2019 4月- 5月感想(短)まとめ

2019年4月から5月にかけて、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆サーカスに生まれ落ちた耳の大きな赤ちゃんゾウの冒険を描くディズニー不朽の名作『ダンボ』(ベン・シャープスティーン監督、1941)を半世紀以上の年月を経て実写映画化した『ダンボ』ティム・バートン監督、2019)は、予告編を観たときに感じた第1印象──バートンが監督だから画は凄かろうが、しかし人間の登場人物メインで脚本がアーレン・クルーガーという点においては不安しかない──が残念ながら的中した1作となってしまった。

映像は──いささかカメラ・ワークに難ありだったが──たしかに凄い。舞台となった1919年の風俗を表す様々なプロダクション・デザインは素晴らしい。色鮮やかできらびやかなサーカス団員たちの衣装、移動サーカス団のテントから備品、後半に登場する超巨大遊園地に至るまでの美術セットの数々はどれを取っても見応えがある。また、巨費を投じて描かれたであろうVFX映像の実在感も見事だ。バートン映画らしい怪奇趣味も楽しめる。

しかし、いくらなんでも脚本が杜撰過ぎる。本作の、ダンボが空を飛べるようになる展開や敵対者を前半と後半で別人を出してみたりといった話運びはあまりに呑み込みづらく、そのそれぞれがその場しのぎにしかなりえていないし、作品全体のリアリティの線引きもグラグラだ。なによりの問題は、物語の主軸がダンボから、彼のいるサーカス団の家族へとズラされた点だ。この大幅なアレンジによって、原作で数々の寓意のうちに描かれたダンボの力強い飛翔──フリークが、その弱点を強みに逆転し、世界側の彼に対する見方を変える──は単なる背景へと遠ざかり、もはや彼は人間にとって都合のよいポケモンのようになってしまってはいまいか。

もちろん、原作を単になぞるだけでは意味がないという作り手たちの意図もわかるし、現在において“そのまんま”作り直すことはポリティカリー・コレクトの観点から困難だという事情もあったろう。だが、いくらなんでも本作は、原作からアレコレ記号的にモティーフを持って来て並び立てただけの見かけだましの1本にしかなっていない。せめて、ダンボと姉弟にもっと集中して描くといった方法を取っていれば、ここまで原作のエッセンスから逸脱することは防げたのではないか。残念。


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ニール・アームストロングが人類史上はじめて月面を歩くまでの9年間を、彼の知られざる心の葛藤を軸に描くファースト・マンデイミアン・チャゼル監督、2018)は、これまでになかなか類を見なかった宇宙船内の臨場感が堪能できる1作。

本作に登場する、アームストロングらが乗り込んだ幾種類かの宇宙船──ジェミニ8号やアポロ11号──のコックピットの狭さに改めて驚くことしきり。全面にあらゆる計器がところ狭しと組み込まれたなかにポツンと小さな窓があるだけの空間に、ほとんど身動きの出来ないよう座席に固定されたなかで複雑でかつ俊敏な判断を求められるアームストロングたちの姿と彼らが置かれた状況は、ほとんど彼らの主観ショットにも近いようなカメラ・ワークも相まって、まるで観ている自分自身もそこに座っているかのような息詰まる臨場感に溢れている。さらに、どこかでネジや板金がミシミシと軋む音響効果や、挙句にもやは一巻の終わりかというようなトラブルの顛末が、本作の閉所恐怖症的感覚をいやがおうにも加速させる。こういった宇宙演出は寡聞にして類を見ず、とても新鮮だ。

また、本作の映像の質感もおもしろい。本作では、日常パートが16mmフィルム、NASAでの訓練シーンが35mmフィルムで撮影されており、その銀粒子の質感を残した荒々しい画面は──編集段階での色調の調整もあったのだろう──まるで当時の映画ないしは記録映像を観ているかのような錯覚に陥ることもしばしば。併せて本作の見せ場のほとんどが、セットやミニチュアを主軸にした特撮(SFX)で撮影されていたり、中盤には劇中リアルタイムの宇宙SF映画2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)への大胆で微笑ましいようなオマージュがあったり、本編中を流れるジャスティン・ハーウィッツによる劇伴にテルミンの音色が使用されたりもしており、より1960年代的な宇宙観を垣間見ることができる。

