『007 スペクター』感想

サム・メンデス監督。ダニエル・クレイグが6代目ジェームズ・ボンドを演じたシリーズ第24作目。久々の登場となった犯罪組織スペクターの長・ブロフェルドをクリストフ・ヴァルツが、ある因縁によってボンドと冒険を共にする“ボンドガール”マドレーヌ・スワンをレア・セドゥが演じる。

“死者の日”の祭りでにぎわうメキシコシティで、凶悪犯スキアラを仕留めたジェームズ・ボンドだったが、このことでMから職務停止を言い渡されてしまう。折しもロンドンでは、スパイ不要論を掲げるマックス・デンビが国家安全保障局の新たなトップとなり、“00部門”を閉鎖しようと画策していた。表立って活動することができなくなったボンドだったが、マネーペニーやQの協力でローマへと飛び、そこでスキアラの未亡人ルチアと接触、強大な悪の組織の存在を突き止めるが……。


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前作『スカイフォール』(2012)において、007映画としては異例な神話的語り口で、今日的007の再誕=再定義をしてみせてファンの度肝を抜いたメンデスが再びメガホンをとった本作。本作は、前作のラストで如実に描かれたとおり、シリーズの原点回帰を目指した作品となっていた。本作は前作とはまた違った意味で、美しい優雅さに満ちている。あえていい表すなら“古色蒼然たり”といった感じだろうか。その特徴は、撮影とテンポ、そしてボンドである。


【以下、一部脚注においてネタバレありですのでご注意ください】


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本作を観ていてまずうっとりするのは、撮影の美しさである。前作でのロジャー・A・ディーキンスによる、色鮮やかでありながらグッと闇を忍ばせたコントラストの強い映像とは対照的に、ホイテ・ヴァン・ホイテマ*1が撮影を手がけた本作では、全体的に淡くしっとりとした色調が採用されているのが印象的。さらにシーンごと、あるいは舞台ごとに徹底的に調整された色彩デザインがより画面を美しく彩っている。

思い出そう。冒頭に登場するメキシコシティの乾いた土色、ロンドンの暗鬱な雨雲に沈んだねずみ色、ローマの石畳を街灯が照らすオレンジ色、雪に覆われた山岳地帯を塗りつくす白色……などなど、本作に映される風景は、舞台ごとに設定されたテーマ色によって、ほぼモノトーンといえるほど徹底的に色彩デザインされているのだ。

そして、その淡いモノトーンの世界に歩み入るボンドなど登場人物や、アストンマーチンDB10や軍用機といった画面の主要素に、そのテーマ色の補色となるような色をあてがうことで、彼らをよりいっそう引き立たせていることにも注目したい。白が主体の舞台であれば漆黒のマシンを登場させ、暖色系の風景であればボンドはどこかに青系の衣装を着込んでいる。街頭のオレンジに染まったローマのなかを青白いヘッドライトを輝かせながら疾走するカー・チェイスは、シリーズ史上屈指の美しいチェイス・シーンとなった。


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また、本作で特徴的なのは、そのテンポである。本作のテンポは、シリーズ近作とは打って変わって、非常にゆるやかなものとなっている。

映画は、ボンド映画としては異例の長回し1ショットで幕を開けるが、ここでカメラがボンドの一挙手一投足をじっくりと追ってみせるように、本作では登場人物たちのアクション(=誰がどこにどのように動いたか)をいまどき珍しいくらい丁寧に描き出す。いわゆるアクション・シーンにおいてもそれは徹底されていて、今日的な動きの省略はほとんどみられない。おそらく、このために本作の1ショットの時間は、近作よりも平均して長いのではないかとさえ思われる。

この、じっくりと丹念に動きを追ってゆく本作を観ていて思いだすのは、まさしくショーン・コネリーが初代ボンドを演じていた1960年代映画のテンポ感だ。コネリー=ボンドを観たときに僕らが感じるゆったりとした優雅さは、コネリーの魅力もさることながら、その時代的な編集リズムにも端を発しているはずで、本作はそのテンポ感を、現代だからこそ撮り得るアクションにおいて改めて構築しようとしたのではないだろうか*2


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そして、やはりボンドである。前作『スカイフォール』のラストにおいて、なぜか帽子掛けが大写しになることが予言していたように、また本作でクレイグ=ボンドとしてははじめてガンバレルからの開幕が採用されたように、本作のボンドは僕らのよく知っている007映画らしいボンド像となっている。

