『シン・ゴジラ』感想

庵野秀明総監督(2016)。続編のシリーズ化、キングコングとの対決も決定したハリウッド版リメイク『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督、2014)から2年、そして本家本元である東宝映画作品としては『ゴジラ FINAL WARS』(北村龍平監督、2004)から12年(!)のときを経て公開されたゴジラ最新作。監督・特技監督には樋口真嗣、未曾有の災厄に挑む登場人物として長谷川博己竹野内豊石原さとみ市川実日子*1ら総勢328人のキャスティングがなされた。


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11月3日*2午前8時30分ごろ、東京湾羽田沖で大量の水蒸気が噴出。同時に海底トンネル“東京湾アクアライン”でも崩落事故が発生した。矢口蘭堂内閣官房副長官は、いち早く巨大生物の存在を示唆するものの取り合われず、政府は一連の事故の原因を単なる自然災害と判断したのだった。

しかし、間もなく現場に巨大生物が出現し、多摩川河口から蒲田へと上陸。甚大な被害をもたらしながら首都を練り歩く巨大不明生物に対して、ついに自衛隊による攻撃が決議されるが、不測の事態によって作戦は遂行されず、巨大不明生物は東京湾へと姿を消した。

巨大不明生物の次なる襲撃に備え、矢口を事務局長とした「巨大不明生物特設災害対策本部(通称:巨災対)」が設置され、集められたメンバーが巨大不明生物の調査/解析に乗り出した。そんな折、矢口のもとに米国大統領特使カヨコ・アン・パタースンが訪れ、ある人物の行方を探してほしいと依頼してきた。その人物の名は牧吾郎。彼こそ、巨大不明生物「ゴジラ(呉爾羅/Godzilla)」の鍵を握る人物なのだというが……。


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すこし前に劇場で2回鑑賞していたのだけれど、あれこれ言いたいことが多すぎて、まとめるのにすっかり時間がかかった次第で、かといってまとまりきってもいないのですが、とにかく書き出しておこうという、これはどうでもいい前置きです。

結論からいえば、本作の興行的成功*3や批評的成功が示すとおり、この『シン・ゴジラ』は──僕がいうまでもなく──思いがけない大傑作だったというほかない。タイトルや予告編の印象だけでナメててすみませんでした!

もしゴジラが日本に“いま”はじめて上陸したらどうなるのかを徹底したリアリティをもって描き出すという、これまでありそうでなかった視点から作劇することで、これまで日本のゴジラ・シリーズが抜け出せなかった初代『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)の呪縛から重々しくも軽やかに脱し、その象徴性を刷新しながらも、まったきゴジラだった今回の『シン・ゴジラ』は、ようやく現われ出た2番目の「決定版」と呼んでも過言ではない。本作を観ていて、自分がゴジラ恐怖することを久々にまざまざと体感させられたことは、その証左ではないだろうか。


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すでに多くのところで語られているように、本作の演出はきょう日の日本映画においては非常に独特だ。とにかく映画全体に情報量が多く、しかもそれが始終オーバー・フローしているとでもいおうか……。


本作の大半を占める会議シーンの濃密な台詞内容によって3時間以上となったという脚本をギュッと2時間に収めた早口(かつ、いささか難解な)台詞の矢継ぎ早な応酬を、市川崑岡本喜八*4作品を思わせるグラフィカルにデザインされた画面レイアウトとリズミカルで喰い気味な編集テンポ──そしてときおり挿入される乾いたユーモア*5──で捌き、さらには太字明朝体*6のテロップが日時から場所、人名から肩書、さらには作戦名から兵器の名称にいたるまでが、シネマスコープ画面をことごとく埋め尽くしてゆく。

これらから生じる展開の早さと、目と耳のどちらにも始終投げかけられる1度に処理できないほどの情報量を追っているうちに、観客はあれよあれよと映画の世界に引き込まれてしまう。そして、まるで津波のように漁船や自動車を巻き上げながら多摩川を遡上し、ついに画面に登場した巨大不明生物の全貌を観たときに誰しもが「えっ!?」と驚愕した瞬間には、もはや完全に本作の術中に嵌っているのだ。


そんななか描かれるゴジラの恐るべき生態に凶悪で無気味な姿、その徹底的な破壊、それに挑む自衛隊の総力戦、そして絶望的なまでに美しいゴジラの放射熱戦シーン、急速に悪化する国内外情勢、起死回生のクライマックス──と、以降の展開もことごとくこちらの予想を上回るものばかりであり、僕らは「こんなこと聞いてないし、観たこともない……」と固唾を呑んでスクリーンを見つめることしかできない。

観たことも聞いたこともない……という感覚はやがて、本作ではじめて本格的に採用されたフルCGによるゴジラ*7 *8や破壊描写などの視覚効果(VFX)の見事な効果*9も相まって、恐怖の感情に置き換わる。スクリーン上を闊歩するゴジラに、劇中の人物さながらに恐怖してしまう感覚は、いまから半世紀以上前に日本ではじめて巨大怪獣を現出せしめた第1作『ゴジラ』を観てしまった人々以来のものなのではないだろうか*10


