2018 10-12月感想(短)まとめ

ちょこまかとtwitterにて書いていた2018年10月から12月にかけての備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】

◆タクシーの運転手に転職しながらも、目についた悪を持てる技術全開で制裁する元CIA特殊捜査官マッコールの活躍を描くイコライザー2』アントワーン・フークア監督、2018)は、クズの大小やイデオロギーに関わらず正義の鉄槌を下すマッコールの勇姿に胸がすく快作。

本作において、マッコールがタクシーという移動手段を得たことでより一層の広がりと増加を見せた活動範囲とタスクを淡々とこなしてゆく様子は、快感であると同時にちょっと怖ろしくすら──彼が敢えて“ナメられキャラ”を演じる瞬間の妙な緊張感たるや!──ある。前作(同監督、2014)ではわりと見せないことで描写されたマッコールの暴力描写が直接的になり、彼の悪への慈悲なき制裁の凄惨さが垣間見られるのも、それに拍車をかけるだろう。彼は、文字どおり神出鬼没でタスク・マネージメントのできる勧善(完全)懲悪中毒おじさんなのであった。たいへん怖い──もとい、かっこいい! やっぱり悪党が皆殺しになる映画はいいですね。心が穏やかになる。

その、ある種の荒唐無稽さをマッコールが一身に担う一方で、本作の演出は非常に文学的でかつ古典的だ。キャラクターや物語がはらむ感情の起伏は、雨が涙の代わりであり、嵐の到来は文字どおり物語の抑揚であるといった具合に、むしろ風景や気候が雄弁に語ってくれるだろう。また、前作のキーとなる舞台の夜のダイナーが明らかにエドワード・ホッパー風であったように、嵐の上陸によって一時的なゴーストタウンとなった町を舞台に展開される本作のクライマックスもまるで絵画のように──当てずっぽうではあるが、ハドソン・リバー派の筆致を思い起こさせる──描写されており、正義の裁定者たるマッコールのキャラクター設定とも相まって、荘厳さすら感じられる印象的な名場面となっている。余談だが、この舞台立てと、ここでマッコールの取ったある行動が、『荒野のストレンジャー』(クリント・イーストウッド監督、1973)のクライマックスを彷彿とさせるのも興味深い。

そういった細やかな演出の積み重ねの末に訪れる本作のラスト・ショットの──デンゼル・ワシントンの立ち位置を含めた──構図の美しさにも注目したい。感動もひとしおだ。


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◆最愛の妻と娘を強盗に襲われたことで、街に巣食う悪党たちの制裁に目覚めてしまう外科医ポール・カージーの姿を描くデス・ウィッシュイーライ・ロス監督、2018)は、オリジナル版『狼よさらば』(マイケル・ウィナー監督、1974)とはまた違った魅力を放つ快作。

なんといっても、さすがホラー映画で鳴らしたロス監督の面目躍如というべきか、本作に数多ある襲撃シーン──カージー一家が襲われるとき、あるいはポールが制裁に出向くときの受動/能動を問わず──は、実に的確なカメラワークや編集、テンポでどれも観る者の不安や緊張感をグイグイ煽ってくれるので、その臨場感たるや凄まじく、冷や汗モノ。同様に、徐々に自警意識の狂気に呑まれてゆくポールの心理描写もまた見事なものだった(背景美術の色味に注目)。ポールが銃の扱いを学ぶのがユーチューバーの動画だったり、彼の凶行がSNSで即座に拡散されるのも、いかにも今日日(きょうび)のリメイクといった感じで楽しい。

ただ、よくも悪くも、本作は後半にかけて、いよいよ逃れようもなく狂気に沈んでゆくオリジナル版とは逆に、普通のアクション映画的展開になってしまうので、そこは若干の食い足りなさが残ったところもある。ラストショットの“あの”同じポーズの印象がだいぶ異なるが、いずれにせよ直接の原因たる悪は、ポールそのものではないところは、どちらも一貫しているといってよいだろう。悪党皆死すべし! 面白かった。


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◆違法な人体実験を行っているという“ライフ財団”を追っていた記者エディ・ブロックが、財団が宇宙で採取した寄生生命体“ヴェノム”と融合してしまうマーベル・コミックスの実写化『ヴェノム』ルーベン・フライシャー監督、2018)は、粗を探せば山ほどあるが、それでいてキュートな魅力を持った不思議な印象を残す作品だった。

