2019 2月感想(短)まとめ

2019年2月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆前作『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーヴンソン、ハミルトン・S・ラスク監督、1964)の物語から25年、とある悲劇に見舞われたせいで生きる喜びを見失っていジェーンとマイケル姉弟とその家族のもとに、かつての姿のままのメリー・ポピンズが現れるメリー・ポピンズ リターンズ』ロブ・マーシャル監督、2018)は、わりと期待していたし、好評価も耳にしていただけに、いみじくも劇中歌で「本はカバーよりも中身が大切」と歌われているとおりの印象を受ける、ちょっと残念な出来の作品だった。

もちろん、半世紀余りを経て制作されただけあって、その映像技術の進歩には目をみはるばかりで、前作において目指されたアニメーションと実写の合成やマット・ペイントによるロンドンの再現──名匠ピータ・エレンショウらによる筆致──などを、かつて夢見られたであろう映像にまで高めてきているし、新たにメリーを演じたエミリー・ブラントほか役者陣の演技や、ダンサーたちとともに楽しいオーケストラに乗って舞い踊るミュージカル・パフォーマンスは素晴らしい。前作を思わせる展開を律儀に踏もうとしているのもわかる。

だが、本作はそれら表層の再現に傾倒するばかりで、1本の映画作品として有機的に噛み合わずじまいなのだ。なんとなれば、本作の物語を語るうえで必要なシーンがオミットされ、ミュージカル・シーンばかりが脈絡なく重ねられてさえいまいか。それもあって、前作よりも尺は短い──前作が139分に対して、本作は130分──はずなのに、反対に本作のほうが長く鈍重に感じられてしまった。

本作の舞台となる1930年代半ばを前後する2回の世界大戦と世界恐慌による経済不況というより大きく、そしてメリーをしても止められない悲劇──そしてそれは、今日(こんにち)にも置き換えられるだろう──に対して、だからこそすこしの想像力を持とうよ、というテーマ性そのものは大いに首肯するけれど、もうすこし内容的充実が欲しかったなあ。


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◆地上への征服戦争勃発を目論むアトランティス王オームの陰謀を阻むべく、伝説の三叉槍を探す旅に出るアーサー=アクアマンの冒険を描いた『アクアマン』ジェームズ・ワン監督、2018)は、煌びやかで、どこか有機的な雰囲気のある海底都市のデザイン・ワークと、青を基調とした画面の色彩設計が実に美しく、そして1ショット長回し風の大立ち回りから始まり、水中であることを活かした無重力バトル、地上での上へ下への追走劇、果ては大怪獣海底決戦まで、近頃流行りのアクション・シーンをヤマと盛り込んだ幕の内弁当のような愉快で楽しい作品だった。

それにしても、ワン監督はアクション演出にメリハリがあって巧い。たとえば中盤にある海辺の町での追走シーンをみてもわかるとおり、縦横無尽に追う側と追われる側が入り乱れながら、位置関係や距離感を適確に描写し、かつケレン味と臨場感をもって観客をグイグイ画面のなかに引っ張ってくれる。欲をいえば、ところどころCGで描かれたキャラクターのアニメーション──とくに泳ぐアクション──にぎこちなさがあったのが気になったことかしらん。

ところで本作はバットマンワンダーウーマンらの世界観をクロスオーバーしたシリーズ「DCエクステンデッド・ユニバース」の一篇だが、それらと厳密な繋がりも薄く──そもそも若干の矛盾すらある──、内容もいわゆるヒーローものというよりは、まっとうな貴種流離譚的海洋冒険だったので、本作から観てもなんら問題ないのではないだろうか。


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ノーベル文学賞の受賞が決定した現代文学の巨匠ジョセフ・キャッスルと彼を支え続けたジョーンの夫妻が家族にもひた隠しにしていた秘密を描く『天才作家の妻 40年目の真実』(ビョルン・ルンゲ監督、2017)は、文学界──というか、社会のいたるところ──を毒する家父長制社会の闇に、夫婦という観点から切り込んだソリッドな傑作。

とにもかくにも本作は──ゴールデングローブ賞で主演女優賞受賞や、アカデミー賞ノミネートが示すように──多くを語らない妻ジョーンを演じたグレン・クローズの演技が本当に素晴らしい。穏やかな微笑の下に隠されたジョーンの夫へのひと言では表せない複雑な感情の機微を、クローズはシーンごとに微細な演技のニュアンスひとつで見事に切り取ってみせる。長年連れ添ってきた相手への、愛すれど心さびしく、しかし単に憎悪でもない、恐らくはジョーン自身さえ理解することも制御することも出来ない彼女の感情の流れを表現するクローズの演技は、それだけでサスペンスフルだ。

ラスト、正面から映されるジョーンのもの言わぬ微笑に、なにを思うだろうか。


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◆遠い未来、天空の理想都市「ザレム」とその支配下にある地上のスラム「クズ鉄町」を舞台に、記憶喪失のまま目覚めたサイボーグ少女アリータの闘いと冒険を描く『アリータ: バトル・エンジェル』ロバート・ロドリゲス監督、2019)は、いろいろとイビツな部分も多分にあるが、なにやら凄いものを観たなという強烈な印象を残す作品だった。

