『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(実写版・前編)感想

樋口真嗣監督。諫山創による同名大ヒット漫画を実写映画化したSFアクション2部作の前編。主演は三浦春馬長谷川博己水原希子本郷奏多ら。

100年以上の昔、謎の巨人たちが突如出現し、人類の大半を喰い殺した。かろうじて生き残った者たちは、巨大な3つの壁を同心円状に築いて区画を分け、その内側でどうにか平和な生活を維持することに成功。人々は壁の内側で平穏な日常を当たり前のように送っていた。

時は移り現代。幼なじみのミカサ、アルミンと強い絆で結ばれた青年エレンは、壁の外に広がる未知の世界に憧れを抱き、安穏と暮す周囲の人々に苛立ちを募らせていた。そんなある日、想定外の超大型巨人の出現によって壁の一部が崩壊。そこから数多の巨人が人里に侵入してしまう。壁の警備隊長ソウダの指揮も空しく、巨人は農耕地区の村人を襲撃。人々が次々と巨人に呑み込まれてゆき、最愛のミカサはエレンの目の前で行方がわからなくなった。

それから2年後。惨劇を生き延びたエレンやアルミンたちは、人類が巨人に対抗すべく結成した武装調査団の一員として、決死の外壁修復作戦に臨むため、訓練もそこそこにかつての故郷モンゼンを目指すことになった。かつて超大型巨人が壁に開けた穴の周囲を爆破して塞ぎ、これ以上の巨人流入を防ぐのが作戦の狙いなのである。その道中にある前線基地で、エレンは思いも寄らぬ人物と再会するが……。


     ○


原作漫画は不勉強ながら、だいぶ前に第2巻まで読んでそれっきり*1で、非常に評価の高いテレビアニメ版(もしくは、その総集編である劇場2作品)についてもまったくのノー・タッチの状態で鑑賞とあいなった。なので、僕自身の『進撃の巨人リテラシーは非常に低いことをまずもってお断りしなくてはならない。

で、まず結論をいえば、本編部分は相変わらず稚拙だが、特撮部分──とくに巨人は尋常でなく怖くて最高! 
……ということになるだろう。


     ○


本編のドラマ部分の演出に関しては、とにかく稚拙。どのシーンも演出、演技のテンポ、カメラワーク(一部、特撮と絡むようなところを除く)*2、編集などすべておいて抑揚に欠け、そのくせ同じようなテンポでだらだら続くものだから、ちょっと観るに耐えない。人間ドラマになると途端にスケールもへったくれもなくなる樋口演出の腕は、なにひとつ向上していないのはいかがなものか。正直、やはり本編監督は別に立てたほうがよかったのでないか、とさえ思えてくる。

めったやたらとフラッシュバックを使いたがる演出も噴飯モノで、たとえば、せっかくの見せ場である特撮シーンにおいておや、立体機動装置の説明を挟み込んだりして、ただでさえ悪いテンポをさらに断ち切ってなにがしたいのか。立体機動装置といえば、その映像そのものはよかったものの、やはり映画の前半で、エレンやアルミンたちの兵士としての訓練シーンをせめて10分でいいから入れておくべきだった。そうすれば、本作の世界観の補強にもなるし、エレンたちがろくに訓練も経ていない寄せ集め集団であることも描けるし、なによりエレンやアルミン以外のサブ・キャラクターたちの特徴について、もっとスムーズに前フリとして説明が加えられたはずである*3。そもそも、現状の本編をもっとソリッドに切り込めば、尺を切らずに内容をより充実させることは十分可能だったはずで、そういうところがもったいないどころの話じゃない

脚本に関しては、担当した渡辺雄介フィルモグラフィーから、かなり警戒していたけれど、あるいは同じく脚本担当となって話題を呼んだ映画評論家・町山智浩の手綱引きが効いたのかどうか、無茶な破綻そのものは少なかった。とはいえ、やはり演出その他で、粗がより一層目立っている部分もチラホラある*4。また、せっかく舞台や人名を欧州から日本へ切り替えるなどして、キャスト陣が単なるコスプレ大会にならないように留意しているのに、鷺巣詩郎の音楽はなにを思ったか、スコットランド風のモティーフを持ってきたりして、やっぱりチグハグな印象は拭えない*5


