2018 4-6月感想(短)まとめ

ちょこまかとtwitterにて書いていた2018年4月から6月にかけての備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆1971年、米国の対ベトナム政策を決定的に左右したスクープを巡るワシントン・ポスト紙の攻防を、初の女性社主となったキャサリン・グラハムが直面する同紙の経営問題も絡めつつ描くペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書スティーヴン・スピルバーグ監督、2017)は、単なる実録ドラマに留まらない、現代にも──というか、まさに今日の現実問題に──通ずるテーマを内包した見事な傑作。

メリル・ストリープトム・ハンクスらの繊細な演技、構図や影の濃淡ひとつで状況や感情の機微を切り取るヤヌス・カミンスキーの美しい撮影とリック・カーターの美術セット、かつて自身の健康問題からトーマス・ニューマンが代打した『ブリッジ・オブ・スパイ』(同監督、2015)の音楽性をも取り込んで進化するジョン・ウィリアムズの楽曲などが、見事なアンサンブルを奏でている。企画立案からわずか9ヶ月で本作を完成させたスピルバーグの天才性に驚愕するとともに、なぜ彼がここまで急いだのか、その理由をぜひとも考えてみたい。我々はいつまで「古い時代」に居続けるつもりなのだろうか。まったくもって他人事ではない。


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◆300年に1度、曇天が空を覆うとき復活するとされる伝説のオロチに挑む曇(くもう)兄弟らの闘いを描く曇天に笑う本広克行監督、2018)は冒頭、長回しで映される祭りのファースト・ショットから、画面の太鼓と劇伴のBPMがズレているという気合いの入った導入に驚かされる*1。以降も明らかに脚本と、それ以上に演出の練り不足が目立つ。

曇天の期間が判らないためにオロチがいつ復活するのかといったサスペンスが当然のように成り立っていないのは堂に入ったもので、それどころかギャグも感動も同様にちんちくりんな失笑しか──否、すら──生まず、見せ場のアクション・シーンすらとにかく退屈で、そもそも編集が不恰好極まる事態が平気で頻発する。いや、ずっとそれである。

というのも、本作は必要なシーンどころか必要なショットが決定的に欠けているからだ。本作にはショットが足らなさ過ぎて、切り返しという編集の基本概念すら存在が怪しい。基本的に、ただ半端な構図でダラダラ回してテキトーに繋いだだけであるから1ショットが異様に長いゆえに、キメ画もキメ画たりえていない。ことほど左様に、どんなに集中しても映画の世界に入り込めないず、すがすがしいほどツマラナイ。殺意すら沸く。

本作には無闇やたらとヴァリエーションに富んだ予告編や番宣が用意されていたが、劇場に客を呼んだもん勝ち的な体制は、いいかげん見直していただきたいものだ*2。無論それも大事だが、そればかりではいけない。唯一の救いは、サカナクションによる主題化『陽炎』が、なんとなくゴダイゴがテクノプップやった感があって愉快だったのと、上映時間が短かったことくらいだよ!*3 


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ボードゲームからTVゲームに進化した“ジュマンジ”に吸い込まれた高校生たちが、性格も体格もまったく違う姿となって挑む冒険を描くジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングルジェイク・カスダン監督、2017)は、童貞オタク男子高校生のキョドリ演技を嬉々として披露するドウェイン・ジョンソンを筆頭に、自撮り命の女子高生を演じるジャック・ブラックなど、俳優人のいままで目にすることなかった演技合戦がとにかく楽しい。4人それぞれが心身ともに逆のプレイアブル・キャラクターとなったことで吐露される真のアイデンティティに触れることによって変化・成長する彼/彼女らの姿は感動的だ。

また本作は、主人公たちが挑む冒険を彩るアクション・シーンの構築と見せ方がとてもしっかりしている。TVゲームのなかという設定どおり縦横無尽に展開されるアクションながら、非常に安定したカメラ・ワークと編集によって、近年のハリウッド大作のなかでも抜きん出て見やすいので、安心して映画の世界にのめり込めるだろう。また、本作の日本語吹替え版の出来も、翻訳から演出まで実に素晴らしい完成度だったことを付け加えたい。とても楽しく面白く、ちょっと感動できる本作は、必見の“久々の”続編だ。


