2019 1月感想(短)まとめ

2019年1月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆カントリー歌手として名を馳せていたジャクソンによって見出されたアリーが、やがてスターの階段を駆け上って行く『アリー/スター誕生』ブラッドリー・クーパー監督、2018)は、作曲から演奏、そして演技までをすべてこなしたレディ・ガガブラッドリー・クーパーのパフォーマンスが圧巻の一作。物語の展開や、キャラクターの心情を照らし出すかのような劇中歌はじつに名曲ぞろいだ。

そして、本作が初監督作とは思えぬクーパーの演出力も素晴らしい。音楽によって心を通じ合わせたアリーとジャクソンの内的な距離を示すかのような非常に近しい/親しい距離感で統一された寄り沿うようなカメラ・ワークや、後の展開を予感させ、そして人物の人となりをそれとなく描く小道具や美術の適確さ、そしてラストのラストでふいに訪れる映画ならではの編集は見事というほかない。

それにしても、“スター誕生”という物語が半世紀以上にも渡って作り続けられ、かつアリーが作中でさらされる男からの心ない言動の数々が、いまもってリアリティがあることにゲンナリする。劇中曲の歌詞にもあるように、我々はいつまで「古い生き方」にすがろうというのか。


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◆祖母エレンの死をきっかけとして怪奇現象に呑まれてゆくグラハム一家の姿を描いた『ヘレディタリー/継承』アリ・アスター監督、2018)は、宣伝──「完璧な悪夢」という惹句が秀逸──に偽りなく、最高に恐ろしく、そして最高に面白い作品だった。本作は、決して「ドカン!」と大きな音が鳴ったり、カメラが揺れたり、CGや特撮を駆使した奇怪でグロテスクなものが仰々しく「ワッ!」と登場するような、ホラー演出の激しいタイプではない。ひとつひとつのホラー演出だけを切り取ってみれば、むしろオーソドックスで穏やかですらある。

しかし、硬質でしっとりとしたカメラワークや画面の色調、長回しと切り返しの緩急、あの「コッ!」や足音といった音響設計の絶妙さ、そして物語の展開のさせ方──次の展開を暗示するような不吉なものが、各所でさりげなくこっそりと画面に忍び込まされている点も見逃せない*1──の工夫ひとつで、こんなにも怖くなるものなのか、と驚くことしきりだ。主人公アニーを演じたトニ・コレットの「なにかを継承してしまったのか?」という表情のつけ方や、信頼できない語り手ぶりも素晴らしい。

そして、映画全体から滲み出すヒリヒリとした空気感がたまらない。オープニングの長い1ショット──制作途上のドールハウスかと思いきや……──が既にして示すように、もはや最初から一家が逃れようもないなにかに縛られているかのような閉塞感が、劇中のキャラクター同様に観客の息をも詰まらせにかかってくるようだ。本作が長編デビューとなるアスター監督は、自身の家族にまつわる体験を本作へとセルフ・セラピーのように盛り込んだというが、本作を最後まで観終えたとき、彼の抱える奥深い闇に触れたかのような、いや呑み込まれたかのような──むしろ、自分自身が持っている負の部分を洗いざらい具現化してくれたとでもいおうか──、えもいわれぬ戦慄に本当に身震いした。見事というほかない、歴史的な1作ではないだろうか。


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◆長らく恋愛経験がなく、物事を斜から見ることに慣れてしまったリンジーとフランクが、同じ結婚式に出席したことで出会う『おとなの恋は、まわり道』(ヴィクター・レヴィン監督、2018)は、ちょっと薄口のウディ・アレン風という感じで気軽に楽しめる1作。

とはいえ、物語内期間を共通の知人たちが開いたリゾート婚での3日間絞りつつ、頭でっかちで捻くれまくった方面に軽妙洒脱な偏屈者主人公ふたりのお喋りというか、口喧嘩や皮肉の応酬だけ──ほんとうにちゃんとした台詞があるのはふたりだけなのだ──で90分弱の尺を持たせているのだから、たいしたものだ。本作で4回目の共演となるウィノナ・ライダーキアヌ・リーヴスの気張らず自然体な演技合戦も見もの。