     ○


とはいうものの、本作も悪いところばかりではない。よかったのは、なんといっても巨人がらみの特撮である。

多くの方がすでに指摘しているとおり、本作の巨人描写には並々ならぬものがある。そのなんとも知れぬ無気味な造型の気持ち悪さ、彼らが無慈悲に人を貪り食う一連のシーンの数々はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。捕食される人間が、無力にも摘み上げられては絶叫し、真っ二つに噛み切られては咀嚼され、四肢を裂かれては呑みこまれ、壁に地面に叩きつけられては血の染みと化してゆく様を延々見せ付けられる数多のシーンは、こちらの予想をはるかに上回って怖いのである。その異様な迫力と恐ろしさから、観ているうちに暗い感情がふつふつと湧き上がってくる。

なぜ、本作の巨人はそんなに怖いのか──? それは決して、そのヴィジュアル的な残酷さや派手さばかりに起因するものでないだろう。それだけなら、そのシーンに単なるカタルシスを覚えて終わっただけに違いない。では、なにがここまで心を揺さぶるのだろうか。それは、巨人に観客が恐怖するとき、われわれ観客がある人物を通じて巨人とある種の共犯関係を結んでいるからではないだろうか。


     ○


【以下、構造分析につきネタバレを含みますのでご注意ください】


それは主人公エレンである。

そして、本作の巨人とは、彼の無意識下に抑圧された欲望の化身ではなかったか。


     ○


たとえば冒頭において、人類を囲う壁の崩壊──巨人の出現──を願っていたのは、誰あろうエレンだった。巨人が襲う人々を、囲われた塀のなかでのうのうと暮らしていると軽蔑していたのも、エレンだった。巨人たちから逃れるために、ほかの多くを犠牲にしてまで教会に立てこもった村人たちを「自分たちだけ助かれば、それでいいのか」と罵倒したのはエレンであり、その村人たちはやがて篭城が仇(あだ)となって巨人たちに貪られる*6

あるいは中盤からクライマックスにかけて、エレンやアルミンたちが所属する部隊に襲い来る巨人がいかにして登場したかを思い出そう。

中盤では、冒頭でミカサと一緒に赤ん坊を──不可抗力とはいえ──見捨ててしまったエレンの罪悪感を煽るような姿をした巨人が現れるし*7、クライマックスでは彼に向けられた性的な誘惑と、それによって喚起されたエディプス的欲望を忌避するために巨人が現れる*8


     ○


このように本作において、巨人は徹頭徹尾エレンが望むときに、そのとおり出現する。そして巨人は、彼が望むままに村を蹂躙し、人々を無惨に食い殺すだろう。さらにいえば、巨人はエレンが死を望む人物*9を的確に殺し、同時に彼が死を望まない人物は決して殺さない。たとえば冒頭の殺戮から、アルミンやソウダ、そしてミカサが──なんの説明もないままに──どうして生き残れたのか。それは、エレンがそう望んだからにほかならない*10。その選択は非常に恣意的だ。彼は、巨人によって人を殺すのだ。

つまり巨人は、エレンの抑圧された欲望の化身として、その猛威を振るうのである。そして、エレンと同じく巨人の出現を、彼らの殺戮ショーを願ったのは、いったい誰であったか? 普段、意に沿わぬ連中をぶち殺したいと夢想するのは誰か? それは、ほかならぬ僕ら観客であることを忘れてはならない。

観客が本作の巨人を観るとき、自らの暗い欲望に、エレンを通じて知らず知らずのうちに向き合わされていたのではなかったか。巨人は、僕らの望むままに画面に現れては、人々を蹂躙することだろう*11。本作の怖ろしさとは、巨人がエレンの──つまり、われわれ観客の抑圧された欲望の化身(=症候)そのものであることを明確に示し、そしてそれを否応なくまざまざとスクリーンに開示してみせる点にある。だからこそ、いいようもなく怖いのである。

無意識下に抑圧されたものが症候として回帰するとき、それは必ず「無気味なもの」として顕れるとは、フロイトの洞見だ。そして無気味なものとは、われわれが“よく慣れ親しんだもの”だと、フロイトはさらに考察を展開する。本作における巨人が、これまでのヴィジュアルと比べても、はるかに人間っぽく描かれているのは*12、故なきことではないだろう。とくに彼らを演じたのと同じ肉体を持つわれわれ日本人には、まさしく見慣れた無気味なものとして、スクリーン上に回帰するに違いない。