とくにイビツに映ったのが、本作の物語展開──とくにそのテンポ感と緩急──のさせ方だ。まあ、それは無理もないだろう。というのも本作は、木城ゆきとによる原作漫画『銃夢』(1990-1995、集英社〔現・講談社刊〕)から、凶悪な賞金首“魔角(マカク)”とガリ*1が恋する少年“ユーゴ*2”を巡る前半の大きな2エピソード──というか、それらを元にしたOVA版(福富博監督、1993)──を主軸に、後の展開に描かれた架空の競技“モーターボール”のエッセンスを加え、さらに“あのキャラ” “このネタ” “その小ネタ”を必要以上にまぶしつつ、ダメ押しにキャメロン的オリジナル展開をも混ぜ合わせており、とにかく盛りに盛っている。さすが四半世紀にわたるキャメロン念願の企画だけあって大盤振る舞い、もっと陳腐な表現をすれば愛が重たいくらいに満ち満ちている。

しかし、そのぶん昨今の超大作映画としては短か目の122分という上映時間に収まる範疇をあきらかに超えている。だからなのだろう、とくに冒頭から前半にかけてのテンポが割と単調であり、尺的にはそうでもないものの、どこか鈍重な印象すら受けたし、「その展開は端折りすぎだし、いささか無理があるのでは」という場面も少なくない*3

しかし、その映像たるや凄まじい。原作においてもみっちりと情報量のある筆致で描き込まれていた背景や意匠をさらにブラッシュ・アップさせた未来都市のデザインと見せ方、最初は違和感が先にたったアリータのCG造型に対する印象をことごとく拭い去るかのような質感へのフェティッシュでリアリスティックな作り込みや、パフォーマンス・キャプチャーで精緻に取り込まれたローサ・サラザールの演技によって醸される実在感など素晴らしい*4

それに、原作の大きな魅力のひとつだった大胆でかつ流れるように美しいアクション・シーンの数々の再現性と、ロドリゲス監督らしいケレン味との融合がもたらす臨場感は見事なもの──惜しむらくは、通常上映版だとIMAX版(画面縦横比率1:1.90と1:2.39の混合)と比べて、IMAX撮影ショットの上下がトリミング(全篇1:2.39に統一)されるため、若干見づらい部分もあったこと──だった。

ことほど左様に悲喜こもごもといった感じではあるけれど、かつてキャメロンによる実写化の噂を聞いてから幾星霜、まさか本当に観られるとは思ってもみなかった本作が実際に劇場にかかっていることがまずは嬉しいし、続編もぜひ作ってもらいたい。いつの日か、飛び出す「おいちい」焼きプリンが大スクリーンで観られることを夢見て待つ。


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【ソフト】
◆グリム兄弟の童話をもとに、お菓子の家の魔女の元から生き延びた兄妹が、やがて魔女たちを「そして殺す」ハンターとなった姿を描く『ヘンゼル&グレーテル』トミー・ウィルコラ監督、2013)は、軽妙な語り口にスピード感溢れるアクション・シーン──杖に乗って森を飛ぶ魔女のチェイス・シーンが『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還(復讐)』(リチャード・マーカンド監督、1983)におけるエンドアの森のスピーダー・バイクを駆るシーンとそっくりで微笑ましい──と、ポップなゴア描写、そして中世感とスチーム・パンク(一歩手前)感が絶妙にミックスされたコンセプト・デザインなど諸々の要素をきっちりと備えつつも、気軽に楽しめるエンターテインメント作品だった。なにより驚いたのが、心優しきトロールエドワードがCGではなく、基本的には精密なアニマトロニクスを備え付けた着ぐるみだったこと。その実在感たるや素晴らしい。


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◆戦国時代にタイムスリップしたバットマンたちとジョーカーらヴィラン軍団との熾烈な争いを描くニンジャバットマン水崎淳平監督、2018)は、「開幕5分で戦国時代」というスタートダッシュの勢いのまま、アメコミ風に塗りつけられたコンピュータ・グラフィックスのキャラクター──一部(モブなど)に従来の手描きを併用している──が、縦横無尽に駆け回るケレン味あふれるアクションが展開される1作。桃山文化風のデザインに南蛮渡来感を盛大につけ加えた、ある種のバロック的な意匠で彩られた画面も素晴らしい。クライマックスの戦闘シーンで流れる冗談のようなラップ・ミュージックも妙に格好良くてよかったですね……ゴー・ニンジャ、ゴー・ニンジャ、ゴー! って、別の映画*5が混ざっちゃった (*ノ▽ノ)キャッ。楽しい作品だった。


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◆無謀運転が瑕のヤンチャ刑事マルコが、かつて凄腕ドライバーとして鳴らした上司からの特訓を受け、巷を騒がす強盗集団に挑むフェラーリの鷹』ステルヴィオ・マッシ監督、1976)は、カー・アクションに特化したカンフー映画のような物語構造で、目をみはるドライビング・スタント──後進からの前進反転はなんのその、片輪走行からクラッシュまで、けっこうな部分がリアル・スピードなのが恐れ入る──が数多あるのはもちろんのこと、師匠直伝の修行シーン──ふたりしてクラシックのフェラーリを改良したり、サーキット場でアクロバットな走行テクニックを伝授するシーンが最高──あり、そして因縁の対決ありでたいへん燃え上がる作品だ。1ヶ所、明らかに編集、というか撮影のミスと思われるシーンがあるが、そんなものは心の目で見ればまったく問題外だよ。


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*1:原作でのヒロインの名前。

*2:映画ではヒューゴ。

*3:まあ、おそらくキャメロンが関わっているので、もしかすると後に長尺版──かつアンレイティッド版なら最高──が出るではないかと密かに期待している。

*4:画期的な映像表現だった『ファイナルファンタジー』(坂口博信監督、2001)から、遠いところにきたものだ

*5:ミュータント・ニンジャ・タートルズ2』(マイケル・プレスマン監督、1991)。