2019 8月感想(短)まとめ

2019年8月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
飼い主のケイティが結婚して誕生した男の子リアムを自分の子供のように思う小型犬マックスの冒険を描く『ペット2』(クリス・ルノー、ジョナサン・デル・ヴァル監督、2019)は、映画のルックがそうであるような軽やかで可愛らしい作品だった。

前作『ペット』(クリス・ルノー、ヤーロー・チーニー監督、2016)に引き続き、マックスやその相棒である大型犬デュークといった動物たちのデフォルメされたデザインと、戯画化──そして適度に擬人化──された動作との按配がじつに愛らしく、犬や猫、あるいは乳児のこういうところが可愛いんだよなと思い出すかのようだ。また、そんな彼らに合わせて設定された背景美術のポップなデザインや色使いの暖かさ──さんさんと照らす陽光を反射する摩天楼の美しさ!──と、バンド・デシネのコマ割りを思わせるようなとてもシンプルな画面レイアウトとが相まって、まるで小さな箱庭を眺めているような楽しさを味わさせてくれるだろう。ジャズの風味を効かせたスコアも心地よい。

たしかに、本作は脚本にいささか難がある。本作の脚本は、①マックスとデュークが家族と田舎に旅行する件、②マックスのガールフレンド犬ギジェットが、彼から預かったボールを巡って冒険する件、③自分をヒーローだと思い込むウサギのスノーボールが、囚われのホワイトタイガーを救い出そうする件……という3本のストーリー・ラインを同時進行で見せる構成になっており、一応クライマックスで3者は合流するものの、それぞれがそれぞれに独立したテーマを内包していることもあって、そこまで有機的には噛み合わないし、キャラクターの掘り下げも中途半端に終わってしまったのは否めない*1 *2。子を思う親の心境となった非人間が主人公であることからどうしても思い出される『トイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー監督、2019)の脚本のようにスキなく組み上げられているわけではないし、マックスとデュークが相棒になるまでという主軸を持った前作と比べても、本作の空中分解寸前とさえ思える脚本の弱さは露呈してしまっている*3

ただいっぽうで、マックスたちはあくまで「動物」を戯画化したキャラクターであるという線引きは明確になされていて、そもそも彼ら自身が──もはや「人間」のキャラクターであるウッディたちと違って──そこまで深刻になりようがないため、彼らの特徴をそれぞれ活かした可愛らしい大小さまざまギャグを連発する様子を笑って観ているぶんには、そこまでお話部分のスキや粗がノイズになることもなかった。むしろ、彼らが辿るほんのささやかな冒険とほんのささやかな変化を描く本作の──決して堅苦しくなく、偉ぶるでもない──軽やかさこそが本作の魅力なのではないだろうか。

最後に、本作で僕がもっとも気に入ったところを挙げるならば、なんといってもウサギのスノーボールだろう。前作では人間に復讐を誓う捨てられペットのギャング団のリーダーだった彼が、そのラストで本作の飼い主と出会い再びペットになったことで、困っている動物を救うスーパーヒーロー──と思い込んでいる──へと華麗に転進をきめた彼の一挙手一投足が、もう可愛くて可愛くて。いちばん擬人化されたキャラクターというのもあるのだろうが、アクションも大きく見せ場も多いのでたいへん笑わせてくれるし、日本語吹替え版にて彼を引き続き演じた中尾隆聖のキレッキレで見事なパフォーマンスも素晴らしい。

パンダッ☆-(ノ゚∀゚)八(゚∀゚ )ノパンダッ☆!


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◆元アメリカ外交保安部捜査官ルーク・ホブスと元MI6諜報員デッカード・ショウがタッグを組み、世界滅亡に繋がる殺人ウィルス「スノーフレーク」を巡って悪と闘うワイルド・スピードスーパーコンボデヴィッド・リーチ監督、2019)は、『ワイルド・スピード』シリーズが回を追うごとに増えるレギュラー・キャラクターと各々の見せ場によって、ある種のゴシック様式的な様相を呈している──それでもなお、過不足なく、ちゃんと自動車アクション大喜利を踏まえてきちんと作り切ってみせるのがエラいところ──のに対し、本作では番外編ということで登場人物の数をスッキリと人員整理したことで、たいへんシンプルな──なんなら本作から観ても問題ない──バディ冒険活劇映画として楽しめる1作となっている。

