『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想と雑考 4.04(ネタバレ)

◆父・碇ゲンドウが進める人類補完計画によって崩壊の一途を辿る世界を救うべく立ち上がる碇シンジたちを描く『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』庵野秀明総監督、鶴巻和哉中山勝一前田真宏監督、2021 *1)は、まさしく「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」というべき大団円だった。

圧倒の155分間、映像表現は豊潤で音響も美しく豪快に鳴り、思いがけないフックに継ぐフックで観客をいっさい飽きさせない見事な作品であり、なにより本作は、たとえば『アベンジャーズ/エンドゲーム』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ監督、2019)もかくやに、なにを書いてもネタバレになってしまうという、紛うことなき──そして驚くべきことに──最終作であるのは間違いない。ひとまずは、これまでエヴァを追ってきた皆様はぜひ劇場でご覧ください、ということをお伝えしたい。


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【以下、ネタバレありなのでご注意ください】


さて、やはり全篇に渡って繰り広げられるアニメーション表現の面白さ、楽しさは格別。マリの乗り込んだエヴァ8号機とネルフが送り込んだエヴァ・シリーズ群とのパリでの攻防を描くアバンの縦横無尽なカメラワークとスペクタクル、日常の何気ない動きやレイが情感を獲得してゆく過程としての農耕アクションなどの芝居が生える第3村でのシーン、セカンドインパクト爆心地にて繰り広げられる戦艦ヴンダー同士の空中戦、クライマックスにおける──テレビ・シリーズから試みられていた──虚実(アニメ・実写)が混ざり合うかのような実験的な表現など、2時間35分の長尺のなかで、観客はありとあらゆるアニメーションの波に呑まれることだろう。

また本作では、通常のアニメ制作の過程である「画コンテ → 作画」ではなく、むしろ昨今の大作実写映画での制作に用いられるような「プレヴィズ(実写映像や簡素なCGなどで作る仮編集 *2) → 画コンテ → 作画(実写では撮影と編集に当たる)」という過程を踏んでいる部分も多くあるためであろう、他のアニメ作品とは違った緩急のカメラワークや編集のリズム感をも味わうことができるのも特徴だ *3 *4


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物語における驚きのフックが様々に用意されていた本作の展開だが、まず驚くのがニア・サードインパクト後の世界に暮らす市井の人々を描写した第3村のパートだろう。これは、前作『:Q』(2012)において完全にオミットされていた部分であり、遡ればテレビ・シリーズにおいても主要登場人物に近しい存在以外はほとんど描かれていなかった部分である。

時間をかけて丹念にじっくりと描かれる第3村は、ニア・サードインパクトという巨大災害後の復興の過程を描くものだ。「L結界濃度」が高くなりすぎたために赤く染まった大地のなかを「インフィニティ」が無気味に跋扈する汚染区域との境界や、生き残った人々がその地域の除染を試みているという日常描写からも、ここに東日本大震災後の被災地を思い起こさずにはおれない。同時にこのシーンは、庵野秀明が『シン・ゴジラ』(2016)*5を経たからこそ、その “次” の段階である復興の象徴たる第3村のパートを描けたのはなかっただろうか。

また、このパートにおけるレイ──アヤナミレイ(仮称)──の変化にも注目したい。シンジの母である碇ユイをベースに形成されたクローンであるという出生や、命令されることにその行動の核がある性格、ネルフの技術なしでは生きられないという設定など、レイはどこまでも人工的で自然とは程遠い存在であり、むしろ機械にすら近い。そんな彼女が、農業や子育てといった、自然の生命を育む過程を経験することで、その内面に人間性を獲得してゆく姿は感動的だ。トウジとヒカリの夫妻を両親、そして彼らの娘ツバメを姉妹(=似姿)という擬似的な家族──おそらくシリーズ中はじめて登場した理想的な──としてレイが成長したからこそ、失意のシンジ *6にシンプルだが決定的な救済の言葉を投げかけられたのだろう。そして、きちんと死を得る。


