2019 7月感想(短)まとめ

2019年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
アベンジャーズの決死の活躍によってサノスの野望が砕かれ、徐々に世界が平穏を取り戻しつつあった夏、クラブの修学旅行でヨーロッパに向かったピーター・パーカーがまたもや世界の危機に直面するスパイダーマン: ファー・フロム・ホーム』ジョン・ワッツ監督、2019)は、続編として、なにより娯楽映画として申し分ない見事な作品だった。楽しい、というのは本作のようなことをいうのだ。

本作は、まずなにより画面が楽しい。ヨーロッパ各地に二転三転するロケーションの変化が鮮やかなので観光映画としても楽しめるし、そんななかを暴れる敵の巨大さもあって、まるで怪獣映画を観ているかのような面白さにも溢れている。もちろん見せ場のアクション構築も素晴らしい。ロケーションや物語上重要となる装置群を使った立体的な舞台立てのなかを文字どおり縦横無尽に跳びまわるスパイダーマンの活躍は手に汗握る迫力があるし、これを切り取るカメラ・ワークと編集は、VFXとの相乗効果もあって躍動感に溢れつつも適確で判りやすいものとなっており、まるでピーターと一心同体となったかのような臨場感に満ちている。また、「親愛なる隣人」ことスパイダーマンの面目躍如ともいうべき人命救助描写も多いので、アクションがとてもエモーショナルなのも好印象だ。

もちろん、前作『アベンジャーズ/エンドゲーム』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)以降の世界の様子を手短にかつ面白おかしく伝える冒頭からスタートする、ヨーロッパへ訪れたピーターを取り巻くコメディチックな青春ドラマ・パートも秀逸だ。人種性別宗教多種多様な生徒が所属するクラブの修学旅行風景は実に楽しそうだし、気の置けない親友ネッドとの相変わらずのコンビぶりや、MJとのひどく不器用でもどかしいけれども誠実なロマンスは、観ているとなんとも幸福な気持ちになる。また、ある種の父親代わりだったトニー・スタークから贈られた超高性能A.I.バイス付きサングラス「イーディス(E.D.I.T.H.)」を巡る顛末は、まるで藤子・F・不二雄の『ドラえもん』に登場する小噺のような毒っ気のある可笑しみに満ちている。

こういったささやかな幸せに溢れた日常描写に、本作がヒーロー映画であるがゆえにピーターが巻き込まれてゆく様々なトラブルや葛藤、そして彼なりのヒーローとしての成長を盛り込んだ脚本のバランス感覚も適確だ。とくに本作のヴィランの持つ、その虚構(フェイク)性こそが真の悪であるとする設定は、まことに今日(こんにち)の世相を反映しているようで興味深いし、それによって寄って立つ現実感を喪失するピーターの恐怖は、想像するだに恐ろしい*1。また、シリーズ前作『ホームカミング』(ジョン・ワッツ監督、2017)に引き続いて描かれた、身に余るほど強大な力との付き合い方を、ピーターが自分なりに模索してゆく姿は──彼を見つめる、かつてスタークの右腕だったハッピーの優しい視線も相まって──感動的だ。

その他、そのクリフハンガーはズルいとか、開いた口が塞がらなかった驚愕のオチなど色々あるが、笑いとスリルと感動に満ちた本作は、久々に心から「楽しい!」と思える作品で、たいへん満足だ。


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◆貧しくとも心優しい青年アラジンが魔法のランプを手に入れたことで辿る冒険を描いた “ディズニー・ルネサンス” 期の傑作長編アニメーションを実写リメイクした『アラジン』ガイ・リッチー監督、2019)は、いろいろアップデートされている──否、しようとしたのはわかる──けれども、いささか分の悪い勝負だったのかしらん、といった残念さが目立つ作品だった。

たしかに手描きアニメでは不可能だったろう絢爛豪華で複雑な模様を施された登場人物の衣装や宮殿といったデザインや、メインの舞台となるアグラバーの雑多な町並みは見応えがあるし、パルクールを用いた上へ下への追走シーンや、現在のVFX技術ならではの魔法の絨毯の質感や小猿アブーら動物の実在感は見事なものだ。とくに、本作において、よりいっそう強い独立心とリーダーシップ性を付加された王女ジャスミンのキャラクターは、実に今日的な改変として素晴らしい点だろう*2

そういった具合に、本作はオリジナル版『アラジン』(ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督、1992)に今日としては不足である部分を改良しようとはしている。しかしながら、本作ではむしろオリジナル版にあった美点を削いでしまった点のほうが多い。

