2015年鑑賞映画 感想リスト/91-100

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(2015)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20150807/1438952871



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進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』(2015)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20151001/1443704031



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屍者の帝国』(2015)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20151018/1445098276



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ジョン・ウィック』(2014)……記事参照>>http://d.hatena.ne.jp/MasakiTSU/20151019/1445250657



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『死人の恋わずらい』(2000)……渋谷和行監督。母と共に生まれ故郷の街に戻ってきた高校生の深田みどりは、転校先のクラスで幼馴染だった龍介と再会する。そんなときクラスでは、恋を占う「辻占い」が流行。学校近くの祠のそばに立っていると、“辻占の美少年”と呼ばれる謎の人物がお告げをくれるというのだが、やがて、それが元で女子生徒が奇怪な自殺を遂げてしまう──伊東潤二の同名ホラー・コミックを実写映画化。

辻占を巡る、超常現象的な映像表現が印象的。画面の明度をじわじわ下げながら、彩度をグッと上げた極彩色で表現される異界感は、その色合いを映すしっかりとしたカメラワークと、そこに一部合成であてがわれる人物の微妙なズレも相まって、無気味ながらもどこか美しい。辻占を巡って少しずつ狂気に取り付かれはじめる女たちを演じた後藤理沙秋吉久美子三輪明日美ら主演女優陣の猟奇的な演技も素晴らしく恐ろしい。原作とはストーリーも結末も随分と異なるが、むしろ事態がネズミ算式にどんどんエスカレートして収拾のつかぬまま終わった──それはそれで、ゾンビ映画的な魅力があるわけだけれど──原作を、そこにあった要素を様々に活かしつつも、換骨奪胎して独立した1本の映画にまとめ上げている点はたいへん見応えがある。

ただ、実際に怪異が起こる以前の日常場面──その多くは、クラス内での惚れた腫れたの“中学生日記”的やりとり──の演出が、ちょっと力み過ぎていて、観ていて少々滑稽なのが痛い。序盤をもう少し抑え気味で展開していれば、その後のどんよりと尾を引く展開がより引き立ったのではないだろうか。



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スパイ・レジェンド』(2014)……ロジャー・ドナルドソン監督。スイスで静かに隠遁生活を送る元CIA諜報員デヴェローは、同僚だったハンリーの依頼で、次期ロシア大統領候補に関する極秘情報を得たことで窮地に立たされた同僚ナタリアを救出するためモスクワに向かう。しかし、ナタリアはデヴェローの目の前で狙撃され、死亡してしまう。しかも、彼女の殺害を命じたのはCIAであり、それを実行したのはデヴェローが自ら教育したメイソンだった。ただならぬ陰謀を感じ取ったデヴェローは独自に行動を開始。デヴェローは重要参考人の難民女性を保護したソーシャル・ワーカーのアリスに接触するが──東欧を舞台に展開されるスパイ・アクション。

元CIA諜報員デヴェローに5代目ジェームズ・ボンドピアース・ブロスナン、巻き込まれ型ヒロイン・アリスに『007 慰めの報酬』(マーク・フォースター監督、2008)でボンド・ガール役だったオリガ・キュリレンコ──役柄もすごく似ている──という、誰がどう見ても007感ビンビンのキャスティングに加え、かつての東西冷戦における西側の負の側面を最終的にデヴェローが暴き出すという、かつてのスパイ映画への贖罪めいた物語になっているのも興味深い。そういう意味では、主演がブロスナンということもあって、彼が最初にボンドを演じた『007 ゴールデンアイ』(マーティン・キャンベル監督、1995)を逆転させた続編のようにも思えてくる。そういえば、かつてデヴェローと愛し合ったCIAのロシア人諜報員の名前ナタリアは『ゴールデンアイ』のボンド・ガールと同名だし、デヴェローの愛弟子メイソンを演じたルーク・ブレイシーの佇まいは、どこか同作で006を演じた若き日のショーン・ビーンっぽくもあって、いろいろ確信犯的。