本国での批評家受けが芳しくないのも納得で、前半の1時間は展開や話し運びがなんだかマゴついていたり、妙に辻褄が合っていなかったりで、正直退屈だった。けれど、ついにエディに巣食ったヴェノムが覚醒してからの後半は打って変わって、スピード感溢れるアクションのつるべ打ちと、その最中に交わされるふたりの軽妙で漫才のような掛け合いの楽しさに一気に引き込まれた。まるで「水曜どうでしょう」のロケ中にまろび出る大泉洋のボヤきのごときヴェノムの台詞の数々──アンゼたかし氏による字幕翻訳も素晴らしい──が可愛らしく、なるほど『ゾンビランド』(2009)のフライシャー監督作なのだった。

映像表現の面白さは、長い長いスタッフロールの果てに付された“アレ*1”に全部持っていかれた感もあるのが残念だが、予告編とはまるで違った体験を味あわせてくれる本作は一見の価値アリだ。


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◆2万年後の未来の地球を舞台に、生き残った人類たちとゴジラとの攻防を描く長編アニメシリーズ第3作にして完結篇GODZILLA 星を喰う者静野孔文瀬下寛之監督、2018)は、前2作にあった問題点はそのままに、とりあえず終わった、という感じ。

たしかに、低音を効かせたサウンド・デザインは聴き応えがあるし、ある種の日本人論をやろうとした本シリーズの筋立て、というか着眼点は面白いものだと思う。日本人である主人公ハルオ・サカキに対して、それぞれが日本人のルーツを思わせる3種族──縄文人弥生人、そして南洋の人々──が異なった価値観をぶつけ、彼がその渦中で葛藤し、どの未来を選び取るのかという展開は興味深い。

また、そこかしこに付されたユダヤ教キリスト教的な味つけについても、やりたいことはわかる。ゴジラ映画第6作『怪獣大戦争』(本多猪四郎監督、1965)に登場するX星人が種族名の由来である「エクシス」の神官であり、本作では人類(=ハルオ)を篭絡して破滅させようとするメトフィエスの名は、ファウストに魂の契約を持ちかける悪魔メフィストフェレスのモジリだろうことは明らかだし、彼がハルオを抱く本作のポスター・アートは、受難のイエスを抱く聖母マリアを表した「ピエタ」像そのものだ。

同時に、ひたすらな献身──信仰──と供物を求める本作のキングギドラヤハウェを髣髴*2とさせ、そんなギドラを盲信するメトフィエスが終盤において丘の上に祭壇を築き生贄を供える様子は、ヤハウェの命令に従って息子イサクを奉じようとしたアブラハムの姿に重なるだろう*3 *4 *5。こういった試みを「ゴジラ」でやろうとすることそれ自体は面白い興味深いと考えるものである。

ただ、いかんせん映画としての面白さを伴っていない。小説朗読やドラマCDもかくやとばかりにひたすら台詞は多いが、同じ話を3度も4度も繰り返すばかりで、話が遅々として進まない。たとえば、何回「ギドラはゴジラに噛みついているだけなのに!」という台詞を聞いたかってことであって、脚本段階での整理がなされていないのは明々白々だ。そのくせ空間描写はおざなりなので、相変わらず誰がどこにいて、どういったスケールや距離感なのかがサッパリつかめない。というか、今回の目玉であろうゴジラとギドラの闘いが、文字どおりポスター・アート以上でも以下でもないとは、いかがなものか。まったく、ゴジラキングギドラよりも、絶望したのは映画の出来だよ!


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◆地球を覆い尽くし、数多の人命を奪った謎の群生体と、それを統べる“エウレカセブン”に対抗すべく選出された少女アネモネの姿を描くリブート版第2作『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション京田知己監督、2018)は、シリーズで描かれてきた世界に文字どおり外側から切れ込みを入れるという構成もあって、なんとなくリブート版前作(京田知己総監督、清水久敏監督、2017)を未見のままで観たものの、けっこう楽しめた(テレビ版と旧劇場版はほぼリアルタイムで観賞)。

もちろん自身の不勉強さゆえに腑に落ちない点もあったし、クライマックスは画面どおり駆け足だった嫌いもあるが、本作が新規に作った画面を観てもわかるとおり『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)など庵野監督作の影響が色濃い本作らしく、昨今の国内情勢に対する痛烈な皮肉がそこかしこに込められている──思い起こせばオリジナルのテレビシリーズもそうだった──ところなども、本作のSF的ストーリーとも相性がよかったのだろう、しっかりと効いているのも印象的だ。

