2019 12月感想(短)まとめ

2019年12月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆展望台ホテルの惨劇から生還したものの、やがて父同様にアルコール依存症に苦しむようになったダニーが、同じ能力を持つ少女アブラとともに闇の勢力との戦いに巻き込まれてゆく姿を描いたスティーヴン・キング原作の『ドクター・スリープ』マイク・フラナガン監督、2019)は、いかにもキングらしいサイキック・バトルものだった。

本作は、予告編が謳っていたような──あるいは前作『シャイニング』(スタンリー・キューブリック監督、1980)をそのまま継承したような──心霊ホラーやサイコ・ホラー的なテイストがじつは薄めの作品だ。もちろん、気がつけば林の奥に人影が……といったような『回転』(ジャック・クレイトン監督、1961)を思わせるような気味の悪いショットなどは散りばめられているものの、どちらかといえば作中で「シャイニング」と呼ばれるテレパシー能力を持つダニーらと、同じ能力を悪用し、人の「生気」を食糧にすることで永遠に生きながらえようとするローズ・ザ・ハットらの──ヒッピー的生活を送るドラキュラのような──コミュニティとの超能力合戦がメイン。喩えるなら、世界が滅亡するほどではないものの、町角や裏山でひっそりと行われているかもしれない “幻魔大戦” といった趣だ。

そんな本作の見所のひとつは、カメラワークだ。前作においては、キューブリックが得意とする左右対称に固定されたレイアウトに、当時使用されはじめて間もないステディカムによる移動撮影──ダニーがホテル内を三輪車で走る姿を延々後ろから追うショットなど──が追加されることで、ことさらに水平感が強調されていたのに対し、本作においては──とくに登場人物たちが超能力を発動するシーンにおいて──文字どおり画面の軸が回転して90度に直立したままカメラが登場人物を追って移動するといったような、垂直感が強調されていたのが興味深い。画面の構図そのものは極めてシンプルだが、それが返ってあまり観たことのない不思議な感覚を最大限に与えてくれる。

また、ユアン・マクレガーが演じる中年ダニーの、アルコール依存症に苦しみつつも後に克服し、やがて自らの超能力を持って戦いに身を投じるというダニーの役柄は、なんとなればマクレガーの代表作に数えられるであろう『トレインスポッティング』シリーズ(ダニー・ボイル監督、1996-2017)のレントンと、『スター・ウォーズ』プリクエル三部作(ジョージ・ルーカス監督、1999-2005)のオビ=ワンを合体したようなキャラクターであるので、彼のお家芸を堪能できるのは楽しい。また本作には、前作のキャラクターが “そのまま” の姿で幾人か登場するのだけれど、これを近頃流行りのストックフッテージからの合成や、そっくりそのまま形成されたCGモデルを用いる──これはこれで良い面も多分にあるし、驚かされるのだけれど──のではなく、雰囲気の似た役者をきちんと登用しているのも、むしろかつての「続篇」感を思い出させてくれるようで趣がある *1

やがて、いささか荒廃はしているものの、かつての邪悪さはそのままに登場する展望台ホテルにおけるクライマックスでの顛末は、あれだけ前作を毛嫌いしていたキングが本作を許したわけがなるほど理解できるつくりだった。展望台ホテルへの山道を風雪のなか移動する車を追う空撮ショット──前作当時には技術的に描けなかったであろう──をはじめ、まるで名所名跡を巡る観光旅行のように、立ち会う人物を換えながら前作の怪異が律儀に再現されてゆくけれど、その後に本作が辿る道筋は、まさしくキングが「本当は『シャイニング』をこう映画化してほしかった」ように前作を語り直したものにほかならない *2

その他、頭のなかの図書館描写や、さすがにちょっと直裁に過ぎるのではと思った「生気」捕食描写、ほんのすこしテンポがよくてもよかったのではないかしらん、といったキング映画あるあるも十全に楽しめる作品だ。さすがに本作ばかりは前作を観ていないと「なんのこっちゃ」となると思われるので、『シャイニング』を観て、劇場に出かけたい。


