2020 12月感想(短)まとめ +α

2020年12月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正) プラス なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評集です。


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【劇 場】
◆交通事故によって両親を亡くし、お婆ちゃんに引き取られた少年が、今度は魔女によってネズミに変えられてしまう『魔女がいっぱい』ロバート・ゼメキス監督、2020)は、ロアルド・ダール原作の児童文学を、ギレルモ・デル・トロらが愛着たっぷりに作り上げた1作。

本作は、本を読み聞かせするようなリズム感そのままに映画化されており、昨今の大作映画としては珍しく、ゆっくりとしたテンポで展開される。これを是とするか否かは、観る人の好みにもよるだろうけれど、そのぶん前半30分を使ってしっかりと描写される主人公とお婆ちゃんの関係性や、じっくりと描かれる魔女の集会シーンなど、細やかな演出は非常に見応えがある。傷ついた主人公の心を、モータウンのレコードと躍りで励まそうとするお婆ちゃんとのやりとりは、オクタヴィア・スペンサーの名演も相まって感動的だ。

おそらくは3D公開も念頭にあったのではないかと思わせる立体的な画面づくりもまた、本作の魅力だ。小さなネズミになってしまった主人公たちが駆け巡るホテルの廊下や天井裏での追走劇や、ピタゴラスイッチのように展開される厨房での駆け引きは、彼/彼女ら(=観客/カメラ)の視点が極小サイズになったことで──相対的に──見る対照は超巨大なものとなり、普段の生活ならなんのことはない段差や高低差も恐ろしくスリリングなアクションの舞台となっている。摩天楼のごとく巨大な机や壁の出っ張りを見上げ、奈落の底を覗くかのように天井から床を見下ろす画面のなかで展開される冒険の数々に、思わず客席の肘掛に置いた手をグッと握ってしまうこと請合いだ。

また、本作において実に楽しそうに大魔女を演じていたアン・ハサウェイのパフォーマンスも可笑しく、そしてしっかりと怖い。彼女の持つ大きな目と大きな口という造作をこれでもかと活かしつつ、特殊メイクとCGを違和感なくブレンドして形成された大魔女の素顔が画面いっぱいに迫ってくる様は、日本の口裂け女もかくやの無気味さだ。その雰囲気は、同じくゼメキスの監督作である『永遠(とわ)に美しく...』(1992)に登場する女たちをも思い起こさせる。

しかし同時に、本作における魔女の「猫のような鋭い爪」の欠指症を連想させるようなデザインによって、同様の手を持つ子どもを含めて腕や手足に違いを持つ人たちの気持ちを傷つけたとして、身体障害者国際パラリンピック委員会から批判を受けたことについては、作り手たちにもうすこしの配慮があるべきだったのは確かだろう。もちろん、この件について即座にワーナー・ブラザーズアン・ハサウェイが謝罪表明をした点などから、作り手たちにそういった差別や偏見を助長する意図はなかったとは思われる *1ものの、ちょっとギョッとするような毒気のあるオチを迎える本作においては、なおさらだ。

とはいえ本作は、様々な面で閉塞感の拡がる昨今、悪いことがどんどん重なってもへこたれない主人公の姿に元気をもらえる1作であることは間違いない。


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◆ダイアナ・プリンスとして人間社会に暮らすワンダーウーマンが、人の願いを叶える石を巡る攻防に巻き込まれるワンダーウーマン 1984パティ・ジェンキンス監督、2020)は、陽性さと寓話性がブレンドされた、味わい深い1作だった。

本作は、どちらかといえばダークでリアリスティックな作風が持ち味だったDCエクステンデッド・ユニバース作品──とはいえ、ユニバース化自体は立ち消えとなっているが──のなかでは、もっとも陽性な1作となっているのが特徴的だ。