画面それ自体に関していえば、戦闘や爆発などのエフェクト・アニメは非常に見応えがあり、大画面でこその臨場感が味わえたものの、基本の画面サイズがシネマスコープになったためか作画部分に解像度に不足がところどころ感じられたり、部分的にトゥーン・シェイドCGで描画されたキャラクターの動きには若干の違和感があったりで、こういった技法/技術的伸び白はまだまだあるといったところだろうか。


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◆一世を風靡した英国のロックバンド“クイーン”のリード・ボーカルだったフレディ・マーキュリーの半生を描くボヘミアン・ラプソディブライアン・シンガー、デクスター・フレッチャ*6監督、2018)は、自身の出自や性格、容姿やセクシュアリティから来る自他からの抑圧によって孤独にあえぎながら、それでもなお安住の地と“Somebody to Love”を求めて放浪するひとりの人物をテンポよく、かつ非常に繊細に描き出した見事な1作。

歴史考証によって徹底的にリアルに再現された当時の光景もさることながら、本作は、フレディの内面にそっと寄り添うかのような画づくりと編集が本当に素晴らしい。画面構成から照明、色彩の変化、切り替えしたフレディの視線の先になにが見えるのか、あるいは彼の後ろにはなにがあるのかに至るまで、計算され尽くしている。撮影のニュートン・トーマス・サイジェルの仕事ぶりに驚くことしきりだ。そしてもちろん、音楽演出──ときおり挿入されるクイーン以外の楽曲にも注目したい──の的確さも格別で、本作を観れば、劇中でも使用された何曲かのクイーンの楽曲で歌われる詩の意味が、より重層的に心に迫ってくるだろう。そして、だからこそ映画のオープニングがあの曲だったのかと、膝を打つはずだ。

クイーンのファンであるか否か、あるいは知識の在る無しに関わらず*7、きっとなにかしら得るものがあるはずだ。本作ばかりは、ぜひ劇場のスクリーンと大音響で観てほしい1作だ。


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◆テレビシリーズ全12話とOVA版を約2時間にまとめ上げたガールズ&パンツァー 第63回戦車道全国高校生大会 総集編』水島努監督、2018)は、なるほど映画館で観ると、音響のアップグレードによって増幅された戦車まわりのサウンド・エフェクトが、ズンと腹に響いて気持ちがいい。

もちろんシリーズとおして約6時間あるものを3分の1程度の尺にしているので、いろいろ無理もあるのだけれど、そうとなれば主人公・西住みほを巡るドラマに焦点を置いた編集にして、あんこうチーム5人のナレーション演出──彼女たちが、われわれと同じ映像を見ながら思い出語りをしているという設定だが、せっかくの音響を邪魔する部分もかなりあり──を排せば、もっとスッキリしたのじゃないかしらん。


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◆ホフマンの小説とチャイコフスキーによる組曲を元に映画化されたくるみ割り人形と秘密の王国』ラッセ・ハルストレムジョー・ジョンストン監督、2018)は、お世辞にも巧い映画とは言い難い作品で、ハッキリ言って話運びや展開は大雑把そのもの。テーマの描き方もいささか陳腐だし、ギャグもいちいちスベっている。

ただ、ヴィクトリア朝ロンドンの町並みを完全再現した冒頭の長い空撮風ショットに始まり、やがてヒロインの少女クララが迷い込む秘密の王国に至るまで、画面に映るものすべてを──メイク、衣装、セット、そしてVFXと、あらゆる技術を総動員して──徹底的に作り込んだ美術デザインの数々は、まさに総天然色──『オズの魔法使』(ヴィクター・フレミング監督、1939)や『ファンタジア』(ベン・シャープスティーン監督、1940)などを思わせるシーンもチラホラ──と言い表すにふさわしい絢爛豪華さだ。

しかしながら、その目のくらむほど──実際、情報量が多すぎて目がチカチカしたのだけれど──人工的に隅々までカッチリと組み上げられた映像*8のなかで、もっとも見応えがあったのが中盤とエンドロールに映されるバレエ・ダンサーたちが舞い踊る生身のパフォーマンスだという皮肉。なんとなれば、本作をこそミュージカルとして撮ったほうが、題材とも合っていたのではないかしらん。

