『屍者の帝国』感想

牧原亮太郎監督。2009年、わずか34歳の若さで夭折したSF作家・伊藤計劃。彼の遺稿である冒頭30枚を引き継いだ円城塔が完成させた長編SF小説屍者の帝国』(河出書房新社、2012)*1を劇場用長編アニメーションとして映画化。


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かつてヴィクター・フランケンシュタイン博士によって発明された死体の蘇生技術がついに実用化された19世紀末。ネクロウェアと呼ばれるプログラミングを経て単純動作を可能にする屍者は、いまや労働力や兵力として欠かせない存在となり、あまねく世界に波及していた。

そんなロンドンに暮らす医学生ジョン・ワトソンは、死んでしまった親友フライデーを自らの手で違法に屍者化し、失われた彼の魂を取り戻そうとしていたが、その違法行為が当局に知れてしまう。しかしワトソンは、その類稀な才能を見込まれ、懲役刑の代わりに諜報機関“ウォルシンガム”の諜報員として働くことを命じられる。機関を指揮する“M”によってワトソンに与えられた指令とは、かつてフランケンシュタイ博士によって創造された意思を持って言葉を話す唯一にして最初の屍者“ザ・ワン”と、彼を生み出す秘術が記された「ヴィクターの手記」の捜索だった。

ボンベイへと向かったワトソンは、そこで合流した同じく諜報員のバーナビーと、ロシアから派遣された諜報員クラソートキンと共に「ヴィクターの手記」の秘密を握るという人物が潜むアフガニスタンの山奥を目指し、一路過酷な旅に出る。しかし、彼はまだこの事件の裏に渦巻く陰謀に気付いていなかった……。


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本作はなにより、脚色は非常に見事。いくつもの見せ場を連ねてゆくことで重厚な世界観を描出してみせた原作小説において、そのまま2時間にしてはいささか猥雑となるような──あくまで映画化にあたってのことではあるが──エピソードを大幅に省略・変更し*2、また、登場するキャラクターの数を抑えて役割を整理したこと*3で、非常に映画として無理のなくスッキリとまとまっている*4。とくに原作モノにおいてありがちな、ただ物語を早回しで追うダイジェストになっていない点は、評価されるべきポイントだろう。

また、後半からクライマックスにかけて、本作の物語は原作小説から大きく逸脱する。ネタバレになってしまうので詳しくは書くことは控えるけれど、この賛否両論ありうる改変を、僕はむしろ評価したい。もちろん原作小説の展開も素晴らしく、たいへん面白く読んだのは間違いないのだが、しかして伊藤計劃の絶筆を引き継いだ円城による物語は、限りなく伊藤計劃的な円城塔小説を読んだなという印象*5をどうしても拭えない。もちろん執筆者が違うのであるから、これはしかたのないことだ。

そこで映画版である。今回、本作が物語のクライマックスに加えた大胆な改変はむしろ──語弊を恐れずいうならば──じつに伊藤計劃的であったのだ。本作で描かれるある種のカタストロフィーは、『虐殺器官』(早川書房、2007)や『ハーモニー』(早川書房、2008)で伊藤が描いてみせたそれを原作小説よりも如実に思い起こさせるもので、その意味において、本作の脚本は伊藤計劃的エッセンスを正しく引き継いだものだといえるだろう。


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上記のような意味において、本作は評価されるべき部分は少なくないというにやぶさかではない。作画や背景美術のクォリティも総じて高く、その色合いも美しい。がしかし、そういった素晴らしさと裏腹に、大きく魅力を削いでしまっている部分もまた少なくないことは指摘せねばならない。
それをひと言でいうなら、本作は全体的に演出がひどくくどいのだ。

どういうことかというと、本作は設定や世界観、キャラクターの心情について、必要以上に──文字どおり言語的な意味で──饒舌に過ぎる。伊藤計劃の遺したエッセンスを過たず観客に伝えようと意気込みすぎたのかどうか、とにかく説明過多であり、観ていて少々胸焼けすら覚える。


