2019 9月感想(短)まとめ

2019年9月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆1969年、スタントマンのクリフ・ブースが永年コンビを組みんでいる現在キャリア停滞中の俳優リック・ダルトンの邸宅の隣にロマン・ポランスキー監督と女優シャロン・テート夫妻が越してくる『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』クエンティン・タランティーノ監督、2019)は、当時のフィルムを思わせる乾いた色調で描かれた、なるほどタランティーノの語る “おとぎ話” といった作品だった。

もちろん本作には、タランティーノ自身が子供時代を過ごしたという1960年代終盤のハリウッド界隈を象徴する様々な小ネタの数々は、もはや1度では回収しきれないほど詰め込まれている。各種映画のポスターから看板、ポップ・ミュージック、マカロニ・ウエスタン、ヒッピー・ムーヴメントにミニスカート、スティーブ・マックィーンがいてブルース・リーもいる!──と観ていてキャッキャッとはしゃぎたくなるような楽しさだ。

そんな時代に活躍した様々なアクション俳優の要素を混ぜ合わせて*1創造された、本作が初共演となるレオナルド・ディカプリオブラッド・ピット演じる落ち目の俳優リック・ダルトンと彼の専属スタントマンであるクリフ・ブースの親友以上夫婦未満のブロマンス感溢れるやりとりもまた楽しい。自身のままならなさにメソメソ泣いてはブラピに「よしよし」と慰められ、自身の至らなさにシクシク洟をすすっては共演者である年端もいかない子役の少女──演じたジュリア・バターズもめちゃくちゃ巧かった──に「よしよし」と慰められるレオ様の表情など最高だった*2し、55歳とは思えないバキバキの肉体を然したる意味もなくスクリーン上に披露するブラッド・ピットの無骨な存在感も素晴らしい。

その他、本作における重要なポイントであるカルト集団マンソン・ファミリーのリネット・フロムを演じていたのがダコタ・ファニングだったのには驚いたし、同じくファミリーの一員であるスーザン・アトキンスを演じたマイキー・マディソンは本人の雰囲気もあるいっぽうで梶芽衣子っぽくもあった。もちろん、シャロン・テートを演じたマーゴット・ロビーの天真爛漫な軽やかさも忘れがたい。

本作は、いわゆるハリウッド的な強固な物語があるわけでもなく、どちらかといえばあてどない日常スケッチが続くわけだが、タランティーノの軽妙な語り口──それから脚/足へのフェティッシュなこだわり──や、通りを人が歩いているだけなのに妙な緊張感が走るサスペンス演出の巧みさはいまだ健在で、161分という長尺も無理なく観ることができる。昨今のタランティーノ監督作の傾向を鑑みれば──というか、予告編の惹句が全部言っちゃってるのだけれど──本作の迎える結末それ自体に驚きは少ないものの、そのぶん「そこまでやるか!」と思わず笑ってしまうほどエクストリームなクライマックス・シーンも見所だ。

いっぽうで「昔むかしハリウッドで……」というタイトルが示すとおり、本作には古典的な “おとぎ話” の構造が通低されているのもまた興味深い。すなわち、冒頭でハリウッドに越してくるロマン・ポランスキーシャロン・テート夫妻は──ポランスキーが後にパーティで着る衣装からもわかるように──お城に住む国王と女王(ないし王子と王女)、リックはその城下で暮らす騎士であり、彼のそばにずっと寄り添うクリフは従者なのだ。馬の代わりに自動車を駆り、舞踏会はLP盤をバックに開かれ、女王はお忍びで城下町を視察し、騎士は従者を引き連れてドラゴンを退治するというわけだ*3

もちろん、史実としてはマンソン・ファミリーが妊娠中のシャロン・テートたちを惨殺した痛ましい事件*4があって、ラブ&ピース終焉のひとつの要因ともなったわけで、本作を観終えると快哉を叫びたくなると同時に──タランティーノの近作を観たときもそうだったけれど──、「歴史が本当に映画で描かれたとおりであったなら、ほんのすこしでも世界はより善くなっていたのかな」と切ない気持ちにもなるのだった。もちろん本作のように、現実にはなかなか訪れない「幸せな結末」を語ることこそが物語の力のひとつなのはたしかである。


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◆近未来、海王星軌道上での探査計画中に消息を絶った父の行方と目的を追うために太陽系の果てへと旅立つ宇宙飛行士ロイの冒険を描く『アド・アストラ』ジェームズ・グレイ監督、2019)は、なるほどそういうアプローチで来たか、という意外性のある1作だ。

