2021 3月感想(短)まとめ

2021年3月に、ちょこまかとtwitterにて書いていた短い映画感想の備忘録(一部加筆修正)です。


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【劇 場】
◆かつての恋人リリィがアルツハイマーを患っていることを知ったクロードが、自らも病気を偽って彼女の暮らす老人ホームに入居する『43年後のアイ・ラヴ・ユー』マルティン・ロセテ監督、2019)は、ユルい部分もあるが、役者陣の好演が光る可愛らしい雰囲気が楽しめる1作。

本作の魅力は、なんといっても役者陣の好演だろう。主人公クロードを演じたブルース・ダーンの飄々とした振る舞いのなかに現れるリリィへの想いを秘めた瞳の力強さにハッとさせられ、お隣さんのシェーンを演じたブライアン・コックスとの息の合ったやりとりは観客の笑いを誘う。アルツハイマーによって想い出を失ってしまった名女優リリィを演じるカロリーヌ・シロヌが醸す雰囲気は、百合の花の茎のようにたおやかながらもか細く、そんな彼女が物語の進展にしたがってどのような変化を見せるのかも見所だ。そのほかにも、脇を固める役者陣の絶妙機微な仕草と表情がキャラクターに活き活きとした存在感を与えているし、そんな姿を暖かく柔らかな手触りで見事にフィルムに定着させたホセ・マーティン・ロセテによる撮影も美しい。

また、本作のオープニング・クレジットも素晴らしい。若かりし頃のクロードとリリィの想い出を、平面的に洗練されたデザインのイラストとアニメーションで追ってゆくのだが、その場面場面で紅葉が風で木から舞い散るように、ふたりの姿や想い出がふいに消え去ってゆく。その暖色系で統一された色調も、人生の黄昏を思わす秋の色のようでもあり、想い出を喚起させるセピアのようでもあり、本作が目指したあたたかな人情味に溢れた世界観を表すようでもあって、ことほど左様に、これから語られる物語と作品世界のコンセプトに見事に合致したヴィジュアルだ。

たしかに、本作はちょっとユルい部分もある。アルツハイマーのフリをして老人ホームに転がり込んでも3日くらいでバレるんじゃないかとも思う──この点に関して、本作ではきちんと理論武装されているのが律儀──し、ちょっと出るだけ出てきたような登場人物もチラホラあって散漫な印象も受ける。ただ、演出が感傷的過ぎても陳腐になるし、かといってリアル志向に過ぎたりガチガチに凝った物語にし過ぎるのも趣旨から逸脱するであろう。本作はあくまでちょっとした現代のおとぎ話であり、そのリアリティの水準を適度に “ユルく” 保ちながら演出し切ったロセテ監督の手腕を楽しむべきだろう。上映時間89分というコンパクトさも、かくありなんだ。


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◆(…前略…)する碇シンジたちを描く『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』庵野秀明総監督、鶴巻和哉中山勝一前田真宏監督、2021)は、まさしく(…中略…)だった。ことほど左様に(…後略…)。
※詳細はこちら >>『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想と雑考 4.04(ネタバレ) - つらつら津々浦々(blog)


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◆ニューヨークにやってきたトムとジェリーが、ひょんなことから超一流ホテルのイベントマネージャーとなったケイラを巻き込んでの大騒ぎを描くトムとジェリーティム・ストーリー監督、2021)は、虚実が見事に融和した映像が見モノの1作だった。

本作の映像世界の構築は、なかなか面白い。まずトムやジェリーをはじめとした文字どおり “すべて” の動物をカートゥーンのキャラクターとして膨大な作画の2Dアニメで処理し、人間や背景などは実写映像を用いたものであるが、興味深いのがトムやジェリーが身に着ける衣装や、手に持って大立ち回りを演じる各種小道具の類をカートゥーン調ではなく実写ベースのCGによって表現されていることだ。これが、カートゥーンと実写という水と油な世界観をスムースに共存させるための緩衝材として上手く機能しており、手触りとしても面白い。

この映像世界を得て、もちろんトムとジェリーは大暴れ。縦横無尽に、変幻自在に画面内を駆け回る姿は、緩急の効いたテンポのアクションのカートゥーン的奔放さとフルアニメーションによる滑らかさによって瞬きの暇もない。トムとジェリーが元々そうであるように、台詞を一切与えなかったのも正解──かつて、初の長編映画『~の大冒険』(フィル・ロマン監督、1992)にて、ふつうに人語を喋って顰蹙(ひんしゅく)を買った──で、安心して彼らのスラップ・スティックな戦いに身をゆだねることができるだろう。