     ○


ところで、エレンの欲望にしたがってキャラクターの生死が決まるのであれば、ことあるごとに彼とやりあっていたジャンや、愛するミカサを彼から奪ったかのようなシキシマという、エレンにとって唾棄すべき人物たちがどうして生き残るか、という疑問が生じるかもしれない。しかし、このふたりは生き残るべくして生き残っている。なぜなら彼らは、エレンの敵対者ではないからだ(ただし、いまのところ)。

まずジャンだが、彼の言動や態度の幼さから考えるにエレンの鏡像的な人物である。ジャンの行動原理は裏を返せばエレンのそれと同じであり、ふたりは同じ穴のむじな、つまりはジャンはエレンの分身=彼自身である*13。ジャンが失われては、エレンはその自我を維持できないだろう。

そして、シキシマ。彼は、エレンと付かず離れずの心的距離を保ちながら言葉巧みにエレンを挑発し、その抑圧した欲望に向かうように仕向ける、いわば精神分析家としての役割を担っている。分析家=シキシマなくしては、患者=エレンは彼が抑圧したものに気付くことすらできなかったはずだ。そしてシキシマは、エレンのミカサへの感情をキーにして彼を自らに「転移」させることで、エレンを治療しようとするだろう。


     ○


中盤、エレンをひとり呼び出したシキシマは、しきりにエレンの巨人や現状の社会についての考えを彼の言葉で口にさせようと挑発する。ここでのシキシマの振舞いは、そこに患者=エレンが横になる安楽椅子こそないが、精神分析家のそれを思い起こさせる。

ここで思い出したいのが、精神分析において患者がその症状を治癒するためには、抑圧したものについて患者自身が自らの言葉で解釈し、それを語れるようにならなければならない、ということだ*14精神分析家は、いわゆる医者のような治療者ではなく、援助者としての側面が強いのである*15

そして、シキシマの中盤での治療行為が、ここだけでは完了しなかったことは、その場を辞したエレンが言葉にならない叫び声を上げるのをみれば明らか──演出上の不備はともかく──だ。エレンが自身の抑圧した欲望と向き合い、それを彼の言葉で口にするのは、クライマックスまで待たねばならない。


     ○


本作のラスト・シーンでは、シキシマの働きかけもあって、エレンが自身の無意識的欲望たる巨人と対峙し、自ら巨人へとミューテイションすることで打ち勝つ。ここでエレンは、彼が巨人によって人を殺すという欲望を、彼が巨人になって巨人を殺す*16という物語に劇的に文字どおり転換することで、自身の症候の治療を見事に果たしたと捉えることができるだろう。エレンがついに「(巨人を)駆逐してやる!」と言い放つことは、彼にとって治療が完了したことだったのだと考えられるだろう*17

同時にここにおいて、エレンの通過儀礼が果たされることを強調するのも故なきことではない*18。いままでみてきたように、彼の欲望は、その破壊性やエディプス性において非常に幼児的なもの*19であることから、この展開は必然だ。

本作のラスト・シーンが、樋口監督のドラマ部分における演出のどうしようもない稚拙さがありながも、なお異様な迫力を放つのは、特撮映像の迫力に加え、このように普遍的な昇華と成長が重層的にしっかりと織り込まれていることと無縁ではないはずだ*20


     ○


全2部作の前編である本作において、エレンが当初抱えていた症状は見事に治療されたようにみえる。したがって、次回作である完結編『エンド オブ ザ ワールド』では、巨人の意味合いが、本作とはまったく異なったものになるのではないかと予想している。そして、巨人ではなく、別の何者かを倒すことによって、エレンの次なるステップ──すなわち、おそらくは父=神殺しが、世界の果てで展開されるだろう。

そういった意味で、次回作への興味は尽きないし、劇場に観にいくのにやぶさかではない。みてきたように、主人公を通じて観客とモンスターとに無意識的な共犯関係を迫るのは、じつは優れたモンスター映画の多くにみられる手法であり、その点についてはかなり巧くいっているのは間違いないと思われる。が、それだけに、やはり本作のドラマ部分全般のなんとも知れぬユルさが、もったいないといおうか、なんといおうか、惜しまれるところである。巨人のシーンとの完成度に差がありすぎるのだ。