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◆パリからマルセイユ市警に左遷された花形刑事マロは、頻出する宝石強盗を捕らえるため、現地のへっぽこなタクシー運転手エディとタッグを組む『TAXi ダイヤモンド・ミッション』(フランク・ガスタンビド監督、2018)は、邦題からてっきりリブートかと思いきや普通に「5」だったので驚いたけれど、それでも所々で第1作(ジェラール・ピレス監督、1998)を律儀になぞった展開もありで、半分続編/半分リメイクといった趣。

全体的にはヨーロッパ・コープらしい突っ込みだしたらキリがないユルい作りではあるが、シリーズを追うごとにカー・アクションからホーム・コメディ路線になって車がちっとも出なくなったのを反省してか、本作では地の利を活かしたカー・アクション・シーンできっちり映画を引っ張ってくれるのが魅力だ。


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◆上海に住むオタク系ハッカーで引きこもり青年ハオミンが、凄腕ハッカー“ゼブラ”が実行しようとする世界的犯行に巻き込まれる『サイバー・ミッション』(リー・ハイロン監督、2018)は、決してつまらなくはないものの、作り手のやろうとしている意図──おそらくは『ミッション: インポッシブル』シリーズにおけるトム・クルーズサイモン・ペッグのコンビ的なアクション映画──は汲めるものの、いかんせん諸々のやりたいことリストに対する焦点が合っておらず、そのどれもが中途半端になっているのが残念。それもあってか編集もひどく間延びしたように感じられて、全体的な鈍重な印象だ。

もう少しハオミンとゼブラの役割分担をきっちり分けるとか、ハッキングという戦法を活かしたロジックによって敵を打ち倒す展開といった詰めがあればなおよかった。惜しい作品だ。


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【ソフト】

◆医療ミスでキャリアを失った医師と、空中浮遊の能力に目覚めたシリア難民の少年の逃避行を描くジュピターズ・ムーンコルネル・ムンドルッツォ監督、2017)は、特殊な装置とワイヤー操作を使用することで、ほぼ実際にキャストをロケ現場で吊り上げて撮影された空中浮遊のシーンが、なんといっても印象的。ふわりふわりと、そして重力の鎖を断ち切るかのように上下関係なく少年がぐるぐると舞う光景は、360度を大胆に、しかし優雅に回るカメラ・ワークとも相まって、なんとも知れぬ独特の臨場感──まるで少年と一緒になって宙に浮かんでいるかのような感覚──を観客に与えてくれるだろう。そのほか、浮遊シーン含めて今作で多用される長回しシーンなどは、アルフォンソ・キュアロン監督作を思い出したりもした。


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◆環境破壊に人口過密、そして食糧難が進行する近未来を舞台に、とある富豪殺害の真相を追う刑事ソーンの姿を描く『ソイレント・グリーン』リチャード・フライシャー監督、1973)は、もはや有名すぎるオチのひとつである本作の結末はもちろんのこと、スラム化したニューヨークでの日常スケッチの数々──人々をホイルローダーで一気に汲み取って荷台に叩き込むという斬新な暴動鎮圧シーン、学のある老人たちがある種の人間コンピュータとなっている様子や、今日日の観点から見るとさすがにどうかと思われる描写も含めて──は、非常に禍々しいディストピア的風景に満ち満ちたSFだった。こんな未来は願い下げだよ。着々と近づいているような気もするけれど。


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◆かつてギャングに恋人を殺され、日を追うごとに迫害を受ける青年ヌアが、祖父からハヌマーンの演舞にこそムエタイの極意ありと伝授されるタイクーン!!!!!』(ノンタコーン・タウィースック監督、2018)は、そこからクライマックスの復讐譚に至るまでがやたらのんびりと長かったり、コミックリリーフのシーンになると唐突に作り手のものと思われる“声”によるセルフ・ツッコミや状況説明が入ったりと、いろいろヘンテコな作品ではあったものの、アクションそれ自体は見応えがあるし、なにより「頭を使え」という教えにド直球で応えてみせる「明らかにそうじゃないだろ」というクライマックスの殺陣の豪快さに虚を突かれたので、それなりには楽しめた。