ちょっと惜しいのは結末部分で敵役たちのラストにいまいち華がないことか。とくに、主人公たちを執拗に追う女暗殺者のあまりにあんまりな幕切れや、そもそもクライマックスの彼女がらみのシーンが、サスペンスのためのサスペンスにしかなっていないのが残念だ。ただ、2重3重に絡み合う登場人物たちの思惑を絡めながら、適度に残酷な暴力描写で描かれるアクションを挟み込んだ展開はテンポよく進んで小気味いいし、一般市民でないかぎり邪魔するヤツはバイバシ射殺してゆくデヴェローやメイソンの「プロっぽい」描写も、なかなかシビアでいい感じだ。なかなかの一品だった。



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キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』(2011)……ジョー・ジョンストン監督。ナチスがヨーロッパを席巻していた1941年、祖国アメリカを愛する青年スティーブ・ロジャースは、兵士となって正義を果たすことを願っていたが、身体が小さく虚弱な彼は入隊テストに落ちるばかりだった。そんなとき、彼は謎の軍医アースキン博士に誘われ、極秘実験の被験者第1号として、強大な肉体を持った兵士として生まれ変わった。しかしその直後、博士は自分がナチ党時代に生み出したカルト集団“ヒドラ党”のスパイによって絶命。スティーブは、彼の意に反して単なるマスコット“キャプテン・アメリカ”として、軍のPRに駆り出されることになるのだったが──マーベル・コミックス原作の実写映画化。

不勉強ながら、まったくコレぽっち知識のない初見の僕もライトにすんなりと楽しむことができた。であるがゆえに、第2次世界大戦時を舞台に赤・青・シルバーの衣装に身を包み、特殊合金の丸い盾を放り投げながら縦横無尽に駆け回る姿は新鮮だ。その時代を思わせる少々抑えた色調の撮影も雰囲気満点。もともとILMで特殊技術を担当し、さらに本作と同じくアメコミ原作の空飛ぶヒーロー映画の傑作『ロケッティア』(1991)を監督したスタントン──こちらもナチスが敵──らしく、そのアクション・シーンはどれをとっても安定して出来がいいし、そこかしこに表れるスティーブン・スピルバーグインディ・ジョーンズ──とくにナチスが敵である『〜失われた聖櫃』(1985)と『最後の聖戦』(1981)──オマージュ感も楽しい。アラン・シルヴェストリの楽曲も、もろにジョン・ウィリアムズ風だしね。

ただ、ちょっと残念なのが、ひ弱な青年だったスティーブが血清の投与によってキャプテン・アメリカになって以降のアクションのバリエーションがちょっと単調なこと。アクション・シーンの数こそ多いが、だいたいキャプテン・アメリカのその強靭な肉体と頑丈な盾の力によってほとんど無敵状態なので、どれもだいたいすんなりとカタがついてしまう。なんというのか、グングン強くなっていくカタルシスに欠ける。たとえば、盾の使い方などをもう少し段階を追って拡げていけば、よりそのアイテムが際立ったと思うのだけどいかが。といいつつも、エンド・クレジットにおいて陸軍志願兵募集のポスターを筆頭に映し出される富国強兵的アートワークのパッチ・ワークをみるに、もしかしたら、本作全体がプロパガンダ映画的造りをあえて模しているのかもしれない。そうであるならば、キャプテン・アメリカのアクション的成長はほとんど必要ない──むしろ、あってはプロパガンダになるまい──し、劇中で撮影されていたスティーブ主演の『キャプテン・アメリカ』ものとも重なるようで興味深い。



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マイティ・ソー』(2011)……ケネス・ブラナー監督。神々の世界“アスガルド”で最強の戦士ソー。しかし、その傲慢さゆえに無用な争いを引き起こし、父オーディンの怒りを買ってしまう。ソーは王位継承権と、最強の武器“ムジョルニア”を剥奪されたうえ、地球に追放されてしまう。しかしソーは、そこで出会った天文学者ジェーンから、少しずつ他者への思いやりを学んでゆくのだった。一方、オーディンから王位を継いだソーの弟ロキは、自らの隠された出生の秘密を知り、アズガルドへの謀反を企てようとしていた──マーベル・コミックス原作の実写化作品。