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◆思春期の姿のまま永遠の生命を生きる種族“イオルフ”の少女マキアが、大国の侵略によって故郷を追われた先で偶然に拾った、母を亡くした人間の赤ん坊を育ててゆく姿を描いたファンタジー長編アニメーションさよならの朝に約束の花をかざろう岡田麿里監督、2018)は、生命感溢れる精緻な作画、実在感のあるプロダクション・デザインと背景美術の数々は素晴らしく、達者な演者たちによるパフォーマンスと川井憲次による音楽はその画に情感を添え、シーンごとでの演出力はたしかにたいへん高く、見応えがある。

しかし本作は、圧倒的に尺が足りていない。それはラスト・シーンに集約されているだろう──「その思い出を、僕ら観客は共有してないよ」、と。本作のやりたいことはわかるし、その力量はたしかにあるが、いかんせん映画という時間的制約の範疇に収まりきる物語量ではない。だから見せ場だけが足早に過ぎ去り、本来なら画とアクションでみせるべき感情表現が安直な台詞に落とし込まれてしまう。TVシリーズ1クールなりかけて丁寧に物語を紡げていれば、より感動も大きかっただろう。だが、これだけの規模のものが劇場公開という枠組みでなく成立するのかどうか、素人目にはむつかしいところでもあり、なんというか非常にもったいない作品だった。


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  《1ヵ月半ほど入院》

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◆今年1番楽しみにしていたにも関わらず、入院のためずっと劇場に行けず、滑り込みでようやっと観たレディ・プレイヤー1スティーヴン・スピルバーグ監督、2018)が、期待をはるかに超えて面白くて楽しくて、観ているあいだ、ずっと鼻血を吹きそうだった。

未来世界のメガ・ストラクチャー描写や、前半に描かれるデロリアンと金田バイクたちのレースをはじめとした、目のくらみそうな画面の情報量にも関わらず、この観易さたるや! 5年ぶりくらいに3D上映を観たけれど、まったくストレスなく観ることができた。映像や演出もさすがのスピルバーグ印なら、映画やサブカルに対する劇中での落とし前のつけ方も素晴らしい。本作の原作小説が憬れ、また、ここ10年来作られてきた数々のサブカル・リスペクト映画がオマージュやパロディを捧げ続けてきた'80-'90年代──そしていまもなお──カルチャーの最前線を走ってきたスピルバーグだからこそ、彼の作品を観て育った──彼が育ててくれた──僕たちへの温かく優しいメッセージだと受け取りたい。とにもかくにも、本作について現時点で言えるのは、ただ「ありがとう、スピルバーグ、ありがとう」ということだけだ。


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◆のどかな湖水地方を舞台に人間とウサギたちが骨肉の争いを繰り広げる、ビクトリアス・ポター原作の実写映画化ピーターラビットウィル・グラック監督、2018)は、最初に公開された特報の雰囲気など微塵もない、ブラックでバイオレントな笑いを畳みかけてくる快作/怪作。

ピーターたちや、彼らを邪険にする新しいお隣さんのトーマスが互いに容赦なく殺し合う様子を、スピード感あふれるアクション演出を用いて不謹慎が過ぎるくらいにコメディ──しつこな天丼ギャグが効果的──として撮っているため、観ているこちらにも知性と理性を要求するパイソンズ的な毒っ気の効いた1本だ。それにしても、ニワトリのJWルースター2世の日本語吹替え版(演・千葉繁)はズルイよ!


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◆悪徳企業の陰謀によって巨大化・凶暴化した動物たちと、元特殊部隊隊員の動物学者ドウェイン・ジョンソンが骨肉の争いを繰り広げるランペイジ 巨獣大乱闘ブラッド・ペイトン監督、2018)は、キラー・ショット満載の楽しい楽しい怪獣映画だった。巨大なアルビノのゴリラ“ジョージ”とガチンコで対峙するドウェイン・ジョンソンという画だけで100点の作品だが、邦題のサブタイトルに恥じない巨獣たちの暴れっぷりは実に爽快。

彼らの活躍を盛り上げる、あくまでもシンプルなシナリオはテンポがいいし、大都市シカゴを舞台としたクライマックスでのアクションと破壊描写は、バリエーションに富みながら整理整頓されて構築されているので、とても観易い。ジョージをはじめ、巨獣たちのデザインから、本作は“キングコングの息子対バラン対アンギラスドウェイン・ジョンソン”でもあり、そういう意味でも眼福な作品だった。欲をいえば、冒頭のプロローグがやや冗長かな。