まあ、トムとジェリーら動物たちのアクションがかなり激しいので、クロエ・グレース・モレッツら人間キャラクターとの絡みが控えめだった──マイケル・ペーニャが文字どおり振り回されるくらい──のが若干物足りないといえば物足りないが、それでもなお役者陣のリアクションの絶妙なバランスは見事なもの。ちょっとした表情の変化や身体の動きで、作品内のリアリティを高めつつ可笑しさを醸している。やたら滅多と役者に変顔を連発させとけば面白いと思っている作り手は、本作の演技/演出を煎じて飲むべきだ。

もちろん、引っかかる部分がないわけではない。壊れたものが翌日には直っている、といったアニメ的約束を何の気なしに描かれていたのには面食らったし、なにより本作に登場する人間キャラクター──とくに脇役──については掘り下げ不足が否めない。他人との距離感が近すぎるベルガールのジョイや、噺が上手いと紹介されるベテラン・ドアマンのギャビンなど、個性的な面々が集まっているホテルの従業員たちの特徴を活かした展開を用意できたなら、より物語的にも手に汗握るクライマックスとなったろうに、いささか惜しい。

とはいうものの、本作はきちんとスラップ・スティック・コメディに徹してくれているので、気軽にオモチロ可笑しく楽しめる1作には間違いない。実写ベースの世界観にカートゥーンのキャラクターたちを違和感なく普通に馴染ませる企画としては、たとえば『ロジャー・ラビット』(ロバート・ゼメキス監督、1988)が思い浮かぶけれど、それから30年余り経っての最新の映像技術的成果と楽しさを、ぜひスクリーンで体感したい。ところで、スタッフロールが始まっても席を立たないで。本作のオチはその最後にあるからね。


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◆1980年代、農業を成功させることを夢見る韓国系移民のジェイコブ・イと彼の家族を描く『ミナリ』(リー・アイザック・チョン監督、2020)は、いわゆる開拓モノを新鮮かつ重層的な視点から切り取った1作であり、なによりめっぽう面白い作品だった。

まず本作は、めちゃくちゃ巧い。撮影でのフレーミングや画面の色調設計、編集のテンポとショットの選び方、台詞の端々にあるペーソス、そして役者陣の絶妙機微なアンサンブルなど、決して大仰な見せ場も見せ方にも頼ることなく、淡々と、しかし味わい深く物語を映すチョン監督の手腕は見事なものだ。

その証左のひとつとして、本作の前半──とくに韓国から母方の祖母スンジャが一家と同居をはじめてから──のユーモアの卓越さには脱帽した。たとえば、ジェイコブの息子デビッドとスンジャが繰り広げる “とある” 飲み物 *1を巡るやりとりをはじめとして、抱腹絶倒間違いなし。起こっていること自体はささやかながら、そこかしこに込められたギャグが効いていて心温まり、上映時間の半分も過ぎれば、イ一家の行く末に目を離せなくなるような親近感を抱いてしまう。

それゆえに、なかなか上手くゆかない農業経営など、ジェイコブらに降りかかる試練とちょっとした前進に、いっそう一喜一憂させられる。そして、決定的な苦難と、映画前半でのとある出来事を伏線としたほんのささやかな希望が描かれるラストを観るとき、なんとも知れぬ情感が胸を打つだろう。

ところで、ジェイコブらイ一家に降りかかる災難や苦難などは、旧約聖書にて語られたイスラエルの民の受難に重ね合わせられているのだろう。それを思うなら、父ジェイコブ(=ヤコブ)や息子デビッド(=ダビデ)、母モニカ(=アウグスティヌスの母)、娘アン(=ハンナ: エフライム人エルカナの妻でサムエルの母)といった登場人物たちの名前、ジェイコブの農場に勤める白人ポール(=パウロ)のふるまいや彼に向けられる人々の視線、ジェイコブが自身の農場をなんと呼び表しているか、彼の家に飾られた羊飼いの絵などなど、そこかしこにモティーフが登場している。

ジェイコブが祖国から渡ったアメリカで土地を買い、農場として開墾してゆくプロセスは、かつての西部開拓時代を思い起こさせるものだ *2アメリカは移民の国である。これを、先述の旧約聖書的モティーフをまぶしつつ、1980年代を舞台として韓国系移民の視点から寓話的に描いた本作は、本来あるべきアメリカ的精神やそれに反するような内情、あるいはもはや忘れ去られようとしている歴史的軋轢などを、いま一度観客に問うているのかもしれない。そして、神の千年王国がいまだ訪れないように、ジェイコブたちもまた道半ばなのだ。


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アメリカ陸軍のナタリー大尉とその部隊が外地での任務中、突如として怪物の跋扈する異世界に弾き飛ばされるモンスターハンターポール・W・S・アンダーソン監督、2020)は、良くも悪くも “いつもどおり“ のアンダーソン監督作品だった。

