『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』感想

押井守監督、脚本。1988年にOVAが発表されて以来人気を博すロボット・アニメを実写・短篇シリーズ化した『THE NEXT GENERATION パトレイバー』(2014 - 2015)に続く劇場用長編作品。

2002年、柘植行人が引き起こした「幻のクーデター」は、特車二課第二小隊の超法規的活動によって鎮圧された。しかし事件後、小隊を率いた後藤喜一南雲しのぶ両隊長は失踪し、その行方はようとして知れなかった。それから13年後の現代、小隊を公私にわたる先輩である後藤から引き継いでいた後藤田継次だったが、時代の趨勢によって小隊の存続は危ぶまれるばかりの日々が続いていた。そんなあるとき、彼のもとに後藤から1本の電話がかかる──「嵐が来る」と。

その言葉を実現するかのように、突如としてレインボー・ブリッジを爆破するテロが勃発してしまう。その現場を映した映像から、犯人は通称“グレイゴースト”と呼ばれる、汎用光学迷彩システムによって姿を自在に消せる最新鋭の戦闘ヘリ「AH-88J2改」を使用したことが判明。第二小隊もまた、首都1,000万人を人質に取られた闘いに巻き込まれてゆく……。


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まず、本作を鑑賞するに当たって、先だって少なくともTHE NEXT GENERATION パトレイバー(第7章)』(同ディスクには、第1章から第6章をまとめた総集編「プレイバック! 特車二課 存亡の危機」も収録)、また機動警察パトレイバー2 the Moive』(押井守監督、1993)を併せてご覧になるとより楽しめる……というか、けっこう初見さんお断りな感じなので、まだ本作に先立つ実写シリーズをご覧になっておられない方があれば、少なくとも前者は観ておくことをおすすめします。
※『THE NEXT GENERATION パトレイバー』シリーズについての僕の簡単な感想は次の記事、最下部にあります。>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150430/1430409254


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【以下、若干ネタバレ──脚注においては結末に関する──ありますのでご注意ください】


さて、映像面の出来栄えは、これに先立つシリーズと同じく高い完成度を誇るが、とくに本作で見応えの合ったシーンを挙げるなら、次のふたつがある。

まず、中盤に展開されるコンバット・アクションだ。これは第二小隊の面々が、その超法規的活動として、戦闘ヘリ“グレイゴースト”を有する敵アジトへレイバーなしで突入し、銃撃戦を演じるというシーンだが、なかでも第二小隊隊員のひとりカーシャを演じた太田莉菜による、銃剣付きアサルト・ライフルを得物にした立ち回り、並びにその見せ方が素晴らしく、アクション監督を務めた園村健介の手腕が光る。短篇のうちの数話でも、カーシャをメインに据えたアクションは披露されるが、太田の動きは非常に様になっていて、観ていて気持ちがいい。彼女にとって、先の『THE NEXT〜』シリーズがアクション初挑戦とは驚きである。

また、“グレイゴースト”がついに白昼の首都上空に現われ、その猛威を振るうシーンは外せない。なかでも、“グレイゴースト”が自衛隊の戦闘ヘリと新宿副都心上空でドッグ・ファイトを繰り広げる一連の場面は、飛行するヘリの実写映像とCG映像とをうまく混ぜ合わせ、かつ的確に練られたカメラ・ワークと編集で魅せてくれる。


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しかし、明るく楽しいこれまでの実写版シリーズとは一転して、本作は思いがけず、非常に息苦しい作品でもあった。全篇を覆うこの奇妙な閉塞感は、本作がこれまで以上に『機動警察パトレイバー2 the Moive』の続編であることを劇中において強調していることと無関係ではないだろう。

本作において、その物語、そしてこれを動かす登場人物たちの言動は、かつての影に常に囚われている。“グレイゴースト”を簒奪して首都を急襲する元自衛官らのグループは、『2』におけるクーデターの首謀者・柘植行人のシンパたちであるが、本作における彼らの戦略/行動の力点は柘植の起こしたそれの再現にのみ置かれ、柘植にとってむしろ重要だった思想的テーマ*1は、本作において浮かび上がらない。

また、これは第二小隊についても同様である。3代目の若い隊員を率いる2代目隊長・後藤田継次は、本作の実質的な主人公だが、彼もまた、先代の隊長である後藤喜一南雲しのぶ──ふたりは、『2』の事件解決後に失踪したことになっている──がレイバー隊に託した“善き伝統”という思想に重圧される。後藤田は、最終的に「先輩に倣って」しか行動を許されない。ここにきて、彼の継次という名前が皮肉に響くことだろう。


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ことほど左様に、本作において、真に映画を牽引するのは画面に映っている登場人物たちではなく、柘植や後藤といったかつての優秀でユニークな先代たちの亡霊であり、とりもなおさず、これは本作『首都決戦』が『2』の影──ひいては、この実写シリーズ自体が、かつてのアニメ版の影──に囚われ、そこから脱却できなかった、あるいはそれを許されなかったことにほかならない。

ともすればこれは、そういった再生産に継ぐ再生産でしか映画を作ることもままならない今日日(きょうび)の映像業界、あるいはそれを飽きもせず求め続けるわれわれ観客に対する押井の苛立ちや怒りの表れではないか。本作をかつての劇場版に倣って「社会派」と言い表すなら、むしろそれは今日の政治的状況よりも、かつて押井が漫画やアニメの「終わりなき日常」性を徹底的に批評した『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)のように、映像メディア論として捉えられるのではないだろうか。

本作はもちろん、第二小隊のレイバーによる決死の反撃によって大団円を迎えるが、ここにかつての劇場版にあったようなカタルシスはむしろない。かねてより予定されていた終幕を、つつがなく迎えたという確認作業があるだけである。このやり場のない閉塞感は恐らく意図的であろう。本作は押井作品にしては、彼特有の「間」──ダレ場──が極端になかったり、明らかに手を抜いてとしか思えないシーンもちらほらあるからだ。そしてこの滲み出る怒りこそが、本作におけるテーマだったのかもしれない*2


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*1:現実の東京に戦争状況という“虚構”を作り上げようとした「幻のクーデター」テロとは、東京に張り巡らされた通信やメディアといった、現実を映すようでいて、むしろ虚構に満ちたコミュニケーション・ツールを剥奪することによって、これらが作り出し、我々が享受している平和の虚構性を暴きだし、そして“現実”なるもの──たとえばそれはラストの柘植と南雲隊長の手の繋がりに象徴される──を浮かび上がらせようとした思想的な行動でもあった。

*2:じつは本作の真の主役は、“グレイゴースト”を操る謎のパイロット灰原零だと考えられる。そのネーミングをみても判るとおり、「白」でも「黒」でもない「灰」──すなわち、どんな価値観にも迎合しない色──を苗字に持ち、そして零=「0」というこの世に存在すらしない──それすなわち「神」である──ことを示す名前を持つ彼女は、本作において特権的な位置を与えられている。▼灰原は、繰り返し演じ続けられるゲームや政治的主張とは関係なく「自分の戦争」を闘い、あまつさえ逮捕もされなれば、撃墜によって死亡もしない。そして映画は、生き延びた彼女が、東京湾内を遠景の陸地に向かって泳ぎ去るショットで幕を閉じる。すなわち灰原零だけが、本作を捕らえて放さない“過去”の亡霊から脱却しえたキャラクターであり、その意味において、彼女こそ本作のヒーローといえるだろう。▼加えて、彼女のファースト・ネームは、もちろん押井のペンネームである丸輪零に由来しているだろうから、この人物が押井の分身であることは明らかである。このことからも、上記のようにいえるだろう。