いっぽうで、『死霊館』(ジェームズ・ワン監督、2013)なんかのころからするとすっかり大きくなった主演のマッケンジー・フォイの可憐なフォトジェニックぶりは見事。その美少女ぶりと演技の豊かさは、並の猛獣なら一撃で倒せそうではあったので、彼女のアイドル映画として観れば、本作は5億点満点だろう。けれど、せっかくテコンドー黒帯の彼女にアクションをさせるのだから、ジャッキー・チェンとかブラッド・アランをアクション演出に招けばよかったのになあ。そうすれば、冒頭のつかみであったピタゴラスイッチが、クライマックスでもっと活かせたろうになあ。惜しい。


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ドクター・スースによる児童文学をイルミネーション・エンターテインメントが長編CGアニメーション化したグリンチヤーロウ・チェイニースコット・モシャー監督、2018)は、鮮やかだが煩すぎない適確な色彩設計とデザイン、3D上映を徹底的に意識した画面レイアウトとカメラ・ワークによって繰り広げられるアクションの臨場感や疾走感、高所感溢れる演出とスラップスティックな笑いを誘うコメディとが合致した楽しく、思いやりの心を描くクリスマス精神に溢れた作品。CGによる毛並みや雪の質感表現も──新作を観るたびに思うけれども──見事だ。

ひねくれ者グリンチの映画前半で描かれる独り暮らしシーンが物悲しくもどこか楽しげでね(シミジミ)。飼い犬マックスや、はぐれトナカイのフレッド相手に喋りまくるヤサグレ感も楽しく、大泉洋のボヤキ吹き替えもバッチリ!*9 原語版のベネディクト・カンバーバッチも早く聞きたいものだ。あえて難を言えば、クライマックスがいささか性急過ぎる嫌いがあったのと、画づくりとアクション演出が完璧だった本作には返ってナレーションは邪魔だったのじゃないかしらん、ということくらいだろうか。ともあれ、様々なソリ滑りシーンは超楽しいゾ*10


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◆レトロなアーケード・ゲーム機内のキャラクターであり、深い絆で結ばれたラルフとヴァネロペがインターネットの世界に迷い込むシリーズ第2作シュガー・ラッシュ: オンライン』(リッチ・ムーア、フィル・ジョンストン監督、2018)は、前作*11とは違う意味において、いたく感動させられた作品だった。

インターネット内の世界を見事にカリカチュアして視覚化したカラフルで多種多様なデザインの数々に目を見張るし、インターネット内外の現実社会*12から、ディズニーの各種自社製品──劇中にあるミュージカル・シーン用の楽曲を、ディズニー・ルネサンス期の作品を支えた作曲家アラン・メンケンにわざわざ書かせている徹底ぶり──までを強烈に皮肉った毒のあるギャグの乱れ撃ちが、まずは楽しいところ。前半のラルフとヴァネロペの仲睦まじい様子もとても微笑ましいし、前作同様にカー・アクションも迫力満点だ。まあ、ちょっとそれらに傾倒しすぎて、たとえば物語内設定が前作と微妙に矛盾していたり*13、明らかにタイムリミット・サスペンスとしては失敗していたり*14と作劇のバランスが若干おかしくなっている点は否めない。はっきり言っていびつである。

それでもなお本作が胸を打ったのは、本作の物語が、友情や恋愛、あるいは結婚といった様々な人間対人間どうしのつきあいのなかで必ず起こりうる変化や、各々が取りがちなふるまいについて徹底的に向き合って──ラルフやヴァネロペが、それぞれのやり方で文字どおり自分を見つめ直すシーンを思い出したいし、そういった意味でクライマックスは正しく怪獣映画*15なのだった──葛藤し、もがきながらも前進しようとするキャラクターたちを描き、僕らにそれについて考えさせてくれるからだ*16

変化のない人間関係はないし、ディズニーが描いてきたようなキスひとつで決定される“不変の愛”もないが、だからこそ尊いのだという、本作の導き出す結論は、とても現代的な着地だろう。自分も1個の人間なら、相手だってそうなのだ。ファースト・シーンの対となる本作のラスト・シーンには、ほろ苦くもあたたかい機微が溢れていた。