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◆1960年代初頭、かつて初代が盗み損ねたと云われる秘宝「ブレッソン・ダイアリー」を巡る凶悪な陰謀に天下の大泥棒ルパン三世たちと考古学好きの少女レティシアが挑むルパン三世 THE FIRST』山崎貴監督、2019)は、映像と映っているアクションは見事だけれども、話運びにいささか難アリな1作だった。

モンキー・パンチによる原作漫画の映像化の歴史のなかで初の3DCG長編アニメーション映画となる本作の予告編が解禁されたとき、熱心にとは言わないまでも、長年それなりにアニメ版 *3に親しんできた身としては期待と不安が五分五分といった気持ちで受け止めたことを思い出す。映像はともかくとして、かつて山崎貴監督には同様の企画『STAND BY ME ドラえもん』(2014)でかなり手痛い目に合わされていたからだ *4

閑話休題。まず、本作『THE FIRST』のルックは見事というほかない。日本において、どちらかといえば主流な印象のあるトゥーンシェイドによる2D手描きアニメーション風の画を採用せず、欧米で制作されたの諸作品──ピクサーやディズニー製のものに近いかな?──を思わせる、いかにもコンピュータ・グラフィックス・アニメーションといった映像を採用した本作の画面の完成度は、非常に高いものだ。

画面内に登場する各種プロダクション・デザインの数々は映像的な手触りなども含めて素晴らしい。立体的にも不自然のないように、しかもこれまでのアニメ版からも逸脱しないように注意深く形成されたキャラクター・デザイン──次元の髭には苦労したんだろうな──の絶妙さ、衣服ごとの素材によって異なる肌触りを醸した質感表現のこまかやかさにはとくに驚いたし、実在感に溢れた背景美術や小道具、そしてそれらを彩るライティングと撮影も美しい。実写的でありながらも、同時に間違いなく漫画映画的であるアクションも楽しく、これまた日本アニメでは珍しいプレスコで収録された台詞にバッチリ合った口元の演技にも注目したい。ことほど左様に本作の画に関しては、現状における日本映画のなかで、ひとつの到達点を見せられたようで、たいへん満足だ。

本作の「インディ・ジョーンズ」シリーズや「007」シリーズ──もちろん原作のコンセプトのひとつが和製007ではあるし、「インディ~」シリーズの元ネタのひとつもまた「007」シリーズである──をやりたかったのだろうなとありありと判る本編そのものも、概ね楽しめるものだ。本作が時代設定をあえて1960年代初頭においたのも、それらのシリーズでお馴染みのアイテムや人物、組織を不自然なく登場させたかったためだろう。本作のゲスト・ヒロインの「レティシア」という名前は、おそらく『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督、1967)のヒロインからの引用かと思われる。

そして同時に、1968年が舞台である皆大好き『~カリオストロの城』(宮崎駿監督、1979)へのオマージュもあれこれ──銭型警部がインターポールといいつつ埼玉県警を引き連れたり、「昭和ひとケタ」といった台詞を言わせてみたり、「ごくろうさん」マークを随所で登場させたり、などなど──挿し込みたかったのだろう。また終盤には、いかにも山崎貴監督らしいメカニック・デザイン──トンボみたいな例のデザインがほんとに好きなんだねェ──も登場し、セルフ・オマージュをも挿入している。

ただ、表面的/表層的な部分では楽しめたところも多かったぶん、重要な本筋の脚本や演出の詰めの甘さが余計にもったいなく感じられた。公式ホームページ等を参照すると、本作ではストーリー構築に日本映画としては異例なほど力を入れているようだが、それにしては奇妙に粗が多いのも事実だ。