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もちろん同時に、村という共同体のなかでの労働や生活、コミュニケーションによってシンジやレイが人間性を回復するという展開は、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(高畑勲監督、1968)を思い起こさせる。このように本作では “サンプリング作家” としての庵野秀明テイストが、例によって遺憾なく発揮されているのもまた特徴だ。

第3村パートに続く、異形の地と化した南極でのヴンダーによる空中戦や、それに連なるエヴァの戦闘ではあきらかに『宇宙戦艦ヤマト』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』、そして『銀河鉄道999』といった松本零士の宇宙SF作品群 *7を参照──さらにここでは、日本でのSFブームや松本零士関連のアニメに端を発する第1次アニメブームのさなかに製作された東宝特撮映画『惑星大戦争』(福田純監督、1977)の劇伴(津島利章作曲)がアレンジされて登場 *8 *9──している。

また、まるで──というか実際に──様々なセットやスタジオのなかを渡り歩くかのように描写されるシンジと父ゲンドウによる初号機と13号機の闘いは、遡ればボルヘス的なイメージとも思えるし、直接的には押井守による実写映画『紅い眼鏡/The Red Spectacles』(1987)で千葉繫の演じる主人公・都々目紅一が辿ったクライマックスでの顛末を髣髴とさせる。

そして、いわゆる旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Airまごころを、君に』(1997)のクライマックスを現状最大値にまで発展させた虚実(アニメ・実写)の交錯する実験的描写が溢れ出るラストまでの怒涛の映像表現は、まさにこれぞ “エヴァ的” 表現の集大成であり、楽しくも狂気に満ち、そしてもの悲しくも感動的だ。本作でも登場した “巨大綾波レイ” の、観客を不気味の谷へ真っ向から叩き落そうするかのような造型には息を呑んだし、テレビ版最終話でも用いられた、完成したアニメーション映像が動画のチェック映像に、果ては原画にまで還元するくだりなども、本作ではかなり意味合いが変化していたこともあり、虚を突かれるように感動してしまった。


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本作の予告編でも印象的に流れたシンジの「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」という台詞や、本作のタイトルのカナ表記がこれまで新劇場版シリーズとは異なって旧字体 “ヱ” “ヲ” から通常の “エ” “オ” に戻されていることからもわかるように、本作『シン・』とは、庵野秀明が作り上げてきたテレビ・シリーズ~旧劇場版、そして新劇場版シリーズすべて含めた「エヴァンゲリオン」を終了させるための物語である。

そもそも「エヴァンゲリオン」の物語とは──その複雑で難解なSF的設定や用語はともかくとして──庵野秀明の非常に個人的な、さらにいえば自己セラピー的な側面を多分に含むものだ。かつてのインタビューで庵野がいうように、主人公・碇シンジをはじめとして登場する全キャラクターは、彼自身の投影だ。庵野が持っている様々な心の側面を分析/分断して各々のキャラクターを創造し、ぶつけ合わせることで物語を展開させ、彼自身の内面的な問いを投げかけている。本作『シン・』のクライマックスにおいて、シンジとゲンドウが本来のキャラクター設定ではなく、あきらかに庵野秀明自身に似せて描かれたカットがあるのも、じつに象徴的だろう。

では、庵野はそこでなにを問いかけ、語り、得ようとしていたか。


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まず碇シンジの物語としての「エヴァンゲリオン」を非常にざっくりとした捉え方をすれば、それは──テレビ版最終話での「僕はここにいてもいいんだ」という台詞が象徴するような──アイデンティティの確立であったろう。これを人類が古来から語り継いできた “神殺し” の物語、あるいは子どもが個として確立する第1歩としての “エディプス・コンプレックス” (フロイト)的な物語 *10に、シンジとゲンドウの親子関係を仮託して語ろうとしていたのがテレビ・シリーズ~旧劇場版 *11であり、新劇場版シリーズの前々作『:破』(2009)であると捉えることができるだろう。ひとまずは、それが成功したように思えたからこそ「おめでとう」というわけだ。

