『怪盗グルーのミニオン大脱走』(2D日本語吹替え版)感想

カイル・バルダピエール・コフィン監督。晴れて結婚したグルーとルーシーの前に、新たな敵バルタザール・ブラットが現れる。1980年代ファッションに身を包んで奇抜な犯罪を繰り返すバルタザールを取り逃してしまったグルーとルーシーは、新たに“反悪党同名”局長となったヴァレリーから解雇されてしまう。そんなとき、グルーに生き別れた双子の兄ドルーがいることが発覚。ドルーは父の志を継ぎ、天下の大悪党になることを夢見ており、グルーに手ほどきを求めてきたのだった。一方、グルーの相棒であるミニオンたちは、いよいよ甲斐性なしとなったグルーに愛想を尽かし、家出をしてしまう……。イルミネーション・エンターテインメントによる人気シリーズ第3作。


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今年観た100本目(ソフト含む)は、本作でありました。それはそれとして……

中身は子供のまま中年になってしまった悪党のグルーが、ひょんなことから3姉妹を養女にもらったり、最愛のパートナーとの出会うことで大人へと少しずつステップアップする姿*1を、スラップスティックなギャグや細かすぎて伝わらないパロディをまぶしながら描いた前2作──『怪盗グルーの月泥棒3D』(ピエール・コフィン、クリス・ルノー監督、2010)、『怪盗グルーのミニオン危機一発』(ピエール・コフィン、クリス・ルノー監督、2013)──は、まさに笑いと感動のエンタテインメントと呼ぶべき上質な傑作群であった。

本作はそれらに続くパート3だったわけだが、残念ながら前2作と比べると見劣りする出来となってしまった。もちろん、キャラクターや小物、背景に至るまで整地に描き分けられたCGアニメーションの質感や荒唐無稽で楽しいアクション、次から次に出される笑いの要素、グルーたちの辿る顛末……どれも素晴らしい。少なくとも観ていて飽きないし、笑えるし、しんみりもする。ただし、シーンごとでは。

そう、本作はシーンごとの出来はたしかによいのだが、それが文字どおり“その場凌ぎ”に留まっており、それぞれのピースが有機的に噛み合わずにバラけたまま、映画が終わってしまうのだ。おそらく本作の問題とは、あまりにサブ・プロットの枝を生やしすぎたことにある。一応の物語の根幹である「グルーとルーシーがいかに復職するか」という件に、「グルーの分身(=ドルー)との対峙」、「グルーの次世代(=バルタザール)との対峙」、「ルーシーの新米ママとしての葛藤」、「3姉妹のちょっとした成長葛藤」、そして「ミニオンの脱走」などなど盛りに盛っている。これらで描かれた要素を、もっと取捨選択し整理する過程が、もう1歩必要だったのではないか。


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もっとも手っ取り早いのは、登場人物の統合であろう。

前2作、そしてスピンオフの『ミニオンズ』(カイル・バルダピエール・コフィン監督、2015)で描かれたとおり、グルーやミニオンは1960〜1970年代(カウンター・カルチャー)的価値観の体現者であり、本作においては、その仮想敵として“1980年代なるもの”が想定されている。反悪党同名の新局長ヴァレリーのボティコン姿、物質主義的なドルー、そしてマイケル・ジャクソンら’80年代ポップスをBGMに盗みを働くバルタザールと、グルーと対峙することになる人物は皆、彼の次世代的価値観に生きる人物たちだ。

極論すれば、ヴァレリーの役割は前作から登場するラムズボトム局長となにひとつ変わっていないので不要であるし、ドルーとバルタザールについては、いっそ彼らを統合した“ひとり”の敵キャラを立てたほうがよかったのではないだろうか。こうすれば、グルーたちの主たる対峙者は、これまでどおりひとりになるので、だいぶスッキリして、物語のまとまりも出るのじゃないかしら。


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もちろん本作は、前述のとおりシーンごとでは、どれも高いクオリティを有しており、一概にダメな映画というつもりはない。日本語吹替え版における、近年のディズニーとは比べる由もない映像の徹底的なローカライゼーションも見所だ。暑い日の続く夏、いっときの清涼剤として、映画館に出かけてみてはいかがだろうか。

*1:その意味において、オリジナル版を演じたスティーヴ・カレル──なんてたって『40歳の童貞男』(ジャド・アパトー監督、2005)だし!──は、これ以上ないキャスティングの妙だ。キャラクター・デザインにおそらくはドイツ版ドラキュラである「ノスフェラトゥ」を模したであろうグルーに訛り演技を加えた声は非常に合っている。 ▼もちろん、笑福亭鶴瓶らによる日本語吹替え版の出来も全然悪くないよ。“欽ちゃん”こと萩本欽一がウォレスをアテたときのようなミラクルがある。