そしてラスト、ついに月面に降り立ったアームストロングが目にする光景を捉えたIMAX 70mmの、それまでと打って変わって透き通るように美しい映像が、なぜアームストロングが幾度も幾度も死の危険を冒してまで月を目指したのかという本作の謎──ある種の「バラのつぼみ」──に答えてくれる*1

ことほど左様に本作は、ラスト・シーンの残すえもいわれぬ寂寥感をともなった解放的な余韻も含め、宇宙の果ても天地もない恐怖感とヒロインの再誕を描いた『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督、2013)と対を成す、宇宙映画の傑作だ。


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◆宿敵サノスの大願が成就したことによって仲間や愛する者を失ったヒーローたちが再び集結して逆襲に挑むアベンジャーズ/エンドゲーム』アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)は、マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)におけるひとつの区切りとして堂々たる大長編となっていた。

ある種の終末SF感が漂う前半のうすら寂しい雰囲気から、あれよあれよという間にツイストに次ぐツイストで観客をぐいぐい引きつけながら3時間の長尺を突っ走る本作ほど、なにをいってもすべからくネタバレになってしまう作品も珍しかろう。それほどまでに、本作の脚本は複雑であり、かつ同時にこれまでのMCU作品をすべて踏まえつつ全ヒーローに彼/彼女たちなりのドラマとアクションの見せ場もまたそれぞれ作り上げられ、かつきちんと機能しており、相変わらずルッソ兄弟らの交通整理力たるや凄まじい。

にも関わらず「短い」と思ってしまうところが、本作の惜しいところであろうか。恐らくは尺の都合であろうけれども、回収されるべき伏線や顛末が欠けていたり、明らかにシーンが飛んだように思える箇所も──実際、予告編だけに登場したシーンもチラホラ──あったりし、若干の消化不良感もなくはない。

とはいえ、シリーズの主軸としてMCUの世界観を支えてきたトニー・スターク/アイアンマンとスティーブ・ロジャーズ/キャプテン・アメリカを巡る物語*2 *3として、これ以上ないであろう結末を導き出した本作には、敬意を表したい。観れば必ずや、観続けてきてよかった──僕自身は多くの作品を後追いしたクチではあるけれど──と思わせてくれるに違いない。


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◆父の死を聞きつけて、人間とポケモンとが共生する大都会ライムシティを訪れた青年ティムが、そこでなぜか彼とだけ言葉を理解しあえるピカチュウと出会う『名探偵ピカチュウ(ロブ・レターマン監督、2019)は、実写の世界観と絶妙にマッチしたポケモンたちのデザインや質感、動きの機微が新鮮な画の楽しさを与えてくれる堅実なエンタテインメント作品だ。

なんといっても、フサフサした毛並みと時折りシワクチャになる──『グレムリン』(ジョー・ダンテ監督、1984)のギズモを思い起こすような──表情やちょこまかと動き回るアクションの数々がなんとも知れぬ可愛さと実在感を醸す「実写」のピカチュウを見事にデザインした時点で本作は勝ちであり、さらに彼を演じるライアン・レイノルズの軽妙な台詞回しと声のトーン*4とが相まって、なんとなれば、ずっと眺めていたくなるような、クセのある魅力に満ちている*5。ほかにも、思いのほかロンドンなのが微笑ましいライムシティの人いきれのなかや、スコットランドの山間の風景のなかで数多くの種類のポケモンたち──そのそれぞれの再デザインも素晴らしい──が普通にいるという画の新鮮な楽しさでグイグイ観客を画面に引き込んでくれるだろう。