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【ソフト】

孤独死した人々ひとりひとりと誠実に向き合って荼毘にふしてきた民生係のジョン・メイだったが、人員整理による解雇が決定してしまい、いま調査中の向かいの部屋で亡くなった男性が最後の仕事になるおみおくりの作法』(ウベルト・パゾリーニ監督、2013)は、もの静かで几帳面で、そして彼自身も孤独であるジョンの日常──その繰り返しと、変化──を、エディ・サーマンの微細な演技と、衣装や美術、カメラと編集によって口数は少なく、しかし豊穣に切り取ってみせる。この丁寧な積み重ねがあればこそ、本作のクライマックスに置かれた、ある種ロジックを飛躍/超越するような展開が不思議とストンと腑に落ち、むしろえもいわれぬ感動を呼び起こしてくれるだろう。


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◆創造主たる人間の手を離れ、あまつさえ人間を排除しながら無限増殖する階層都市に住まう人間たちの戦いを描く弐瓶勉の同名SFコミックの映画化BLAME!瀬下寛之監督、2017)は、さすがに美術やデザイン・ワークといったヴィジュアル面について見事のひと言。だが、他の瀬下監督作品同様に空間把握のしづらい画面構成と編集、そしてアクション構築によって、せっかくの舞台立ての魅力が十分には活かせておらず、なにより同じ話題を短時間に2回、3回と繰り返す展開が鈍重に感じられてならない。もうちょっとスマートに、かつ、設定やら説明を少しずつ詳(つまび)らかにしてゆく作劇を考えるべきではなかったか。


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◆不勉強ながら観ていなかったディズニーのアトランティス 失われた帝国(ゲイリー・トルースデール、カーク・ワイズ監督、2001)は、いかに物語を素早くかつ判りやすく展開するかに特化した画面レイアウトの連続が凄い。恐ろしくテンポが早いのに、スルスル飲み込めてしまう。また、ディズニーのアニメーション映画とは思えないほどに人が直接的にむざむざとたくさん死んでいくのにも意表を突かれた。


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◆マンゴー湖にて溺死した少女アリスの家族に、やがて不可解な現象が起こりはじめる『レイク・マンゴー ~アリス・パーマーの最期の3日間~』(ジョエル・アンダーソン監督、2008)は、少女の遺族や関係者にインタビューをしつつ過去を再構築してゆくモキュメンタリー型ホラー。本作の肝は、なんといっても心霊写真演出。派手な脅かし演出をいっさい排して、じっくりとフィルムや低解像度のデジタル・カメラにうっすらと見える画面の“しみ”が、こちらを見ていることに気づく戦慄を、本作はいやというほど味合わせてくれる。そして同時に面白いのが、心霊映像についての事実が二転三転しながら重層的になってゆく展開だ。「こう」かと思われたものが、別の真実へと繋がり、登場人物や地域社会の持つ隠された暗部がさらけ出され、ただでさえ不穏な空気がより澱んでくる。しかも、それらすらもレッドヘリングであったかのように付される本作のラストを観るとき、いいようのない感情が芽生えるだろう。


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◆考古学者ジャッキー・チェンが古代インドに伝わる財宝に挑戦するカンフー・ヨガスタンリー・トン監督、2017)は、ジャッキーらによる華麗なカンフー・スタントに加えて、作中でも言及があるように『インディ・ジョーンズ』シリーズや、近作の『ワイルド・スピード』シリーズの面白さを取り入れたVFX満載のバッキバキの映像とアクションがとにかく目まぐるしく楽しい。しかも最後には皆で踊り狂って大団円という、なにが“ヨガ”なのかはサッパリ判らないが、とにかくハッピーな作品だ。日本での劇場公開時に正月に観ていれば、そりゃ運気も上がったろうさ。


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◆人生に行き詰まって酒に溺れ、同棲中の彼氏にも振られて帰郷したアラサー女性グロリアが、突如ソウルに出現した怪獣と自分の動きがシンクロしていることに気づくシンクロナイズドモンスターナチョ・ビガロンド監督、2016)は、どこかコメディ的な突飛な設定ながらも、あくまでも人間ドラマを主眼に置いた、とても心に染み入る傑作。アン・ハサウェイの絶妙なダメ人間っぷり──なんやかんやで全然安眠できない天丼ギャグが楽しい──や、ジェイソン・サダイキスのどこか緊張感を醸す雰囲気など、役者陣の演技アンサンブルがたいへん見応えがあるし、部屋の内装の変化といったキャラクターたちの心理を暗喩する美術演出が非常に細やかになされていて素晴らしい。本作が示すように、怪獣はいつでも自分の心のなかにいることを忘れないよう心がけたい。