たとえば前半部にある、ルパンとレティシアが敵の巨大飛行艇の内部へと潜入し、艇内で「ブレッソン・ダイアリー」の捜索と秘密の解明を経て、艇内から脱出するまでの流れは、いくらなんでも不自然過ぎる。具体的な潜入の経路やアクションを端折っているので、艇内の構造が不鮮明だったり、見つかるか見つからないかのサスペンス的スリル感が削がれているからだ *5。しかもルパンたちがそんな閉所空間──あろうことか敵の本拠地のなか──でワアキャア喋りどおしだったのは、敵に泳がされたフリをしていたにしても不自然極まりない *6。そののちに展開される自由落下アクションからチェイス・シーンに連なる見せ場そのものはアニメ的なケレンに満ちていて楽しいのだけど、降りた先のあの荒野がいったい地球上のどこなのか──ここだけ場所のキャプションが “あえて” 出ないのもあって──サッパリわからないため、妙なノイズが残っている。

あるいは後半に登場する、クリアされるべき遺跡の仕掛け──もろに『~最後の聖戦』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1989)チックでしたな──の具体的な解除方法が奇妙にボカされているので「え、その部品取っていいの? そんなことして、また仕掛けが発動しないの?」、「そのキメポーズは格好いいけど、それで仕掛け解除されるの? とおり抜けた先になんかスイッチとかないの?」と要らぬところでサスペンスが生じてしまっているし *7、せっかく付与されたアイテムのとある設定 *8をアクションにあまり活かせていない面もある。ラスト近くでの愁嘆場は相変わらず妙に長い *9

また、レティシアは着ている “黄色い” ジャケットを──衣装デザインそれ自体は良いのだけれど──前述の飛行艇のなかでの “とある” やりとり以降で脱ぐなり、別のものに交換するなどしておいたほうが、より物語の展開に画的な説得力が──海外マーケティングを考えるならいっそう──増したことだろう。黄色い衣服は、キリスト教絵画においてイエスを売ったユダの身につけた衣の色として使用されることから、ときとして「裏切り」や「不実」を表すことがあるからだ。

その他、地球上あちこち出かけるわりに序盤のパリ市街を除いて舞台のご当地感──前述の荒地も含め──どんどんが薄れていっているし、ガヤの音声が極端に少なすぎやしまいかと思うし、不二子の着替えシーンでその繋ぎ方はいくらなんでも無理があるだろうとか、あの娘は後ろ手にくくられた縄をいつ解いたんだ! ……と、大小さまざまに気になる点が多かった。

アラ探しが過ぎる、といわれればそれまでではあるけれど、なんにせよ本作最大の見所である精細なCG映像それ自体は巨大なスクリーンでこそ映えると思われるので、大きなハコで上映しているうちに、出かけてみてはいかがかしらん。わしゃ責任取れんけど。


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◆「神紅大学のホームズとワトソン」の異名を持つ自称学生探偵・明智と万年助手・葉村が、謎の少女探偵・剣崎に連れられて訪れたとあるサークルの合宿先のペンション「紫湛荘」で起こる不可解な殺人事件に巻き込まれる、今村昌弘による同名小説を原作とする『屍人荘の殺人』(木村ひさし監督、2019)は、もうすこしやりようはなかったのかしらん、といささか首を捻らざるを得ない1作だった。

たしかに、主人公・葉村を演じた神木隆之介が醸す相変わらずの年齢不詳感や、剣崎を演じた浜辺美波の可憐だがミョウチキリンな美少女ぶりなど、一部原作小説から役柄の設定を変えるなどして集められたキャスト陣の存在感はよかった。キャラクターに合ったイイ顔を揃えている。

しかし、彼/彼女らに面白くもないギャグやヘンテコなひと言を言わせては変顔させてみたり、そのたびに「ポコペン」といった面白気なSEをのべつまくなしに鳴らしてみたり、字体もサイズも内容もダサいキャプションを入れてみたりと、気を利かせたつもりが総じて寒い *10。だいたいノッケからそんな非日常的な演出をしては、本作の肝である──ネタバレ厳禁な──ツイストの衝撃が薄れるわ、後半にいたっても緊張感が出ないわ *11で理に適ってないのではないか。

