2015年鑑賞映画 感想リスト/51-60

THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』(2015)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150501/1430477625



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『キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-』(2013)……荒牧伸志監督。宇宙開拓の熱も冷め、宇宙に散らばった人々が地球にこぞって戻ろうとしたために勃発した“カム・ホーム戦争”。これを調停した人類統治機構“ガイア・サンクション”は地球を聖地と定めて封印したため、地球は人々の望郷の象徴としてのみの存在となった。それから100年後、地球を再び人々の手に取り戻すため戦い続けるひとりの男がいた──松本零士による大人気漫画を長編CGアニメーション化。
かのジェームズ・キャメロンが褒めていただけあって映像は、その密度といい完成度といい申し分なく、凄い。ブラッシュアップされたアルカディア号のデザインなど、竹内敦志メカニックデザインは素晴らしいし、ほぼ実写よりにデザインされたキャラクターも違和感もなくてよい。ただ、福井晴敏らによる脚本がびっくりするほどずさん極まる。物語をがぜん盛り上げそうな謎やサスペンスの要素は、出てきたその場でネタを詳しく説明し始めるし、そういった振りにもなっていない振りのネタが尽きたかと思うと、あとは「適当に盛ればいいや」とばかりに後出しジャンケン的に設定やら秘密兵器やらを並べ立てるだけで、ウンザリだよ! なんだよ! 「あれは俺の妻だ」とか「あれは試し撃ちだ」って阿呆か! 劇中の敵艦隊ならば同じ手に2回も3回も引っかかってくれるのかも知らないが、あまりにあんまりである。
それはそれとしても、本作最大の失敗は、ハーロックをきちんとヒーローとして描くことに見事に失敗している点だろう。本作におけるハーロックの行動原理はビタイチ納得できないし、そもそもそれって完全なマッチポンプやんけ! まったくご立派なことである。



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ハミングバード』(2012)……スティーヴン・ナイト監督、脚本。アフガニスタンの戦場で5人の仲間を殺され、報復のために民間人5人を殺した特殊部隊兵士ジョゼフは軍法会議から逃走し、ロンドンの下町でホームレスとして身を隠した。そんななか彼が唯一心を通わせた少女がギャングにさらわれてしまう。図らずも他人になりすますことに成功した彼は、裏社会でのし上がってゆきながら懸命に少女の行方を捜し続けるが──ジェイソン・ステイサム主演のシリアス・ドラマ。
無人偵察機の愛称をタイトルに冠し、かつステイサム主演ということで、ハミングバードに追いつ追われつのアクションものかと勝手に予想していたが、「罪」と「贖罪」についての骨太なドラマであった。それもそのはず、本作の脚本もナイト監督はシビアな社会のなかでもがく移民たちを描いた『堕天使のパスポート』(スティーヴン・フリアーズ監督、2002)、『イースタン・プロミス』(デヴィッド・クローネンバーグ監督、2007)の脚本家でもあり、本作を含めたこの3本は3部作なんだとか。本作のヒロインで、かつての罪の意識に苦しむ修道女クリスティナは、ジョセフの鏡像として登場するが、彼女の一挙手一投足を支配するのが神であるように、ジョセフを空から監視するハミングバードの視点は神の視点にほかならず、いいかえれば彼の意識にある超自我的な良心である。ジョセフが、ひと夏のキリストたりうるかの闘いに目覚めてゆく様子を静謐なタッチで描く傑作。



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キャビン・フィーバー』(2002)……イーライ・ロス監督、脚本。ポール、カレン、ジェフ、マーシー、バートの5人組は、大学最後の夏休みを田舎の山小屋を借りて酒にハッパにとフィーバーするが、その晩、突如として血まみれの男が闖入する。彼をなんとか撃退するものの、カレンの身体に異変が生じ、皮膚が炎症を起こすように溶けはじめる──謎のウイルス感染に脅かされる若者たちを描いたパンデミック・ホラー。
休暇に山小屋は借りるな、田舎で調子に乗るな、周囲の住民とトラブルを起こすな、狂犬には気をつけろ、酒とドラッグとセックスはほどほどにしとけ、などなどのホラー映画定番の布石は、すべて踏み倒すためにあるといわんばかりの大盤振る舞いで、出てくるものすべてが怪しいし、その期待はものの見事に叶うお得品。かつゴア描写もなかなかで、序盤にポールが語る猟奇的なホラ話にもしっかり再現映像がついてサービス満点だ。面白かったのは、いわゆる“生き残り枠”とでもいうべき“清純派ヒロイン”の立ち位置が、当初そうかと思われたカレンではなく、内気な青年ポールだったこと。前半、ポールが中学生のころから想いを寄せ続けていたカレンが、仲間との団欒中に自慰やら初体験の話などをするのを聞いて思わず幻滅しているのが印象的だ。
そんな清純な彼が、これだけ定石をゴタマゼにしておきながら“アレ”が足りないなァ、と思っていたまさにそれにシフトしてゆくクライマックスも興味深い。いっそ余計なことをせず魔法使いを目指していたら、君は助かったのかもしれんのに(アンタバカヨ……)、と無根拠に同情してしまった。それはともかく、いろいろと定石をストレートに重ねた分、よけいにその皮肉さが際立つラストの終末感はなんともいえない切れ味を残す見事な作品だ。あと、あれな……パンケーキ! パンケーキ!!