しかし旧劇場版のラストや、『:破』から『:Q』へのあいだに世界──庵野の心的な世界──が崩壊していることからもわかるように、その試みが彼にとってじつは失敗だったのではないかという問いが浮上する。前述したように「エヴァンゲリオン」の全キャラクターが庵野の分身なのだとすれば、その物語とは延々と彼が彼自身を相手に自己問答を繰り返していることとなり、かえって自己愛と自己否定が円環する出口のない迷宮に自家中毒的に潜り込んでしまう *12。そんな自己完結した世界から抜け出すためには、かりそめのアイデンティティを確立するだけでは不十分であり、『:Q』そして本作『シン・』では、その先の物語を希求することになる。

真にアイデンティティを確立すること……それを端的に言い換えるならなら、成長して大人になる──本作の台詞にしたがうなら「落とし前をつける」──ことだ。そして、それに必要な要素として、これまでスッポリと抜け落ちていたものがあったのだ。それは「他者」である。そして、その他者こそ真希波・マリ・イラストリアスだったのである。だからこそ、最後にシンジの手をとるのは彼女でなければならかったのだ。



じつは、『:破』から唐突に「エヴァンゲリオン」の世界に参入したマリ *13は、その他のキャラクターのように庵野秀明の分身ではない。マリは、庵野の希望によって自身の手を離れて創造されたキャラクターであり、その設定や要素などの多くは、シリーズの監督のひとりでもある鶴巻和哉をはじめスタッフが考え出した存在だという。というもの、そもそもマリはスポンサー側からの要望によって登場が決定したという経緯があるからだ。ゆえに『:破』での登場時から異質な存在感を放ち、ことあるごとに「エヴァンゲリオン」というシンジ=庵野の心的世界に茶々を入れるように介入できたのだろう *14

人(子/個)が世界に参入するためには他者が必要不可欠だ。父を殺し、母を娶りたいと願った幼子(男児)から母子一体の楽園を剥奪するのが他者(父)なら、幼子がエディプス・コンプレックスを脱したあとに求めるのも──失われた母に似た──他者(対象a)である *15。だから、いくらゲンドウにシンジを拒絶させようと、アスカに「気持ち悪い」と言わせようと、彼/彼女らが庵野の分身である以上は真の他者たり得ず、それだけでは世界は破綻するほかない。他者の存在を受け入れ、それによって他者からの承認を得ないかぎり、真の成長は訪れない *16



もともとはテレビ・シリーズの総集編的リメイクを目指していた新劇場版シリーズであるが、周知のとおり『:破』からその内容を独自の方向へとシフトした。いま思い返すなら、このシフト・チェンジは、庵野が彼のインナースペースにほかならなかった「エヴァンゲリオン」の作品世界に「他者」であるマリを積極的に受け入れたからの変化であり、それゆえに本作『シン・』は、きちんとシンジの成長を描くことができたのではなかったか *17

本作後半以降のシンジは、自らの鏡像と対峙して鬱屈することも、理解し合えない父ゲンドウに絶望することもない。これまで「なにを望むの?」と問いかけられるばかりだったシンジはもういない。むしろ、自ら進んでゲンドウと対等に対話 *18 *19してその問いを投げかけ、父をその妄執から解き放ちさえするのだ。それどころか、シンジはアスカやカヲル、レイたちとも丁寧に向き合って対話し、彼女たちのトラウマを除いて「エヴァの呪縛」から解放してみせる *20。彼女たちはもはや「エヴァンゲリオン」のパイロットやヒロインといった役割に拘束されることはなく、それぞれがそれぞれの望む自分を手に入れることになるだろう。こうしてシンジは見事に落とし前をつけ、作品世界の救済を遂げるのだ。



そんなシンジの成熟──子ども時代の消失(死)と再生──を見届け、原画にまで還元されて消え去るばかりとなった彼を──文字どおり──世界の果てまで彼を追ってきて救い出したのがマリであり、これによってシンジもまた「エヴァの呪縛」から解放される。

