれ視聴者の “せめてもの” 欲望に合致したのではないか。本作のSOS団を取り巻く世界は、われわれを取り巻く現実社会の縮図そのものではなかったか。ハルヒに萌えを読み込むとき、それは彼女のツンデレ的ふるまい如何よりも、この巧妙なパワー・バランス設定に負うところが大きいのではないかと考えられる。


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だが同時に物語世界は、ハルヒの秘密を彼女に知られないように隠蔽することを要請する。キョンハルヒに萌えられる条件を取得した以上、彼はそのほかのSOS団員と団結し、その目的を果たさなければならない。この団結を「仲間」や「絆」と呼ぶこともできるだろうが、一方でこれがある種の同調圧力を生み出さないとどうしていえるだろうか。そして、その同調圧力SOS団の内外を問わず、旺盛な暴力性を発揮していなかったとどうしていえるだろうか。

もちろん否である。たとえばそれは、みくるなど団員へのセクハラ・パワハラ的ふるまいや、コンピュータ研への略奪行為などいった形をとって、公然と──ともすれば一種のコミックリリーフとして──劇中で発揮されるだろう。そして、ハルヒはその無自覚な自己中心性、キョンたちはハルヒを通じた各々の目的を果たすことを免罪符に、同調圧力的暴力はつつがなく行使され、また黙認されることだろう。

この、作品(=世界)を維持するために、無自覚に行使される同調圧力的暴力の連続に、僕は大いに恐怖したのだった。



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涼宮ハルヒの消失』(2010)……石原立也総監督、武本康弘監督。冬休みを間近に控え、涼宮ハルヒはクリスマスにSOS団部室で鍋パーティを開くことを決定し、キョンたち団員はその準備に追われていた。しかし12月18日、キョンがいつものように登校すると、教室にハルヒの姿はなく、しかも誰も彼女を知らないという。狼狽したキョンは一縷の望みをかけて部室に向かうが、そこにいたのは長門有希だけだった。しかし、それはキョンの知っている寡黙で、宇宙人的超然さを備えた長門ではなく、内気で恥ずかしがり屋なふつうの少女でしかなかった──キョンを取り巻く世界がまるごと何者かによって改変されるという、原作でもとくに人気の高いエピソードを劇場アニメ化。


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というわけで劇場版である。いきなり『ハルヒ』を観はじめた理由のもうひとつは、本作『〜消失』を観るためである。これを観るには、テレビアニメ版も観なければお話にならないからだ。実際、観客がテレビシリーズを観たことを前提とした造りであり、初見さんに向けた演出はほぼなく、完全に続きから物語は開幕する。

それはともかくとして、上映時間162分はいささか長尺に過ぎる嫌いがあるものの、キョン長門といったキャラクターのふとした挙動まで滑らかに描ききる精緻極まる作画を筆頭に、照明による微細なニュアンス表現、写実的な背景美術など、その映像には画面の端々まで目を奪われる。

とくに、劇判の流れない非常に静かなシーンが多いのが印象的だ。そこでの演技の間の置き方や編集などから醸される、寄る辺なく、ちょっと歯痒いようなゆったりとした時間経過は、物語内容とも非常に合っていて素晴らしい。尺に制限のない映画ならではの演出だろう*8。言葉にすれば陳腐だが、そういった力のこもった美しいシーンがいくつもあるのが本作のいちばんの見所だ*9。世界改変後の長門キョンに手渡す文芸部への入部届用紙を巡るやりとりなど、言外の感情演出も見事だ。


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とはいうものの、すでに “SOS団ブラック企業” という等式が成り立ってしまった僕の色眼鏡には、本作が迎える結末は、よく出来た物語だと思いつつも非常にモヤモヤしたものに映ってしまった。映画後半、世界改変は、キョンのよく見知ったある人物、すなわち長門有希によるものだと明らかになる。この長門のふるまいは、彼女の──意識的にせよ、無意識的にせよ──ハルヒという神への反逆、抑圧への抵抗であった。彼女はそれによって “なりたかった自分” を勝ち取り、しかも、それによって世界は正常さを獲得しさえするのだ。ある意味において、むしろ彼女こそ、真にヒーローだったのではないか。

もちろん彼女のこのふるまいは、現状維持こそが善しとされる本シリーズの価値基準から逸脱する。ゆえに彼女は是正される運命にあるが、ここでキョン長門に語る論理は同調圧力の暴力にほかならない。キョン長門のふるまいの動機を「お前は疲れていただけ」と言い切り、無表情でいるしかなかった彼女がようやく手に入れた感情の豊穣さは「元の世界のお前のほうが好きなんだ」と切り捨てる。一見キョン長門について語っているようでも、それはあくまでキョンの望む長門であって、そこに彼女自身は想定されていない。

それによって、彼女のささやかな自我は、感情のない表情の下に再び抑圧されるのである。そして、見た目よりもずっと大人である彼/彼女らはそれを当然と受け入れるだろう。そういったわけで、原作者の谷川流自身が長門の書きそうな詩をイメージしたという主題歌*10の流れるエンドクレジットを眺めながら、なんともやるせない気分に襲われたのだった。



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というわけで、遅まきながらもアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ──番外の短篇アニメは除く──を観た。伝え聞いたところでは、明るく楽しいアニメ作品とばかりイメージしていたので、こんな苦みばしったというか、恐ろしさすら覚えるシリーズだったのかと、そのギャップにちょっとしたショックを受けたのでありました。



【追記:2015/7/26】

TVアニメ『長門有希ちゃんの消失』(2015)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150726/1437881235


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*1:S:世界を/O:大いに盛り上げる為の/S涼宮ハルヒ」の略。

*2:彼/彼女らは、宇宙人、未来人、そして謎の機関のひとりとして、各々の立場から“涼宮ハルヒ”の存在を監視する役割を負ったキャラクターである。

*3:クレジットでは「団長代理」。

*4:実際の放送では、第1期を含めた全28話として時系列順に放送された。

*5:とくに、その徹底的な他者性の否認と破壊において。

*6:もちろん、この見え方が、僕のキャラクターに対する嗜好に大きく左右されている可能性はまったく否定しない。

*7:これは、たいていのヒロイン像とは真逆である。たとえば、本作の元ネタのひとつであると思われる『うる星やつら』(高橋留美子、1978-1987)のヒロインの宇宙人ラムと、主人公あたるたちの関係性を思い出すとわかりやすい。

*8:いま思えば、同じく京都アニメーション制作の『映画 けいおん!』(山田尚子監督、2011)とは逆の性格だ。

*9:アニメであることの利点を最大限活かした上での美しさであることは付け加えておこう。間違っても単純に実写に移し変えれば同様の効果が得られるわけではない。

*10:優しい忘却」……歌詞原案: 谷川流/作詞: 畑亜貴/作曲: 伊藤真澄/歌: 茅原実里長門有希)。