シェイクスピア戯曲の映画化など、コスチューム・プレイものに定評のあるブラナーが監督だけあって、北欧神話の神々が住むアズガルドの荘厳で絢爛豪華、虹色に輝くような世界観を忌憚なく描いている。下手をすると、たいへんバカバカしくなりかねない画だが、そこはそれとキッチリ割り切って大真面目に撮っているのがいいし、彼らが当然ながら我々の常識とはまったく違う世界にいることを如実に判らせてくれる。アズガルドの描写がいかにも絵画然とした手触りで描かれる一方、ソーがやがて追放されるニューメキシコ州の田舎町の描写はより実写映画ベースのリアリティに沿って撮られており、この相反する世界観の決定的な落差が、よりソーや、やがて降臨する彼の仲間たちの異質性を際立たせていて面白い。連中が正装で町の目抜き通りに立っている画は、やっぱり変だけれど、やがてそれもヒーローとして格好良く見えてくるのだから不思議だ。

惜しむらくは、地球に追放されたソーが演じることになるカルチャー・ギャップ・コメディの部分が案外あっさりしている点と、彼とジェーンのあいだの関係性を描く展開も抑揚が少々欠ける点か。全体的に設定説明だけで尺が埋まってしまった感がある。まあこれだけぶっ飛んだ世界観を描きつつ見せ場も用意しつつしながら尺を2時間弱に収めたのは素晴らしいけど、ソーが彼自身もまた「他者」であり「異質」であることを学ぶ様子がもうひと押しあれば、よりクライマックスが盛り上がったのではないだろうか。それにしても、ソーの扱うムニャムニャもといムジョルニアって武器の性能として相当インフレを起こしてると思うけど、今後大丈夫なのかしらん(いまさらのように……)。



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鑑定士と顔のない依頼人』(2013)……ジュゼッペ・トルナトーレ監督、脚本。老年を迎えようとする一流の美術品鑑定人ヴァージル・オールドマンのもとに、亡くなった両親が遺した家具や美術品の鑑定依頼の電話が舞い込む。しかし、依頼人若い女性クレア・イベットソンが姿を見せないことに、失礼極まると憤慨するヴァージルだったが、依頼人の屋敷である歴史的名品の一部とおぼしき部品を発見。彼は依頼を受けて、屋敷に通ううち、姿のない依頼人に興味を抱き始めるが──『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)や『海の上のピアニスト』(1999)の監督によるミステリー映画。

トルナトーレ監督がミステリー? とすこし驚きながら観てみると、孤独を貫いてきた男がはじめて体験する恋愛についての物語が展開するので、なるほどトルナトーレ節だなと。とにかく全編をとおして描かれる主人公ヴァージルの孤独こじらせ描写には感涙必至。ヴァージルは鑑定士としての腕前は超一流だが、その偏屈さゆえにか他人に決して気を許さず、極度に潔癖で、携帯電話も持たず、女性とは目も合わせず、左右対称の画面の中央にかっちりと据えられてしまう。そんな彼が、唯一心を落ち着かせるのが、彼の隠し部屋にコレクションされた数多の肖像画を眺めるときだ。ヴァージルが生涯をかけて収集した肖像画に描かれた女性たちと言葉なく視線を交わすときのなんとも知れぬ表情の機微──彼を演じたジェフリー・ラッシュの表現力が素晴らしい。

しかし、ヴァージルの新たな依頼人クレアもまた、広所恐怖症を患っているために屋敷の隠し部屋で孤独に生きるほかない人物だった。おそらく人生ではじめて理解できる相手を知ったヴァージルが、美術品の査定をするなかで、彼女との対話を重ね、文字どおり壁を乗り越えながらか関係を深めていく様子は、とても感動的だ。ヴァージルが電話口からクレアの声を聞きながら、先のコレクション部屋に掛けられた肖像画を流し見て「彼女はこんな顔だろうか、それともあんな表情だろうか」と想像をめぐらすシーンもほほえましい。数多の困難を不器用ながらも乗り越え、ついに孤独からの脱却を成功させたヴァージルの多幸感溢れる表情を見ながら、観ているこちらも「ああ、いい恋愛映画だったな」と感慨もひとしお──などと思った矢先に、ズドンと突きつけられるあまりにビターな結末に「なるほど、ミステリーか!」と言葉を失った。寄る辺なく向かいの座席を眺めるヴァージルを中央に映す含意に富んだ長く静謐なラスト・ショットの果てに流れ出す、エンリオ・モリコーネの美しいコーラスワークが実にもののあわれだ。