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◆対怪獣戦争が終結して10年後、新たな地球の危機に立ち向かう対怪獣兵器イェーガーとそのパイロットたちの戦いを描く続篇パシフィック・リム: アップライジング』スティーヴン・S・デナイト監督、2018)は、ギレルモ・デル・トロが力業と繊細さを同時に併せ持って作り上げた大傑作すぎる前作(2013)*2のキャラクターたちや世界観に愛があるんだかないんだかよくわからないが、しかし脚本のツイストとしては面白く仕上げてきた快作。

白い無人量産型イェーガーや“黒いイェーガー”の登場など、本作は前作以上に『新世紀エヴァンゲリオン*3や『機動警察パトレイバー』──とくに漫画版やTVアニメ版──の影響が色濃い印象。かつ前作とは打って変わって全篇カラッと晴れ渡った明るい空の下、CGで作られた精緻なミニチュア・セット──あえてそう言おう──を思う存分破壊しながら展開されるアクション・シーンが満載なので、いろいろとツッコミどころや不満点もあるが、ジャンルものの続篇的なものとして割り切って観るならば、それなりにけっこう楽しめた次第。


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◆縁もゆかりもないはずのアメリカ人大学生の男女3人が栃木県の山村の奥にあるキツネ様を祭る寺に導かれて体験する恐怖を描く『ホーンテッドテンプル 顔のない男の記録』(マイケル・バレット監督、2016)は、きちんと日本ロケを敢行したり、竹中直人ら日本人キャストをきちんと配したり、特撮を東映アニメーションに発注していたりと、非常に堂に入った日本の土俗的恐怖を定着している作品だ。

よくぞ見つけてきたロケ地での雰囲気溢れる撮影はいわずもが、なんといっても和製ホラー・ゲーム『零』シリーズに多大な影響を受けたと思しき舞台や小道具の数々*4──だからこそ、一見ファウンド・フッテージもののように始まる本作の登場人物たちが持つのが、いわゆるビデオカメラでなく、写真撮影を主としたデジタルカメラなのだろう──によって丁寧に積み重ねられる前半の盛り上げは絶品だ。惜しむらくはクライマックスのあっけなさというか、もうひと声なにか展開に膨らみがあれば──前半の伏線も回収されていない、というか制作自体が途中で止まったのではと思えるほど尻切れトンボな幕切れ──傑作として記憶される作品になったのではないか。


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◆自殺のために青木ヶ原樹海を訪れた米国人の大学非常勤講師アーサーが、そこで出会った日本人タクミとともに樹海を彷徨い歩くうち、妻ジョーンとの記憶が脳裏に蘇る『追憶の森』ガス・ヴァン・サント監督、2015)は、生者と死者、それぞれの世界を隔てる境界線──空港の金属探知ゲートや樹海にある神社の鳥居など──や行動──車のカギや靴の扱い──の描写をなにげなく、しかし丁寧に重ねながら辿る展開が非常にウェルメイドな一作。

「樹海とは煉獄だ」という劇中の台詞からもわかるとおり、本作はダンテの長編叙事詩神曲』をベースにしつつも、その結論を──アンハッピー・エンドという意味ではなく──逆転させたかのような脚本が興味深い*5。つまり、中盤の洞窟のシーンが示すように、本作は同時にアーサーの“生まれなおし”の物語*6でもあり、最終的に彼がどこに天国/楽園(=理想の場所)を見出すかという着地──つまり、彼を真の天国へと導いたジョーンはベアトリーチェを象徴するだろう──は、全篇にまぶされたダンテやキリスト教的なメタファー*7を越境した感動を観る者に与えてくれるのではないだろうか。


