2015年鑑賞映画 感想リスト/81-90

『MAMA』(2013)……アンディ・ムスキエティ監督。画家のルーカスは、5年前にサブプライム危機の煽りから精神を病んで失踪を遂げた兄ジェフが連れていた幼い姪っ子ヴィクトリアとリリーの姉妹を捜索し続けていたが、ついにふたりは人里離れた山奥の廃屋で野生化した状態で発見、保護される。精神治療によって少しずつ社会性を取り戻した姉妹は、ルーカスと恋人のアナベルと暮らしはじめる。しかしアナベルは家の中に、姉妹とは別の“第3の女”の存在を感じていた──ギレルモ・デル・トロが「もっとも怖い」と目に留めた3分の短篇映画「Mamá」(同監督、2008)を、彼の指揮のもと長編化したゴシック調ホラー。

最初は、半ば野生化した姉妹の“狼少年”的なストーリーになるのかと思いきや、タイトルの示すとおり鬼子母神のような幽霊にまつわる哀しい哀しいホラー作品だった。長躯で骨ばった「ママ」は、アメデオ・モディリアーニの絵画に着想を得たという奇妙な無気味さが魅力的*1。水中に浮かぶような長髪だけをCGで描き、基本は特殊メイクという、その実在感と非実在感との絶妙なバランスが雰囲気満点である*2。しかも本作がえらいのは、彼女の姿をこれ見よがしに画面に映さないことだ。じわりじわりとその存在感だけを映し出す前半から、ついに後半、ここぞとグッと闇に沈んだ影の中から現れる「ママ」の姿はとても恐ろしく、どこか物悲しい。そして、まるで絵画のように幻想的な恐怖に至るクライマックスは、必見の美しさである。

恐怖表現ばかりでなく、物語を語る小道具の使い方が面白いのも本作の魅力のひとつ。たとえば、半ば野生化していた姉妹が人間社会に戻りだす契機としてメガネを効果的に用いていたり、ママが蛾(moth)の群れとともにアナベルたちの家へ姉妹を求めて現れる。こちらは“母(mother)”になり切れない「ママ」の苛立ちを言外の予感として描くためだろう。そんな「ママ」に、同じく“母”未満であったアナベル──赤毛を黒く染め、闇に沈むような黒を基調とする衣装デザインに身を包んだジェシカ・チャスティンが好演──が身を呈して戦いを挑む姿も感動的だ。

アントニオ・リエストラの手による、寒色系のほか、ほのかに温もりのある色合いながら画面全体にグッと影を落とし込んだ撮影が美しい本作、ぜひ部屋の灯りを落としてジックリとご覧いただきたい。極上の恐怖を味わえるはずである。堂々たるゴシック調ホラーの傑作でありました*3



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グランド・イリュージョン』(2013)……ルイ・ルテリエ監督。マジシャンチーム“フォー・ホースメン”がラスベガスでショーを行うのと同時にパリの銀行から金を盗み出すという大技を行う。 FBI特別捜査官ディランとインターポール捜査官アルマが彼らの犯罪を阻止すべく捜査を開始するが、彼らのトリックを掴めずにいた。そんな折、新たな犯罪/ショーの予告が大々的に行われる──ジェシー・アイゼンバーグら主演のクライム・アクション。

マジック・ショーと強盗劇を同時進行で見せるというジャンル・ミックス的な目の付け所はおもしろいし、アメリカらしい華やかできらびやかなマジック・ショーの映像や、随所に挿入されるカー・チェイスなどのアクション・シーンも多く、映画全体がテンポよく進んでいるところは本作の美点だろう。しかし、肝心の“フォー・ホースメン”らが用いるトリック全般が雑というか、ショーの会場の階下に“誰にも知られることなく”巨大セットを造っていたり、めちゃくちゃ高性能な立体映像再生機を使ったり、挙句にメンタリズムで誰でも操れるとなっては、なんでもあり過ぎであって、本来目指していたであろうトリックのパズル的面白さはどこへやらなのが心底残念。そこは目を瞑るとしても、彼らを追う捜査官たちが総じてバカばっかりで、追走劇としてもイマイチ緊迫感がない。

一応、ラストのどんでん返しにて、どうして追う側がそこまでバカなのかという件についてエクスキューズがつくけれど、その理由もどうなんだか……。レテリエ監督でも『トランスポーター』(2002)とか『タイタンの戦い』(2010)といったアクションなら、そういう筋立ての粗さが逆に魅力にもなるのだけれど、本作に関しては本人の志向と作品との喰い合わせがちょっと悪かったのじゃないかしらん。