本作に登場する宇宙服や宇宙船、月面基地や小道具といったプロダクション・デザインの数々、そしてもちろん宇宙空間や惑星の外観の描き方まで、そのルックはあくまでも──本作にも時折オマージュが登場する『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)から連綿と続く──現在の宇宙科学技術を始点に考え得る限りの徹底したリアル志向で統一された、いわばハードSF的なものである。そのため本作において、宇宙空間は無音──宇宙服内に振動で伝わる感触の音声は除く──であり、映像は光陰がバッキリと分かれたハイ・コントラストな感触*5となっている。冒頭、しれっと登場する軌道エレベータならぬ軌道アンテナも、たいへん実在感に溢れる造型だ。

しかし同時に本作の目指すところは、前述のような映画のルックを限りなく活かした、主人公ロイの内面/心的世界の描写にある。行方不明となっている父の捜索というロイの行動を支える動機は、彼が生きるうちに抱えた葛藤の構造そのものであり、太陽から遥か彼方に浮かぶ──深い瑠璃色が美しい──海王星という目的地は、彼の心の奥底(=無意識*6)に沈みこんだ葛藤の在り処にほかならない。そして数々の検閲*7や抑圧が、彼の行く手を阻もうとするだろう。

このように本作は、いかにもリアルな “外宇宙(アウター・スペース)への旅” を描くいっぽうで、同時にロイ自身の内省的で抽象的な “内宇宙(インナー・スペース)への旅” を語っているのだ。喩えるなら、コンラッド村上春樹的な語り口とでもいおうか。ゆえに本作を、予告編で謳われるようなスリリングでアクションに富んだSF活劇として観ようとするなら、おそらく観客は面喰らうことになろう。

ただ、まるで幾何学的で抽象的なデザインのように描かれた光の反射を変容を、宇宙服ヘルメット内からの主観で捉える本作最初の長い長いショットに一瞬映り込むものがなんだったかを思い起こすなら、本作の優れた作劇が染み入ってくる。そう、ロイや観客が知らぬうちに求め、そして帰還する先は、最初から示されている。それこそ、心の拠りどころだなのだ。


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◆イギリスのミュージシャン、エルトン・ジョンの半生を、彼の音楽パートナーであったバーニー・トーピンとの関係を軸に描くロケットマン(デクスター・フレッチャー監督、2019)は、不勉強ながらエルトン・ジョンの人生や楽曲について、ほぼ知識なしの状態での鑑賞だったけれども、心の奥底をグッとつかまれるような美しい説得力を持った作品だった。

劇中で使用された数々のエルトン・ジョンの楽曲は、なんともポップで軽やかで美しいメロディ・ラインがいわずもがなの見事さで、これを劇中にあるように、詩を渡されてほとんど即興で作り上げていったというのだから凄まじい。そういった意味では、本作の白眉のひとつである「僕の歌は君の歌」の作曲シーンのなんとも知れぬ豊潤さには、タロン・エガートンの名演*8も相まって、天性の彼の才の凄みを──そして、その後の人生をついてまわる物悲しさも──体感できることだろう。そのいっぽうでエルトンが抱える様々な孤独感や寂寥感を彼以上に詩として表現してゆくバーニーとの、芸術的には完璧な合致具合でも、一対の人間関係としては互いの求めるところに微妙な差があるがゆえに生じる、愛すれど心寂しい軋轢やすれ違いは観ていて胸を掻きむしりたくなるような切なさに溢れている。

本作で興味深かったのは、本作がエルトン・ジョンの子供時代から現代までを描く伝記的作品ながら、その都度その都度の心象を彼の既存曲を全面に用いて歌い踊るミュージカル*9であるという点だ。特定のアーティストの既存曲だけを使用したミュージカルといえば、ビートルズの楽曲で構成された『アクロス・ザ・ユニバース』(ジュリー・テイモア監督、2007)や、アバの楽曲で構成された『マンマ・ミーア!』(フィリダ・ロイド監督、2008)*10が思い起こされるが、これらの物語はアーティストとは関係のないフィクションの物語であって、アーティスト当人の人生を、しかも人生の出来事や楽曲発表との時系列を混在化させながら描いたというのは、寡聞にして珍しいのではないだろうか。