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◆ワールドトレードセンターから墜落死したかに思われたキングコングが10年の時を経て、エイミー博士率いる人口心臓移植と雌コングからの輸血によって復活するキングコング2ジョン・ギラーミン監督、1986)は、ドラマ展開の絶妙なのんびり具合がとても’80年代の映画とは思えない面は大いにある。けれど、着ぐるみと特殊メイク──おそらくは数種類の表情をシーンごとに使い分けたのだろう、表情豊かなコングの感情表現が見られる──によるコングとミニチュア撮影、実物大の腕のモデルと俳優との絡みを巧みに使い分け、そしてなにより、それらそれぞれの境界を一瞬見失うくらいに丁寧な光学合成を用いたショットの多さなど、SFXはいかにも’80年代的な映像の手触りが楽しめる。

それにしても、どこかベトナム戦争を思わせるコング掃討作戦や、ただただコングに戦意と憎しみだけを向ける軍隊描写など、先のリブート『~髑髏島の巨神』(ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督、2017)への影響は、キングコング映画のなかでは本作がいちばん色濃いのかもしれない。


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◆西部開拓時代を舞台に、シリーズを通して登場したバート・ガンマーの祖先の活躍を描いた前日譚トレマーズ4』(S・S・ウィルソン監督、2004)は、見せ場は控え目で、中盤に若干の中だるみもあるものの、モンスター映画的な手堅い演出が楽しめる1作。ガンマニアであり、そのトリガー・ハッピー気質でグラボイドに一泡吹かせていたバートの祖先ハイラムが英国上流階級だったことが明らかになる本作では、バート役と同じくハイラム役に登板したマイケル・グロスが、これまでと打って変わって明らかにジョン・クリーズ風の演技をみせてくるのが可笑しい。


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【ソフト(TVアニメ)】
大川ぶくぶによる同名の4コマギャグマンガをTVアニメ化したポプテピピック(青木純、梅木葵シリーズディレクター、2018)は、各話で主人公ポプ子とピピ美の演者が違うという試み──Aパート終了後、10分ほど前に見たそのAパート冒頭と同じ映像が流れはじめたのには面喰らった──は興味深いし、シュールでナンセンスなギャグのつるべ打ちを手描きアニメからCG、実写、果てはフェルト人形によるストップモーション・アニメ──また、第7話のAC部によるパフォーマンスに感嘆した──まで使い分けて描かれた映像表現の振れ幅の大きさもめっぽう楽しく、なんというか妙にクセになる作品だった。


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*1:2度観ると、本作に仕掛けられた伏線の数々がより一層明瞭になるだろう。

*2:公開当時の僕の感想>>拙ブログ『パシフィック・リム』(3D日本語吹き替え版)感想

*3:前作ではデル・トロ自身は影響を否定していたが。

*4:さらに言えば、本作の構成は『マタンゴ』(本多猪四郎監督、1963)の影響があったりするのじゃないかしらん。

*5:後の展開からもわかるとおり、渡辺謙演じるタクミは──おそらくは──実在せず、彼は煉獄でダンテを導く詩人ウェルギリウスを象徴する人物だろう。樹海のなかで崖や階段の描写が頻出するのも、ダンテが描いてみせたような中世ヨーロッパ的な階層構造を持った“あの世”観の演出と考えられる。すなわち本作は、アーサーが永遠の淑女ベアトリーチェたるジョーンを煉獄にて見つけ出そうする物語と要約できるだろう。富士山はさながら煉獄山だろうか。

*6:洞窟といったトンネルは、しばしば胎内や産道の象徴であり、本作ではさらに羊水に満たされるという描写もある。

*7:聖杯を探す者と同じ名を冠するのが主人公であるように、ジョーン──ジョンの女性系──とはすなわち洗礼者ヨハネ的な意味合いもあるのだろう。ご丁寧にアーサーが脇腹に傷を追うシーンまである──アメリカ映画にはよくある描写ではあるが──ため、彼が後にイエスのように復活することを示唆するだろう。