2015年鑑賞映画 感想リスト/71-80 +α

マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150701/1435736674


     
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ヒックとドラゴン2』(2014)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150702/1435832564



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フライト・ゲーム』(2014)……ジャウム・コレット=セラ監督。航空保安官のビルは、過去の出来事から心が荒み、酒に溺れていた。一般客を装いニューヨーク発ロンドン行きの便に乗り込んだビルの携帯電話の機密LINEに謎の人物から「指定口座に1億5000万ドルを送金しなければ、20分以内に機内の誰かを殺す」というメッセージが届く。ただの悪戯と思えず、独自に捜査をはじめるビルだったが、ついに犠牲者が出てしまう──リーアム・ニーソン主演のアクション・サスペンス。
すっかり“戦うお父さん”俳優となって、信頼のおけるアクション俳優のひとりとなったニーソンとセラ監督が組むのは、本作が『アンノウン』(2011)に続いて2作目(さらに、『ラン・オールナイト』(2015)でもタッグを組んだ)。本作もまた、「誰も信じられない──いや、むしろオレ自身が信じられないのか?」型サスペンスとでもいうべき作品になっている。被写界深度を浅くとって不穏を煽るカメラワークや、奇妙にどこかに向けられる乗客の視線描写などによって醸しだされる、自分の寄って立つべき基盤がグラグラと侵食されてゆく感じは非常にスリリングで楽しい。冒頭で、主人公自体がアル中で、なんとなく精神的にもヤバそうな“信頼できない語り手”であることを示唆するのも、後の展開を支える不安感をしっかりと印象づけている。
正直、本作の種明かしされるトリックはあまりに雑すぎて笑っちゃうのだけれど、そんな粗を気にする間もなくケレン味溢れるアクションに突入するので、展開としてのこの勢いやよし。面白い!



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首都消失』(1987)……舛田利雄監督。ある日突然、高さ2キロメートル、直径50キロメートルの巨大な「雲」が首都圏を覆い、その内部との連絡が一切途絶えてしまう。北斗電機技術開発部長の朝倉は、「雲」内部に取り残された家族を救うため、その謎の解明に挑むが──第6回日本SF大賞(1985)を受賞した小松左京の小説を実写映画化。
中野昭慶による特殊技術──とくに、まるで生きているかのように首都圏を覆いつくす「雲」の描写の数々が素晴らしい。ただ、いかんせん“家族愛”を中心とした浪花節に振り切った本編がチグハグで、どうにも退屈。「雲」による被害や、それに目をつける諸外国の動きなども描かれてはいるが、いまいちメインに浮かび上がらないため災害映画としての逼迫感に乏しいのがつらい。ラストにしても、文字どおり煙に巻かれるように幕が下りてしまうので、もはや唖然とするほかない。「雲」の解析に乗り出す科学者を嬉々として演じる大滝秀治が愉快だっただけに、歯がゆいばかりの作品であった。