もちろん本作が、ド派手な悪魔的衣装に身を包んだエルトンが、グループ・カウンセリングの場で自身の人生を回想し、語るというフラッシュ・バックを折々に繰り返す構成になっているのは、このある種の時系列シャッフルを成立させる効果的な作劇だ。すなわち、画面に映し出されるエルトンの人生とは、すなわち過去を振り返る彼の心象風景そのものであることにほかならならず、だからこそのリアルさなのだ。そして、彼が自ら成功と孤独感とのあいだに揺れ動いた人生を語りながら、すこしずつ衣装からも言葉からも──自らを守る鎧としての──虚栄が剥がれてゆき、やがて文字どおり自分自身と向き合って赦しを得るクライマックスには、喩えるならTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督、1995-1996)の最終話にも似た、えもいわれぬ感動がある。

たしかに本作には、僕のようにはじめてエルトンに触れるような観客にも呑み込めるような、ある種の単純化──類型化や史実の単純化など──はあったろう。彼の実際の人生は、もちろん本作のようにガッチリと──構造主義的に──組み上がったものではないはずだ。しかし、作り手たちが見出した彼の人生の核心についての描写には、ある種の真実が宿ったのではないだろうか。だからこそ胸を打つ。少なくとも本作は、映画というメディア、ひいてはフィクションの持つ、それを語り直すこと力強さが、遺憾なく発揮された作品だといえるだろう。


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◆1972年、心霊研究家ウォーレン夫妻の出張中に留守番をすることになった娘のジュディとベビーシッターの女子高生メアリー、そして彼女の友人ダニエラが遭遇する一夜の恐怖を描いた「死霊館シリーズ」最新作アナベル 死霊博物館』(ゲイリー・ドーベルマン監督、2019)は、シリーズ生みの親のひとりジェームズ・ワンのコメント「アナベル版 “ナイト・ミュージアム” になるのさ」が言い得て妙のポップで楽しいアトラクション作品だった。

本作はこれまでのシリーズにも登場してきた、ウォーレン家の地下室にある呪われた収集品用保管室が本格的な舞台になるということで楽しみにしていた。実際に本編を観てみると、本シリーズの顔である死霊人形アナベルをはじめ、呪われたウェディング・ドレスに鎧兜やブレスレット、ボードゲームからモンキーシンバルなどなど、保管室の棚にヤマと詰まれたありとあらゆる悪霊が一気呵成に──といいつつ、ターン制で──攻めてくるので、若干話運びに雑な部分は多いけれど、驚かし演出やサスペンス演出といったホラー描写が見世物市のように手を変え品を変えポンポン飛び出して来てキャアキャアと楽しく怖がることができるだろう。

といいつつ、本作の白眉はやはり前半部にある、本作の怪奇現象の元凶となってしまうダニエラの行動だ。亡き父への想いから霊界に通じたいとコッソリ保管室に忍び込んだダニエラが、これに手を触れ、その戸を開き、あの封を切り……と、踏まんでもいい布石をことごとく踏み抜いていくシーンは、まだホラー演出が始まってもいないのに恐ろしくサスペンスフルで引きつった笑いすら漏れそうだった。

シリーズ恒例となった悪魔祓いシーンは本作にももちろん健在。その方法も有効なのか、と思いがけず得心したシーンもあったり、なによりも主要登場人物が少女3人──今回ジュディ*11を演じたマッケナ・グレイスがすっかり大きくなっていた──というのも相まって、なんだかTVドラマ『来来! キョンシーズ』(朱克榮、周彦文監督、1988)もかくやの可愛らしいポップさもあって微笑ましいし、これまでのシリーズと同様、最終的には足取り軽く劇場をあとにできるホッコリしたエンディングも嬉しい。

来年本国公開が予定されているシリーズ最新作『The Conjuring 3(原題)』(マイケル・チャベス監督、2020)も楽しみだ。


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【ソフト】
◆エネルギー危機解決のために各国から集められたエンジニアたちが宇宙ステーション「クローバーフィールド」での実験中に起きた不可解な現象に遭遇するシリーズ第3弾クローバーフィールドパラドックス(ジュリアス・オナー監督、2018)は、題材やキャスト、プロダクション・デザインや音楽など申し分ないものの、本作の肝である “問題発生とその解決” にまつわる前振りが決定的に足りない1作であった。一事が万事、いま解決すべき問題がどのような困難を抱えているかのネタ出しが不十分ために、行使される問題の解決方法に合点がゆきにくいという悪循環に陥っている*12。惜しい。