まあ、そのあたりは作り手の座組から事前に予想されるので100歩譲るとしても、しかし本格ミステリ小説を原作とする本作において、その隔絶された舞台(クローズド・サークル)となるペンション「紫湛荘」の見せ方に、いかほども工夫もみられないのはいかがなものか。少なくとも序盤から前半にかけて、どういった立地にある建物なのか、どの外観と内装が一致するのかなどをキッチリ描いておかなければ──本作では、とくにそれがトリックや展開に重要なだけに──観客の興を削ぐばかりではないか。「1階」だ「2階」だのといったキャプション──それがなんども登場する──で済まそうとしているあたり、もはや演出の放棄も甚だしい。

原作小説の筋の面白さでなんとか観られるものの、したり顔であの映画作品 *12フッテージを引用している場合じゃないよ。あの映画から学ぶべきところはたくさんあったのではないかしらん。


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◆半年前に攻略して破壊したはずの「ジュマンジ」を、スペンサーが修復してゲーム内に舞い戻ったことを知った仲間たちが再びゲームに挑むジュマンジネクスト・レベル』ジェイク・カスダン監督、2019)は、前作の魅力をより一層深めた楽しい1作だった。

予告編で謳われていたほどにはゲームのバグり感がなかったのは残念だったが、砂漠に市場、山間のつり橋から雪山の要塞にかけて展開される高低さを活かしたアクション・シーンはそれぞれに見応えがあって楽しいし、ゲーム内の無国籍感というか、ごった煮感というか、なんでもかんでも雑多に詰め込んだかのようなプロダクション・デザインの数々も見ていて面白い。

また、前作に引き続いてゲーム内のアバター役を演じたドウェイン・ジョンソンジャック・ブラックケヴィン・ハートそしてカレン・ギレンらの芸達者ぶりが本作でも堪能できる。前作では、彼らのキャリアとあまりに異なるプレイヤー(=役柄)の内面を演じきっていたのがフレッシュで笑いを誘ったが、本作ではプレイヤーとアバターの組み合わせがアベコベになったり、果ては老人ふたりがプレイヤーに紛れたりしてさらにややこしいことになっている。役者陣がこれを見事に、また楽しそうに演じていることで生まれるアンサンブルが楽しい。老人ふたりがテレビゲームに馴染みのないために自分たちがどこにいるのか、なかなか理解できない前半の天丼ギャグのやりとりなど最高だった。

ふんだんなギャグとアクションで突き進む本作が描くのはしかし、自分自身としてはなかなか素直になることのできない人間の性分だ。楽しそうに青春生活を送る仲間に引け目を感じてしまったがために凶行に及んだスペンサーの心境はいたたまれないし、同時にひょんなことからゲーム内に巻き込まれてしまったスペンサーの祖父エディと、彼と仲違いしたままになっている級友マイロが織り成すドラマも味わい深い。誰しもが他人の姿と声を借りればこそ自分や友だちに素直になれるというテーマは、ある意味では現代社会の合わせ鏡であり、だからこそ観客の心を掴んで離さない魅力があるのだろう。そして、そうなれたときには、決定的に手遅れである場合だってあることも描いた本作のちょっとばかりほろ苦い顛末は──描き方に多少の問題はあろうが──胸を打つものだ。

それにしてもダニー・グローヴァーダニー・デヴィート、老けたなあ! *13


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◆きょうも平和な農場に現われた迷子の宇宙人ルーラをお家に帰すため、ショーンたちが奮闘する『映画 ひつじのショーン UFOフィーバー!』(リチャード・スターザック、ウィル・ベッカー監督、2019)は、大いに笑ってほがらかな気持ちになれる作品だった。