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【以下、脚注において一部ネタバレありなのでご注意ください】


まず、いえるのは、説明描写の無用な反復だ。

たとえば冒頭からすでにしてその症状は顕れている。本作は、ワトソンが屍者であるフライデーの起動実験をおこなうシーンから幕を開ける。ワトソンがフライデーの起動処置をこなすのをカメラは映しつつ、「まず必要なのは死体だ──」というワトソンのモノローグで始まるこのシーンでは、ワトソンによって本作の大まかな世界観設定──死体を屍者として擬似的に蘇らせる技術が世界に浸透したことが語られる。それによって観客は、フライデーが屍者として目覚める頃には、本作の提示するSF的前提を理解するだろう。

しかし、それに続くシーンは、いわゆるオープニング・クレジットというやつであるが、ここでは「ナレーター」がご丁寧にも先ほどワトソンが語った説明を繰り返すのである。このふたつのシーンの間には5分と間はないにも関わらずである。もちろん、このナレーションに追加情報が加えられているとはいえ、むしろそれを描くのであれば、たとえばワトソンとフライデーがMに従って機関のあるロンドン塔──クライマックスにおいても重要な舞台である──を歩くといったようなシーンとして処理したほうが、いくらか滑らかだったのではないだろうか。

以降、一事が万事、こういった感じで設定的に重要と思われる事柄やキャラクターの感情などが初出から間を置かず2回3回と繰り返される演出が頻出する。それに加えて映像だけで描き切っている描写にすかさず説明台詞を重ねる部分もしばしばあり*6、その台詞のぶん場面全体が間延びしてしまっている感は否めない。


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また、これに輪をかけるのが、ワトソンの回想シーン──フラッシュ・バックの多用である。これは本作において、展開のテンポを悪くするばかりでなく、物語的な意味でも弊害をもたらしているように思われる。



本作において、クライマックスの展開以上にアレンジが加えられているのが、じつはワトソンとフライデーの関係性である。原作小説におけるフライデーは、「ヴィクターの手記」を巡る諜報戦に投入されたワトソンに支給された英国所有の物品(=記録と翻訳機械)であるが、映画版におけるフライデーは、その学友で親友であったワトソンが彼に執着するあまりに違法に屍者化した存在なのだ。したがって、ワトソンが物語に挑む動機もまた、大きく異なる。

本作におけるワトソンの動機は、「ヴィクターの手記」に記されているとされる秘儀によって親友だったフライデーを元のままに蘇らせたいという──どちらかといえば大儀の側面の強かった原作小説と比較して──非常に個人的なものなのだ。もっといえば、本作におけるワトソンはある種の狂気に取り付かれているのだ。

このアレンジが悪いわけではない。むしろ、映画の物語を主人公に引き寄せるという意味で、原作小説よりも推進力が強まったといっていいだろう。ワトソンを暗鬱に彩る狂気の色は、本作の物語をより切実な感情として描き出そうとするだろう。



しかし、ここでその足を引っ張っていると感じられるのが、ワトソンの回想シーン──つまり、生前のフライデーの描写である。なるほど、生前のフライデーを精緻に描くことで、ワトソンがなぜ彼を屍者としてまでも傍に置き、さらには蘇らせようとしているのかの具体的な説明となるだろう。

だが同時に、このフラッシュ・バック描写は屍者である──佇まいから医学的見地にいたるまで明らかに人間ではない──フライデーに執着し続けるワトソンの狂気性、あるいはその切実さを薄めてはいまいか。

それよりも、生前のフライデーの姿を敢えて観客に伏せることで、彼に対するワトソンの感情の切実さがより浮き彫りになるのではないだろうか。そして、やがてワトソンが本作の敵役である“ザ・ワン(=フランケンシュタイの怪物*7)”たちにむしろ同化してゆく展開*8に説得力が生まれたのではないだろうか*9


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ことほど左様に、ここに挙げた要素をドライに刈り込んで観客に映画を読み込む余地を与え、それによって出来た余剰部分にむしろ本作に足りていない説明──いちばんは、本作が原作小説をではなく、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(1818)を読んでいなければ理解しづらい点*10──を継ぎ足したほうがより建設的だったのではないだろうか*11