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◆2万年後の地球を蹂躙する超巨大怪獣ゴジラと人類とが骨肉の争いを繰り広げる長編アニメ・シリーズ第2部GODZILLA 決戦機動増殖都市静野孔文瀬下寛之監督、2018)は、虚淵玄らによる新怪獣の意外な設定や物語大筋そのものは、こういう解釈や展開もありと思うし、重低音の効いた熱戦や銃撃、初代ゴジラの断末魔をブラッシュアップしたサウンド・エフェクトなどは、かなり聴きごたえがあった。

しかし本作は前作同様、いくらなんでも演出が稚拙すぎる。相変わらず人気声優によるキメ台詞的なものに頼りすぎではないか。それぞれのシーンごとに膨大で説明的な台詞量が用意されるばかりか、本作は前半1時間、同じ台詞内容を直後のシーンで延々オウム返しすることを繰り返す。これでは展開のテンポを悪くする一方だ。

くわえて、その台詞のやりとりとシーンの繋がりに一貫性がないので、さらにモタついた印象を受ける。たとえば、劇中でパワードスーツを改良する際、「すべて機械化するから、操縦者の搭乗を考慮する必要はない」という内容の台詞の直後に、その改良型機を有人で試験運転させてしまう。一応、それから30分ほど経ったクライマックスにおいて台詞内容は回収されるが、これは単に都合の悪いことを都合よく割愛しただけであって、伏線とは呼べない──本作のサスペンスは基本的にこういった後出しジャンケンである──のではないか。だいたい、前作をふくめてなんの脈絡もなかった主人公とヒロインとの2回に渡るラブ・シーンや、肉食植物的なヤツのシーンなど、どう考えても1シーンにまとめられたものを意味もなく分割し過ぎである。話下手か!

それと同様に、空間の見せ方がデタラメ過ぎて、どこに誰がいて、なにがあって、どれくらいの大きさなのかといったことが非常に判りづらい。したがって、せっかくの見せ場であるクライマックスにおいてさえ“ゴジラ・アース”や“機動増殖都市”がどれだけ巨大で広大なのか──台詞ではひたすら「デカイ広いスゴイ」とおだてあげられるが──実感もわかず、アクションも乗り切れない。そして、やはりそこにいるはずなのにいては都合の悪い“その他大勢”の人たちは、都合よく画面から消えるばかりである。

ことほど左様に本作は前作同様、非常に鈍重な作品となった。いっそ40分くらいのほが、まだよい。残念。最終部である次回作において完成度的な巻き返しがあるのかどうか、今冬を期待して待ちたい。


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◆6つ集めれば世界を思いのままにできるといわれる“インフィニティ・ストーン”を求めて地球を狙う最強の敵サノスとアベンジャーズとの闘いを描いたアベンジャーズ/インフィニティ・ウォーアンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2018)は、MCUシリーズのうち何本かを未見のまま鑑賞した身であっても、キャプテン・アメリカをはじめ何人ものヒーローたちに過たず見せ場を与えつつ適確にストーリーを進め、かつルッソ兄弟演出の真骨頂ともいうべきソリッドな、しかし整理されて非常に観易いアクション演出、そして神の道を歩まんとする悪役サノスのキャラクター性の新鮮さ、そして予想だにしなかったラストの展開など、非常に見応えがあった。欲をいえば、ちょっと各ヒーロー同士のジャレ合い(ユーモア)シーンに尺を取りすぎな点と、も少し一般の人々が世界の危機に翻弄されるさまを描いたほうがよかったのではないかしら。それにしても、今後どのようにMCUを展開してゆくのかが俄然楽しみになる1作だった。


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◆みんな大好き俺ちゃん映画の続編デッドプール2デヴィッド・リーチ監督、2018)は、見応えのあるアクションと、露悪に自虐からパロディまで、これでもかと小ネタに小ネタを──もはやハッキリいって冗長ではないかというくらい──パンパンに詰め込んでおきながら、それでもなお、いま現在あり得べき正義のヒーロー譚として昇華してしまっている最高の続編となっていた。

それにしても、冒頭のツカミとモノローグに始まって、感涙のクライマックスに劇伴までシレッと流用するなんて、デップーどんだけ『LOGAN/ローガン』(ジェームズ・マンゴールド監督、2017)好きなんだよ! 俺も大好きだけどな!