ラスト・シーンにおけるシンジの姿を思い出そう。ここでのシンジは、アニメ・キャラクターのアイデンティティの核である外見(デザイン)にも、声にももはや束縛されない。その姿は、これまで凍結された時間を取り戻すかのように成人したものとなり、その声も永年シンジを演じ続けてきた緒方恵美から神木隆之介に変更されている。

これらのことからもわかるとおり、碇シンジはこれまでの「碇シンジ」であり続けることから解放されたのだ。そして、そこに現われたマリはシンジの成長を──彼の匂いがLCL溶液(羊水)のそれから変化していることによって──承認し、その証として「DSSチョーカー」を外す。首輪と、マリがシンジを「ワンコ君」とあだ名していたことから連想されるのは、保護の必要な飼い犬(≒赤ん坊)である。これをマリがすすんでシンジの首から外すことは、彼女が彼を対等な人間として認めたことにほかならない。

こうして他者からの成長の承認という「福音」を得たシンジは、「エヴァに乗る世界」という線路(レール)からようやっと降り、新たな道を歩むことが可能になったのだ *21


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そして、「エヴァンゲリオン」とは庵野秀明自身の物語でもある。

しばしば指摘されるように、シンジが「エヴァに乗ること」とは、庵野が「エヴァを作ること」そのものの象徴だ。したがって新劇場版シリーズが目指していたのは、レイの「碇君が、エヴァに乗らなくてもいいようにする」という台詞が象徴するように、庵野エヴァを作ることから解放されるための物語と結末だったということになる。そして、それは見事に果たされた。前述のように、その内面世界だけで作り上げられたがために崩壊するしかなかったであろうテレビ・シリーズ~旧劇場版から打って変わって──いやむしろそれすらも包括して──彼は「エヴァの呪縛」に落とし前をつけたのだ。

ここに至るまでに、ガイナックスからの独立、株式会社カラーやスタジオカラーの設立、安野モヨコとの結婚や権利関係の問題に端を発するかつての仲間との決裂といった、庵野自身の人生での出来事が大小さまざまに影響しているのであろうことは──もちろん類推の域を出ないが──想像に難くない。



うがった見方をするなら、本作『シン・』前半に登場した第3村とは株式会社/スタジオカラーのことであろうし *22、L結界密度が高まりすぎて赤く染まった世界とは「社会現象」ともてはやされ、いたるところにエヴァの商品が溢れる1995年以降の現実世界そのものとも捉えられようし、そんな世界になった元凶たるゲンドウは──前述のように──庵野秀明の鏡像であり *23、最終的にシンジを救い出すマリとは安野モヨコの似姿だったかもしれない。そして、創作至上主義を掲げて経営にあまり関わらなかったというガイナックス時代(テレビ・シリーズ~旧劇場版)と変わり、自身の意思を経営に反映して責任が取れる場所が必要であるとの思いを持ってカラーを設立・運営しているという彼を取り巻く状況と決断の変化が、シンジの辿る顛末の差に関係してもいるだろう。

ラストに映る現実(=実写)の背景は、庵野秀明の生まれ故郷である山口県宇部市にある宇部新川駅のものだ。現実に帰れ、とは作品内やインタビューにおいて庵野秀明エヴァに囚われ続ける自身のファンに向けて再三放ったきたメッセージのひとつであるが、それは同時に彼自身や作り手たちもまたそうならざるを得なかったことの裏返しでもあったろう。そして、庵野が「エヴァを作ること」の線路を降りる場所に自身の故郷を選んだことは、かつての自分に対する「降りたぞ」というメッセージのようにも捉えられるし *24 、現実(=実写)の映像にアニメーションで描かれたキャラクターを乗せるという手法を採用したことは、エヴァ固執するファンへの「君たちも一緒に降りよう」というまごころではなかったか *25

いずれにせよ、タイトル末尾に「:||」とあるように、繰り返される「エヴァンゲリオン」への葛藤と制作の果てに、庵野秀明はそこからようやく降りることができたのだろう。