これでもっと、本編部分の演出がもっとソリッドに刈り込まれて、脚本の枝葉のどうしょうもないミスとかを精査しておけばという念は拭いきれない。もっともっと、なんなら世紀の傑作になりえるポテンシャルは秘めているのに、それを活かしきれていない。それが後編にも引き継がれているのかと思うと、少々気が重いのも正直な印象だ。

なので、公開までもう少しだけ時間もあるわけだから、もう少しドラマ部分の編集をなんとかアレしていただいて、もうちょっとソリッドにしてほしいなぁ、なんて思う次第であります。ともあれ、巨人たちに恐怖しに、ぜひ劇場にお出かけください。


     ▼


※後編の感想>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20151001/1443704031

*1:くしくも、本作と同じような幕切れだったような曖昧な記憶がある。

*2:横移動をひたすら長くすれば、広い空間が描けると勘違いしていふしがある。

*3:あの長ったらしい食堂シーンや、これまた長ったらしい出征直前の家族との別離シーンばかりで誰も彼もというのは、さすがに無理がある。

*4:たとえば、巨人は人間の声に反応する件、とか。

*5:また、本編そのものが前述のように間延びしているためか、ちょっと音楽を入れすぎていて、ここぞというときのインパクトにかけるのは残念というほかない。

*6:篭城した村人たちは同時に、エレンが抑圧した「自分は助かりたい」という利己的な欲望の表彰でもあるだろう。エレンを見つめる村人たちの無気味な表情が、巨人のそれと同じであるのは、間違いなく恣意的な演出だ。

*7:あるいは、その罪を、まだ幼い子どもを置いて前線に参加したヒアナに転嫁するかのような……。

*8:この直前、エレンは人目から隠れて性行為に及ぶカップルを覗き見(=原光景)し、同時に一児の“母”であるヒアナから誘惑される。これをファリックな巨人が許すはずもない。

*9:エレンが罵った村人や、彼に原光景を見せつけて恐怖させたカップル、そして彼を近親相姦──象徴的な意味おいて──の罪に誘ったヒアナなど。

*10:彼/彼女たちは、エレンが具体的になんらかの好意を寄せる人物だ。クライマックスにおいて生き残る面々も示唆的だ。

*11:本作の賛否両論様々に語られる評判のなかで、とくに見かける批判の中に「任務遂行中という非常時に、セックスするバカがあるか」という、件(くだん)のカップルについてのものがあるが、彼らがきっちり劇中で巨人によって“死ぬ=罰せられる”展開が用意されているのは、批判者の欲望にいみじくも応えた結果となっている。

*12:また、ほかの批評等を拝見するに、巨人の声や表情の演出も、これまで以上に人間っぽくなっているようだ。

*13:そして、クライマックスにおいてエレンが自ら通過儀礼に向かえたのは、ジャンという半身があればこそである。

*14:抑圧したもの=トラウマ記憶は、当人にとって言語化不可能であるがゆえに、身体的な症状や映像的なフラッシュバックによって何度でも無意識の底からわきあがってくる。

*15:ラカン以降、患者は「分析主体」と呼ばれることがあるのはこのためである

*16:もしくは、「彼が巨人になって人──とくにミカサ──を守る」。

*17:シキシマがエレンに連想させた、憎悪の対象としての「家畜(ちく)」という言葉は、あるいは「駆逐(ちく)」から無意識的に置き換わったものだったのかもしれない。事象に抑圧する際、それを判事絵──駄洒落や言い間違い──的に置き換えたり圧縮したりして記憶をウヤムヤにするのも、無意識の機能である。

*18:片手・片足を巨人によって噛み切られるのは象徴的な去勢だし、これまでファリックなふるまいをしてきた巨人たちに自ら成り変って彼らをなぎ倒すのは、去勢不安の抑圧そのものだろう。

*19:巨人に対して無力であること、あるいは塀に囲われて家畜のように生きるしかないことへエレンが抱く不満は、それにも関わらず彼が死なず、その生き方を潔しとしないと嘯くことで、逆説的な万能感を彼に与えている。彼は、なにもできないが故に万能感にひたる赤ん坊と同じなのだ。

*20:この意味において、本作の物語は、非常に古典的なハリウッド映画の構造を持っているといえる。どこまでの関与があったのかは判らないが、おそらくこの辺りに、町山智浩のアイデア出しの結果が出ているのかしらん、と思ったり。