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そして、本作のゴジラにある恐怖感をより真に迫るものにしているのには、もうひとつ、物語の構造的仕掛けがあるのではないだろうか。それは初代『ゴジラ』との比較から浮かび上がってくるものと考えられる。


【以下、ネタバレありなのでご注意ください】


シン・ゴジラ』のなかに数多く仕込まれた初代『ゴジラ』へのオマージュ──タイトル・デザインから、冒頭のつかみ、鳴き声や足音のサウンド・エフェクト、伊福部昭による楽曲の流用*11などなど様々にある──のなかで、とくに核心をついているのは、ゴジラ原水爆ひいては放射性物質の落とし子でありながら被曝者/被害者でもある逆説をもった存在であること*12と同時に、敵対者でありながら象徴的には“人間そのもの”という逆説をも持つキャラクターであることを思い出させてくれる点だろう。

両作で最も物語的に似通っている部分を考えてみよう。それは、初代『ゴジラ』において、芹沢大助博士がオキシジェン・デストロイヤーというゴジラの破壊力に匹敵する「科学の力」によって、自らゴジラに成り代わってゴジラ(と彼自身)を滅したように、『シン・ゴジラ』において矢口蘭堂は、その政治や情報といった「権力」によって、やはり自らゴジラに成り代わってゴジラを滅する……という展開だ。

彼らがゴジラに成り代わるとは、どういうことか。思い出そう。芹沢が、あるいは自身の発明でゴジラと同じく人類を破滅に追いやれたかもしれないように、矢口もまた“ヤシオリ作戦”で、その命令ひとつでゴジラと同じくビルを壊し、電車を潰し、人々を死に追いやっている。彼らはいわば、もうひとりのゴジラ──人間ゴジラなのであり、だからこそゴジラを倒し得たのだ。


そしてこのことは、両作におけるゴジラが彼らの「人間への不信/政界への不信」に端を発する暗いルサンチマンないし無意識的欲望を叶えるために現われるイドの怪物、すなわち彼ら自身の化身としても登場するからにほかならない。そうであればこそ、芹沢はゴジラと同じように火傷で肌がただれ、そして矢口はゴジラと同時に傷を受けて血を流したのではなかったか。

先の大戦で心身ともに受けた大きな傷から人間を信じられなくなった*13芹沢が、東京を蹂躙して人々を焼くゴジラをなすすべもなく報じるテレビのニュース画面を無心に見つめるとき、自身の予言どおりに“巨大生物”だった災厄によって崩壊する内閣のなかで図らずものし上がってゆく矢口が、ゴジラが放つ光によって無気味に染まる夜空を見上げるとき──ふたりは自身の欲望の成就への歓喜と暴走への恐怖というダブルバインドに引き裂かれ、知らず知らずのうちに自らの無意識*14と対峙しているといえるだろう。

ゴジラが、芹沢と矢口──それぞれのイドの怪物であればこそ、彼らは自身のゴジラ性をもってゴジラに立ち向かうことができた。そして、芹沢は無意識の母体である彼自身を消すことでゴジラを道連れにし、矢口はラストの内省と決意をゴジラに向かって語ったのだろう*15


このように本作『シン・ゴジラ』は、初代『ゴジラ』にあった、ゴジラとは人間の敵対者でありながら、象徴的な意味において人間そのものであるという逆説を、同じように登場人物をとおして、久々に思い起こさせてくれた。

この逆説をまざまざと画で見せ付けるのが、本作のラスト・ショットだ。凍結されたゴジラの尾から飛翔せんとした人型ゴジラの群を映したほんの数秒間の静寂は、前述の構造的仕掛けに加えて、劇中で仄めかされた様々な布石も相まって、僕らのなかにもゴジラがいる*16ことを直感させるのに十分な衝撃と戦慄を与えてくれるだろう。劇映画が感情移入をキーとして物語への没入効果をもたらす*17ならば、その登場人物たち、そしてゴジラは、とりもなおさず観客の分身でもあるのだ。


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ことほど左様に、本作を彩る様々な技術的、あるいは物語的な仕掛けから、僕は見ているあいだ中、まるで渦に呑まれるような恐怖と衝撃をただひたすら受け続けていた。おそらくは鼻息も焦燥して荒く、まるで水木しげる漫画の登場人物たちのように「フハッ!*18」としどおしであったことだろう。本作は、こだわりぬかれた画面や台詞、音響や演出の細部を観れば観るだけ新たな発見のある稀有な作品だ。ドラマがないと批判されがちな本作だが、決してそうとは思われない。すべてを味わいつくすには、あと何度繰り返して観ればよいのか、見当もつかない。

こんなにも掘り甲斐の大いにある本作を観に、なによりも日ごろ忘れがちな身のすくむような恐怖感を全身に浴びに、いまからでも、ぜひ劇場へお出かけください。


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*1:そういえば、彼女が演じた尾頭ヒロミだけが姓=漢字/名=カナ表記なのは、もしかTVシリーズウルトラセブン』(円谷一ほか監督、1967-1968)に登場する友里アンヌ隊員のオマージュ……? というかエヴァの姓名表記もそうなのかしらん……?