アードマン・アニメーションズによるストップモーション・アニメのアクションやカメラワーク、編集のテンポ感が織り成す見事な完成度は相変わらずで、よくぞここまで実在感を醸す画がつくれるものだと感嘆することしきり。そして例によって、隙あらば1カットごとに、これまた実に気の利いたギャグやユーモアを入れ込んでくれるので、常に笑顔がまろび出てしまった。序盤も序盤におけるフライド・ポテトを巡って延々と展開されるギャグや、「作業員たち」のなんとも知れぬ挙動の可愛さをはじめとして枚挙に暇がない。それでいてきちんと物語の展開にハラハラさせ、最後にはちょっとした感動すら与えてくれるストーリー・テリングの達者さには舌を巻く。

また、今回の物語がおよそ『E.T.』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1982)を下敷きにしていうることもあるのだろうけれど、映画冒頭のアードマンのロゴ表示シーンが明らかに『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1977)のクライマックス──と、なぜか『空飛ぶモンティ・パイソン』の「オルガン奏者」を掛け合わせたような──であったりするほか、標識の文字など、往年の宇宙人SFを思わせる小ネタも満載だ。

年忘れにもってこいの1作だった。


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レイア姫の率いる反乱軍に敵の総攻撃が迫るなか、レイやフィン、ポーそしてカイロ・レンら若者たちが辿る命運を描くスター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』J・J・エイブラムス監督、2019)は、なにはともあれ、といった1作だった。

というのも、本作は冒頭のオープニング・ロール1文目から「いきなりそれ言うの!?」といった内容ではじまり、「前フリなんか知ったことか」と新キャラに新要素と怒涛の展開をブチ込んで、めまぐるしく上映時間が過ぎてゆくからだ。おそらくは前作『最後のジェダイ』(ライアン・ジョンソン監督、2017)において監督登板の条件として脚本をも自筆したジョンソンが物語を、当初のエイブラムスや製作のキャスリーン・ケネディらの思惑とは相当異なったものに変更したため──誤解なきように申し上げておくが、僕自身はこの破戒的な『最後のジェダイ』が、その破戒的さゆえに大好きである──に、それを自身の下へと軌道修正しようとしたのだろう。

本作の脚本的な容量は、いつもの「スター・ウォーズ」なら1.5~2作分はあろうかというもので、前半から中盤にかけてのやや単調にも見える展開の矢継ぎ早さ──エイブラムスお得意の「まさか!」な展開もまた、気を抜くとすぐ入ってくる──が、それを物語っている。ここでその詳細を語ることは差し控えるが、ひとつ思ったのは「さては J・J、宮崎駿風の谷のナウシカ』(徳間書店、1982-1994)を読んだな?(邪推)」ということだ。

さて、本作の映像面はさすがの出来で、様々に色合いを変える宇宙空間や惑星ごとの自然描写や生物描写はバラエティに富んでいて楽しいし、予告編でもちらりと登場した圧倒的物量を持つ敵艦隊の重々しい質感とそれに立ち向かうファイターたちが織り成すドッグファイトのスピード感や、常に新しい殺陣に挑むライトセーバー戦の新鮮さなど──ちょっと今回フィルム・グレインが効き過ぎな嫌いもあるけれど──見応え十分。そして暗鬱に塗り込められてゆく画面のなかで、戸惑い、迷いながらも凛として立つ若者たちの姿は、デイジー・リドリーアダム・ドライバーら役者陣の好演もあって美しい。また、様々な形のパートナーシップを大いに画面に刻印したことにも、本作の今日性があるだろう。

それにしても『フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス監督、2015)から本作『スカイウォーカーの夜明け』にかけての新3部作は、“血(縁)” という過去の呪縛からの解放を謳う物語だったのだと、本作を観てつくづく思う。レイやカイロ・レンが本作で迎える結末は──シリーズの陣頭指揮を執っていたエイブラムスには、3部作としては不満の残るものだったのかもしれないが──そういう意味では必然であり、しかし同時にとても風通しのよいものだ。だからこそ、本作にひとつだけ──いや、まあいろいろ突っ込みどころや不満点はあるけれど──苦言を呈すなら、最後のあの “ひと言” がすべてを台無しにしている、ということだ。こんなところにまでエイブラムス節(=ちゃぶ台返し)を入れ込まなくってもなあ……。