またしても冒頭の長回し1ショットを例に挙げるなら、誰もが死者の扮装をしてごった返す“死者の祭り”のなかを、やはり全身骸骨をあしらった仮装に身を包んていたボンドが、カメラの少し逸れたすきにトム・フォードのスーツ姿に早変わりしているのは、たとえば『ゴールドフィンガー』(ガイ・ハミルトン監督、1964)の冒頭でボンドがウェット・スーツの下に真っ白なタキシードを着こなしていることの再現だし、追いつ追われつの最中に余裕の見栄を切ってみせる感覚などは、如実にかつての、お馴染みのボンド像を思い起こさせる。

そのほかにもかつての007を思い起こさせる要素は多々ある。たとえば、ロケーションの選定や、寝台特急での顛末などがそうだろうし、『ロシアより愛をこめて』(テレンス・ヤング監督、1963)に登場したグラントや『私を愛したスパイ』(ルイス・ギルバート監督、1977)等に登場したジョーズを思わせるボンドを執拗に追うな暗殺者ミスター・ヒンクスの存在等が挙げられるだろう*3。さらに、嘘か本気かわからないQの飄々とした台詞やボンド・カーのおふざけ機能など、これまでのクレイグ=ボンドではなるべく抑えられていたユーモアの要素が復活しているのも、かつてのボンド映画を思い起こさせる。また、白人でブロンド美女という絵に描いたようなボンドガールがメインに登板するのも、もの凄く久しぶりだ*4


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ことほど左様に本作では、これまで培われたボンド的イメージの総ざらいが行なわれている感すらある。

では、本作はただただ理由もなく懐古主義にばかり徹しているのかといえば、そうではない。むしろ本作は、懐古主義に留まることに頑として抗っているとさえいえる。では、それなのに徹底してボンド的イメージを総括をしてゆくというアンビバレントなアプローチを本作がなぜとったのか? ──その理由は本作のラストに明かされる。



ところで、本作でボンドが辿る物語は、前作でボンドが辿ったものと対になっている。前作が母性を巡る神話的物語だとするならば、本作は逆に父性を巡るボンドの地獄巡りが描かれるのである。

本作でボンドを追い詰めるスペクターの長・ブロフェルドは、ボンドのいわば分身であるという設定が付け加えられている*5。しかもブロフェルドは、ボンドがいまだ果たしていない──というか、ブロフェルドのせいで果たせなかった──象徴的な“父殺し=神殺し”を果たしているという点で、ブロフェルドは最強の男なのだ*6。前作において象徴的な“母”との決別を果たしたボンドが相対する敵としては必然だ。

この前作から連なる神話的闘いの果てに、本作ではついに、いままで誰も考えなかった──いや、考えたかもしれないが採用されなかった──大団円を迎えてしまうのだ(!*7)。前作からはじまった、007の神話的語りなおしという、ある意味での禁じ手にも驚かされたが、本作が迎える結末にもまた心底驚かされたのである。そして、このラストを迎えるために、ボンド的イメージの総括を本作が徹底して描いたのではないだろうか。

それは、ダニエル・クレイグという俳優が演じた男ジェームズ・ボンドを、真に007的ジェームズ・ボンドへと変容させようとした、これまでのシリーズの変遷とも無関係ではないだろう。




ダニエル・クレイグがはじめてボンドを演じた『カジノ・ロワイヤル』(マーティン・キャンベル監督、2006)で描かれた「ジェームズ・ボンドが007になる」という物語が示すとおり、以降のシリーズは実質的なリブート──たとえば、ピアース・ブロスナン時代から前作『スカイフォール』にかけてジュディ・デンチが演じたMだが、その本名はブロスナン時代が“バーバラ・モーズリー”、クレイグ時代が“オリヴィア・メイスフィールド”と、じつは別人である──であり、作風も徹底してダークでシリアスな路線に振り切るなど、これまでになかったボンド像を模索していたシリーズでもあった。おそらくクレイグの起用そのものが、その意図の表れだっただろう。いまでこそ、すっかり定着してしまったダニエル・クレイグ版ボンドだが、その金髪で無骨な容姿がイメージにそぐわないと署名運動まで起きていたのだ。

その『カジノ・ロワイヤル』から『慰めの報酬』(マーク・フォースター監督、2008)を経て、前作『スカイフォール』に至ってようやく、M、マネーペニー、そしてQという、007にはお馴染みのメンバーがやっと再び揃ったのだった。こうして揃えるべき役者と舞台は整い、残るは前述のようにあえて削がれていたボンドらしいボンド像だったのである。そして本作は、自身を含むこれまでのクレイグ=ボンド4作品を明確なサーガと定め、そのことでクレイグ=ボンドを名実ともに“007”に仕立て上げた。こうして、前述のように“まさしく”ジェームズ・ボンド=007と呼ぶべき姿がスクリーン上に帰ってきたのだ。