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◆ピエール・クリスタンとジャン=クロード・メジエールによるバンド・デシネを実写化したヴァレリアン 千の惑星の救世主リュック・ベッソン監督、2017)は、ベッソン監督作としては久々に普通に楽しめる作品。本作のキモはなんといっても、“千の惑星の都市”と呼ばれる人口惑星「アルファ」内部をはじめとした、多種多様で雑多で絢爛豪華でプリミティブでエキセントリックな美術デザインの数々だ。シーンごと、あるいはショットごとに目まぐるしく変転する画面内のあれこれを眺めるだけで、あっという間に時間が過ぎてしまう。そのぶん若干テンポが単調な気もするが、今日(こんにち)こそ観られるべき問題提起をはらんだSF的ストーリーも評価されうるポイントではないだろうか。


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ジャッキー・チェンが出演&アクション演出までしているCGアニメーション『レゴ®ニンジャゴー ザ・ムービー』チャーリー・ビーン、ポール・フィッシャー、ボブ・ローガン監督、2017)は、決してスマートで要領のいい作劇とはいえない。しかし、目のくらむような情報量の映像と、ジャッキー印でありながら同時にアニメーションならではの新鮮さに溢れたアクションがなんとも楽しい。そして、それらもさることながら、父子、母子を巡る物語として思わず感動してしまった。あと、にゃんこがかわいい。


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◆心臓外科医スティーヴンが、とある少年と知り合ったことで、家族をも巻き込む不条理に呑まれてゆく『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』ヨルゴス・ランティモス監督、2017)は、もう本当にイヤなイヤなイヤな気持ちになる作品(褒めてます)。スタンリー・キューブリック映画を思わせるシンメトリックで硬質な画面作り、それを作中の空気感そのままに絶妙に揺らぎながら移動するトラッキングショット、キリキリと神経を逆なでする不協和音、ひたすら抑揚のない早口で冷たい台詞まわし、そして噴出する家族それぞれのエゴイズムが軋みだす展開が怖い。出口のない話なのに、ひたすら画面に「EXIT」が映りこむのが非常に意地悪で最悪なのが最高。


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◆長年観たいと思っていたジャック・フィニイ原作の2度目の映画化作『SF/ボディ・スナッチャーフィリップ・カウフマン監督、1978)をようやっと観た。グッと闇に沈んだ色調や不気味に傾いだカメラ・ワークが、もの言わず徐々に侵食される日常を端的に描いていて、なんとも知れぬ不穏さが映画全体を貫いている。主人公たちを追うサヤ人間たちの様相や生態は、時折使用される特殊メイクの見事さとも相まって、まるでゾンビのように、あるいはそれ以上に怖ろしい。そして、不意に訪れる映画技法的な平穏のなかで突きつけられる最後の大オチ……うーん、絶品!


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【ソフト(ネット配信ドラマ)】

◆1983年、インディアナ州の田舎町で起きた失踪事件に端を発して巻き起こる怪異現象に立ち向かう少年たちを描いたNETFLIXオリジナル・シリーズストレンジャー・シングス 未知の世界〈シーズン1〉』(ダファー兄弟、ショーン・レヴィ監督、2016)は、スピルバーグからカーペンター、クローネンバーグなど愛すべき'80年代SFホラー映画へのオマージュ、スティーヴン・キングや『グーニーズ』を思わせる負け犬少年チーム、超能力少女、そしてウィノナ・ライダーと、とかく僕の好きなものしか入っていない幕の内弁当的な内容でかつキッチリと楽しめるという、まぁツボにはまりまくるシリーズだった。ドラマ・シリーズゆえに、ちょっと間延びした部分もなくはないが、それでも全8話とコンパクトでよろしい。


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*1:日本では来年公開予定の、異なる世界線スパイダーマンたちが一同に会するアニメーション長編『スパイダーマン: スパイダーバース』(ボブ・パーシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン監督、2018)のイントロ的な短篇。

*2:エクシスが持つギドラのエンブレムはダビデの星だろう。

*3:それをハルオは否定するわけだけれども……本作がラストに辿るあの結論はどうなんだろう? ちゃっかりハルオは現地妻に子種だけ宿した上に、元カノと一緒に神になっているではないか!! なんだそりゃ、育児放棄か!! このヤリチン野郎がよゥ!! なんだかゴジラそっちのけ宗教戦争している印象のほうが勝っているんだよなあ。それについては、劇中にキャラクター自身がハルオに突っ込みを入れているし……、やっぱり整理が足りてないよ!