とくに残念だったのは脚本の練り不足。本作ではオリジナルの脚本にかなり手を入れており、物語の展開の仕方や見せ方、そして見せ場の数が大きく異なっている。前述のジャスミンのキャラクター性の変化もそのひとつであるが、それらの要素それぞれは悪くないものの組込み方がかなり雑で十全には活かしきれておらず、取ってつけた感が甚だしい。また、同時に物語の展開のさせ方──たとえば、開幕直後に「彼」を出すのはいかがなものかと思うし、オープニング・クレジットのおざなり感も非常に残念*3──や、キャラクター描写などが呑み込みづらくなっている点は否めず、キャラクターによっては描写がハッキリ薄くなっている人物すらある。空間や世界観もむしろ狭まった感もあって、見せ場の「ホール・ニュー・ワールド」のシーンですら、中途半端に画面が暗く色彩にも欠くので、いまいち解放感に乏しいのだ。

これはなんとなれば、キャラクターの描写を含めた脚本とプロット構成の無駄がなくテンポのよい適確な展開、空間的拡がりの見せ方からアクションやミュージカル・シーンの構築まで、ハッキリ言ってオリジナル版が完璧だというほかない。そういう意味では、本作の出た勝負は分が悪かったのかもしれない。本作の上映時間が128分なのに対してオリジナル版は90分だという点からも、推して知るべきだろう。それほどまでに本作はマゴついているのだ。

過去作とまったく同じものを作ってくれなんていうつもりは毛頭ないのだけれど、それでもオリジナル版の様々な美点を殺さずにより現代的にアップデートする方法は、まだまだあったはず。アラジンが空気を読めない言動を重ねてしまって一同が──カメラも含めて──引きまくる、といったリッチー監督らしいギャグ・シーンなど、好きなところもけっこうあっただけに、いささか残念だ。


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◆かつての持ち主アンディにはいちばんのお気に入りだったウッディが新たな持ち主である少女ボニーになかなか遊んでもらえないなか、彼女は先割れスプーンで自作した「おもちゃ」をフォーキーと呼んで大切にしはじめるトイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)は、前作『3』(リー・アンクリッチ監督、2010)において、たしかにウッディとアンディの物語は終わったが、語られるべき、そして救われるべき魂はここにまだあったのだと思わされる見事な作品だった。

なにをおいてもまず驚かされるのが、第1作『トイ・ストーリー』(ジョン・ラセター監督、1995)から4半世紀余りを経て進化・熟成されたCG技術によって徹底して作り込まれた画面だ。ウッディやバズたち御馴染みのおもちゃの面々を形作るの原材料それぞれ──ゴムやプラスティック、編み込まれた布地につややかな陶器などなど──に異なるテクスチャの描き分けはもちろんのこと、揺れる草むらの波、夜露に濡れるアスファルト、降りしきる雨水に照り返す家の灯りといった自然──しかも、おもちゃの視点から映すので、よりいっそう大きく作る必要がある──の情景にいたるまで、微細にかつリアリスティックな──しかし、あくまでもCGアニメーション調であることにもこだわった──設定が施された質感表現の機微には舌を巻く。

そして、この映像技術の進歩あってこその光/照明演出の機微にもぜひ注目したい。もっとも観客の目を引くであろう、ウッディたちが迷い込む骨董品店「セカンド・チャンス*4」に飾られている色とりどりの照明が、窓から差し込む夕陽に反射して万華鏡のように店内を彩るシーンの美しさ──話題が重複するが、『2』(ジョン・ラセター監督、2000)以来の登場となった本作の実質的なヒロインである陶器人形ボー・ピープの肌の表面で滑らかに反射する光による質感表現も素晴らしい──には嘆息したし、そのほかにも、ちょっとした光源の移動や、むしろしっかりと暗闇に落とし込まれた陰影によって醸されるキャラクターたちの感情表現にもハッとさせられる。

また、ウッディが、彼の新たな持ち主となった少女ボニーの工作によって誕生したお気に入りの「おもちゃ」フォーキーや、たくましく自立したボー・ピープたちとの冒険や問答を経て辿る本作の物語も感動的だ。自分がこうだと思っていた自身の “役割” ──アンディからボニーに継承されたおもちゃになることや、その他のおもちゃのリーダーとしてふるまうこと──に無意識に固執するばかりにウッディが悩み苦しむ姿には胸が痛んだし、それがすでに自分のものではないと気づいたときに見せる──そして、自分の “中身” を差し出すことを決意したときの──彼の表情が語る言語化し得ない感情のうねり、そしてラストで彼が選び取った次の人生に向けてみせる晴れやかな、しかしすこしのせつなさを伴った表情を見たときには非常に胸を打たれる*5