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【ソフト】
◆自らの孤独とセクシャリティに悩みながら、居場所とアイデンティティを求め続けるシャロンの姿を描く『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス監督、2016)は、彼の魂の彷徨を映す映像が本当に美しい。撮影後のデジタル処理によって、さりげなく、しかし徹底的に調整された画面の色彩は、本作のドラマをよりいっそう詩的で、情緒溢れるものにしている。本作を構成する3章それぞれに別々のフィルムの感触を擬似再現していることからも、そのこだわりぶりが伺える。シャロンの内面にそっと触れるような音楽演出も見事な、傑作だった。


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◆伝統ある百人一首の団体「皐月会」を巡る連続爆破殺人事件に挑む名探偵コナン から紅の恋歌静野孔文監督、2017)は、なるほど公開時twitterのTLが「せやかてせやかて」と盛り上がっていたのも頷ける服部平次遠山和葉の活躍ぶりと、開き直ったかのように爆発し続ける劇場版的展開が思う存分楽しめる。そのいっぽう、謎解きの要素──とくトリックの部分──がちょっと弱かったのが残念。あるいは、クライマックスの舞台となる“ある建物”の特性について、事前の検分シーンを挿入するなど、もうすこし丁寧な前振りがあれば、展開がよりサスペンスフルになったのではないかしらん。


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◆ファッション・モデルとしてのし上がるヒロインを襲う業界の闇を描いたネオン・デーモンニコラス・ウィンディング・レフン監督、2016)は、思いがけず抽象性の高い御伽噺のようなホラー。レフン監督らしい彩度の強い映像美と、見た目だけが勝負のモデル業界よろしく画面の表層だけを汲み取るかのような演出──キャラクターの内面描写をメイクの変化だけで描いてみせたり、など──が独特の余韻を残す。


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ジャッキー・チェン演じる刑事が麻薬王逮捕のために、詐欺師を相棒にユーラシア大陸を縦断する羽目になるスキップ・トレースレニー・ハーリン監督、2016)は、アクションをはじめとするジャッキーのパフォーマンスは楽しくて見事というほかないが、いわゆる観光映画的にねじ込まれたモンゴルと中国を縦断して香港に(基本)歩いて帰るという「水曜どうでしょう」ばりの脚本には無理がある。だって、いくらなんでもタイム・サスペンスとして成立してないんだもの! なんとも残念だ。


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◆カナダの山岳地帯にある別荘に出かけたマットたち6人が遭遇する未知の恐怖を描いたPOVホラー『グレースフィールド・インシデント』(マチュー・ラザ監督、2017)は、登場人物の全員が清々しいほどバカばっかりなので、恐怖演出を頑張っているわりに緊張感に欠けるのが残念といおうか微笑ましいといおうか。けれど、事故で失った片目の義眼に超小型カメラを仕込んだ主人公という設定を活かしたシームレスなシーン転換の編集──観客の観ている映像(直前のシーンの末尾)、実は録画映像を主人公が“いま”観ている主観映像だったことが判る──など、ところどころは見所もある。まあ、まばたきが録画されていないのはご愛嬌か。それにしても、クリーチャー・デザインせよ物語のオチにせよ、妙に見覚えがあるなァと思っていたが、『リターナー』(山崎貴監督、2002)だ、コレ。


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◆ソウル駅を中心にゾンビ災害が巻き起こる『ソウル・ステーション/パンデミックヨン・サンホ監督、2016)は、『新感染 ファイナル・エクスプレス』(同監督、2016)へ続く前日譚的長編アニメーションで、同じくたいへん面白かったが、まったくの真逆ともいえる味わい。冒頭から幕切れにいたるまで、シビアで無惨で、なにより厭なイヤァな展開がこれでもかと繰り広げられる地獄のような本作は、人間や社会の持つダークサイドを徹底的にあぶりだしてみせる。


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◆ネット・ミームとして広まった“スレンダーマン”を、あのダグ・ジョーンズが演じたPOVホラー『都市伝説: 長身の怪人』(ジェームズ・モラン監督、2015)は、洋画ホラーとしては意外にも静謐な恐ろしさに溢れた作品だ。ミームのもととなった加工画像がそうであるように、ちょっとした予兆を経たのち、画面の奥に、はたまたフレームの端に、ふいに映りこんでいるスレンダーマンの姿を見つけてしまったときは、なかなか怖い。いうなれば本作では、カメラを通してしか見えないという独自の設定を活かした、Jホラー的実録心霊動画スタイルが貫かれており、カメラのデジタル・ノイズを巧みに使った恐怖演出も効果的。日本初公開時のタイトルは『スレンダー 長身の怪人』。