もちろん大作映画らしくアクション・シーンにも力が入っており、天地がひっくり返るかのような中盤の森でのチェイス・シーンは見応えがあったし、ライムシティに樹立する高層ビル群の高低差を活かしたクライマックスの見せ場も、画面内いたるところにいるポケモンたち──文字どおり「目がテン」だったアイツ(ら)の気持ち悪さも含めて──という前述の新鮮さも相まって迫力満点。まあ脚本面では、プロットに若干の穴が2、3あったような気もするが、楽しいエンタメ作としては許容範囲内だろう。

とにもかくにも、ピカチュウの微細な毛並みとシワクチャ顔を、ぜひスクリーンで確認したい。ピカ ピカ。


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◆1973年のL.A.で、子供をさらっては溺死させてしまうという中南米に伝わる悪霊に取り憑かれた母子を描く、「死霊館」シリーズ第6作目『ラ・ヨローナ~泣く女~』(マイケル・チャベス監督、2019)は、悪魔祓い系映画の王道な展開ながらメキシコ系の空気が新鮮な1作だった。

冒頭の、ひとりの男の子を除いて家族がフッと消えるシーンの「ハッ」とするような見せ方や、謎の物音がきしむ家のなかを歩く姿を追う長回しが効いたジリジリと効いたシーンなど、VFXや特殊効果を使わないで緊張感と怖さを描くことに長けたシーンが多かったのは嬉しい。シクシクという嗚咽がどこからともなく聞こえ、不意に映る画面の染みかと思われたものが実はラ・ヨローナであった……というような前半の恐怖シーン──ビニール傘越しに不意に登場するシーンは特に好き──は、Jホラーを思わせる演出やカメラ・ワークに加えてテンポの緩急がキッチリ効いており、不気味さと驚きがうまくブレンドされた恐怖感を味わえる。

ただ、後半になるにつれてラ・ヨローナがよく見かける書き割り的な──泣く、というよりは「ワーッ」と叫ぶ──悪霊になってしまい、若干その恐怖感が薄れるのが残念といえば残念。ホラー的に起こって欲しいことが次々起こる王道な展開で十分楽しいのだけれど、もっとこう、顔で泣きながらジワジワ襲ってこられたほうが、より怖かったのじゃないかしらん。もっとも、こういうポップさが、良くも悪くも「死霊館」シリーズらしさでもあるけれども。

一方で、これまで西洋キリスト教的な世界観のなか──実話ベースもフィクションもない交ぜにして同じユニバース、というのが面白い──でシリーズを続けてきたなかにメキシコ系のエッセンスを挿入したことは興味深いし、それを象徴するかのような、本作の後半から本格的に登場する呪術師ラファエルのキャラクター設定も面白い。宗教や科学に背を向け、教会を否定した“元”神父でありながながら“神”を信じる彼が、英語やスペイン語、フランス語といった多言語の祝詞を用いて悪魔祓いをする姿は、シリーズの世界観が今後よりワールド・ワイドに拡がってゆくのではないかと期待させるものだ。

その他、兄妹の父が殉職した警官だったことがもっと活かせていたらなァとか、オチにもうひと捻り欲しかったとか細々あるけれども、それでもキャッキャッと怖がるには十分楽しい1本であるし、シリーズとの連関が1番薄い本作は、むしろ「死霊館」シリーズの入門編として優れているかもしれない。楽しかったよ。シクシクヨヨヨ。


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◆心理カウンセラーとして秋川茉優が働く病院に搬送された記憶喪失の少女のまわりで不可解な現象が生じはじめ、やがて茉優の弟・和真までもが怪異に呑まれてゆくシリーズ最新作『貞子』中田秀夫監督、2019)は、ホラー映画としてはちょっと弱いかなァといった印象で、正直あまり怖くはない作品だ。

というのも本作は、『クロユリ団地』(2013)や『劇場霊』(2015)といった中田監督の近作ホラー映画の延長線上にあるようで、ゆったりとした作劇のテンポや、シーンや舞台ごとにモノトーン──もしくは、そこに補色となるような色を1点置いた──に統一された画面の色彩設計、また池田エライザ演じる茉優の衣装などからも察せられるように、どちらかといえば現代ホラーというよりも古色蒼然とした怪奇映画のテイストに近い。そう思って本作を観るなら、味わいのある作品ともいえる。