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ベイマックス』(2014)……ドン・ホール、クリス・ウィリアムズ監督。サンフランソウキョウに暮らす14歳のヒロは、天才的な発明少年。あるとき、大学で科学研究をする最愛の兄タダシが謎の爆発事故で命を落としてしまい、ヒロはすっかり心を閉ざし、部屋にこもってしまう。そんなとき、部屋の隅からタダシが開発したケアロボット“ベイマックス”が起動。その献身的な支えで少しずつ元気を取り戻していったヒロは、やがて兄の不審な死の真相を突き止めるべく立ち上がる──日本を舞台にしたマーベル・コミックス『BIG HERO 6』を長編化したディズニー・アニメ。

なんといっても日本とサンフランシスコの相の子ともいうべき“サンフランソウキョウ”のヴィジュアル・イメージが素晴らしい。地理やランドマーク的には限りなくサンフランシスコなのにも関わらず、その建築や看板等のデザインに絶妙に、そして徹底してジェポネズリ的味付けを加えることで、見事な実在感を得ている。こういった和洋折衷的なイメージはともするとチンケになるか、『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982)に登場するロスのように暗い未来都市を表すことが多かったのに対し、本作では明るく理想的な都市となっているのもフレッシュだった*4

ヴィジュアルといえば、やはりベイマックスの造型と質感表現、そしてアクションも素晴らしい。空気によって丸く膨らんだ表面(ビニール)のなんとも知れずやわらかそうな弾力感や、その身体を不器用そうにチョコチョコと動かす動作はたいへん可愛らしい。本来の用途ゆえに、彼の喋るの語彙もそんなに豊富ではないが、その数少ない台詞の繰り返しが少しずつ重層性を帯びてくる脚本の展開は巧みだし、後にベイマックスはヒーロー化を果たしてゆくものの、最後まで彼がケアロボットであることをぶらすことなく描き切ったクライマックスは感動的だ。

加えて、本作の描く科学に置く信頼感もまた、個人的にはグッとくるポイントだ。本作で一番心躍ったのは、前半にあるタダシがヒロを自分の研究室に連れてゆく一連のシーンだ。そこでは、タダシや彼の学友たちが、それぞれに新しい科学を模索し、その可能性を拡げている様子が描かれるが、このシーンに溢れる科学の楽しさ、未来の明るさこそ、本作が子どもたちに伝えたかったポイントのひとつではないだろうか。もちろん本作は、科学を妄信しているわけではない。しかし、このシーンがあるからこそ、後の展開で描かれる「科学は人の心なり」というがより明確に浮き彫りになるし、素敵な夢を僕たちは抱き続けられるだろう。素晴らしい映画だった。



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『愛犬とごちそう』(2014)……パトリック・オズボーン監督。ある男の愛犬ウィンストンは、飼い主と食べるジャンクフードが大好物だったが、飼い主に健康志向の恋人が出来たことで、その食事は一変してしまう。うんざりするウィンストンだったが、あるとき飼い主が恋人と喧嘩別れしてしまい──『ベイマックス』と同時上映されたディズニーの短篇作品。

徹底して犬目線で描かれる本作は、『わんわん物語』(H・ラスケ、C・ジェロニミ、W・ジャクソン監督、1955)でのカメラ・ワークを思い起こさせる。やわらかなパステルカラーで色付けされた2D風CGアニメーションに、窓から入る日光や、暗い室内で流れるテレビなどの光によって醸される空気感が加わった特の手触りも相まって、とても印象的な映像を楽しめる。ウィンストンがものをおいしそうに食べるアクションでテンポよく繋いでゆく作劇も楽しく、アニメーション作品としては非常に完成度が高い。さすが第87回アカデミー賞のアカデミー短編アニメ賞を受賞しただけのことはある。
ただ、ウィンストンがおいしそうに食べてるものがすべからくジャンク・フードというのが、どうしても気にかかる。飼い犬にそんなものをたまにならともかく、毎日やってたら死んじゃうよ! まあ、とくにミートボールを推してるのは『わんわん物語』のオマージュなんだろうけどさ。この点に関しては、“ポニョに水道水ばり”にいろいろマズいんじゃないかしらん。