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◆ひと気のない海岸沿いの湿地帯に突如発生した「シマー」と呼ばれる異常領域に足を踏み入れた調査隊が体験する恐怖を描いたジェフ・ヴァンダミア原作のアナイアレイション -全滅領域-アレックス・ガーランド監督、2018)は、遺伝情報の突然変異によって様々な動植物がない交ぜになった悪夢のようなシマー内の風景とクリーチャーの無気味な美しさを堪能できる一作。水面に張った油膜に光が反射したようななんとも知れぬきらめきを放つシマーの境界面をはじめとした色彩設計も美しく、ほとんどグリーンバックに頼らず実写で撮影された映像も相まって、たしかな手触りのある異世界表現に仕上げているのが素晴らしい。本作に登場するクマの恐ろしさは格別なので、ぜひ観てみたい。


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【TVアニメ】
◆記憶喪失で目覚めた高校生・響祐太がコンピュータ内に存在するグリッドマンと合体することで、突如として街に現出した怪獣と闘うことになる『SSSS.GRIDMAN』(雨宮哲監督、2018)は、第50回星雲賞メディア部門受賞も納得の見事なSFシリーズだった。

もちろん巨大ヒーローに怪獣の数々──ソフビ感溢れるデザインが素晴らしい!──、そしてアスファルトはじけ飛ぶ “ガイア着地” などなど、個人的好物がたくさん盛り込まれていたのも嬉しいし、精緻な背景美術や安定した作画と演技によって得られた画面の実在感も素晴らしい。なにより本作が “そういう” 展開を経るとは夢にも思っていなかったので、第1話の時点でかなり虚を突かれて惹き込まれたし、それでいて “そういう” 展開を “こういう” 見せ方で “ああいう” 着地を見せるというのは、なるほど最新アップデート版ともいえそうな構成や顛末──それゆえに、バンクの使用さえ、ある種の説得力を獲得している──、ソリッドな演出など新鮮で見応えがあった。

主人公・響祐太や、彼を支える内海将、宝多六花、新条アカネといったメイン・キャラクターたちもそれぞれ魅力的だ。そして、本作を “そういう” 点から思い起こすなら、なるほど彼らのキャラクター・デザインの細部にもイチイチ納得だ*13。お見事。


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*1:代表例はスティーブ・マックィーンと専属スタントマンだったバド・イーキンズ、バート・レイノルズハル・ニーダムの両コンビやクリント・イーストイッドなどが挙げられるだろう。しかし、リックは彼らのようになれなかった人物なのだ。

*2:あと、スティーヴ・マックィーンをリック・ダルトンに置き換えた──そのほかは実際の本編映像である──『大脱走』(ジョン・スタージェス監督、1963)のマッチしてなさ具合も最高だった。

*3:そして、そのささやかな褒美として、お城で開かれる晩餐会に騎士は招かれるのだ。

*4:しかもマンソンが本来標的にしていたは前に同邸宅に住んでいたテリー・メルチャー──本作前半でチラリと名前だけ出てきた──であり、彼女たちが亡くなったのは完全に不条理としかいいようがない。しかも、メルチャーがマンソンのレコードを出してくれなかったための逆恨みという、なんともチンケな動機なのがいたたまれないし、かといって自ら手を下そうとしないあたりが本当にもうね……。本作に不満があるとすれば、マンソン自身に天誅が降らなかった点だろう。

*5:撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマの仕事が相変わらず美しい。

*6:フロイト的に考えるなら、無意識が無時間的な領域なればこそ、トミー・リー・ジョーンズ演じるロイの父は10数年もあの閉鎖空間で生きながらえてきたのだ。

*7:たとえば冒頭で、ロイが軌道アンテナの外部設備メンテナンスをしている際に海王星から放たれる強大な電波サージは、彼の無意識から発せられたものが変形したものだ。

*8:本作では、彼が歌唱も担当している。

*9:既存曲で作り上げられたミュージカルを、ジュークボックス・ミュージカルと呼ぶ。

*10:もとは舞台作品。

*11:これまで彼女を演じたスターリング・ジェリンズは、本作の位置する時系列──1971年が舞台の『死霊館』(ジェームズ・ワン監督、2013)直後であり、1977年が舞台の『死霊館 エンフィールド事件』(同監督、2016)よりも前──のためいったん降板。

*12:あと、オチね。ありゃあいくらなんでもでかすぎやしないかい?

*13:予備知識なしで観たため、六花ママがはじめて画面に登場したとき、見た目から声からハルハラハル子みたいだなと思ったら、担当声優が新谷真弓ということで、そのまんまだったのは面白かった。思い返せば、本作にはちょっとOVAフリクリ』(鶴巻和哉監督、2000-2001)を思わせる部分もある。