その他、「チューイよかったね」とか「ヤッチャー!」とか「その話はまた今度──の件どうなった?」とか諸々あるけれど、ひとまずはシリーズの区切りである本作がなにはともあれ遂げた大団円を劇場で見届けたい。


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【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評】
『劇場版シティーハンター〈新宿プライベート・アイズ〉』こだま兼嗣総監督、2019)は、良くも悪くも “まんま” だったのが妙味。しかたがないこととはいえ、絵の “感じ” というか色気は若干薄れていたかしらん。

『シャザム!』デヴィッド・F・サンドバーグ監督、2019)は、孤児であった主人公ビリーを迎える家族の面々のあたたかみや、サンドバーグらしい恐怖演出が楽しかった。ただ、もうちょっと尺が短ければと思わないでもない。

『新聞記者』藤井道人監督、2019)は、ズンと重苦しい空気感の醸し方や、第2幕で突然物語を切る構造などがフレッシュな余韻を残す。ただ、真に恐ろしいのは本作を実録モノで撮らせなかった社会そのものだよ。

『SHADOW 影武者』チャン・イーモウ監督、2018)は、セットや衣装に小道具といった美術、遠景を描くCGなどを駆使して、色彩をほぼ白と黒だけで統一した水墨画のような画面が凄まじい。出し抜けに映画のジャンルが変わる後半に虚を突かれたりもしたが、傘型の秘密兵器の格好良さとアクションのケレン *14水墨画的画面に滴る赤い血の生々しさが印象的。

ガリーボーイ』(ゾーヤー・アクタル監督、2019)は、インド社会を覆う問題や軋轢のなかで乱れ飛ぶライミングが爽快感に満ちている。また、すべての曲に字幕をつけてくれた心意気やよし!

『英雄は嘘がお好き』(ローラン・ティラール監督、2018)は、笑ってよいやらドン引きしてよいやら絶妙な味わいがなんとも知れぬ魅力をたたえている。ジャン・デュジャルダンメラニー・ロランらの演技アンサンブルも素晴らしい。

『僕のワンダフル・ジャーニー』(ゲイル・マンキューソ監督、2019)は、犬はいいなァ(それにひきかえ人間はなァ)、としみじみ感じ入る作品だった。大中小様々な犬が犬で可愛い。「黄泉の国」の表現は美しさと寂寥感が混在していて面白い。

『イエスタデイ』ダニー・ボイル監督、2019)は、曲はなんとなく知っているが、具体的にはあまりビートルズを知らない世代を主人公にしたのが面白い。後半に訪れるとある展開には号泣。それにしてもヒロインがいい人でね……。


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*1:あるいは、権利関係でそうするほかなかったのかもしれないけれども。ほら、『レディ・プレイヤー1』(スティーヴン・スピルバーグ監督、2018)にも彼だけはキチンとは登場しなかったし。

*2:父と子の、交わらないカメラワークが切ない。

*3:原作漫画は不勉強ながら数話ほどしか読んでおらず、映像化作品についてもすべてはカバーできていない。これを書いている2019年12月現在までに観たもの──▼『パイロットフィルム』全2種。▼TVシリーズ:『1st』全話、『2nd』飛び飛びで1/4くらい、『Part III』全話、『峰不二子という女』全話。▼長編映画: 本作を含め全作。▼中篇映画「LUPIN THE ⅢRD」シリーズ: 最新作『峰不二子の嘘』を除く全作。▼TVSP: 最新作『プリズン・オブ・ザ・パスト』を除く全作。▼OVA:『風魔一族の陰謀』、『生きていた魔術師』、『GREEN vs RED』の3作。以上。 ▼また、北村龍平監督の実写版。