*2:第1作の公開日である。

*3:公開5週目、7月29日から8月28日までの公開1か月で累計動員360万人、累計興行収入53億円を突破。2016年公開の邦画実写映画1位を獲得した。客層も極めて広く、老若男女が劇場に出かけていることから、その間口の広さが伺える。

*4:本作に写真出演。

*5:大杉漣演じる大河内内閣総理大臣が絶妙なタイミングで発する「えっ?」をはじめ、笑うに笑えない状況だからこそ余計に笑えてしまう登場人物たちのリアクション描写が素晴らしい。

*6:TypeBank、本明朝EII。

*7:ゴジラモーションキャプチャ俳優として演じたのは、能楽師野村萬斎

*8:ただし、ミレニアム・シリーズでは、海中を泳ぐゴジラなど部分的にはフルCG化されている。

*9:てっきり実写映像かと思われた戦車や、ミニチュア合成かと思われたビルがCGだったことを後から知り、驚いたほどだ。 ▼参考映像>>YouTube『シン・ゴジラ』白組によるCGメイキング映像」、2016年9月3日閲覧。

*10:あるいは第1作が、太平洋戦争のトラウマをゴジラに表象させていたように、本作が東日本大震災のトラウマや来たるベき集団的自衛権時代への不安をゴジラが担っていないとどうしていえようか。

*11:本作は、『ゴジラ』や『キングコング対ゴジラ』(本多猪四郎監督、1962)、『宇宙大戦争』(本多猪四郎監督、1959)などで使用された伊福部昭による楽曲音源をそのまま使用している。ところで、伊福部昭の映画音楽の特徴といえば、その音楽的側面はもちろんのこと、自作からの“流用”が挙げられるだろう。彼は過去に作曲した楽曲からモチーフを切り取って、自ら再利用するのだ(いわゆる「ゴジラのテーマ」の旋律すら自曲──「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」(1948)──からの引用なのだ!)。 ▼たとえば本作でも混同されがちな「宇宙大戦争マーチ」(1959)と「怪獣大戦争マーチ」(1965)のメロディは、伊福部が戦中に帝国海軍からの依頼で作曲した「古典風軍樂 吉志舞」(1943)が原曲だ。あるいは、本作のエンドロールで流される伊福部昭作曲による怪獣映画音楽のオリジナル・スコア・メドレーの最後を飾る1曲は『ゴジラvsメカゴジラ』(大河原孝夫監督、1993)の「メインテーマ」だが、どこを切ってもメカゴジラ成分のない本作において何故この楽曲が選ばれたのかを強引に類推すると、この「メインテーマ」のメロディが旧国鉄ドキュメンタリー映画『つばめを動かす人たち』(関川秀雄、苗田康夫演出、1954)からの流用だからであり、クライマックスのヤシオリ作戦で八面六臂の活躍をするJR各車両への餞(はなむけ)ではなかったか……というのは考えすぎかしらん。 ▼ところで、メインの劇伴を担当した鷺巣詩郎によるオリジナル・スコアとともに、かつて彼が作曲したアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督、1995 -)シリーズの楽曲からの部分的流用が要所要所で使用されるなど、こちらでも正しく伊福部スタイルを貫き通しているのであった。

*12:これについては、こちらにちょこっとだけ書いています>>拙ブログ「『GODZILLA ゴジラ』(2D字幕版)感想」(2014年7月30日)

*13:そして、彼が唯一恋し愛した恵美子との失恋もあったであろう。

*14:「人間の目」を採用したという本作のゴジラのデザインは、まさしくフロイトのいうところの「無気味なもの=かつて慣れ親しんだもの」として、スクリーン上に大写しになるだろう。さらにいえば、これまでゴジラを愛して親しんできたファンほど、この無気味さは身に沁みたのではないだろうか。本作のゴジラは、たしかにゴジラでありながら、これまでのゴジラとはまったく違うのだから。

*15:余談だが、柳田國男風に考えれば、芹沢の隻眼と顛末は、彼が「一目小僧」──年に1度選ばれる生け贄──の系譜に位置づけられる存在だといえようが、そうであるならば本作の矢口はそれを選んで供出する神官/祭祀といえるかもしれない。また、クライマックスの作戦名「ヤシオリ」が示すとおり、矢口はスサノオノミコトゴジラヤマタノオロチの代理表象ならば、なるほどゴジラの尾が非常に重要なのも然もありなん……と、これはまた別の話だ。

*16:これを自覚的に取り込んだ過去作品として『ゴジラ2000 ミレニアム』(大河原孝夫監督、1999)が思い出されるが、エメリッヒ版ゴジラを揶揄した敵の宇宙怪獣オルガを出してみたり、なんともしれぬ家族ドラマをやってみたりしているうちに焦点がすっかりボケてしまい、村田雄浩演じる主人公・篠田が発したラストの「ゴジラは、俺たちのなかにいるんだ」という台詞にひとつの説得力も持たせられなかった。

*17:クリスチャン・メッツ『映画と精神分析―想像的シニフィアン鹿島茂訳、白水社、1981年、88-118頁を参照。

*18:参考画像