……と、くどくど書いてきたけれど、本作の目指した方向性そのものは間違っているとは思わないし、もちろん原作小説がそうであったように亡き伊藤計劃に徹底的に手向けられた作品であったのはたしかである。そして、上に挙げた説明過剰ゆえのくどさは、本作を劇場用アニメーションとして全国展開して過たず亡き伊藤計劃を誰しも──原作ファンのみならず、彼の著作を知らないSFファン、映画ファン、アニメファン、etc....──に知らしめようという、間口の広さを求めたがゆえのいびつさだったかもしれない。だからこそ、より高められた完成度の夢を、僕はみてしまうものである。



それに本作の病理は、本作に限ったことではないのも事実だ。つまるところ、
邦画はもう描写反復フラッシュ・バック禁止!
──ってことでひとつ。


     ※

*1:伊藤自身による冒頭部は、早川書房の『SFマガジン』2009年7月号に掲載された後、大森望編『書き下ろし日本SFコレクション NOVA1』(河出書房新社、2009)の1篇として書籍化されている。

*2:たとえば、導入部は非常にスピーディになり、明治時代の東京が舞台となる第2部のエピソードなどは、「大里化学」部のみに限定などしている。

*3:原作小説では重要キャラクターとしてクライマックスまで登場し続けるキャラクターを敢えて完全にオミットしたり、途中退場させるなどしている。

*4:原作小説において、クライマックスなど登場人物が揃い踏みするにあたって、いささか円城の筆──あるいはフライデーの筆(?)──が、彼らを捌ききれていない嫌いがある。

*5:作中の時代設定があと20年下っていれば、必ずやフロイトが登場するであろうSF的ギミックについて、とくにそのように感じた。菌株(=strain)の“S”とは、まさしく大文字の他者を示す“S”にほかならない。

*6:ハダリーの正体が知れるシーンなど。

*7:これは余談だが、本作においてヴィクター・フランケンシュタインが造った怪物──最初の屍者的ではあるが、異質な存在──をザ・ワンとするなら、どうしてボリフ・カーロフみたいな屍者を登場させたうえに大立ち回りを演じさせたのか。そんな、いよいよ判りづらくなるキャスティングをするくらいなら、むしろ原作小説からオミットされた要素として、ベラ・ルゴシとかクリストファー・リーとかピーター・カッシングあたりを出演させればよいではないか。

*8:本作の敵として設定されているのは、ザ・ワンと、ワトソンに諜報活動を命じた「ウォルシンガム機関」の指揮官Mである。Mが敵役になる展開は映画版のオリジナル展開であり、序盤ではもちろん伏せられている事実であるが、ザ・ワンとMが同様の存在であることは、彼らが共に杖をついていることで暗示されている。そして中盤、ワトソンは銃弾によって足を負傷し、その直後のシーンでは傷をかばって杖をついている。これは彼がむしろ世界を揺るがす狂気に囚われたザ・ワンやMと近しい存在であることを示している(もちろん、コナン・ドイルの世界に通じるアクセントでもある)。この原作小説にはないイコノミックな描写は、非常に映画的でいいのだけれど、惜しむらくはワトソンが杖をついている件が、その後いっさい触れられないどころか、元気に走り回っていることである。

*9:そして、ラスト・シーン──厳密には違うのだが──におけるワトソンの悲しい自己実現にもだ。▼ところで、クライマックスの展開や結論を大きく変更しながら、どうしてエピローグ部分を原作小説のままにしたのだろうか(原作小説が悪いといっているのではない)。あのエンドロールのモノローグからその後のちょっとしたシーンのせいで、いろいろ混乱が生じると思うのだけれど。

*10:すなわちフランケンシュタインの怪物たるザ・ワンの動機に関する存在である。

*11:あと、細かいところだけれど、舞台移動の際に表示される字幕には、年号と都市名だけでなく、日付を追加してほしいところ。