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本作は、虚構と現実のどちらからも多くのことを読み取れる重層的な作品だったし、なんとなれば本作によって過去作の作品的価値の底上げすら果たしたといっても過言ではあるまい。同時に、相変わらず聖書から引っ張ってきたであろう諸々の固有名詞やら言い回しで観客を煙にまこうとする感じもまた、きちんと「エヴァンゲリオン」らしい要素を損なってもいない1作だった。

ことほど左様に、本作は「エヴァンゲリオン」を文字どおり総括し、その先をも見据えてさえもみせた見事な大団円だ *26。あるいは本作について、ここまで費やしてきた言葉すら無用かもしれない。ただ万感の思いを込めて言おう──さようなら、全てのエヴァンゲリオン


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おまけ(備忘録)
masakitsu.hatenablog.com


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*1:英題は “EVANGELION:3.0+1.0 THRICE UPON A TIME”。

*2:本作では、モーション・キャプチャーによるライブ・アクションも使用されたという。

*3:反対に『シン・ゴジラ』では「徹底したプレヴィズ → 撮影・編集」という、実写映画というよりもアニメのような制作体制が採られている。

*4:手持ちカメラを思わせる荒々しい画面の揺れのなかで、アスカがシンジにレーションを無理やり食べさせようと覆い被さるシーンでの精緻なキャラクターの動きは、凄まじい作画だった。

*5:あるいは、その前後に制作された『君の名は。』(新海誠監督、2016)などといった作品群を含めてもよいだろう。

*6:塞ぎこんだシンジが失語症になっている描写は、彼が象徴的に赤ん坊に戻ったことを表すだろう。そして、アスカとケンスケのカップルは、いっときシンジの擬似的な両親として機能するだろう。

*7:「ヤマト作戦」や「裏コード999」といった直球な引用や、なんとなればミサトの最期もまた同様だろう。

*8:さらに言えば、ヴンダーから吊るされた状態で縦横無尽にアクションを繰り広げるエヴァの姿は、特撮における操演を思わせるもの演出がなされているのも興味深い。また、糸といえば、庵野が日本語版監督として関わった長編人形劇アニメ『ストリングス〜愛と絆の旅路〜』(アンダース・ラノウ・クラーランド監督、2007)も思い起こさせる。

*9:宇宙空間での船外活動(EVE)を捉えたロング・ショットに映る要素要素が妙に静止画っぽいなァと思ったけれど、もしか『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968)の映像感か、思ったりもする。

*10:幼子が「父を殺し、母を娶りたい」という欲望を持っているとする、精神分析の始祖フロイトが「オイディプス王の悲劇」からヒントを得て打ち立てた説である。 ▼これはすなわち、母が自分を愛し、すべてを世話してくれる母子一体の楽園に暮らし続けたいという幼子(ここでは男児)の心理を説明するものだ。しかし、これでは幼子は成長できない。そこで、この心理状態を断ち切るのが「父」による介入である。これは幼子(男児)にとって「自身の男性器が切り取られるのではないか」という恐怖──「去勢不安」──に置き換わる。幼子が自身のエディプス的欲望と去勢不安とのあいだで葛藤し、ついに母子一体の楽園を諦めて去勢不安を自らの内に抑圧したとき、そのエディプス・コンプレックスは克服されるのだ。この一連のプロセスを「去勢」と呼ぶ。もちろん、母子一体の楽園などあるわけもなく、これは幼子が持った幻想に過ぎない。つまり父の介入=去勢とは、幼子がやがて意識せざるを得なくなる自身の欲望と現実との大きなギャップのことである。 ▼さらに、フロイトの理論を継承・発展したラカンによれば、この去勢こそ、幼子が言葉を覚える重要な契機だとしている。すなわち、去勢によって失われた母という存在の空隙(=無)を埋める代理物として駆動するシステムとして言語は捉えられているのだ。つまり、われわれが死や不在といった “無” なる概念を、イメージ──実体とでもいい換えればよいだろうか──ではなく獲得するには、“無” という言葉を修得しなければ不可能だからだ。いいかえれば、我々が “無” を説明するとき、それは言語的な方法によってしか説明できない、ということである。 ▼そして、やがてわれわれは、母という欲望の失われた対象に代わるものを探し始める。その、かつては母が埋めていた欲望の隙間を埋めてくれるはずの──そして、実際には在りはしない──ものが、いわゆる「対象a」である。