本作は、ドウェイン・ジョンソンジェイソン・ステイサムという世界でもトップクラスに信頼の置ける筋肉ハゲ俳優たちが、ハゲしく罵りあいながらハゲしく悪を殴り倒してゆくのがすべて、といえるほどにふたりの息の合ったコンビネーションが楽しめる。一点突破型の重い打撃重視のジョンソンに、素早く効率的に立ち回って数をこなすステイサムという両者のアクションの描き分けも楽しく、この真逆のアクションの方向性がいかにして融合するか、というのが本作のいちばんの見所だ。また、本作から参戦した──あるいは、ふたりの睦みあいに割って入る──ショウの妹(いたのかよ!)ハッティを演じたヴァネッサ・カービー、変形自在の自走型オートバイを駆る悪の改造人間ブリクストンを演じたイドリス・エルバらの画になりっぷりも素晴らしい。

もちろん近年のアクション映画の傑作『ジョン・ウィック』(チャド・スタエルスキと共同監督、2014)、『アトミック・ブロンド』(2017)、そして『デッドプール2』(2018)を手がけたリーチ監督らしくアクションの見せ方は秀逸で、たとえば高層ビル内にあるオフィスでの攻防から一気に窓を破って壁を地面まで駆け下り、続けざまにカー・チェイスに突入するという前半のロンドンでの一幕のように、横移動と縦移動を巧みに組み合わせた立体的なアクション構築を、全篇に渡って楽しむことができるだろう。またクライマックスにおいて──正直、ヤンキー母校に帰る的展開は心底どうでもよかったが*4──ホブスの故郷であるサモアの地域性を前面に出したアクションも面白かったし、ムカデ人間もかくやの荒唐無稽な自動車アクションも見事な説得力を保っていたし、雨降りしきるなか展開される顔面パンチ合戦で乱発されるバレット・タイムにも大いに笑った。

もちろん、ほとんど機能していないタイムリミット・サスペンスを筆頭に突っ込みだしたらキリのない脚本ではあるし、デッカード・ショウの “前科” 問題は依然くすぶっているし、尺がもうすこし短ければなと思うところもいろいろあるけれど、そういったこともゴリ押しで吹き飛ばすに足る豪快な作品だ。


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◆冬の戦車道大会「無限軌道杯」初戦にてBC自由学園チームに苦戦する大洗女子学園チームの闘いの行方を描くガールズ&パンツァー 最終章 第2話』水島努監督、2019)は、遊戯としての戦車チーム対決の映像的、そしていかにして勝つかというロジック込みの面白さと、立体音響で鳴り響く砲弾と履帯とエンジンの唸りが相変わらず──というか、さらにブラッシュアップされて──楽しい1作だ。

いちおうOVAでもある性質上、今回もじつにいいところで終わってしまい「続きは来年……観られるのかしらん?」と思ったりもしたが、いっぽうで上映時間が56分と短いぶん、見せ場をきっちりと盛り込みつつも、ドラマ部分が『劇場版』(同監督、2015)*5にあったように間延びをすることもなくサクサク進んで爽快だ。

それにしても、本シリーズは2D手描きアニメ(一部3DCG使用)におけるPOV描写の実験場となっているところがあって、隙あらば多種多様な主観映像を本作では前作『第1話』(同監督、2018)以上に使用している。臨場感溢れるそれらの映像を映画館のスクリーンで観ていると、まるで遊園地のライド──いみじくも本作にも、『劇場版』から改修された「ボコランド」のアトラクションとして登場するが──に乗っているかのような楽しさへと観客を誘ってくれることだろう。また、走行/戦闘中の戦車から身を乗り出したキャラクターの芝居やアクション、髪や衣装のはためきが豊富かつ細やかに描き込まれており、さらにこれを前述したようなPOV的カメラワークと組み合わせてくる*6ので、たいへん情報量が多くて目に楽しく、じつにコマ送りをしたくなる衝動を生む作品であった。

お約束なので、ガルパンはいいぞ、それなりに、とひと言書き添えておこう。


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◆動物たちの暮らす楽園プライド・ランドを統べるライオンの王の子として誕生したシンバの冒険を描いた “ディズニー・ルネサンス” 期の傑作と誉れ高い長編アニメーションをフルCGでリメイクしたライオン・キングジョン・ファヴロー監督、2019)は、ひとまず「こんな映像観たことない」と驚くことはたしかな1作だ。そして同時に、元々内包されていた問題点がより浮き彫りになった作品でもある。

とにもかくにも、もはや実写と見紛うばかりに作り込まれたライオンをはじめとする各種動物たちの体毛や皮膚、そして筋肉といった質感表現は凄まじいのひと言。フルCGで描かれた実写的なリアリティ・ラインでありながら人間がいっさい登場しない画面──加えて、恐ろしくリアルな動物たちが英語台詞に合わせてリップ・シンクするのだから──は、これまで観たことのない感触だ。強いて近い感触の作品を挙げるなら、『ダーククリスタル』(ジム・ヘンソンフランク・オズ監督、1982)だろうか*7

