2020 7月感想(短)まとめ

2020年7月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆海底洞窟にて発見された古代マヤ遺跡でスキューバ・ダイビングを楽しんでいた女子高校生たち4人が、不慮の事故でそこに閉じ込められてしまい、しかもそこは凶暴な盲目ホオジロザメの棲息地でもあった海底47m 古代マヤの死の迷宮』ヨハネス・ロバーツ監督、2019)は、 “サメ × 閉所” のコンセプトがなかなかフレッシュな一作だった。

本作の予告編を観て、今度のサメはホオジロザメでかつ盲目で、舞台は迷路のような古代マヤ文明の海底洞窟遺跡……と、2作目にしてずいぶん要素をメガ盛りしてきたなと驚いたものだが、昨今の異様にバラエティに富んだ変化と隆盛を誇るサメ映画──とくに低予算作品における──の影響であろうか *1

ともかくも、それなりの予算を組んで撮影された本作の見所は、やはり古代マヤ文明の遺跡を再現した水中セットのなかで撮影された閉塞感溢れる映像だ。どちらかといえば広い空間(海中)描写の多いサメ映画としては、なかなかフレッシュな緊迫感があり、影のなかからヌッと姿を現しては主人公たちを襲うホオジロザメの──陽が当たらないためか体表は真っ白で、盲目のために身体中キズだらけの造型含めた──姿は迫力満点だ。したがって本作は動物パニックものというよりはホラーに近く、その舞台立てや物語は、洞窟探検(ケイビング)を題材にとった『ディセント』(ニール・マーシャル監督、2005)の影響が色濃く見受けられる。

いっぽう、本作の “サメ × 閉所” という本作の見せ場について短所があったのも事実である。本作の恐怖表現は基本的に、まるで土管から定期的に顔を出すパックンフラワーよろしくホオジロザメが画面の縁や横穴から不意に登場して主人公たちを驚かせるというものがほとんどであり、いささか単調に過ぎる嫌いがあるのは否めない *2。そもそも、主人公たちが迷い込む古代遺跡には狭い通り道だけが僅かに存在するだけのように映されるものの、サメたちは神出鬼没であり、あの巨体がとおり抜けられるだけの大きさのトンネルがそこかしこにあるのでは……と気になってしまった。

しかし、本作でいちばんの問題はクライマックスである。このラストの見せ場だけ、本作のコンセプトや物語とほとんどなんら関係ないのである。なんだかそこだけ「とりあえず数を増やしときました」という続篇をくっつけたようになっており、非常にもったいない。ここできちんと本作が語ってきた物語に決着をつけてくれたなら、よりいっそう合点のゆくラストだったろう。

とはいえ、気楽にワアキャア楽しめる作品であることに違いはないので、アトラクション気分で本作をご覧になってみてはいかがだろうか。


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◆ようやく戦場を離れて実家の農場を継いだランボーが、旧友マリアとその孫娘ガブリエラと穏やかに暮らしているなか事件が起こるランボー ラスト・ブラッド(エイドリアン・グランバーグ監督、2019)は、シリーズ新機軸作であると同時に原典回帰作でもあり、「ランボー、カム・バーック!」といった趣の作品だった。

本作のジョン・ランボーは、大切な家族である育ての娘ガブリエラがメキシコの麻薬カルテルによって奪われたことで、ふたたび闘いに身を投じることとなる、という設定だ。このため本作は戦争アクションというよりも──『狼よさらば』(マイケル・ウィナー監督、1974)などに代表される──ヴィジランティズム(自警主義)アクションとしての味わいが強く、本シリーズとしては新しいテイストを醸している。いっぽうで、第2作『怒りの脱出』(ジョージ・P・コスマトス監督、1985)以降、ランボーが敵地に単身乗り込んで闘っていたのに対し、本作では自らのフィールドに敵をおびき寄せて始末してゆく第1作(テッド・コッチェフ監督、1982)の展開 *3を踏襲しており、そういった意味では本作はシリーズの原典回帰作ともいえるだろう。