*11:すべての人々の魂が持つ境界(ATフィールド)を消し、ひとつに融合する「人類補完計画」は、各所で指摘されるようにアーサー・C・クラークSF小説幼年期の終り』(1952)がタネ元のひとつである(クラークがイメージしていたのは、おそらくキリスト教における「携挙」の考え方だろう)。

*12:もちろん、自己愛と自己否定は表裏一体である。そして、この自己完結的さゆえに『新世紀エヴァンゲリオン』は当時(あるいはそれ以降)の時代の空気に合致して観る者の心を掴み、のちの「セカイ系」的作品の礎となった部分はあるだろう。

*13:無論、より正確にいえば『:序』(2007)に附された次回予告から。

*14:事実、これまでの作品のなかでマリは必ず何らかの壁──シェルターの壁やエヴァの装甲、そして世界そのもの──を突き破って、シンジに手を差し伸べていることを思い出そう。これらの壁とは、シンジ=庵野の心的世界と、作品世界を囲う壁にほかならない。

*15:鶴巻は『シン・』の劇場用パンフレットに収録されたインタビューにて「もともと僕は『マリは庵野さんが好きになるようなキャラクターでないとダメだ』と思っていた(後略)」と語っているが、それを翻って思い起こすなら、碇シンジがある種の恋愛感情を抱く象徴的母(あるいはアニマ=ユング精神分析における、自身の持つ女性性)としての女性キャラクター──葛城ミサト、式波/惣流・アスカ・ラングレー、そして綾波レイたち──に分裂していた様々な要素の集合をさせたキャラクター造型のようにも見える(もちろん、だからといって、マリと彼女たちとは似て非なるものである)。

*16:エヴァのキャラクター・デザインを担当した貞本義行が、独自の解釈を多分に含みこんで描いた漫画版(1995 - 2014)が綺麗に物語を終了できたのは、とりもなおさず貞本自身が庵野ではない「他者」だったからだろう。

*17:ふたりが中学校の屋上で初めて出会うシーンで、シンジの持っている S-DAT プレーヤーのトラックが “26” ──テレビ版最終話の話数──までしかなかったものが、“27” に移行している。

*18:この対話シーンの前段階であるエヴァ同士の対決の描写において、シンジが槍を持って初号機に乗り込んでいるという構図は興味深い。しばしば指摘されるように、シンジが母であるユイを素体としたエヴァ初号機に乗り込むことは母胎回帰の象徴であり、その母たる初号機がファリック(男根的な象徴)たる槍を持つことは、エディプス期の幼児が夢想するという万能の存在たるファリック・マザー(ペニスを持った母)を思い起こさせる。もちろん、これは幼児が抱く幻想でしかないので、映画での展開が示すとおり、父に対してなんの効果も持ち得ない。