本作は、皆さんご存知の人気アクションゲームを実写映画化した作品だけれど、僕自身はゲームを一切プレイしたことがなく、したがって原作については、なんとなくこんな感じの世界観で、そんなふうなシステムで、あれこれ大小モンスターが出る……という恐ろしく薄ボンヤリとした知識とイメージしか持ち合わせていない。だから、本作が僕にとってはじめて本格的に触れる『モンスターハンター』だということをご了承いただきたい。実験だよ実験(by 工藤D)。

閑話休題。まずはなんといっても劇中に登場するモンスターたちの質感表現等はなかなか見事。ごつごつした体表や粘膜に覆われている巨大な目など、生命感みなぎるCGはよかったし、四方八方のスピーカーをゴリゴリ振るわせる咆哮や足音、翼のはためきなど音響面も力強く迫力満点だ。また、彼らがきちんと臓物を持った生命として描いている点も好印象で、ナイフで解体して必要な部位を取り出す描写など生々しくも興味深い。

そして、トニー・ジャーの身体さばきは相変わらずの見応えで、あの荒唐無稽とも思える巨大な剣を得物として抱える姿に凄まじい説得力があるし、ロン・パールマンのあのなんとも知れぬ存在感は本当にこういう映画によく似合う。その他、巨大な嵐やモンスターに薙ぎ払われて横転する軍用車を車内から捉えて、搭乗者が文字どおり七転八倒する様子を見せるシーンなども面白い。

ただ残念ながら、映画としてのまとまりはいささか杜撰だ。全篇に渡って『フェイズIV 戦慄! 昆虫パニック』『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』『エイリアン』『ドラゴンスレイヤー』『ランボー』『トロン』『トレマーズ』『第5惑星』など、往年──主に ’70年代~ ’80年代くらいにかけて──のSF映画やモンスター映画、アクション映画を思わせる既視感の連続なのはまだしも、顔と名前を覚える見せ場もなく次々に死んでゆくサブ・キャラクターたちの雑な演出を筆頭に、広大なんだか小ぢんまりとしているのだか微妙な異世界の見せ方、あまりパターンに変化のないモンスター絡みのアクションなど、いろいろもったいない部分が多い。

なにより映画前半でのミラ・ジョヴォヴィッチトニー・ジャーのくだりに時間を割きすぎているのが、如実に後半の展開に響いている。ふたりがタッグを組むまでの展開をもうすこしタイトにまとめて、いちおう本作の主要目的地である天廊(スカイタワー)までの道のりを、もっとしっかり見たかった。劇中それまで、そこにたどり着くまでに距離も難易度もありそうに描写しているのに、いざ出発するとものの数分でたどり着いてしまったのには驚きを隠せない *3

きっと、天廊までの道中での冒険をとおしてパーティの面々の個性を多少なりとも掘り下げ、モンスターとのちょっとしたバトルやアクションがクライマックスへの前座として描かれるのだろう思っていたら全然そんなことはなく、顔見せていどに出てきたパーティのゲスト・キャラは──なにしに来たの? と思うくらい──クライマックス前半の闘いで呆気なく死に失せ、あるいは天廊に至るまでにせっかく断崖絶壁に古代遺跡などといった魅力的なランドマークを登場しているのに具体的に見せることもなしにロングショットの空撮のなかをサッと素どおりしただけで終わってしまう。

そして、その後──製作が途中で終わったのではないかと疑いたくなるような──唐突なクライマックス後半戦を経て、映画自体も閉店ガラガラーッとばかりに幕を下ろしてしまう。あきらかに物語の途上であるにも関わらずである。この後半30分は──その画面で巻き起こる見せ場も含めて──ゲーマーにせよ映画ファンにせよ、たぶん誰も望んでいない展開だったのではないだろうか。

ことほど左様に、アンダーソン監督は『モータル・コンバット』(1995)のころからなんにも変わってないし、そういった意味では妙な安心感もある作品であった。ともあれ、ミラとの夫婦仲が相変わらず円満そうでなによりだ。仲良きことは美しきことかな、なむなむ。


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【ソフト】
◆内気な青年が恋路を走るべく、自身の漫画に登場させたカンフーの達人たち4人を現代に呼び寄せる『カンフーリーグ』(ジェフ・ラウ監督、2018)は、正直お話としては木っ端ミジンコに破綻しているのだけれど、アクションは面白く、キャスティングからなにから諸々小ネタに溢れている。それもあってか、すごく '90~ ’00年代を思い起こさせる内容となっていて、なんとも憎めない作品だ。吹替えの翻訳も、わかってるやつで安心だ。


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*1:字幕では名前をオミットされた炭酸飲料。序盤に文字どおり 「“山の露” だよ」とスンジャに訳して伝えるアンも洒落が効いている。

*2:ジェイコブたちはカルフィルニアからアーカンソーへと東へ移動している。

*3:そりゃそうだ、ミラとトニーが打ち解けるまでに上映時間104分のうち1時間余り経ってるンだもの。