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◆タイトルどおりの内容であった『燃えよ! じじぃドラゴン 龍虎激闘』デレク・クォック、クレメント・チェン監督、2010)は、脚本がヘンテコ──主人公の青年への感情移入のできなさは異常──だとか、変なエフェクト入れなきゃいいのにとか、雑で微妙な部分もたしかに多い。けれど、知らず知らずのうちに出会っていた往年の顔ぶれと一同に再会できて懐かしい。ラスト・バトルはちょっと泣いた。


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妖怪ハンターとして食うや食わずの旅路を行く三蔵法師たちの冒険を描いた西遊記2〜妖怪の逆襲〜ツイ・ハーク監督、2017)は、チャウ・シンチーツイ・ハークとが持つそれぞれの奇想天外さがいい具合にマッチングしており、ギャグもアクションも特撮もブッ飛んでいて面白い。スー・チー以外のメイン・キャストをまるっと変更して──孫悟空をホアン・ボーからケニー・リンへという似ても似つかないリ・キャスティングも逆に笑える──も、それなりに成立してしまうのは、題材の持つ強固さか。それにしても、前作に続いて日本語吹替え版の出来のいいこと!


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【ソフト(TVドラマ)】
テレビ東京旧社屋に残された大量の未確認素材をチェックする部署に配属されたAD常田大陸らが見舞われる怪奇現象を描いた深夜テレビドラマ『デッドストック〜未知への挑戦〜(全11話)』(権野元、三宅隆太、森達也監督、2017)は、毎話冒頭に挿入される“いわくつきの恐怖映像”を、かつてのVHS時代の映像的質感で再現することをアリにした物語的仕掛けがまず面白い。そしてなにより、その揺らめき濁った映像と、その後に展開されるHD映像によるホラー演出が怖い、でも怖すぎない、だがしかし怖い絶妙な按配でグイグイ引き込んでくれる。深夜、なにも知らずにチャンネルをまわして本作に当たったら、よほど思い出深い出来事になったろう。基本的に1話(30分)完結形式でとっつきやすいうえ、全体を貫くクリフハンガーもあって一気に観てしまった。


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*1:この、空撮からの逃走犯の背後を追尾する長い長いショットの最初に映る橋の中央に、よく観ると曇天下の後ろ姿が小さく映っている。おそらく作り手としては、やがて追走劇のすったもんだののちに、待ち構えていたかのような天下に犯人が御用となることの伏線のつもり──実際、この追走シーンはそういった顛末を辿る──なのだろう。しかし、天下が祭りを楽しんでいるようで実は周囲の気配を機敏に察しているかのようなショットがその後カットバックされるでもなく、位置関係もへったくれもなく適当な祭りの群集が挿入されるだけで唐突に天下が登場するので、そのようには作用していない。いや、多分『007 スペクター』(サム・メンデス監督、2015)の冒頭的なことをやりたかったんだろうけどさ、こっちはちゃんとバンドと劇伴のBPMをきちんとマッチさせるところからちゃんとやってるからね!

*2:アメリカのトーク・ショーを思わせる白人女性と黒人男性の軽妙な──つもりらしい──やりとりによって映画を宣伝するシリーズがあったが、これを面白いと思っている作り手たちの感性とか品性とか正気を疑いたくなるほど、ゲッソリするほどクソつまらない。この手の予告編を半年近く継続して見せられた挙句にこの本編であって、実際に心身に支障をきたすほどの健康被害を被った。

*3:【初出の暗号ツイート全文】300年に1度、寒天が食卓を覆うとき醗酵するとされる伝説のモロミに挑む相撲協会らの闘いを描く『寒天に習う』(マイケル・ベイ監督、2018)は冒頭、長回しで映される舞踏会のファースト・ショットから、画面のタンゴと劇判のBPMがズレているという気合いの入った導入に驚かされる。以降も明らかに脚本と、それ以上に演出の練り不足が目立つ。というのも、本作は必要なシーンどころか必要なショットが決定的に欠けている。寒天の賞味期限が判らないためにモロミがいつ醗酵するのかといったサスペンスも成り立たず、ギャグも感動も同様に失笑しか生まず、見せ場のアクション・シーンすらとにかく退屈で、そもそも編集が不恰好極まる。ことほど左様に、どんなに集中しても映画の世界に入り込めないのである。本作において、無闇やたらとヴァリエーションに富んだ予告編や番宣が用意されていたが、劇場に客を呼んだもん勝ち的な体制は、いいかげん見直していただきたいものだ。唯一の救いは、上映時間が短かったことくらいだよ! 【以上、暗号ツイート終わり】