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『劇場版 零〜ゼロ〜』(2014)……安里麻里監督、脚本。山中に佇むカトリック系の寄宿制女学園からの卒業を控えた高等部の少女たち。ところが、学友であり彼女たちの憧れの的だった美少女アヤが、突然自室に閉じこもってしまう。それに呼応するように、「わたしの呪いを解いて」と囁くアヤの幻を目にした少女たちが次々と謎の失踪を遂げはじめる。そして、ついに写真が趣味のミチの前にも生気のないアヤの幻が現れ──人気ホラー・ゲーム『零 zero』シリーズ(2001-)を原案に書かれた大塚英志の小説『零〜ゼロ〜女の子だけがかかる呪い』(2014)を映画化した作品。
ということで本作は、厳密にはゲーム『零 zero』の映画化ではない。従って本作の舞台は血生臭く呪われた因習を伝える廃村ではないし、“射影機”と呼ばれる特殊なカメラも存在せず──似たデザインのカメラは出てくるが──、ヒロインがそれを手に闇夜を進んで怨霊を除霊して謎を解こうはずもないのである。つまり、予告やキャッチ・コピーで僕らが期待するような“ゲームの映画化”要素はまったくのゼロであり、この点において本作のタイトルはまさしく正鵠を射ているのである。こんなの『零 zero』じゃないやい! ──であるならば、果たして本作はなんだというと、萩尾望都の漫画『トーマの心臓』(1974)に代表されるような、いわゆるギナジウムものにホラー的要素を味付けた感じの作品である。
本作を独立したギナジウム・ホラーとして観るなら、なるほど明治時代に建立された天鏡閣福島県尋常中学校などで撮影された女学園の映像は、なかなか趣があっていい感じである。そして、本作を彩る少女たちも印象的だ。なかでも、主人公のひとりアヤを演じた中条あやみの存在感は素晴らしい。とくに前半、生気のない幻としてミチたちの眼前に現れる彼女は佇まいは、その長身でちょっと腕が長めの体躯から放たれる独特な雰囲気と、撮影とポスプロの効果とが相まって、映画の耽美な世界観を引き立てていて非常に美しい。ギナジウムものとして外せない、ほのかな百合描写もちゃんとしているし、舞台立てに役者と素材は揃った。
といいつつも、本作いちばんの難点は、カメラや登場人物が序盤から、しかも頻繁に学園の外に──ふつうの現代日本の田舎町──に出てしまっていることだ。これによって、ギナジウムだからこそ一層際立つはずの閉塞感がすっかり削がれているのである。いくら大塚英志が原作だからって『黒鷲死体宅配便』のキャラクターを出している場合ではなく、むしろ徹底して女学園という虚構空間内だけで舞台とキャラクターを完結させたほうがよりスッキリしただろうし、本作がやろうとしたこととも合致していたんじゃないかしら。この意味において、世界観というか画のフィクション・レベルがガタガタなのが本当にいただけない*1。これは、ぜひとも首を傾げたい脚本のオチ前の問題だ。
いろいろ残念な本作ではあるけれど、中条あやみ=アヤの幻がらみ──なかでも全校生徒が集った礼拝堂にふわりと降臨するシーン──の画は見応えがあるので、ギナジウムものとしておおらかな気持ちでご覧になるといいと思います。



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『悪魔は誰だ』(2013)……チョン・グンソプ監督、脚本。15年前に発生した幼女誘拐殺人事件を捜査するチョンホ刑事は新たに掴んだ手がかりで犯人を目前まで追い詰めるものの、すんでのところでとり逃がしてしまい、ついに時効が成立してしまう。諦め切れない被害者の母ハギョンが真犯人を求めて独自に調査を進めるなか、同じ手口の幼女誘拐事件が発生する──ふたつの事件をとおして浮き彫りになる衝撃の結末を描いたミステリー・サスペンス。
いわゆる刑事モノとしての、追いつ追われつの手に汗握る謎解きミステリーに加え、邦題が的確に示すように観客の価値観を揺り動かす骨太なドラマが楽しめる。そして、本作の面白さはなんといっても編集の面白さである。まるで、刑事や被害者、そして犯人の思惑がそれぞれ少しずつ横滑りして合致しないように、本作の編集は時系列を絶妙にシャッフルして繋いでみせる。観客が時系列を追っているつもりでも、その実、次のシーンではそれよりも数時間前のシーンにあたかも自然に移っており、さらにまた次のシーンで時間が舞い戻っていたことが、後に明らかになる。二転三転する事件の顛末とも重なり合ってゆくこの入れ子型の独特な編集は、ミステリーにもスパイスとしても効いていて面白い。本作の原題がそうであるように、“Montage(モンタージュ)”=編集の妙が楽しめる作品だ。



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『神弓-KAMIYUMI-』(2011)……キム・ハンミン監督、脚本。17世紀、国家反逆罪で父を処刑された幼いナミとジャインの兄妹は、父の友人にかくまわれて人知れず成長した。13年後、弓の名手に育ったナミは、妹の幸せだけを願い、彼女の結婚を機に育った家を辞去しようと考えていた。ところが、ジャインの結婚式のさなか、清国の軍隊が乱入し、大勢の村人たちとともにジャインと新郎のソグンも捕虜として連れ去られてしまう──韓国で大ヒットを記録した歴史アクション大作。
寡聞にして、弓が主体のアクション映画ってけっこう珍しいタイプじゃないかしら。前半がちょっとテンポが遅く、映画がダレがちなのが残念──ただ、ちょっとしたカメラワークと編集だけで、主人公ナミが弓の名手であることを示す何気ない訓練シーンは見事──だが、清が攻め込んできてからは一気に映画もテンポアップし、めくるめくアクションの数々が楽しめる。とくに、ついに清軍のキャンプからナミたちが妹ジャインを奪還して以降に展開される、山中での追走劇と、コンバット・アクションは、弓主体のフレッシュさも相まって非常に見応えがあって楽しい。アクションに関しては、文句なしの大傑作だ。
ただ、若干奇妙なヤダ味もある。本作でも、ナミが否応なくピンチに見舞われるサスペンスフルな展開が冒頭からエンディングまで幾度となくあるが、その原因のおよそ3分の2くらいは、ジャインが愚図ったり、勇み足で戦闘に突っ込んでくるせいなのだ。もちろん、彼女が芯のとおったヒロインとしてのキャラ付けなのだろうけれど、それがことごとく功を奏していないのを見るに付け、意識的にか、あるいは無意識的にか画面に定着しているミソジミーに、なんだかひどく居心地の悪い思いをした。