前半、ダイアナ=ワンダーウーマンが道すがらに次々と人助けをしてゆく様子はどこか牧歌的な雰囲気を醸しているし、鋭いエレキ・ギターの音色と重いパーカッションの乱れ打ちが印象的だったテーマ曲も、本作ではコードを含めてアレンジがガラッと変わって古色蒼然たりといった感じのオーケストラとなっている。前作と対になるように描かれる、現代(1984年)に甦ったスティーブがいちいち目に見えるものに驚きながらダイアナと街を歩くシーンも、いま思うとちょいとダサい '80s感──スティーブがウエスト・ポーチに過度に感動するくだりは最高──を含めて楽しい。こういった具合に本作には、ライムスター宇多丸氏もラジオにて指摘していたように、全体的にクリストファー・リーヴ版の『スーパーマン』(リチャード・ドナー監督、1978)の雰囲気に──ワンダーウーマンを演じたガル・ガドットの見事なハマリっぷりも相まって──近しいものが感じられる。

また、前半のショッピング・モールでの大立ち回りでは『コマンドー』(マーク・L・レスター監督、1985)や『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(ジャッキー・チェン監督、1985)を、その後にも『トップガン』(トニー・スコット監督、1986)や『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1981)といった '80年代アクション映画をチラリと匂わせる感覚 *2も楽しいし、本作のヴィランのひとりであるバーバラ・ミネルバチーターの造型は、同じくDCの実写映画『バットマン リターンズ』(ティム・バートン監督、1992)に登場したキャットウーマンを思い出しもした。

本作では、インチキ実業家マックス・ロードが──劇中の台詞でも指摘されるようにW・W・ジェイコブズ「猿の手」(1902)に似た──願いを叶える石を手にしたことによって巻き起こる闘いが描かれる。1984年という、大量消費や物質主義といった欲望をエスカレートさせることがもてはやされた時代を舞台に、マックスが自身のみならず他人の願望すらもどんどん呑み込んで *3肥大化して暴走した結果、人々は壁によって分断され、世界は全面核戦争に向かってしまう。 原題が『WW84』(Wonder Woman/World War)表記なのも、このためだ。ほとんど『ドラえもん』の小噺に登場しそうな本作の物語であるが、マックスの姿が──演じたペドロ・パスカルが明らかに意識しているけれど──ドナルド・トランプを彷彿とさせるように、まさしく我々の生きる現実世界の縮図にほかならない。

ゆえに、自身の表面的な欲望を無理やり叶える対価として知らぬ間に大切なものを失うのではなく、その欲望を抱いてしまった自身を見つめて手放すことで本当に大切なものを得る、という本作のテーマを集約したような、ダイアナとスティーブにやがて訪れる2度目の別れのシーンでは、その多くを口では語らない見事な演出──『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督、1953)を思い出させるような、長い1ショットによる別離が本当に素晴らしい──も相まって胸を打つ。ここでのダイアナの決断は、彼女のスーパーパワーによって成されるようなものではない。翻って我々ひとりひとりが、その小さな──しかし実は重大な──決断によってヒーローになることができる、あるいはなっていこうという作り手の願いが込められているのではなかったか。

正直、後半になるにつれてトッ散らかった印象が強くなるのは否めない *4本作だが、作り手がそれを差し置いてでも、本編で語られる古典的な “寓話” がいまだ必要なほど、世界は逼迫し──続けて──ているのだ。


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【なんとなく書きそびれていた劇場鑑賞作品の超短評(9-12月)

『透明人間』リー・ワネル監督、2020)は、その編集テンポや音響効果もさることながら、透明人間がまさしく “透明” であることを逆手に取ったカメラワークのちょっとした工夫がとても──映画に親しんでいる観客ほど一層──恐ろしい1作であり、本作の惹句「見えるのは、殺意だけ」はまさに言い得て妙なのだった。テーマや諸々のデザイン *5など、クラシック・モンスターのひとつである透明人間を現在に甦らせることの意義を徹底して考えられたに違いない本作は、そのすべてが見事に刷新されており、単なるホラー映画を越えた見応えを観客に与えてくれるだろう。