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『レジェンド・オブ・フィスト 怒りの鉄拳』(2010)……アンドリュー・ラウ監督。1925年、欧州戦線で戦死した仲間の名を借り中国へ戻ってきていたチェン・ジェンは、列強の思惑が入り乱れ不穏な空気が漂う上海で日本軍へのレジスタンス活動を行っていた。極秘任務として有名クラブ「カサブランカ」のオーナーであり上海一の実力者でもある人物に近づきクラブの役員に就任したチェンは、中国人企業家や英国官僚、日本将校に各国スパイたちが集うその場所で日本軍の動向を探っていたが──ドニー・イェン主演の歴史アクション。

かつてブルース・リーの主演した『ドラゴン怒りの鉄拳』(ロー・ウェイ監督、1972)の主人公チェンが死んでいなかったら……という構想で作られた続編的作品。ドニー・イェンはリーの熱狂的ファンでもため、チェンがその身分を隠すために『グリーン・ホーネット』(1966-1967、これもリーが出演した米TVドラマ・シリーズ)の「カトー」スタイルでひとり日本軍に戦いを挑んだり、白ラン姿で本作のラスボス力石猛大佐に勝負を挑んだり、フラッシュバックのなかで『ドラゴン怒りの鉄拳』の一場面を一瞬ではあるが再現したりと、とことんリーになりきってチェンを演じているのが楽しい。また、冒頭では1917年に欧州戦線での一幕が描かれるが、ドイツ軍が侵攻する市街地を舞台にチェンがひとりカンフーで大立ち回りを演じるという画はなかなかフレッシュで面白い。

ただ、脚本部分がちょっと整理不足で、日本軍側のキャラクターたちがなにをしたいのかが微妙にわかりづらいのが難点だが、詠春拳をベースにしたらしい、俊敏で流れるような殺陣とワイヤー・アクションによる振り付けと、スピーディーなカメラ・ワークと編集がマッチしたアクション・シーンはたいへん見応えがある作品だった。



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『NY心霊捜査官』(2014)……スコット・デリクソン監督。ニューヨーク市警察の警察官であるラルフ・サーキは、相棒が「レーダー」と呼び習わす第6感を持っていた。彼は、動物園で母親が我が子をライオンの檻に投げ捨てた事件や、妻に対して激しい暴力をふるった男性の事件を捜査するなかで、それぞれの事件に奇妙な符合を発見してゆく。そんなとき、サーキの前にメンドーサと名乗る神父が現れ、この一連の事件は悪霊が引き起こしたものだと助言するが──元ニューヨーク市警の巡査部長であり、実在する霊能力者だとされるラルフ・サーキの手記『エクソシスト・コップ―NY心霊事件ファイル』(楡井浩一訳、講談社、2001)を原作としたオカルト・ホラー。
不勉強ながら、本作の原作となった手記を未読のため、どこまで映画用に脚色がなされているのか現時点では判らないのだけれど、映画の展開は『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン監督、1973)のそれ──たとえば、現象の原因となる遺物がイラクで発見され、悪魔は遠く海を越えたアメリカで再来しようとする、とか──を割と引き継いだ感じで作られているのが興味深い。また、本作の肝である、悪魔にまつわる怪奇現象の描き方のテンポ感がかなり良い。急にアタックをかますのではなく、日常的な雰囲気から主人公サーキの持つ警察無線の混線をトリガーに、照明が消えたり不可思議な囁き声が聞こえだしたりと映像や音響に少しずつ闇や不和を混じらながらながら緊張感を溜めて、ついにサーキも観客も一瞬ふっと息切れした瞬間を突いてギョッとするものが画面に映るという感じで、非常に丁寧に段取りを踏んだ恐怖演出が素晴らしい。オカルト現象の成れの果てとして登場する暴力描写、はたまた死体や呪術具といったゴアな美術──18禁にするほどではないと思うけど(ただ、愛猫家は注意して!)──ひどく無残な雰囲気を醸すいい仕事をしている。
こういった具合で、後半まではめっぽう不穏な空気が画面全体に張り詰めているのだが、クライマックスでいよいよサーキとメンドーサ神父が警察の取調室で悪魔憑きに悪魔祓いの儀式を行うに至って少々派手な方向にシフトしすぎたのが、いかんせん残念。悪魔が文字どおり身を裂いて現世に現れようとするエフェクトは見応えがあるものの、端的にいって画面が明るすぎるんだよなぁ。とはいえ、これも含めて映画内の緩急のバランス感覚がいいので、部屋を暗くして、ぜひご覧ください。