*19:ところで、本作を含む新劇場版シリーズには「槍」が3種類登場する。神が用意した絶望の「ロンギヌスの槍」と希望の「カシウスの槍」、そして人類が創ったヴィレの「ガイウスの槍」である。これらのネーミングは、すべて歴史上の人物の名前から取られている。 ▼神が用意した2種類の槍の由来は、キリストの磔刑時に彼のわき腹を突き、後に聖人として数えられるようになった “カシウス・ロンギヌス” である。そして、ガイウスとは、おそらくブルートゥスとともにカエサルを暗殺した “ガイウス・カシウス・ロンギヌス” から取られている(3単語すべて揃った名であるが、当時それほど一般的な名前だったといわれる)。前者は──神に近しい──聖人の名を、後者はヒトの名を与えることで、作劇上の差別化をはかっているのだろう。 ▼また、ガイウスの槍については、その名がローマの結婚式の際に新婦が口にする言葉「あなたがガイウスであるところ、私はガイア (Ubi tu Gaius, ego Gaia)」に登場することも重要だ。ガイウスの槍は2色のパーツが組み合わさった形状をしており、さらにクライマックスにおいて形状を変化させる際にはヘビの交尾のようにとぐろを巻いている。さらにマリが「ヴィレの槍」と言い表すが、ヴンダーが本来は種の保存を目的とした方舟であるなら、あの保管室には各種生命の “つがい” が収められていると考えられる。ことほど左様に、“結婚(=生命を紡ぐ行為)” をニュアンスとして含みこんだ呼称ではなかったか。 ▼それを思うなら、シンジの変わりにガイウスの槍で自らを突いた初号機(=ユリ)と13号機(=ゲンドウ)とは、ふたりの結婚式のやり直しの象徴──『鉄道員』(ピエトロ・ジェルミ監督、1956)のラストのような──だと考えられる。また、その際インサートされるユイとゲンドウを映したカットが妙に生々しく、それをシンジが見ているという構図は、フロイトのいう「原光景」も思い起こさせるものだ。

*20:一連のクライマックスは、もちろんテレビ版最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」の構造の反転である。

*21:映画後半において、マリは冬月から「イスカリオテのマリア」とあだ名されるが、これはイエス・キリストにつき従った12使徒のなかで彼を磔刑へと陥れたユダ──の通称──と、イエス処女懐胎した聖母マリアないし彼の死と復活を見届け──一説には彼の妻であったとされる──マグダラのマリアを掛け合わせたものだと思われる。 ▼冬月にとって、かつて彼の研究室に所属しながら後に袂を分かったマリは裏切り者であると同時に、彼が最終的に「あとは良しなにしたまえ」とマリに餞別を用意しているように、彼女が別の救済の道を切り開く可能性を感じていたのかもしれず、そういった両義的な思惑を込めたあだ名だったのだろう。 ▼さらに物語の階層の観点から考えるなら、ユダの裏切りは、むしろイエスを神にするための必要悪であったとする考えもあるように、マリのこれまでの行動がシンジを最終的に救世主に仕立て上げたことと、劇中アスカがシンジに必要なのは「母親」だと評するようにマリは象徴的にシンジの母親の位置を占め、同時にシンジにとってマグダラのマリアのように「他者」の位置をも占めることを含み合わせたネーミングだったのだろう。

*22:ここでレイが蕪(かぶ)を洗うシーンがあるが、株式会社カラー設立10周年の折に、カラーを蕪に喩えた漫画「よい子のれきしえほん おおきなカブ㈱」を安野モヨコが描いている(後にアニメ化もされた)。

*23:ゲンドウが知識を絶えず吸収することと、きちんと調律されたピアノで音楽を奏でることを愛することは、そのまま庵野が漫画やアニメ、SFやミリタリ的知識をオタク的に消費し、そのフィードバックとして──優秀なスタッフを引き連れつつ──アニメをつくることと、そのまま重なるだろう。

*24:本作の英題にある “THRICE UPON A TIME” とは、過去へ文字を通信する技術が登場するジェイムズ・P・ホーガン『未来からのホットライン』(1980)の原題だ。

*25:あるいは、そこに ”いずれは” と付け足すべきかもしれない。単体で用いた場合、曲の冒頭に戻っての繰り返しを意味する反復記号「:||」をタイトルの末尾につけたことは、エヴァのファンに対する呪詛がかつてよりは和らいだのではないかとも捉えられる。少なくとも、もういちど観ること(再見)までは禁じられていない。「さようならは、また会うためのおまじない」というわけだ。 ▼実際問題として、1回だけ観て終わるには──たとえば画面の情報量や豊潤さに限っても──魅力がありすぎるのが、矛盾というか相互補正というか……。

*26:いま唐突に去来する言葉といえば、感慨にも似た「みんな、大きくなったなぁ」というペニー・ワイズの台詞──『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』(アンディ・ムスキエティ監督、2019)──の一節だ。