しかし、それだけでは単なる懐古主義に留まってしまう。前作にあった精神が懐古主義ではなく、あくまで温故知新であることにこだわっていたことからも翻ってわかるように、本作が迎える驚くべき結末は、本作が、そして次回作が懐古主義にだけに留まらない──あくまで刷新され続けてゆく──007を目指すという決意表明だったのではないか。クレイグ=ボンドが本作でついに完成したからこそ、さらに新たな価値観のなかで区切りをつける必要があったのだろう。


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ことほど左様に、ある意味で禁じ手に次ぐ禁じ手というカードを切ってしまった本作は、じつに007映画でありながら、次なる展望を期待させる作品だった。欲をいえば、ボンドとマドレーヌを巡る物語にもうひとロジックあればより説得力あったのでは……など細々思うところはあったけれど、エンド・ロールに記された恒例の“James Bond Will Return (ジェームズ・ボンドは戻ってくる)”のときを、また首を長くして待ちたい。


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前作『007 スカイフォールの感想はこちら

【追記 2021年10月13日】
次回作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の感想はこちら


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*1:ホイテマが手掛けた『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008)や『裏切りのサーカス』(2011)のトーマス・アルフレッドソン監督作品や、『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ監督、2013)などでみせた美しい撮影は本作でも健在だ。

*2:本作がシリーズ史上最長の上映時間148分となったのには、おそらくこのテンポと無縁の話ではないだろう。筋立てそのものもは、そこまで複雑なものでもないし。

*3:余談だがヒンクスの最期は、“サメのほう”のジョーズをちょっと連想させる。グラントを演じたのはロバート・ショウであり、彼は後にロイ・シャイダーリチャード・ドレイファスを従えて、突如としてビーチを襲った巨大ザメに対して樽を何発も打ち込むサメ・ハンターを演じている。

*4:本作のボンドガール、マドレーヌを演じたレア・セドゥは、先だって『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バート監督、2011)にも出演しており、日本における中山忍的快挙を遂げた(←言いたかっただけ)。

*5:彼らは、ブロフェルドの父が引き取った孤児がボンドだったという、いわば義兄弟の関係にある。ゆえに、本作のいくつかのシーンでボンドが鏡に向かうのは偶然ではない。

*6:途中で彼が隻眼となるのは、『007は2度死ぬ』(ルイス・ギルバート監督、1967)に登場した彼の造作の再現であるとともに、おそらく本作においては北欧神話における主神オーディンを暗に示していたのではないだろうか。もしそうだとするならば、タコを模したスペクターのエンブレムは、本作ではオーディンの駆る8歩脚の軍馬スレイプニルの含意もあるという推察もできる。もちろん、本作でのエンブレムに描かれたタコの脚は7本に変更されているが、これはブロフェルド=ボンド(007)/スペクター=MI6という、本作で描かれる対の関係を明確に示すために施されたデザイン的な仕掛けだろう。

*7:【核心部のネタバレ】ロンドンはビッグベンのそばにあるウェストミンスター橋の中央にブロフェルドを追い詰め、彼に銃口を向けるボンド。橋の両岸にはMとマドレーヌがそれぞれ立ち、その行く末を見守っている。両者の視線に挟まれ、ブロフェルドからも「早く殺せ」とはき捨てられたボンドはしかし、「弾切れだ」と銃の弾を抜き、銃を捨てる。そして、ボンドはMではなく、マドレーヌのほうに歩き去る。Mは、その背中を眺めながら、法に従ってブロフェルドを逮捕するのだった。▼このときボンドは、いうなれば彼自身がこれまで半世紀にわたって象徴してきた父性──性的/社会的男性性──を捨てることを選び取ったのだ。本作のボンドガールの名前の頭文字が、やはり“M”なのは偶然ではない。ボンドをはさんで橋の両岸に立つふたりのMが着ているコートの色がそれぞれ真逆なのがじつに象徴的だ。▼後日、ボンドは前作で大破して修理中だったアストンマーチンをQから引き取ると、助手席にマドレーヌを乗せ、どこへともなく走り去り、映画は幕を下ろす。ブロフェルドを殺さず、その象徴性を逆転させ、あまつさえボンドの引退を匂わせるようなこの幕切れは、おそらく誰も予想できなかったのではないだろうか。しかし、これは次回への重要な布石かもしれない。今後、いつなんどきブロフェルドが世界に放たれ、ボンドに復讐を誓うとも知れないのだ。