本作では、前作にあたる第4作『最後の戦場』(シルヴェスター・スタローン監督、2008)のラストにて、長い長い放浪の旅からようやく実家の農場に帰って来たランボーの日常が描き出される。馬の世話をし、大学への入学を控えた愛する育ての娘にプレゼントを贈る……。そんな一見平穏そうに思える彼の余生も、その端々に彼の拭いきれない闇が見え隠れする。とくに、ランボーが帰省してからの数年間、趣味としてなにをしていたかを思い出そう。それは農場の敷地の地下いっぱいに侵入者を撹乱するための入り組んだトンネルを掘ることだ。これはまさに、彼がベトナム戦争時代に苦しめられたゲリラたちの作ったトンネルそのものだ。彼が自らを巣食う暴力性を封じ、不意にフラッシュ・バックするトラウマ記憶となんとか折り合いをつけて平和に暮らすために、せめてもの療法としてそうせざるを得なかったことを思うと胸が痛む。

だからこそ、ランボーの怒りが臨界点に達し、暴力が発動してからの姿は鬼神のごとき迫力と凄惨さだ。まず観客に見せつけられる、敵のアジトを聞き出すために捕らえた三下のチンピラに対する度の過ぎまくった聞き込み(=拷問)描写が、その証左だろう。そして、ラストに展開される、前述の迷宮トンネルを十全に活かした必殺のホーム・アローン作戦での、敵に必ず苦痛を与えてから殺すスタンスもまた凄まじい。本作が題材に選んだ、南米での──もはや軍隊にも匹敵するといわれる──カルテルによる抗争や麻薬・人身売買といった犯罪は、現実問題として地獄の様相を呈しており、スタローン自身もインタビューで「現実の暴力はもっとひどい」と応えていることからも、それに対する怒りの本気度が窺える。

では、本作が暴力礼賛映画なのかといえば、決してそうではない。それは本作のランボーが、暴力によってなにかを得るどころか、またしてもすべてを失うからだ。むしろ、暴力はなにも解決しない……という無常観こそ、前述の凄惨極まる暴力描写も相まって、スクリーンから滲み出てくる最たるものなのだ。

ところで、本作の本編が終了し、おもいでポロポロ溢れ出るエンド・クレジットが始まっても、席を立ってはならない。その最後に、ほんの短いショットではあるが、本作のその先が描かれるからだ。それは『シェーン』(ジョージ・スティーヴンス監督、1953)を髣髴とさせる一瞬だ *4ランボーにとっての闘いは「まだ終わっちゃいない」のだ。


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◆恋人アシュレーと共に、実家のあるニューヨークへ舞い戻った大学生ギャツビーだが、有名映画監督へのインタビューに舞い上がった彼女にデートをすっぽかされてしまう『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』ウディ・アレン監督、2018)は、いろいろ困惑させられる作品だった。

まずはなんといっても、役者陣の演技のアンサンブルが素晴らしい。やはり、とくにティモシー・シャラメエル・ファニング、セレーナ・ゴメスといった主人公たちを演じた若手俳優が輝いていて、その脇を固めるベテラン勢も素晴らしい。よくよく考えると中身がなかったり、心底くだらなかったりする内容をなんとも知れぬ軽妙な洒脱さを醸す台詞として落とし込むウディ・アレンの筆致も相変わらず健在で、そんなウジウジした感情を軽やかに演じてしまうのだから、やはり役者陣の表現力は見事なものだ。また、ベルナルド・ベルトルッチフランシス・フォード・コッポラらの監督作で撮影を手がけた名匠ヴィットリオ・ストラーロによる映像はじつに美しい *5。シーンごとに感触を異にする雨の表現はさすがである。