     ○



攻殻機動隊 ARISE/border 4: Ghost Stands Alone』(2014)……黄瀬和哉総監督、工藤進監督。水の利権を巡る日本政府と国外カルテルとの協定締結に反対するデモが執り行われるなか、突如としてその場を警備していた機動隊が一般市民を無差別に虐殺し始める。すべてはファイア・スターターによる集団電脳汚染が原因だと突き止めた草薙たちは事態の制圧を図るが──士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』をベースに、草薙が公安9課を設立するまでの前日譚を描く新シリーズ第4作。
冒頭に描かれる、押井版に影響された『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟監督、1999)のいちアクション・シーンに影響されたのではないかと思われる高層ビル突入と脱出シーンを筆頭に、精緻でかつスピード感に溢れるアクション作画は、どれをとっても素晴らしい。とくに後半、手首の関節が折れたままに動き回る草薙の手の表現がなんともいえない。「オズの魔法使い」に自らを見立てた犯人像も、本シリーズの問うSF的生命観とも相まって、なかなか考えさせられる。
ただ、しかしというか、やはりというか、ミステリーの謎解き部分に関しては、尺が短い分、矢継ぎ早に展開されるアクション・シーンと同時進行で早足に台詞のやりとりで説明されるばかりで、なかなか動体視力が追いつかずにしんどい部分もあった。先ごろまで放送されていたTVシリーズでは、一応の完結編にあたる本エピソードを第1-2話として放送したようだが、これはさすがに乱暴な時系列シャッフルじゃないかなあ。



     ○



プリズナーズ』(2013)……ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。感謝祭の日、工務店を営むケラーの幼い愛娘が、隣人の娘と一緒に忽然と姿を消してしまう。捜査を担当したロキ刑事は現場近くで不審な行動を取っていた青年アレックスを逮捕するが、彼は10歳程度の知能しかなく、証言も取れぬままに釈放期限を迎えてしまう。進展しない捜査にいらだったケラーは、ついにアレックスを監禁して手がかりを得ようとするが──ペンシルヴェニアののどかな田舎町を舞台に展開されるミステリー・サスペンス。
そこかしこに置かれた伏線が繋がってゆく脚本、厚い雲が空を覆った陰鬱な風景と心象を映しきった名匠ロジャー・A・ディーキンスの撮影の美しさと、まったく無駄のない演出が噛みあった重厚な150分だった。次第に暴走気味になってゆくケラーを演じたヒュー・ジャックマンをはじめ役者陣の演技も素晴らしい。とくに、本作の狂言回しとなってゆくロキ刑事を演じたジェイク・ギレンホールの静かな目つきが印象的。少年院に収監されるほどの悪ガキだった彼がすっかり更正して優秀な刑事となったという設定を、その名前に反してキリスト教的な意匠──十字架の刺青や、ときおりニット帽を被ってみたり──を散りばめた象徴的な神の使徒として描いているのも面白い*5
二転三転する事件そのものもそうだが、そのなかに置かれたキャラクターたちの言動が、それぞれの思想/信条が様々なところで対構造となって浮かび上がってくることも、さらに興味深い。諦めるのか否か、暴力にすがるのか否か、信仰するのか否か──小児誘拐事件を軸に、この思想合戦とでもいうべき闘いが、じつは全篇に渡って繰り広げられる。その是非はともかく、その意味において人は皆“囚人”となってゆくさまを、映画は刻々と描き出すことだろう。