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大列車強盗団』(1967)……ピーター・イェーツ監督。宝石商の現金輸送車を襲ったポールたち4人は、奪った金と宝石を元手に夜行郵便列車を襲い、400万ポンドに及ぶ現金を強奪しようとするが──1963年8月にロンドン郊外で起きた列車強盗事件を映画化した実録ケイパーもの。
なんといっても序盤の見せ場である、宝石商からブツを奪ってからの警察とのカー・チェイスが見所。ロンドンの街中を猛スピード──背景の動きと比較しても実際にかなりの速度で走らせている様子──で駆け抜ける追走劇は、きっちりとしたカメラ・ワークと編集も相まって、その迫力たるや素晴らしい。強盗団の結成から、郵便列車の現金強奪シーンなど、じっくりとしたテンポで描かれる後半戦も、引き締まった画面レイアウトによって醸される緊張感がなんともいえない。ただ、実録ものとしての弱さなのか、中盤以降、たとえば急に強盗団が割と大所帯だったことがわかったり、追う警察側の視点も多めに配していたりするなど、脚本的に若干散漫になっている感は否めない。強盗団側のみに視点を絞って、より強盗計画の積み重ねなどを丹念に追ってくれていれば尚よかっただろう。とはいえ、本作がきっかけとなって、イェーツが『ブリット』(1968)の監督に抜擢されたのも納得の作品だ。



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『トールマン』(2012)……パスカル・ロジェ監督、脚本。炭鉱が閉鎖されたために急激に貧困化が進む町コールド・ロックでは、ここのところ謎の児童失踪事件が相次ぎ、人々は町の古い伝承にある“トールマン”による神隠しではないかと噂していた。ある夜、町で診療所をひとり切り盛りする看護師ジュリアの育てていた幼いデビッドが自宅からトールマンと思しき者に連れ去られてしまう──行方不明児童を題材に描くホラーサスペンス。
本作の脚本には心底驚かされた。いわゆる“予想外の結末”が売りの映画のなかでも、トップクラスに虚を突かれたというか、終盤どころか映画中盤からツイストに継ぐツイストを効かせた物語があれよあれよと続いてゆく展開が凄まじい。そこに至るまでの前フリも非常に丁寧で、そこかしこに施された微細な違和感がそのツイストによって証明されるなど、映画全体に騙し絵的な仕掛けが施されているのにも舌を巻く。たとえば、画面手前にメインキャラクターが登場したにも関わらず、子ども攫いの怪人が画面の奥でテクテク歩き去るといったホラー映画的に「なんで?」と首をひねる演出も、後々の伏線だったりして、巧い。そんな具合に展開する本作は、前半と後半でジャンルまでシフトし、現代社会──とくに格差社会──における善悪あるいは倫理についての疑問をこちらに投げかける。それがまた非常にデリケートなものだったりするので、本作の語り口の面白さもさることながら、けっこう問題作でもある。未見の方があれば必見の作品だ。



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『野獣走査線』(1985)……アンドリュー・デイヴィス監督。シカゴ市警のエディ率いる捜査班が麻薬組織の追跡中、古株の刑事が無関係の黒人少年を誤って射殺してしまう。この事故を黙認しようとする仲間に正義感から反発したエディは孤立し、ひとり2大麻薬組織撲滅への戦いを挑むことになる──チャック・ノリス主演のアクション・サスペンス。
もともとはクリント・イーストウッド主演用の脚本だったようで、なるほど既存の同調圧力的価値観のなかでも決してぶれない一匹狼気質のエディの役柄はイーストウッドっぽい。ただ、彼に代わってノリスが演じたことで、アクション・シーン──とくにというか、やはりというか徒手空拳の場面──のスピード感は抜群にアップ。イーストウッド特有の、長身を持て余してノタノタする感じも好きだけど、本作の雰囲気には動けるノリスがよく似合うし、彼のあのなんともやさしい面持ちが、よりその孤高ぶりを高めている。お気に入りは、シカゴ市内の高架を走る列車の屋根の上での追走劇で、気合の入ったスリリングさを堪能できる。そんな具合で、全体的にはよかったものの、ただクライマックスにおいてノリスの相棒(?)となる支援ロボット戦車の色モノぶりがなんとも惜しい。あれなら、もっと地味なアクションのほうが作品のトーンと合っていたのではないかしらん。