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『82年生まれ、キム・ジヨン(キム・ドヨン監督、2019)は、撮影の美しさや語り口の素晴らしさも相まって、観ているあいだずっと打ちのめされるような、とても辛い作品だった。画面のなかに醸成される、あのなんとも知れぬ空気感は、多かれ少なかれ覚えがあるからだ。僕自身は男性だけれど、実家での子ども時代に感じていた空気感にあった──いまになってわかりはじめた──違和感の数々をまざまざと具現化されるようだった。原作小説とは異なって、ラストに附された本作の希望が実を結ぶ日が来ることを願ってやまない。


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『mid90s ミッドナインティーズ』ジョナ・ヒル監督、2018)は、タイトルから想像されるようなノスタルジックな趣ではなく、ちょっと向こうの知らない世界への憧れや承認への希求など、誰でもが人生において1度は持つであろう普遍的な感情を、主人公の少年の目をとおして瑞々しく、そして同時に苦味ももって描く1作。キャラクターたちの心の距離感をそれとなく切り取るカメラワークや間の取り方など、本作が初監督とは思えないジョナ・ヒルの見事な演出も光る。ラストに附された映像との距離感もまた素晴らしい。


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ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』(クリス・バトラー監督、2019)は、これぞライカのストップ・モーション・アニメーションといった感じで、人手と時間と予算と労力をつぎ込んで作り込まれた画面の1コマ1コマ、そしてその連続が織り成すアクションが狂おしいくらいの完成度を誇った1作だ(そして残念ながら大コケした)。画面を彩るヴィクトリア朝時代の意匠は目に楽しく、巨大モンスター映画もかくやの大立ち回りや、舞台の高低差などを活かし切った立体的なアクションの構築は臨場感とスリルに溢れ、ユーモアたっぷりに交わされるキャラクターたちのやり取りも楽しいこと楽しいこと!


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『フェアウェル』(ルル・ワン監督、2019)は、末期ガンの診断を受けたお婆ちゃん(ナイナイ)にその事実を告げぬまま、しかし最後にナイナイと一緒に過ごすために、各地に散った一族全員が孫の結婚披露宴開催を口実に集まって繰り広げるやりとりの様子を描くが、ナイナイに気取られぬよう必死に言葉と表情を選ぼうとする家族の一挙手一投足の演出と演技のアンサンブルによって、なんとも知れぬペーソスと可笑しみに満ちている(ナイナイの家にどういうわけだか居候しているじーさんの度を越したマイペースぶりが最高)。まさに悲喜こもごも、といった感じ。これだけ引っ張っておいて、そのオチかーい! と歯切れのよさも含めて、見事な作品だった。


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『IMAGINE イマジン』ジョン・レノンオノ・ヨーコ監督、1972)は、ジョンとヨーコの仲良きことは美しきかなという風情と実験映画的な側面を持った映像詩篇。今回の上映版において特筆すべきは、やはり音響面の素晴らしさ。本作で流れる『イマジン』(1971)などの楽曲をこれだけの音質と環境で聴くことは恐らくもうないのではないかしらん。


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*1:この、ある種の生々しさを持つクリーチャー・デザインのセンスは、製作と脚本において本作に関わったデルトロの持ち味から来たものなのだろう。

*2:アバンで描写される、ダイアナが幼少期に参加したパラダイス島での祭りは、過去篇なので『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー監督、1951)といった、'50年代~ '60年代ごろのハリウッド大叙事詩映画の雰囲気だ。

*3:自らの欲望を他者の欲望と摩り替えてしまう彼の戦略は、ある意味で非常に慧眼だ。

*4:バーバラ・ミネルバチーターの結末がほとんど描かれないのは、いささか惜しい。また、これは余談だけれど、彼女とワンダーウーマンの対決シーンの色彩が昨今のナイト・シーン同様にのっぺりと暗いのは観辛いうえに、ワンダーウーマンが新たに装備する金色の鎧の印象がすごく薄まっている。このシーンこそ、’80年代の映画にあった夜の色彩が必要だったのではないかしらん。

*5:古典的な古城を現代に置き換えた舞台設定や、ピーピング・トムの最終進化系を思わせる造型のおぞましさよ!