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アップルシード アルファ』(2014)……荒巻伸志監督。第5次非核大戦によって世界は荒廃し、元軍人のデュナンとその恋人で全身サイボーグのブレアリオスは、廃墟と化したニューヨークを仕切るストリート・ギャング双角のもとで傭兵家業にいそしむ日々だった。ある日ふたりは、請負仕事の最中にたまたま現場に居合わせたオルソンと少女アイリスを救出する。彼らは噂に聞く新たなる理想国家“オリュンポス”の使者だと語るが──士郎正宗のデビュー作『アップルシード』を原作とした長編CGアニメーション3作目。しかし、これまで製作された『APPLESEED アップルシード』(同監督、2004)、『EX MACHINA -エクスマキナ-』(同監督、2007)の続編ではなく、設定も新たにリブートした前日端となっている。
デュナンとブレアリオスの関係性も、最初からすでに信頼関係が完成していた原作同様に戻したことで、前2作よりもスピーディに物語を展開することに成功。ゲーム『ゴッド・オブ・ウォー』シリーズなどを手掛けたマリアンヌ・クラウチクが脚本を担当したこともあるのか、そういったゲームにおけるアシスト的な台詞回しがちょくちょく挿入されるのが興味深い。映像は、かのジェームズ・キャメロンが絶賛していただけあって、実写寄りに描かれたCGのレベルは総じて高く、見応えがある。サイボーグが一般化している世界観を利用して、表情が見える──人間の顔をしている──登場人物をギリギリまで減らし、そのぶん一点集中型に表情表現のクオリティを高めているのも戦略的だ。
しかし、映像レベルが上がれば上がるだけ、演出上の不自然さが目立っているのは否めない。ときおりアニメーションが奇妙に映るのはまだしも、後半になればなるだけ演出が息切れするのは相変わらずで、クライマックスにおいて変にシーンをコロコロ転換して緊張感を削いでしまったり、戦闘状況がいたって継続中にもかかわらず半端なドラマが割り込んで別の意味でハラハラさせるのは、もうやめませんか。また、あのヘリコプターは誰が操縦しているのか、あのハイウェイは地理的にどのあたりから高架になるのか、双角はどこにぶら下がっているのか、あの高さから落ちたのにどうしてデュナンは無事なのか等々、なんとなく不都合なところは一切描かないというスタンスはいかがなものか。そのどれもが、ちょっとフレーミングを工夫したりショットを足したりで解決できるものばかりだと思うのだけれど。アルファどころか、ちっとも足りてないよ!



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いばらの王 -King of Thorn-』(2010)……片山一良監督。人体が石化してしまう謎のウイルス“メドゥーサ”の治療を未来に託すべく、大手薬品企業によって公募された感染者160人は、スコットランドの古城に建設された施設でコールドスリープについた。しかし、やがて目覚めた彼らが見たは、いたるところに茨が絡みつき、凶暴なモンスターが闊歩する変わり果てた施設だった──岩原裕二による漫画『いばらの王』を原作とした劇場長編用アニメーション。
本作では、原作漫画にあったファンタジー的要素を抑え、パンデミックものやモンスターものといったSF映画としてアレンジがなされている。大幅な原作アレンジには好みが別れるだろうけれど、これによって重要な要素を削ぐことなく100分の上映時間にまとめあげていることは確かだろう。登場人物たちを容赦なく喰らうモンスターたちのグロテスクなデザインが秀逸で、劇中に数種類しか出てこなかったのが惜しいくらい。彼らモンスターと、キャラクターの一部──アクション・シーン全般、そして俯瞰視点から歩くキャラクターをフォローするいった殊に高度なデッサン力が要するカット──が、作画ではなくトゥーンシェイド処理のCGで制作されており、これは本作と同じく片山監督、サンライズが制作した全篇トゥーンシェイドCGによるOVA『FREEDOM』(2006)での経験を活かしたものだろう。とくにキャラクターについては画面上での違和感が若干否めないものの、随所に配置されたアクション・シーンはバラエティに富んでいて楽しい。ただ一方で、頻繁にフラッシュバック描写──しかも割と長め──が挿入されることでテンポが削がれたり、劇判に旋律的な彩りがない──メインテーマのアレンジ違いだけでほぼ全篇押し通そうとしている嫌いがある──点はちょっと残念だ。