ただ、動物描写を限りなく実写的にしたために、オリジナル版(ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ監督、1994)よりもアクションやギャグといった動きの振れ幅や、個々のキャラクターの視認性、それによる見せ場の作り方や色彩表現に制限が生じてもいたので、本作の採用したリメイクの手法は、一長一短といったところだろうか。オリジナル版にあった象の墓場での見せ場が大幅に削られていたのは残念。

さて、本作の物語は、多少の差異はあれどオリジナル版にほぼ忠実だ。本作の持つ物語構造は、高貴な血筋に生まれついた少年ないし青年がやむなく故郷を追われながらも、冒険や仲間との出会いの果てに帰還して本来の王座に就くという、神話/物語史のなかで連綿と再生産されて語り続けられてきた、いわゆる貴種流離譚と呼ばれるものであり、これを丁寧になぞった本作の筋立ては、もはや人間の遺伝的に問答無用で盛り上がるものだともいえよう*8。つまらないわけはないし、それほど強固な物語構造を持ったシナリオなのだ*9

ただ同時に──これは元々のシナリオの問題点であり、ここにこそ僕がずっと違和感を抱いていた核心があるのだけれど──本作をはじめとする一連の『ライオン・キング』の世界観を支える「生命の輪(サークル・オブ・ライフ)」に用いられるロジックには、若干のヤダ味や欺瞞感が相変わらずどころか、本作ではさらに説明が若干追加されているので余計に残っている。つまり本作が立脚するのは、ライオンを百獣の王として──そのほかの動物が頭(こうべ)を垂れて跪(ひざまず)く描写などが示すように──動物の種類によって明確に “優劣” が決定されているという世界観なのだ*10

そんななかで本物のようにリアルな動物たちが──ドキュメンタリーならまだしも──いかにも人間的な物語を人間のごとく演じるのであるから、ここにある種の優性思想が見え隠れしているように思えてならないのである。この優性思想が、かつて──いや、今日(こんにち)の世界中においてすら──危険で愚劣な蛮行をもたらしているか、詳しく説明することもあるまい。

さらに付け加えるなら、前述したとおり本作における動物たちは多分に人間の戯画化した存在であり、ここにおいてライオンや肉食獣がシマウマなどの草食獣を “食い物” にしていること──そして、それが是であるとしていること──に、様々な暗喩を読むことは不可能ではない……というか漏れ出ている。ゆき過ぎた自由主義経済社会における格差、いまなお現実世界を蝕み続ける性差別や人種民族差別などなど、様々にある正されるべき問題について逆行するかのような、ただただ強者──あるいは、そう思い込んでいるだけの阿呆──の自分本位な危うい思想が透けて見える。

本作ではとくに、オリジナル版の手描きアニメーションとしてディズニー的戯画化の施されたリアリティから、ひと足飛びに実写的リアリティのラインに映像が高まったことで、これらの問題点がより前面に押し出されることになった。

もちろん、うまく隠し通せばよいということではない。むしろ、より前景化してしまったことにこそ、本作の意義があったというべきだ。それにしても、なにゆえ『ライオン・キング』がこのような危うさを──意図してか意図せずしてか──内包し、観客はこれに熱狂してしまったのだろうか。あるいは、オリジナル版が公開された1994年当時の──『フォレスト・ガンプ/一期一会』(ロバート・ゼメキス監督、1994)*11がアカデミー作品賞を獲ってしまうような──反動的な空気感が、そうさせたのかもしれないけれども。人間の無意識的欲望の無気味さに身震いする。


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【ソフト】
◆英国イチのボンクラ諜報部員が三度(みたび)世界を救う『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』(デヴィッド・カー監督、2018)は、ローワン・アトキンソンによる安定の芸で始終クツクツと笑わせてくれるし、ハワード・グッドールによる劇伴も無闇にかっこいい。それでいて現代日本にもじゅうぶんあり得るべきゾッとするような危機を描いているあたり、コメディとしても切れ味バツグンだ(オカミがバカだと大変だよね)。そして字幕翻訳はもちろんのこと、在りし日の民放洋画劇場を髣髴とさせる素晴らしい翻訳と岩崎ひろしらのアドリブ感溢れる演技が堪能できる日本語吹替え版は必聴だ。


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◆太平洋横断超特急マリンエクスプレス」の開通披露走行に集った私立探偵ヒゲオヤジこと伴俊作たちの思惑が交錯する手塚治虫によるTVM『海底超特急 マリンエクスプレス出崎哲監督、1979)は、手塚漫画らしいユーモアと後年の『アトミック・トレイン』(D・ジャクソン、D・ローリイ監督、1999)ばりに後半で突然ジャンルが変わる乗り物パニック感が合致した楽しい作品だ。