しかし、本作において、どこを向いてもウディ・アレンしか出てこないのは、いささか問題ではないか。言い直そう。ジゴロ的な人生に憧れながら恋人をスターに奪われてウジウジする主人公の金持ちインテリ中二病坊やギャツビーも、制作中の自作はクソだと腐す映画監督も、妻の不倫を疑る脚本家も、モテ男を自認するスター俳優も、婚約者のとある癖が気に入らないから結婚したくないと愚図る主人公の兄も、道端で映画を撮っている学生も、本作に登場するすべての男性キャラクターは、誰も彼もすべてウディ・アレンの投影だ。もちろん、これまでのウディ・アレン作品でも──主人公を彼自身が演じようと、ほかの俳優が演じようと──多かれ少なかれ登場人物は彼の投影だったわけだが、ここまでになると、さすがに観ていて困惑せざるを得ない。だって、押井守の映画じゃないんだからさ。

ところで、本作の内容如何と同時にどうしても触れなければならないのが、本国アメリカにおける本作の現状だ。2017年、ハーヴェイ・ワインスタインによる女性へのセクハラ被害の告発に端を発する動向のなか、ウディ・アレン自身がかつて犯したセクハラ問題──とくにミア・ファローの養女(そして現在アレンの妻)への性的暴行疑惑──が再浮上。これによって彼はハリウッドから干され、同時に本作へ出演した俳優たちのなか──とくに主演の若い世代──からは出演への後悔の明言、ウディ・アレンへの絶交宣言、ギャラの全額(もしくはそれ以上)を関連団体へ寄付するなどケチョンケチョンな反応を受け、アメリカでの公開はいまもって未定である(世界では順次公開されている)。

とはいえ、それも或いは当然かもしれない。世界がいま一度、女性蔑視や搾取の問題を追及し、男女平等への道のりを拓こうとしようとする時世のなかで撮っていたのが、ひたすらウディ・アレンの投影たちがよってたかって女性たちへの不満や疑いを延々愚痴り続けるものなのだから。しかも、ギャツビーが自身のジゴロ的な本性を、まさしく彼がその血族であったことを知り、特段の理由もなく幼馴染と結ばれることでハッピー・エンドを迎えるオチも──てらいがないといえば聞こえはいいが──願望充足欲求が過ぎる感は否めない。正直なところ、世情如何に関わらず、本作はどうかしている。いままでアレンの作品の端々にあった痛烈な自省の情感はこれっぱかしもみられない *6

ことほど左様に、いろいろな面において困惑させられる本作ではあるが、翻って現在の社会問題を思い起こさせてくれるという意味においては観てよかったのじゃないかしらん。


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*1:不精な僕自身は、サメ映画ハンターではないので、様々なところから伝え聞くくらいしか、その実状は把握しておりません。

*2:あ。でも「愛のプレリュード」(We've Only Just Begun, Paul Williams, Roger Nichols, 1970)が流れるくだりは最高でした。

*3:中盤のある展開から、ランボーなら敵の本拠地で全滅させられたのじゃないの? と一瞬思ったりもした。

*4:瀕死の重傷を受けた主人公が、馬を駆って山々のほうへ去ってゆくという展開や画面レイアウトは、まさしく『シェーン』からの引用であるし、『シェーン』において描かれるのはガンマンの英雄的な活躍というよりも、暴力に手を染めてしまった者が至る悔恨や孤独への思索である。『シェーン』が映画史に燦然とその名を残し、後世──アメリカン・ニューシネマやクリント・イーストウッド、最近では僕の大好きな『LOGAN/ローガン』(ジェームズ・マンゴールド監督、2017)──に多大な影響を与えたのは、そのためである。そして、ランボーが悲惨なのは、そんな彼の背中を見送る者が誰もいない点であろう。

*5:だから本作の画面縦横比は、1:2なのだ。

*6:じゃあ単に「反省してまーす」と劇中にあればよいかという問題ではない。そもそもウディ・アレンは今回(=かつて)の騒動についてまったく否認している。