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『グレイヴ・エンカウンターズ』(2011)……ザ・ヴィシャス・ブラザーズ監督。超常現象や怪奇現象の現場に出向き、一晩かけて取材調査することで人気のテレビ・クルー「グレイヴ・エンカウンターズ」が今回訪れたのは、廃墟となったコリンウッド精神科病院跡。夜な夜な幽霊騒ぎが後を絶たない院内に潜入した彼らは、いつものように実際の幽霊など期待せず、ヤラセ演出で事なきを得ようとするが──you tube上にアップされた予告編が怖すぎるとして話題を呼んだファウンド・フッテージ・ホラー。
日本版ポスターやパッケージでも、怖すぎる幽霊の顔に自主規制の黄色い三角マークが被せられていて期待を煽るので楽しみにしていた。まあ、そのご尊顔とは、顎の外れるほど大きく口を開いて「(|||ノ`Д´)ノンボオオオォォォーッ!!」という“ムンク「叫び」顔”というか、『ハムナプトラ 失われた砂漠の都』(スティーブン・ソマーズ監督、1999)の“イムホテップ顔”というかといった「みんな好きでしょ、こういうの」って感じで目新しさはそんなにないけれど、本作においては夜間撮影用カメラでの撮影で画素が荒いのと、そこをダラダラ長引かせず瞬時に終わらせるので、その緩急によってけっこう驚かしてくれる。
幽霊遭遇シーン自体はそんな見せ場ではなく、基本は後半になるにつれてエスカレートするポルターガイスト現象。そこまでたどり着くまでの前フリとして、クルーが「こんなの聞いてねえよ」とグダグダ文句を言う過程がちょっと長過ぎてダレている感はあるのは残念だが、面白いのは、彼らが恐ろしい夜の病院から物理的に出られなくなる展開。これにはPOVならではの見せ方と説得力があって俄然映画に引き込まれる。オチは可もなく不可もなくだが、冒頭が番組ディレクターによる紹介から始まるので、末尾にVTRが回収されるショットがあってもよかったかもね。



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『シンドバッド虎の目大冒険』(1977)……サム・ワナメイカー監督。数々の冒険を経て、都シャロックに入港したシンドバットだったが、旧友のカシム王子が王位継承権を巡って呪いを受け、ヒヒの姿に変えられていた。その首謀者である魔女ゼノビアの陰謀を砕くため、シンドバッドは再び海原へ出る──ストップモーション・アニメーションの大家レイー・ハリーハウゼンが特撮を手掛ける冒険活劇。
脚本、キャラクター、撮影、編集、演出、音楽、テンポなど、すべての面においてじつに古典的で円熟味を帯びた作品だ。ハリーハウゼンによる特撮もまた、生物の実在/非実在を問わず素晴らしくよく動く。一方で、同時期にジョージ・ルカースが『スター・ウォーズ』によって冒険活劇映画の歴史を決定的に変えたのを思うと、使われた技術がほぼ同様であるのをみるにつけ、本作が時代に取り残されてしまった感は否めない。良い悪いは別にして、時代/世代の流れを追体験できる作品だった。余談だが、どこかで観たことあるなと思っていたら、主演のパトリック・ウェインはジョン・ウェインの次男、ヒロインを演じたのは『007 死ぬのは奴らだ』(ガイ・ハミルトン監督、1973)のボンド・ガール、ジェーン・シーモアだったのね。



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『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2013)……ジョナサン・グレイザー監督、ミッシェル・フェイバー原作。謎のバイカー男の手筈によって道端で死んでいた娼婦の服を奪った「女」は、夜な夜なバンを運転して道行く独り者の男に声をかけ、彼女の住処に呼び入れる。誘うように服を脱ぎながら前を行く女を追ううち、男は何もない暗黒の亜空間に捕らえられ、やがて──冬のスコットランドを舞台に描かれる謎めいたSFスリラー。
スカーレット・ヨハンソンが脱ぎまくる『スピーシーズ 種の起源』(ロジャー・ドナルドソン監督、1995)的な映画を期待している──邦題に付いたサブタイトルは明らかにこのミス・リードを誘うよね──と間違いなく愕然とすること請け合い。とにかく本作は、台詞も説明的な描写も極端に少なく、“お話”に限っていえば、本編を観るだけじゃさっぱり判らない(原作小説にはバッチリ書いてあるそうだが)。ヨハンソンや謎のバイカーの正体は、目的は? あるいはその被害者たちは?──すべてが謎のまま放り出される。これは、おそらく『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)と同様に映画のマジックを高めるために施された敢えての演出だろう。本作の一部には『2001年〜』を思わせる特殊な映像表現があったりすることなどからも、そう思われる。
それでもなんだかんだで興味深く観れたのは、本作の撮影や編集の呼吸もまた、非常に美しいからだ。グレイザーが、もともとジャミロクワイの「ヴァーチャル・インサニティ」のミュージック・ビデオなどを手がけていたことからの手腕だろう。舞台となるスコットランドのどんよりと薄暗く沈んだ冬景色が見事に画面に切り取らており、画面を読み込む意欲を駆られる。しかし、こちらがいかに画面の向こうで展開される登場人物たちの行動を理解しようとしても、判らないことは最後まで判らないまま、映画は幕を下ろす。この観客を突き放すような感覚は、ある意味では誠実なやり方だともいえる。思えば、グレイザーの前作『記憶の棘』(2004)もまた同様に、そこに登場する他者について主人公も、そして観客もその正体を掴めないまま映画は唐突に終わる。こちらは割と多弁な作品であるにも関わらず、だ。前作と本作はグレイザーにとってテーマ的に表裏一体なのだろう。おそらくそれは、コミュニケーションについての思考だ。