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『NO』(2012)……パブロ・ラライン監督。1988年、15年間に渡り軍事政権を率いてきたピノチェト将軍は、独裁を非難する国際的な圧力を受け、政権の信任を問う国民投票の実施を発表。投票日までの27日間、現政権(Yes)派と反政権(No)派の両陣営が、1日15分間のテレビCMを深夜に放送することが認められた。「No」を率いる左派連合メンバーのウルティアは、フリーの広告マンで長年の友人であるレネにCM制作を依頼する。はじめこそ気乗りしなかったレネだが、次第に広告マンとしてのプライドを刺激され、本格的に「No」のCM制作にのめり込んでいく──実話をもとにした社会派エンタテインメント。
本作は、実際に使用された広告映像と合わせるために本編も1988年当時のアナログ・カメラ規格で撮影されている。だから、現在の基準からするとすこぶる画質は粗いのだけれど、むしろその映像の手触り──そして、手持ちカメラによる撮影と編集──は、本当に当時製作されたドキュメンタリーを観ているかのような臨場感があって面白い。
本作の興味深いところは、いわゆる政治的闘争ではなく、ピノチェト政権と反独裁政権との広告合戦を主軸に描いてゆくところだ。主人公の広告マンであるレネは、反ピノチェト側が当初提示した「独裁政権によって我々はこんなに長く抑圧され、苦しんできた。だから“NO”といおう」という重々しい広告にまずノーといい、そうではなく人々の心を恐怖や怒りからではなく、自然に軽やかに動かすために、明るくポップなMTV風の広告戦略を打ち出す。政治的主張や言説の如何より先に、まず彼のプロ意識から歴史が動き始める展開は、なかなかに考えさせられる。もちろんレネは、独裁政権お得意の脅迫の矛先となったり、自分たちの作った広告の誹謗中傷パロディを、ピノチェト側に雇われた彼の上司に作られたりと、様々な嫌がらせを受ける。それでも広告マンとしての信念を曲げることなく戦い続けたレネが、やがて訪れた結果をひとり静かに噛み締めるクライマックス・シーンは、とても感動的だ。
そして、それ以上に僕が胸を打たれたのは、それに続くちょっとしたラスト・シーンだ。レネのその後の日常の一幕が描かれるほんの数分のシーンだが、ここにこそ、彼らが広告で謳い上げた理想の一欠──政治的言説は抜きにして──が、そして同時に広告によるキャンペーンのもたらすものへの深い洞察が表れているように思えてならない。さまざまな知見に満ちた作品だ。面白かった!



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TVM『降霊 KOUREI』(1999)……黒沢清監督。仲むつまじく静かな生活を送る、効果音技師の克彦と妻・純子。しかし、一見平凡な純子は霊能者であり、その力に興味を持つ大学院生・早坂の実験に参加したりしていた。そんなある日、少女誘拐事件が発生。警察は犯人を逮捕するも、その際に犯人は事故で意識不明となってしまう。事件の糸口をつかもうと、警察は早坂を通じて純子に協力を仰ぐが──マーク・マクシェーンの小説『雨の午後の降霊術』(1961)を原作とした心霊ホラー。テレビ用に製作され、後に単館上映もされた。
不穏なカメラ・ワークと編集テンポが、じわりじわりと真綿で首を絞められるような、なんとも知れぬ恐怖を放つ。なにかが起こるときの、画面の独特の暗鬱な色合いも去ることながら、絶妙に切り取られた画郭をさらに狭めるように配置されたなんらかの壁や格子という境界線、そのなかに捕らえられた──或いは、まだ踏み込んでいない──キャラクターたちの配置、そして映り込んでしまう幽霊に息が詰まる。幽霊の登場シーンが恐ろしいのはもちろんのこと、主人公たちが霊障に見舞われはじめる理由を描く展開が、それをじっとりと盛り上げる。
少女誘拐事件にひょんなことから巻き込まれ、それがきっかけとなって発露する彼らのちょっとした──しかし許されざる──エゴが、まるでシャツのボタンを掛け違えるかのように最悪な結末に向かう選択を次々にさせてゆく様は、「も、もう止めようぜ……」と、とてつもなくもどかしい。克彦が録音技師であることが、物語にもうちょっと絡むとなおよかったのではないか、とは思う*6が、タイトルの“降霊”という言葉が、重層的に響いてくるラストまでじっくりと味わいたい一作だ。



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TVアニメ『長門有希ちゃんの消失』(2015)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150726/1437881235

*1:あるいは弐瓶勉の漫画『BIOMEGA』に登場する巡回査察員の顔を思い出さなくもない。

*2:ゆえに、メイキング映像もなかなかギョッとする。

*3:ちなみに、元となった短篇は純粋に怖いので、こちらもお試しあれ(特典映像に収録)。

*4:シーンによっては意図的にちょっと退廃的に見えるようにしているが

*5:指にはフリーメイソンの指輪をしていたり、占星術の刺青を彫っていたりと、彼はありとあらゆる反キリスト教的な世界観にいたことも示されてる。

*6:といいつつも、その「絡んでさえいれば……」というもどかしさこそが、本作の目指すところかもしれない。