本作の特報──アンディの部屋に施された青空の壁紙を背景に、輪になって踊るウッディたちをスローモーションで映した──において使用されたジュディ・コリンズ歌唱の楽曲「青春の光と影」(Joni Mitchell, Both Sides, Now, 1967)が、最恐ホラー『ヘレディタリー/継承』(アリ・アスター監督、2018)の主題歌だったことが一部で話題になったけれど*6、たしかに本作は人生におけるひとつの “役割” が終わったときに訪れるべき継承と、同時にそこからの脱却とを描き切った──しかもエンタテインメントとしての間口は相当広い──力作だ*7


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【ソフト】
◆米ソ緊張の果てに勃発した核戦争に巻き込まれた英国と、その後を描くBBC制作のTVM『SF核戦争後の未来・スレッズ』ミック・ジャクソン監督、1984)は、時折『第七の封印』(イングマール・ベルイマン監督、1957)を思わせる寒々しいカメラ・ワークや、フッテージ・フィルムと特殊撮影を用いたドキュメンタリックで冷酷なまでに淡々とした編集によって、ささやかな日常が脆くも崩れ去った挙句に地獄が訪れる様を映し出す、とても怖ろしい恐ろしい、背筋が心底ゾッとする見事な作品だ。米ソ冷戦が終わったからではなく、つねに──いまだからこそ、なお──我々が陥りかねない事態を思い起こさせてくれる。必見。


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*1:それは現実社会の鏡像であると同時に、ピーターは映画のなかにヒーローを求めてやまないわれわれ観客の似姿でもあるだろう。本作はそこかしこに、物語やフィクションについて鋭い視点を投げかけている。

*2:ただ、どういうわけだか本作において彼女の運動能力はオミットされている。また、本作の見せ方だと、ジャスミンがアラジンと出会うきっかけが、オリジナル版での突発的な家出というよりも、彼女は日常的に宮殿から抜け出して町を見て回って──次期国王としてより善い治世をおこなうための視察をして──いるようにしか映らず、となれば後半の「わたしは世界を本でしか知らない」という旨の台詞が矛盾して聞こえてしまってはいまいか。彼女のために書き下ろされた新曲「スピーチレス~心の声」が素晴らしかっただけに、非常にもったいない。

*3:商船の船長らしきウィル・スミスが自分の子供たちに「昔々……」という具合に挿入歌「アラビアン・ナイト」を歌い始め、その歌詞の合間合間にアグラバーの昼間の町並みと、既にどういうわけだか雑踏に紛れているアラジンとジャスミン、そして秘密の洞窟がいきなり「ダイヤの原石をーっ!」と叫んで見ず知らずの盗人をバクッとやる様子を擬似的な1カット処理風に映すのだが、文脈がまったくないので恐ろしくあやふやな印象しか与えない。オリジナル版の、当時としては最先端のCG技術を用いつつ、夜のアクラバーの路地をカメラが──いまから思えば、完全にPOV風に──奥へ奥へと入ってゆき、「アラビアン・ナイト」のサビの部分で画面いっぱいに美しい宮殿が映され、やがて曲の静まりとともに裏通りの屋台に行き着き、そこの親父が観客に向かって行商を始めつつ、魔法のランプのいわれを話し始めて本筋がスタートするという、この流れるように観客をまずは架空の国アグラバーへ、そして次に昔話の世界へと誘うオープニングとは比べる由もない。

*4:ウッディたちがここで出会うこととな本作の重要キャラクターのひとりギャビー・ギャビーの、取り巻きを従えつつ醸す “オタサーの姫” 感と、同時に永年持ち主を求めて暮らすいじらしさが最高の按配だ。取り巻きベンソンの最後の活躍にも涙。

*5:もちろんバズや、CMとは違ったばかりに持ち主から捨てられたデューク・カブーン──彼と一緒にラストのピクサー・ロゴに登場する白いコンバット・カールの顛末にも涙──、縁日の景品となっているぬいぐるみタッキー&バニーたちを巡る物語の面白おかしさと、その作劇の周到さも見逃せない。

*6:予告編で使用されたザ・ビーチ・ボーイズ「神のみぞ知る」(Tony Asher & Brian Wilson, God Only Knows, 1966)もまた、本作を観てみるとなるほどな選曲だ。

*7:ピクサー映画恒例である「ピザ・プラネット」などのイースター・エッグにはほとんど気づけなかったのだけれど、ピクサー作品ではもっとも好きな『カールじいさんの空飛ぶ家』(ピート・ドクター監督、2009)に登場する「エリー・バッジ」が映ったときにはグッときました。