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ストレンヂア 無皇刃譚』(2007)……安藤真裕監督。戦国時代、大陸は明朝から放たれた羅狼率いる武装集団が、赤池国領内を愛犬・飛丸を伴った少年・仔太郎を追っていた。あるとき、追っ手に襲われたところを名無しの男に救われた仔太郎は、その男を用心棒として雇い、目的地の寺を目指すが──ボンズ制作の長編時代劇アニメーション。
さすがボンズ制作だけあって作画は精緻で美しい。もちろん、剣戟アクション・シーンの完成度は非常に高く、目まぐるしい動きの応酬に見応えバッチリ。しかも流血はもちろんのこと、人体欠損描写まで逃げずにやりきったところもなかなか魅力的だ。クライマックス、赤池藩と明朝武装集団、そして名無しが本作のマクガフィンそのものである仔太郎を巡って展開する三つ巴の闘いは、血肉沸き踊る──そして実際に鮮血は噴き出し、肉が断ち切られる阿鼻叫喚の──名シーンだ。そして、その後ついに激突する名無しと羅狼とのラスト・バトルは、それまでのドラマの積み重ねもあって非常にアツく盛り上がる。
ただ、ちょっと不満が残るのは、明朝からの刺客たちの言語表現。彼らは、劇中の設定では中国語を話しているようで、実際に字幕対応箇所も多いのだが、場面によって──彼らだけしかいないシーンなど──は日本語に切り替わっているのがどうにも不自然。いっそエンタテインメントだと振り切って全篇を日本語で会話するか、あるいは全篇を中国語を話し字幕対応にするかのどちらかに固定したほうが、より物語に集中できたはずだ。せっかく丁寧な脚本で、たいへん面白い時代劇アクション映画であっただけに、奇妙なノイズとなっていて残念。



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OVA『ギョ』(2012)……平尾隆之監督。女友達とともに沖縄を旅行中の香織だったが、突如として機械の足を生やした大小さまざまな魚の群れが、強烈な死臭を撒き散らしながら本島を襲撃した。沖縄を辛くも脱出した香織は婚約者の忠が待つ東京に戻るものの、もはや日本中が魚群に埋もれるのは時間の問題だった──伊藤潤二による同名漫画を原作とした長編OVA作品。
とにかく「歩行魚」たちのヴィジュアルが素晴らしい。サメをはじめとして大小さまざまな魚が、カサコソと蜘蛛の足ように動く機械の台座に鎮座して合体した姿は、異様な迫力に満ちている。しかもその機械の爪にひとたび引っかかれようものなら、人間もまた醜く変形して腐臭を放ち、やがては機械の足と合体するという、一風変わったゾンビ映画のような設定も面白い。そんな彼らが画面を隙間なく埋め尽くして襲い来るシーンは、なんともグロテスクで恐ろしい。中盤に描かれる、あるキャラクターが小型歩行魚のプールに呑まれてゆくシーンは、『フェノミナ』(ダリオ・アルジェント監督、1985)でジェニファー・コネリーが突き落とされるプールもかくやで心底気持ち悪い(褒め言葉)。
本作では、原作から主人公とヒロインが入れ替わり、その性格や顛末も大きく異なっている。原作では、臭いについて極度に神経質でわがまま(ちょっと富江的)なヒロイン香織が、彼女のもっとも忌避する“悪臭”そのものに変容してしまうのに対し、本作では心身ともに清貧であるがゆえに物語の語り手として最後まで災厄の中を逃げ惑い──時折登場する、デニムのミニスカートから伸びる彼女の脚を“魅せたい”がための渾身の作画とカメラワークに注目だ──ながらも活路を見出そうとする展開に変更されている。加えて、そのぶん追加された彼女の女友達ふたりをはじめ、大なり小なり醜いエゴを顕した人物がことごとく歩行魚の群れに呑まれてゆくあたり、本作は不条理劇というよりも、かなりオーソドックスなというか、ハリウッド・ホラー映画テイストとなっているのが興味深い。まあ、ここまでオーソドックスになるなら、事件そのものにより明確な落とし前をつけたほうがよりジャンル的にまとまったとは思うけれど、画面を覆う魚群の臭気に満ちたインパクトには代えられない。

*1:たとえば『1999年の夏休み』(金子修介監督、1987)が以下にその映像世界を綿密に構築していたかを思う出そう。