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◆マッド・サイエンティストの実験によって生まれたバイオロイド兵士がジャッキー・チェンを襲う『ポリス・ストーリー REBORN』(レオ・チャン監督、2017)は、観ながら「えっ、SF?」と面喰うし、トロンかダフト・パンクかというような敵兵部隊の衣装はどうかと思うし、アバン・タイトルの見せ場がいろんな意味でピークだったかなとか、いろいろ思うところは多分にあるけれど、ジャッキーの年齢以上のアクションの動きとサービス精神に「ジャッキー、楽しい映画をありがとう」となる作品だ。


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*1:新キャラクターのデイジーの飼い主はどんな人物なのかまったく見えてこない──すわ、まさかジョン・ウィックか!?──し、いくらなんでもクライマックスにデューク不在はまずかろうと思う。

*2:ハリソン・フォードがはじめて声優として登板したという牧羊犬ルースターは、ぜひ原語版でも聴いてみたい(近所の映画館では、日本語吹替え版しか上映がなかった)。 内藤剛志による吹替えも悪くなかったけれど、せっかくのフォード初登板なのだから、ここは耳に馴染んだフィックスの村井国夫磯部勉あたりにアテて欲しかったなァと思わないでもない。

*3:まあ、前作でもかなり強引なところはあったけれど。クライマックスのバスとか。

*4:だってルークはなんにも悪いことしてないじゃないか。

*5:備忘録: 『ガールズ&パンツァー 劇場版』感想 - つらつら津々浦々(blog)

*6:自身が指揮を執るS35から身を乗り出した安藤(BC自由学園)のうしろにカメラが乗っている体(てい)で、彼女が左右や後方の確認と指示を繰り出しながら、それに従ってS35が延々と後進し、転進する長い1カットはとくに印象に残っている。

*7:監督名を見てもわかるとおり、架空の──人間のいない──ファンタジー世界の住人を、ほとんどすべてマペットアニマトロニクスで作り上げた作品だ。

*8:古くは『オデュッセイア』に “スサノオの神話” から “モーゼの物語” もそうだし、古英語の研究をしていた言語学者J・R・R・トールキンが著した『指輪物語』(1954-1955)──とくに馳夫(ストライダー)として身を落としたアラゴルンを巡るくだり──もまた、紛うことなき貴種流離譚の一例である。 ▼時代は下って映画作品でもさんざん援用されてきた。もちろん代表例としては、ムファサ王役のジェームズ・アール・ジョーンズダース・ベイダーの声を演じた『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督、1977)にはじまるシリーズが挙げられるだろう。そもそもルーカスが、神話の体系をまとめたジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』を読んで作ったのが……(長くなるので割愛)。 ▼余談だが、この貴種流離譚的物語構造を現代的にアップデートした最近の成功例としては『ヒックとドラゴン』(ディーン・デュボア、 クリス・サンダース監督、2010)がそうだろう。本作がいかに現代的な物語の回答を示したかは実際に本編を観ていただくとして、簡単な構造分析をしておくなら、主人公の少年ヒックはヴァイキングが暮らす島の族長の息子でありながら、頭はいいが弱々しく変わり者のために居場所がない。つまり彼は心理的に里を追われることで、やがてトゥースというドラゴンの相棒を得、これまでほかのヴァイキングが考えもつかなった道を切り開き、民を導く王としての成長を遂げてゆくことになる。

*9:だから、撮影と編集もカッチリしていて、もっともわかりやすいのが、玉座へ向かう動物たちの動きの方向だ。王を称える側は、画面左から右へと移動し、辞去する際には右から左へと向かい、王族のシンバは玉座に向かう際、そして玉座から流離する際に彼らと反対の動きをたどる。

*10:これは、たとえば同じく多種多様な動物たちだけの世界で語られたディズニーの『ロビン・フッド』(ウォルフガング・ライザーマン監督、1973)とは大きく異なるものである。そして付け加えるなら、後述する『ライオン・キング』的世界観の問題を後に乗り越えようとしたのが、『ズートピア』(リッチ・ムーア、バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ監督、2016)だったといえよう。

*11:フォレスト・ガンプが聖痴愚であること隠れ蓑に、公民権運動やカウンター・カルチャーの歩みを排除した非常に保守的で白人至上主義的な戦後を再構築し、しかもそれを原作がある種ナンセンスなユーモア小説であるにも関わらず感動大作として仕上げてしまった問題の多い作品だ。公開当時、映画で描かれるフォレストが、政府のいうことに──純粋であるがゆえに──疑うことなく従い、それゆえに成功してゆく様子をこそ、真にアメリカ人的であるとして、共和党の選挙キャンペーンの引き合いに出されたりもしたのだ。町山智浩『最も危険なアメリカ映画 『國民の創生』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで』(集英社、2016)などに詳しい。