*4:などとブツクサ書いていたら、スタッフ続投による『2』の製作が発表された。い、嫌じゃあ。ドラ泣きなんか、もうしとうないんじゃァ(12月12日記)。公開当時の感想: 『STAND BY ME ドラえもん』(2D版)感想 - つらつら津々浦々(blog)

*5:そりゃ、直前のシーンからおもんぱかって積荷にまぎれてってことかもしれないが、であれば、そこをきちんと描くべきではないか。本作が──予告編も含めて──やたらと関連づけたがる『カリオストロの城』はそのあたりをきちんと描写していたし、アニメーション的/映画的な見せ場としても成立させているのであって、取り込むならこういうところをもっと取り込むべきだろう(というか、ケイパーものである本作が潜入描写をちゃんとしてないのが、そもそもおかしいんだって)。前述したような台詞だマークだとか、FIAT-500だ可憐なゲスト・ヒロインだとかいった表面的な目配せばかりやってる場合じゃないよ。作り手たちは多分勘違いしているのだけど、そういったキャラクターやガジェットを出したから『~カリオストロの城』が面白いわけじゃないんだから。

*6:ルパンたちはどうやってか難なく潜入した飛行艇からの脱出を「警備が厳重だから」と諦めて艇内に留まってブレッソン・ダイアリーの解読に移るが、たとえば後に続くシーンの順番を多少変更して、先に飛行艇を発進させるだけでもだいぶ違うと思うのだけれど。

*7:あと2番目の仕掛けについては「クリアするアイテムは、ここまでさんざん登場させてきた古代遺物の欠片のほうが気が利いてない? というかその仕掛け、単にあいつがあれを使えない状態を作り出すために逆算で考えただけだろ」と思ったりもした。古代人の声を聞こうよ。

*8:最初の仕掛けでルパンが手に入れる、重力を自在に操ることのできるボール。というか、「エクリプス」というオーパーツが重力を意のままに操ることのできる装置だからこそ、それを圧縮してブラックホールを生むことができるのだ、くらいのちょっとした説明台詞もあってもよかっただろう。

*9:また例によって、あんな離島に置いてけぼりされたかのように見えるレティシアが、どうやって帰還するのか心配になる。うしろの遠景にでも、ICPOの増援部隊がやって来ている画を──それこそ『~カリオストロの城』がやっぱりちゃんとしていたように──追加してもよかったのではないか。

*10:寒いといえば、夏が舞台のはずなのに撮影時期を隠すこともなく、総じてキャラクターの吐く息は白いのであった。だいたい冒頭の「彼女(=剣崎)は夏だというのに長袖のカーディガンを着ているから不自然だ」という旨を言っている明智自身がいちばん厚着なのはどうなのか。

*11:アップテンポの16ビートをとりあえず流しとけば緊張感が煽れると思ってない?

*12:ショーン・オブ・ザ・デッド』(エドガー・ライト監督、2004)。メイクも安いし、クリティカル・ヒット描写も酷いというか、ンなもの繰り返してるんじゃないよ。くどいわ! なにより、映画部の前田君を呼んでおいてコレかよと、うなだれたのでありました(いろいろ混同した文章)。

*13:今回鑑賞したのは日本語吹き替え版だったのだけど、彼らふたりの世代を考慮してか、思わず「久々に聞いたよ!」となるような懐かしの流行語などが飛び出したりするキレのある翻訳がなんとも素晴らしいし、なんと加山雄三が担当したグローヴァーのジュマンジ内のアバター(=ケヴィン・ハート役の伊藤健太郎)に加山雄三のキメ台詞を言わせるというなんとも回りくどいギャグをやったりなどしていて可笑しい。

*14:目抜き通りを空飛ぶガメラの群れの行進か、といわんばかりに疾走するシーンは必見。