*4:また、メトフィエスが終盤において、ある種の隻眼となるのは、初代『ゴジラ』(本多猪四郎監督、1954)に登場する芹沢博士のオマージュ、というよりは、彼が柳田國男いうところの「一つ目小僧」の系譜であることを仄めかすであろう。彼自身がハルオの神格化の生贄になってゆくのだから。

*5:あるいは本シリーズを、虚淵玄による水木しげる論と捉えることもできるかもしれない。本作の辿る、発達した科学文明を捨て、プリミティブに生きることを選択する顛末──あの挿入歌とともに、中途半端にディテール・アップしているせいで微妙に気持ち悪い静止画を垂れ流すダサいダサい演出もどうかと思うけれども──を観れば、本シリーズはむしろ「ゲゲゲのゴジラ」とでも呼ぶべきなのやも。

*6:ノン・クレジットだが、シンガー監督が途中降板して以降を担当している。

*7:クイーンについては、不勉強ながらほとんど白紙の状態──いちばん馴染み深いのが、『ハッチポッチステーション』内でグッチ裕三が「ボヘミアン・ラプソディ」を完璧なパロディにしていた「犬のおまわりさん(GUEEN)」という体たらく──で観たけれど、本当にいい映画だった。

*8:雪の積もった寒空の下で、息がひとつも白くならないのはご愛嬌か。

*9:劇中に映る文字表記のローカライゼーションも──フレジテビが金を出しているからかどうかは知らないが──徹底されていて舌を巻く(ディズニーも見習ってほしい)。まぁ正直なところ、過度な──エンド・ロールまで日本語とか、吹替え版キャスト表記とか──ローカライゼーションは面白くもあるが、洋画を観ている感じが薄れてしまって、それはそれで微妙な感覚になりはするのだけれど……。

*10:同時上映の短篇ミニオンのミニミニ大脱走(ファビアン・ポラック、セルゲイ・クシュネロフ監督、2018)は、サイレント時代のキートンやロイド、チャップリン映画を思わせるスラップスティック・アクションコメディで、それなりに楽しかった。

*11:リッチ・ムーア監督、2012。公開当時の僕のつたない感想はこちら>>拙ブログ「『シュガー・ラッシュ』(日本語吹替え版2D)感想」。

*12:本作に登場する動画投稿サイト「BuzzTube」絡みの描写で、流行は、もはやA.I.が作り出し、流通させているという描写はなかなか考えさせるものがある。

*13:前作では「悪しきこと」とされていた「ターボする」ことの捉え方の反転が、もっとも大きな部分だろう。

*14:eBayへの支払期限と、ゲーセンが開店するまでに帰らなければない件──前作とは変わって、ラトウィック氏のゲーセンに客足が遠のいていることを示唆する描写もあるにはあるけれど──がうまく噛みあっていないからではないか。後者に関しては、ひとつ台詞を入れれば解決しそうだけれど。

*15:もちろん本作のクライマックスの画づらは、劇中ゲームである『フィックス・イット・フェリックス』の元ネタである『ドンキーコング』(任天堂、1981)の名前の由来である映画『キング・コング』(メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザック監督、1933)で描かれるエンパイア・ステート・ビルでの攻防シーンへのオマージュである。それと同時に、ここに出現する怪物は、まさしくラルフ自身が生み出したイドの怪物──怪獣やモンスターとは、往々にして登場人物の抑圧された無意識的欲望を具現化した存在でもあるのだから──なのである。だからこそ、ファミリー映画としてはあり得ないほどに怪物が気色悪い造型なのも意図的だ。ときに傲慢ともとれるような自身の欲望こそ、人間がもっとも目を背けたくなるもののひとつなのだから。

*16:だからこそ、前作より引き続いて、日本語吹き替え版において非常にザツなローカライゼーションを施された“ヒーローのメダル”が惜しい、というか勿体ない。なんだよ、あの愛のない丸文字ゴシックは。前作も、というか最近のディズニー作品にも思うことだけれど、だったら画面の脇に字幕処理とかのほうが、よっぽどイイよ。デザイン性や演出意図が崩れないし、読みやすいもの。