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西遊記〜はじまりのはじまり〜』(2013)……チャウ・シンチー監督。妖怪ハンター修行中の青年・玄奘は、漁村の村で出会った巨大な人喰い魚の妖怪によって窮地に立たされるが、そこに颯爽と現れた同業者・段によって九死に一生を得る。わらべ歌を妖怪退治に使う宗派であることを彼女にバカにされた玄奘は、自身を出来損ないだと嘆くが、師匠に諭されて向かった妖怪退治でもやはり悪戦苦闘。そこに再び現われた段に救われ、妖怪もとり逃がしてしまう。玄奘は、その妖怪を倒す術を知るという孫悟空を求めて五指山の麓を目指す旅に出発し、2回の逢瀬ですっかり玄奘に惚れ込んだ段は、彼の心を掴むべく後を追うのだった──後に三蔵法師となる玄奘孫悟空たちの出会いを描くファンタジー・コメディ。

舞台立てを見事に駆使したアクション・コメディに大いに笑わせてもらった。めっぽう笑えるシンチーは出てこないけど、堂々たるシンチー監督作品だ。たとえば冒頭から、妖怪によって壊れかけた高低もろもろに設置された漁村の足場を、人間がまるでピンボールの玉のように縦横無尽に跳ね回りながら右往左往するというアスレチックなギャグの応酬から、すっかり心奪われる。その後、やっとこ妖怪を捕まえていよいよ退治するとなって、どんなタイマン・アクションになるかと思いきや、玄奘が神妙な顔でわらべ歌──しかも恥ずかしいほどメロウ──を歌い出すギャップというコテコテな笑いを噛ますこの感覚、好きだなあ。また、この一連のシーンでは『ジョーズ』(スティーブン・スピルバーグ監督、1975)のパロディをたいへんキッチリこなしてゆくという面白さ。

しかも、ここでもパロディが表面上のお遊びではなく、本作における妖怪の容赦ない残虐さに繋げる巧さには舌を巻く。そう、本作の妖怪はどいつもこいつも残虐非道でキッチリ怖い。予告編では“おもしろオジサン”にしか見えない孫悟空も、クライマックスではすっかり恐ろしく変貌してしまう(かつてシンチーが悪し様に扱われた、某西遊記原作日本漫画のハリウッド実写化への明らかな返礼シーンにも注目だ)。シンチー節のコテコテ・ギャグの合間に、スラッシャー映画もかくやの血みどろ描写や、シンチーが『カンフーハッスル』(2004)でみせたような極端すぎる人体変形描写が挿入されてはギョッとする感覚も楽しい。それら自由自在に変動する映像と感情の波を、映画が進むにしたがってどんどんバカ正直にエスカレートさせていきながら、最後にはこれ以上ないほどの純愛展開でほろりと涙させてしまう演出も心憎い。くっそー、「Gメン'75のテーマ」であんなに泣かされるなんて……。

玄奘を演じたウェン・ジャンのどこかボーっとした佇まいや、段を演じたスー・チーのびっくりするくらいのキュートさ、孫悟空を演じたホアン・ボーの底知れぬ胡散臭さ、その他シンチー映画常連陣のアンサンブルも素敵で、コミック・チックな作品世界に見事にマッチしている。そういえば、羽佐間道夫山寺宏一らの達者な演技に加え、原語版にはないギャグ──冒頭に登場するインチキ導師の呪文が全部中華料理とか──やら“中の人”のネタやらをちょくちょく盛り込んだ、民放洋画劇場ノリの日本語吹替え版も楽しい。うーん、最高!