もちろん、これはどちらのジャンルが良いか悪いかという優劣のことではなく、本作が抱える問題のひとつとして、作り手の目指した方向性と、宣伝方針や観客の需要との食い違いが大きかった点が挙げられるということである。

それはそれとして、むしろ本作におけるより大きな難点は、脚本の詰めや細部が弱いことにあろう。たとえば、本作は中田監督の『リング』(1998)と『リング2』(1999)に連なる直接の続編と思われるが、この20年間における映像メディアの変遷によって一新された貞子──本作では、むしろヒルコに近い*6──の呪いのルールは奇妙に曖昧で緊張感に欠けるし、記憶消失の少女が冒頭で貞子に見出されたことによって霊が見えるようになってしまうのだが、これが展開にいささかも絡まない。どれもこれも雰囲気までに留まっている。

現状、映画のなかに散らばったままになってしまったこういった要素をもう少し深めて突き詰め、ラストの展開に集約できたなら、本作はよりいっそう見応えのある怪奇映画となりえたのではないだろうか。


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*1:もちろん、ここにはフィクション的なアレンジがあるとはいえ、だ。

*2:【以下ネタバレ】 本作における重要な物語転換であるタイムトラベル──量子論的に観測されてしまったいままでのシリーズの過去は固定されて不変であるという作中の説明に従うなら、厳密には異なる世界線/パラレル・ワールドへの移動ということになるかもしれないが──の是非については考え出すとキリがないけれど、サノスが徹底的な他者犠牲のもとに行動していたのに対し、トニー・スタークが自己犠牲のもとに行動し、それによってサノスを打ち倒すという本作の結末は、良い着地だと思う。 ▼そもそもサノスのふるまいは、1作目『アイアンマン』(ジョン・ファヴロー監督、2008)においてヒーローになる前の武器商人としてのトニー・スターク自身の似姿──そして後に彼が持つことになる、平和のためには武力による自由の抑圧も辞さないという考え方も同様だろう──であり、これをトニーが克服していたからこそサノスに勝てたのではないだろうか。 ▼同時に本作おいて、ほかのアベンジャーズの面々についても自己犠牲を払えることこそヒーローだという描き方に重点を置いていたように思われ、だからこそトニーやキャップのほんの少しのわがまま=自分の人生を生きるシーンがよりいっそう印象的になっているはずだ。

*3:【以下ネタバレ】 そして、だからこそ本作が全篇に渡って『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2018)と対関係を結ぶように作られていたのではなかったか。思い出そう。 ▼序盤でいきなり主要キャラがあっさり倒されることしかり、父と娘の関係性しかり、惑星ヴォーミアでのソウル・ストーンをめぐる展開しかり、クライマックスでの増援到着の展開しかり、ラストでスクリーンに背を向けて腰掛けたヒーローの後姿しかり、そしてもちろんインフィニティ・ストーン(a.k.a.指パッチン)で決着をつけることもしかり、さらに付け加えるなら、本作でアベンジャーズたちがタイムトラベルによってインフィニティ・ストーンの収集をしたこともしかりと、これらはすべて、サノスがこれまでに、ないし『インフィニティ・ウォー』内で取った行動の反転となっている。 ▼これらの反転とはすなわち、サノスとアベンジャーズたちが同じ内容の行動を取ったとしても、結末はこうまで変わるし、その行動のひとつひとつの持つ意味合いの差がヴィランとヒーローとを隔てるものだということが、作り手たちが本作に込めた核心だったのではないだろうか。

*4:実質これは「名探偵デッドプール」なのではと思い、R-15相当の暴力描写があるのかな? と、叶いもしない期待を夢想したのはココだけのヒ・ミ・ツ。

*5:映画本編の違法アップロードか、と思いきや、ピカチュウが本作の上映時間いっぱいを延々踊り続けるだけの公式ジョーク動画 “POKÉMON Detective Pikachu: Full Picture”。かわいい。

*6:原作小説にあった海からやって来る魔物「ぼうこん」との関連が明確になったともいえる。