2020 2月感想(短)まとめ

2020年2月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆半地下物件にて貧困のなか暮らすキム一家が、ひょんなことから富裕層パク一家の邸宅へ様々な使用人として身分を偽って入り込んでゆく『パラサイト 半地下の家族』ポン・ジュノ監督、2019)は、まずはもうさすがのジュノ監督節満載の、とにもかくにもメチャクチャ面白い作品だった。ベリー・インタレスティング(←本編リスペクト!)。

まずは予告編でも明かされている、最初に息子ギウと娘ギジョンがパク家の姉弟の家庭教師として、そして父ギテクが運転手、やがて母チュンスクが家政婦として、それぞれが身分を偽りながらひとりずつパク家の豪邸に入り込んでゆく前半部からして面白い。彼らがいかにしてパク家の信頼を口八丁手八丁で得ていき、すでにいるポストの前任者を追い払ってゆくかを描く作劇は、丁寧かつテンポよく組み上げられた画と編集、「えっ? そんな手で……」と呆気にとられるようなブラックな笑いを織り込みつつ一気に魅せてくれるし、アルカイックな表情を浮かべ続けるソン・ガンホはじめ、役者陣の絶妙機微なアンサンブルも実在感に溢れている。

やがて、ついにパク家の豪邸へのパラサイトに成功したキム一家に訪れる転機──この嵐の到来を文字どおり予感させる演出も、オーソドックスだが見事だ──を境にあれよあれよと転がり落ちるような後半部の展開もまた、すべてが予想の斜め上を辿っていて凄まじく翻弄される。「あの暗闇の向こうになにが……?」とさんざん引っ張っておいて見せつけられる光景には唖然とするし *1、あるいは画面内で起こっていることはメチャクチャしょぼいのに恐ろしくゴージャスなスリリングさを味わえる──『母なる証明』(同監督、2009)にもあったような──サスペンス・シーンには手に汗を握ること必至。そして、これらのシーンですらスラップスティックな雰囲気を意地悪く入れ込んでくるポン・ジュノ作品の醍醐味のひとつを、本作でも存分に楽しむことができるだろう。あんなシチュエーションの最中に、そんな体勢って見たことあります? ベタァーってね。よく思いつくわ! リスペクト!

本作の主な舞台は、キム一家が暮らす低所得者向けの半地下の部屋──もとは、北朝鮮による核攻撃に備えたものだという──と、パク一家が暮らす豪邸だ。このそれぞれの美術──ちょっとした色彩や照明効果の違いにも注目したい──や画面の切り取り方などが素晴らしく、貧困層と富裕層のかけ離れた実態を目の当たりにすることができるし、こんなミニマムな舞台立ての切り返しだけで、むしろ広々と物語を語ってしまう本作の演出は見事としかいいようがない。そして後半のある部分で、文字どおり世界がパッと開ける展開があるのだけれど、しかし、ここで観客に本作が提示するのは決して開放感ではなく、さながらボッティチェリの地獄図を思わせるような圧倒的で絶望的なまでの “高低差” なのだ。このシーンには思わず胸が締めつけられる。そしてここに来てハタと気づくのだ。いかに本作が──画的にも、暗喩的にも──高低差表現によって物語を豊潤に語っていたかを。

クライマックスにおいて──ここで詳細を記すのは控えるが──、「彼」が唯一まっとうな怒りを爆発させる瞬間、そしてオープニングと対になるようなラスト・ショットを呆然と眺めるとき、えもいわれぬ感情が胸中を埋め尽くす。これこそポン・ジュノ作品。世界はスクリーンの向こうでなく、僕らの眼前にこそ拡がっていることを思い出させてくれることだろう。世界は地続きだ。画面のなかの出来事は、われわれ観客にも決して無関係ではない。欲をいえば、もうすこし家庭教師としてパク家の子どもたちを篭絡してゆく様子──とくにインディアンにハマっている弟 *2のほう──を見たかったとは思うが、しかし見事な1作だ


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◆幼いころから霊の見える臨床心理士・森田奏の周囲で謎の死や失踪事件が相次ぎ、やがて彼女自身も怪異に巻き込まれてゆく『犬鳴村』清水崇監督、2020)は、嫌いじゃないけれど、なんとも惜しい作品だ。

本作の前半部はかなり健闘していて、画面の隅や暗がりのなかに霊がポツネンと立っているというオーソドックスなJホラー的表現を効果的に用いていて無気味だし、ヒロイン奏が見えてしまう体質ゆえに「霊が見える」ようになる物語の展開も自然に運んでいる。また、カットを割らず1ショット──いくらかは擬似的なものだと思われる──内での視線移動で霊がチラリズムする演出や、ふと遠景でループしている怪異の表現も楽しい。

しかし、残念ながら後半部になって脚本の練り不足がかなり目立っている感は否めない。たしかに、どちらかといえば伝奇モノやダーク・ファンタジーのような転換を辿る展開そのものは面白いものの、では “彼” はいったいどういう存在なのか非常にあやふやで呑み込みづらかったり、彼女たちはどこであの映像を──記録フィルムと奏が一体化するかのような演出は面白かったものの──見たのか判然としなかったりと、細部の詰めの甘さがノイズになってはいまいか。また、結末部の見せ場において奏たちが長時間立ちんぼだったのはいくらなんでもどうか──つまずいて転んでしまって身動きが取れなくなる、とかあったのではないか──と思うし、明かされる真実にしても──悪い意味で──どっちつかずのままだ。

物語のブラッシュアップがもうすこしでもなされていたなら、よりいっそう見応えのある作品なったはずだ。


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心不全のうえに眼球が破裂という奇怪な死に方で親友を失った瑞紀が、やがて彼女自身もその死にまつわる呪いに巻き込まれてゆく『シライサン』安達寛高 *3監督、2020)は、たしかに話運びに若干のこなれなさもあるものの、メインディッシュである「シライサン」関係はたいへん恐がって観られる1作だ。

そっと画面に影が射して鈴の音が「チリン」と鳴るというかすかな予兆とともに、廊下や舗道の暗がりの奥に不意に現われてこちらを向いて佇むシライサンを、その呪いの設定上から我々も登場人物とともにジッと見つめ続けなければならない──絶対にふり返ってはいけないダルマさんが転んだとでもいうべき──恐怖は、そのジットリとした静謐な撮影や編集、特殊メイクで表現された “やたらと目の大きな女” の造型──等身の高いグレイ型宇宙人、もしくは顔色と出来の悪いデカ目メイクアプリの画像とでもいおうか──も相まって、世にも恐ろしい。

まあ、せっかく画がたいへん無気味であるがゆえに「眼球破壊」のSEがちょっとやかましく聞こえたり、シライサンが割と律儀に登場手順を守るので若干マンネリに思えたり、彼女の性質上いささかシュールな画になっているシーンもあったりする点は否めないが、謎が徐々に明かされながらも絶妙に足許をすくわれてゆく物語のなんとも知れぬ歯がゆい展開が続くこともあって、その無気味なテンションを維持することには成功しているだろう。また、劇中で登場人物が「承認欲求の塊だな」と指摘するように、シライサンは或いは “いいね” 時代を生きる我々の集合的無意識の結晶なのかもしれない。

それにしてもホント、あんなのに夜中に出会いたくはないわ、と背筋に冷たいものが走る作品だった。そういえば、任意でスマートフォンなどのアプリケーションを用い、追加音声トラックをイヤフォンで同時に聴くという上映方式だったが、そちらはどんな感じだったのだろう? ところどころSE──鈴の音など──が足りないような気がしたのは、そのためなのかしらん?


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*1:このくだりは、黒沢清の一連のホラー作品や、とくに『クリーピー 偽りの隣人』(2016)を思い出した。

*2:征服者が被征服者への憧れを持つという構図がもうね……。

*3:乙一の本名名義。